『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

2019年の目標

梶村秀樹著作群の電子化
梶村秀樹著作群および竹内好著作群のくわしい紹介記事をかく
・樋口直人氏が取材したインタビュー記録の検討
自衛隊員などの相当の専門知識をもった人間のかかわった組織犯罪の研究
・いろいろな文字の読み方と語学の習得
・SYの供述書の電子化

・「民族文化」という概念の解体と再構築(やってみる価値はある)

「黒子のバスケ」事件は「日本人」「非日本人」というワクぐみの動揺を示している(簡略版)。

「日本人」という概念は、だれもが頭の中にもっているが、完全な定義は不可能な、奇妙な概念である。
まず一ついえるのは、それが(想像上の)血統主義とイコールには決してならない、ということである。ここから、非常に奇妙な結論が出てくる。たとえば、血統上確実な日本人の男性と血統上確実な日本人の女性から生まれた人物が、人生のある時点で、「血統上確実な日本人」で完全になくなってしまうかもしれないことは十分ありうる、ということである。
これは理論的な話であり、たしか経験的にはほとんど見られないが、まったくないわけではない。
皇軍慰安所の女たち」(1993年、川田文子、筑摩書房)には四人の被害当事者女性が登場するのだが、第二章目にある女性が登場する。インターネット上では、この女性についての情報がほとんどないようなのだが、簡単にいうと、日本人なのか沖縄人なのか朝鮮人なのか、本人もその時その時でちがうことを言っており、また、川田氏らをふくめて周りの朝鮮人や沖縄人の支援者も、この人物の民族所属を確定させることができなかった、というとても奇妙な人物なのである。話すと長くなるので詳細はぜひとも本書を読んでほしいが、戦争犯罪というカテゴリをはなれて考えると、事実は小説より奇なりというしかない事例なのである。少なくとも、残留日本兵の事例で似たようなものを私は知らない。
さて、ここで「黒子のバスケ脅迫事件」(2012年~2013年)の加害者・渡邊博史氏について書きたい。「渡辺博史」という表記もあるようだが、出版した書籍の表記にしたがって、「渡邊博史」とする。
私が知るかぎり、反歴史修正主義の間ではあまり話題にならなかったが、この事件は、「日本人」というワクぐみがゆらいでいることを示している事件だと考えていいと思われる。少なくとも、十分検討に値する。渡邊博史氏(本人に失礼にならないように、氏づけをする)の手記「生ける屍の結末――「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相」(2014年、創出版)と、篠田博之氏の公開記事を読めば、渡邊氏は非常に自他にたいする判断力が高く興味深い人物であることがわかる。
この手記および記事によると、彼は自分の立場を一度ならず「在日日本人」と呼んでいることが判明している。念のために書くが、渡邊氏は手記にいくつか独自の造語をつかっており、「在日日本人」はその一つではある。差別反対運動の理論を熟読したというわけでもないようだ。もしそうだったら、どこかではっきり書いているはずである。しかし、渡邊氏は「差別」というものの核心部分についての洞察をえており、それを文章化する力量がある。

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

認識を新たに自分の人生を改めて振り返ってみて、自分の事件とは何だったのかを改めて考え直しました。そして得た結論は、

「『浮遊霊』だった自分が『生霊』と化して、この世に仇をなした」

です。これが事件を自分なりに端的に表現した言葉です。さらに動機は、

「『黒子のバスケ』の作者氏によって、自分の存在を維持するための設定を壊されたから」

まず「社会的存在」と「生ける屍」について説明を致します。

日本人のほとんど全ての普通の人たちは、自分が存在することを疑ったことはないと思います。また自分がこの世に存在することが許されるのかどうかを本気で悩んだこともないと思います。

人間がなぜ自分の存在を認識できるのかというと、他者が存在するからです。自分の存在を疑わないのは他者とのつながりの中で自分が規定されているからです。家庭では父として、夫として、息子として、兄として、弟として。親族の集まりでは祖父として、孫として、叔父として、甥として、従兄弟として。学校では生徒として、同級生として、部活の部員として。勤務先では上司として、同僚として、部下として。地域ではその地域の住民として。その規定のパターンは無限です。

もし普通に生きていた男性がいきなり両親から「お前は私たちの本当の子供ではない。そしてお前は日本人ではない」と告白され、次に兄から「お前は血のつながった弟ではない」と告白され、次の妻から「あなたの妻は本当は死んでいる。私は途中から妻になりすましていた別人」と告白され、次に息子から「僕はパパの本当の子供じゃない。血のつながったパパは別にいる」と告白され、次の会社の上司から電話で「お前はクビ。今日限りで○○株式会社の社員ではない」と通告され、次に出身大学の学長から電話で「お前の卒業を取り消して除籍とする。お前は○○大学のOBではない」と通告され、次に住んでいる街の自治体の首長から電話で「今すぐ○○市から出て行け。お前を○○市の市民とは認めない」と通告されたらどうなるでしょうか?おそらく自分の全てが崩壊するかのような大パニックに陥ると思います。人間に自分の存在を常に確信させているのは他者とのつながりです。社会と接続でき、自分の存在を疑うことなく確信できている人間が「社会的存在」です。日本人のほとんど全ての普通の人たちは「社会的存在」です。

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか?端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。(略)

ちなみに、彼は同性愛者であり韓国人アイドルのEXO(私は知らなかったが、かなり有名らしい。写真を見るかぎり、なかなか見ない美形青年である)のファンである。最終陳述でこのことをはっきり発言している。日本の裁判所で韓国語を叫んだのは、大日本帝国創始以来、おそらく10人もいないだろう。

被告は胸に「EXO」と書かれた黒いTシャツを着用しており、意見陳述の最後に「ベッキョン!サランヘヨ!」と叫んだのだが、傍聴席にいた誰も意味を理解できないようだった。

「ベッキョン!サランヘヨ!」は「백현!사랑해요!」、直訳すれば「ペッキョン!愛してる!」になる。私も昔まちがえていたことがあるが、「サランヘヨ」は「さよなら」ではない(「안녕」などになる)。おそらく、韓国ドラマでおぼえたのだろう。

まだまだ書ききれないことが多いのだが、とりあえずここで終わることにする。
今年の明治維新150周年祭のもりさがり(特に大河ドラマ西郷どん」)、もりさがりつづけるオリンピック事業、「日本スゴイ」をとりあげる番組で「1970年大阪万博」、特に「太陽の塔」をほとんど無視している事実、朴裕河事件で文学研究と歴史研究が正反対の結論を出したこと、高木仁三郎氏の(特に最晩年の)著作の無視、内閣府明治製菓の共同研究のデータねつ造、ほかにもあげきれないぐらいたくさんあるが、これらをすべて考えると、二つの驚くべ結論がみちびきだせる。
「「(想像上の血統において真正な)日本人」はいるが、「日本民族」はすでにほろんだ。「民族文化」がなくなってしまったから」
日本民族は復活するかもしれないが、今後50年、2070年までみて、それは限りなく難しいことがわかる。日本文化とよばれるもののうごきを予想すれば、だれがみても大凶だとわかるから」

私個人としては、岡本太郎氏にならって、せめて「日本”列島”民族」としての復活をしてほしい。だが、かなり難しいだろう。

参考
永山則夫 封印された鑑定記録 堀川惠子 - 本と奇妙な煙

石川の人生の分岐点となった、ある非行少女

怒りっぽく、爆発的な興奮があり、ガラスを叩き割ったり、ドアを蹴破る。性格は未熟で自己中心的、平気で嘘をつき、やけになりやすいという特徴もあり、職員からも「この子は矯正教育の対象にはならないから早く精神病院に送ったほうがいい」という諦めの声があがるほど見放されていた。
 石川は土居ゼミで学んだことを実践することにした。ただひたすらにA子の話を「聴く」ことから始めたのである。
 面接は毎回一時間と決まっていた。A子は最初、他人の悪口を言っては泣きわめき、面接の部屋は怒号に包まれるばかりだった。ところが、石川がひたすら聴く作業に徹してから二ヶ月くらいすると、A子の興奮は次第に影をひそめた。そのうち、彼女は石川との面接時間を楽しみにするようになり、自分自身のこと、両親のことを少しずつ打ち明け始めた。時には甘えるような態度もとるようになり、周囲の職員を驚かせた。
 そして石川が、少女の人格が発進していく可能性を楽観し始めた頃、二度目の試練が起きる。(略)
[石川が仕事で面接に遅刻]
するとA子は、「今日はもう石川に診てもらえない」という不安にかられ、興奮して暴れだした。職員から知らせを受けて慌てて駆けつけると、A子は「今まで男に裏切られてきたから、先生にも裏切られたのかと思った」とすぐに落ち着きを取り戻した。ところが、面接が終わろうとすると再び興奮し、怒りを拡大させ、初めて石川への憤懣を爆発させた。A子の心には、石川に対する独占欲で他の少女患者に対する嫉妬が渦巻き、怒りと同時にドロドロとした甘えが絡みあっているように見えた。
 石川が懸命に対応すればするほどに激しく興奮し、ついには、自分がかけていた眼鏡を放り投げた。その眼鏡は彼女にとって特別なものだった。視力の悪い彼女に石川が貸し与えたもので、石川の分身であるかのようにとても大事にしていた。彼女は自らの手でそれを壊してしまったのである。A子はますます絶望的な混乱を示し、三時間以上にわたって泣きわめき、ついには向精神薬を大量に注射して鎮静させる事態になった。
 石川は他の教官らから厳しく突き上げられた。「先生が甘やかしすぎるからだ、もっと厳しい治療方針にすべきだ」と批判にさらされた。(略)
[院長のとりなしで、治療は続行]
 石川は、A子は面接時間では話し足りないのだと判断し、日記を活用することにした。大学ノートを二冊用意し、A子が書いてきた一冊を石川が読んでコメントし、次回に交換するという方法である。
 するとA子は、大学ノート一冊を一週間で使い切ってしまうほどの分量で書き始め、コミュニケーションは一気に深まった。自分の思いを文字にすることで興奮することも暴れたりすることも減っていった。「行動化」が「言語化」に変わったのである。
(略)
 そして、A子への治療を通して確信したという。非行というものの多くは、親の仕打ちに、これ以上、我慢できなくなった子どもが止むに止まれず行動で示すことなのだと。

第3回 すべてのものと対等であるTARO。 - 岡本太郎のくらし- ほぼ日刊イトイ新聞

私(担当:ほぼ日の菅野)は、2003年に
岡本太郎さんのコンテンツの連載を担当しました。
そこからずっと勝手ながら、
太郎さんを身近に思ってきました。
今回、「生活のたのしみ展」で
扱わせていただくことになった「椅子」について
改めて考えたとき、
岡本太郎さんは、なんに対しても
徹底して対等だったのではないかと気づきました。

平野
そうそう、そうですよ。

──
親子の関係も早いうちからそうだったし、
偉い人たちに対する態度も、
子どもの絵に対する態度もそうだし、
ペットもわけへだてなく、カラスだったし‥‥。

平野
偉人、権力者、幼児、年寄り、カラス‥‥、
みんないっしょです(笑)。

──岡本敏子(前館長)さんもよく言っていた
太郎さんが使う「いやしい」という言葉はつまり、
「対等ではない」という意味だったのではないかと
いま私は解釈しています。
どんな人でもものでも、同等で対等。
それが基本姿勢で、貫いていたのではないかと、
やっと昨日気づいて、自分で驚きました。

平野
何が偉いとか、上とか下とかないし、
自分は人間で相手は動物だからとかいうのもないし、
子どもだから適当にあしらおうという気もない。

ナチスドイツが、たとえば「レイプオブワルシャワ」をおこさなかったのはなぜか?

ナチスドイツがヨーロッパ各地を占領したことは有名である。悪名高い「アウシュビッツ」も、ポーランドの「オシフィエンチムAuschwitz(市)」のドイツ語読みである。ちなみに、オシフィエンチムワルシャワよりずっと南、隣国スロバキアと近い。
さて、ナチスドイツはレイプオブ南京のように、「レイプオブワルシャワ」などの大量強姦の戦争犯罪を起こしたという記録はない。ナチスドイツは、パリ・アムステルダムオスロベオグラードなども占領したというのに、である。
なぜだろうか?
私は、レーベンズボルン(生命の泉)があったのが一つの理由では、と考えている。
レーベンズボルンについては、こちらを参考にしてほしい。簡単に言えば、「育児施設の皮をかぶった”優秀なアーリア人血統”製造工場」である。

Lebensborn – Wikipedia

強姦とは、性欲の皮をかぶった支配欲である。嘘だと思うならば、その辺の布団を丸めて人間サイズの大きさにして、「ごっこ遊び」をしてみればいい。決して欲望は満たされないはずだ。
それになぞれば、生殖による”血統”拡大もまた、支配欲そのものである。ナチスドイツが「優秀な”血統”を生産・拡大する」という発想を公式・非公式に強固にもっていたことは、ナチスドイツ下のドイツ人などの性意識を考える重要なピースの一つだと思う。
ただし、歴史的事実をつきあわせるかぎり、ナチズムにおいて「”血統”拡大の強固な欲望」と「占領地での大量強姦」がなかったという事実の関係性は、注意深く検証すべきであろう。レーベンズボルンの設立は1935年(ヒムラーなどが主導)、それから占領地各地に拡大した。ただし、ドイツ国籍の男女間だと子どもは5000人を超えなかった一方、ドイツ国籍男性とノルウェー国籍女性の場合だと8000~12000人の子どもが「育成」されたと記録上わかっている。レーベンズボルは非公式だったようで、ナチスドイツ下のドイツ人はこの施設のことをよく知らなかったようだ。これらを考えると、簡単に直結させることは難しい。
また、収容所での強制売春問題もある。ただし、収容所施設の数に対して、この強制売春施設の数はずいぶん少ないように思われる。私の調査不足かもしれないが。

Lagerbordell – Wikipedia

旧日本陸海軍やユーゴスラビア内戦での事例の分析とくらべると、件数は確かに少ないようにも思われる。これは私の今後の調査課題である。



……私がなぜこの問題について書こうと思ったかというと、一つには天皇制と「日本民族」とされる集団の性質の問題がある。敗戦後の天皇の位置というのは、日本民族とされる集団の、血統上の代表」なのである。ここが元首を大統領とする、大統領制などとの決定的なちがいである。また、ほかの王政でも、「血統上の代表」という自己規定はほとんど行われていないだろう。英国王室を思い出せばいい。
これは私の勝手なでたらめではない。日本国の法律・戸籍法を忠実に解釈すればこう書くしかないのである。詳しくは、遠藤正敬氏の『戸籍と無戸籍ー「日本人」の輪郭』(2017年、人文書院)を参照してほしい。非常に刺激的な本である。
今この本が手元にないのであるが、この本に収録されている興味深いエピソードを紹介したい。
1980年代に、皇族(秋篠宮だったか?)を招いて、日本人の南米移民を記念する大規模な式典をした。このとき、「故郷とのつながりを確認したい。できれば、故郷に一度帰ってみたい。」という一世・二世の要求が多数なされた。この皇族や「日本」の役人たちは、その場では否定的な返事はしなかったが、結局大した対応をすることができなかった、という。二世、というと、血統上まちがいなく日本人(一世)の男女間の子どもも多数いたことだろう。しかし、南米に在住している、というだけで、いわば「端っこの”日本人”」あつかいになってしまったわけである。
私は何も、血統主義を徹底させよ、と言いたいわけではない。ただ、”日本人”とは何か、というのはよくよく考えてみれば、ちっとも明らかではない、ということを言いたいのである。
よく、「敗戦から70年、日本人はまったく変わっていない。天皇崇拝がその証拠(の一つ)だ!」と言われることがある。悪質性については基本的に同意するが、ある意味においては同意できないところがある。現在の天皇制は、というよりも、「日本人という観念」は、もっと危険な変容をしつつある、というのが、私の判断だからだ。
天皇制、というのが意思決定上、根本的な不合理をかかえこんでいるのは有名な話だ。なにしろ、個性をもってはいけない天皇という地位が最終決定をしないといけないのだから、すぐれた(個性的な)意思決定をすることができないのは当たり前である。この点については、『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、山田朗岩波書店)を参考にしてほしい。非常に実証的な
問題なのは、多少軍事のことを知っている極右・親右翼人士は、おそらくこのことを無意識にせよわかっている、ということだ。では、この人たちはどうするのか。「天皇に、徹底的に合理的に考えられるスタッフをつけて、天皇には決済だけさせればいい」と考えるだろう、と私はみている。この「徹底的に合理的に考えられるスタッフ」はどういう存在だろうか。マスコミやインターネットでは、「神軍師!」ともてはやされる存在だろう。私に言わせれば、そんな”存在”は文字通りの怪物、モンスターなのだが。なぜって? この、「合理的に」というのがくせものなのである。論じると長くなるが、簡単に書けば、一つには、「歴史的レベルの予想外な事態に対応しきれる人間を、あらかじめ用意することは、人間には原理的に不可能だ」ということである。これは徹底的な血統操作をしようが教育を含めた徹底した育成環境操作をしようが、絶対に原理的に不可能である。それは、たとえば幕末期に活躍した人々の伝記をみればすぐわかる。むしろ、いくつもの過酷な経験を経て、かつ、何らかの運に偶然にもめぐまれた人たちが歴史の表舞台に浮かび上がっていった、というのが歴史の事実である。この人たちをただ賞賛しろ、というのではない。そういう予測の外にある人々、という事実が大事なのである。
私が1980年代以降の「サブカルチャー」に根本的な不信感をぬぐえない理由の一つには、文化がこの「予想外」の驚きと恐ろしさをしめだしてしまったのではないか、という問題意識がある。近年の「シン・ゴジラ」にしろ「幼女戦記」にしろ、「”合理的なスタッフ”さえいればなんでも解決できる」という、そういう異様な錯覚を、文化側が”夢見ている”のではないか、そんな危険性を私は感じる。



(まとまりのないものになりました。後で原稿を書き直すかもしれません。)

「西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手とせよ」(2018年)の参考文献リスト

     主要参考文献

   西郷隆盛(原則として刊行年順)
『大西郷全集』第一~三巻(平凡社、一九二六~二七年)
 *本書以前に刊行されたものに比べ、収載された書簡や詩文の量がはるかに多く、西郷研究を大きく進展させた史料集である。
渡辺盛衛編『大西郷書翰大成』第一~五巻(平凡社、一九四〇~四一年)
西郷隆盛全集』第一~六巻(大和書房、一九七六~八〇年)
 *島津久光に対する西郷の批判が記されていたため封印されていた桂(久武)家所蔵の西郷書簡など新史料が含まれている。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』(一八九四年。のち至言社によって一九七六年覆刻)
頭山満翁講評・小谷保太郎編『大西郷遺訓』(政教社、一九二五年)雑賀博愛『大西郷全伝』第一巻(大西郷全伝刊行会、一九三七年)
石神今太編『南洲翁逸話』(鹿児島県教育会、一九三七年)
 *西郷に直に接した町村在住の故老からの聞き取り調査を纏めたものである。西郷に関する興味深いエピソードを多く含む。
田中惣五郎『西郷隆盛人物叢書)』(吉川弘文館、一九五八年。一九八五年新版)
圭室諦成『西郷隆盛』(岩波書店〔新書〕、一九六〇年)
野中敬吾編『西郷隆盛関係文献解題目録稿-~西郷隆盛観の変遷を追って』(私家版。一九七〇年。一九七八年改訂増補。一九七九年、一九八一年、一九八五年、一九八九年)
 *主として明治十年以降に出版もしくは発表された西郷に関する文献を収録し、解説をほどこしたものである。西郷のことを知るうえで大変便利である。
井上清西郷隆盛(上・下)』(中央公論社〔新書〕、一九七〇年)
坂元盛秋『西郷隆盛福沢諭吉の証言』(新人物往来社、一九七一年)
南日本新聞社編『西郷隆盛伝――終わりなき命』(新人物往来社、一九七八年)
上田滋『西郷隆盛の悲劇』(中央公論社、一九八三年)
落合弘樹『西郷隆盛と士族』(吉川弘文館、二〇〇五年)
猪飼隆明『西郷隆盛「南洲翁遺訓」』(角川学芸出版、二〇〇七年)
高大勝『西郷隆盛と〈束アジアの共生》』(社会評論社、二〇一〇年)
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局――体調不良問題から見た薩長同盟征韓論政変』(ミネルヴア書房、二〇一一年)
松浦玲『勝海舟西郷隆盛』(岩波書店〔新書〕、二〇一一年)
落合弘樹『西南戦争西郷隆盛』(吉川弘文館、二〇一三年)
川道麟太郎『西郷「征韓論」の真相―歴史家の虚構をただす』(勉誠出版、二〇一四年)

   関連史料(原則として刊行年順)
東京大学史料編纂所所藏『大日本維新史料 稿本』(マイクロ版集成)
「柏村日記」(山口県文書館所蔵毛利家文庫七一 『藩臣日記』)
侯爵細川家編纂所編『改訂 肥後藩国事史料』巻五~七)
鄭永寧編「副島大使適清概略」(一八七三年。のち『明治文化全集』第十一巻外交篇、日本評論社、一九二八年に収録
川口武定『従征日記』上・下巻(一八七八年。のち青潮社によって一九八八年覆刻)
海南鏡水漁人(坂崎斌)編「林有造氏旧夢談」(高山堂、一八九一年。のち『明治文化全集』第二十五巻雑史篇、日本評論社、一九二九年に収録)
佐々友房『戦袍日記』(一八九一年、南江堂。のち青潮社によって一九八六年覆刻)
海江田信義述・西河称編述『維新前後実歴史伝』巻之一~十(一八九二年)
圉城寺清『大隈伯昔日譚』(一八九五年。のち早稲田大学出版部によって一九六九年覆刻)
土持政照述・鮫島宗幸記「西郷隆盛謫居事記」(一八九八年)
柴山川崎三郎『西南戦史』(博文館、一九〇〇年。のち大和学芸図書によって一九七七年覆刻)
宮島誠一郎編「国憲編纂起原」(一九〇五年。のち「明治文化全集」第一巻憲政編、日本評論社、一九二八年に収録)
多田好問編『岩倉公実記』上・下巻(皇后宮職蔵版・宮内省版、一九〇六年。のち書肆洋井によって一九九五年覆刻)
黒龍会本部編纂発行『西南記伝』上・中・下六巻(一九〇八~一一年。のち原書房によって一九六九年覆刻)
桐野利秋征韓論に関する実話」(同右『西南記伝』上巻一に収録)
勝田孫弥『大久保利通伝』中巻(一九一〇年、同文館。のち臨川書店によって一九七〇年覆刻)
末松謙澄『修訂 防長回天史』上・下巻(一九一一年。のち柏書房によって一九六七年覆刻)
前島密市島謙吉編『鴻爪痕』(前島会、一九二〇年)
『観樹将軍回顧録』(政教社、一九二五年)
鳥尾小彌太「述懐論」(『明治文化全集』第二巻正史篇、日本評論社、一九二八年)
「春嶽私記」(太政官編『復古記』第一冊、一九三〇年。のち東京大学出版会によって二〇〇七年覆刻)
樺山資紀日記(「台湾記事」)』(西郷都督樺山総督記念事業出版委員会『西郷都督と槹山総督』 一九三六年)
佐々克堂先生遺稿刊行会編『克堂佐々先生遺稿』(改造社、一九三六年)
『橋本景岳全集』上巻(岩波書店、一九三九年)
春畝公追頌会編『伊藤博文伝』上巻(統正社、一九四〇年)
小笠原壹岐守長行編纂会榻『小笠原壹岐守長行』(一九四三年)
『日本外交文書』第六巻(一九五五年)
アーネスト・サトウ(坂田精一訳)『一外交官の見た明治維新』上巻(岩波書店〔文庫〕、一九六〇年)
立教大学日本史研究会編纂『大久保利通関係文書』第一~五巻(吉川弘文館、一九六五~七一年)
小寺鉄之助編『西南の役薩軍口供書』(吉川弘文館、一九六七年)
公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』中巻(原書房、一九六八年)
勝海舟『亡友帖・清譚と逸話』(原書房、一九六八年)
「氷川清話」(『幕末維新史料叢書』2、人物往来社、一九六八年)
松平慶永『逸事史補』(『幕末維新史料叢書』4、人物往来社、一九六八年)
宮内庁編『明治天皇紀』第一・三巻(吉川弘文館、一九六八・一九六九年)
小河一敏「王政復古 義挙録」(『幕末維新史料叢書』5、新人物往来社、一九六九年)
孝明天皇紀』第五巻(平安神宮、一九六九年)
財団法人日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料』第一巻(東洋経済新報社、一九七一年)
『保古飛呂比――佐佐木高行日記』第五巻(東京大学出版会、一九七四年)
本田修理『越前藩幕末維新公用日記』(福井県郷土誌懇談会、一九七四年)
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料』第一~七巻(鹿児島県、一九七四~八〇年)
 *長らく低迷していた幕末維新期の薩摩藩研究を大きく進展させることになった史料集である。
勝海舟全集刊行会編『幕末日記』(『勝海舟全集1』講談社、一九七六年)
中根雪江先生』(中根雪江先生百年祭事業会、一九七七年)
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 西南戦争』第一~三巻(鹿児島県、一九七八~八〇年)
横田達雄編『寺村左膳道成日記』(一)~(三)(県立青山文庫後援会、一九七八~八〇年)
市来四郎「丁丑擾乱記」(『鹿児島県史料 西南戦争』第一巻、一九七八年)
マウンジー(安岡昭男補註)『薩摩反乱記』(平凡社、一九七九年)
「鹿児島県庁日誌」「鹿児島一件書類」「磯島津家日記」「戦塵録」「丁丑野乗」「典獄日記」
「土佐挙兵計画ノ真相」(『鹿児島県史料 西南戦争』第三巻、一九八〇年)
鹿児島県史料刊行委員会榻『鹿児島県史料集 小松帯刀伝』(鹿児島県立図書館、一九八〇年)
『山内家史料 幕末維新』第六編(山内神社宝物資料館、一九八四年)
桂久武日記』(鹿児島県立図書館『鹿児島県史料集』第一一六集、一九八六年)
大久保利通日記」他(鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 大久保利通史料一』一九八七年)
「登京日記」(『福井市史』資料編5・近世三、一九九〇年)
宮地佐一郎榻『中岡慎太郎全集』(勁草書房、一九九一年)
伴五十嗣郎編『松平春嶽未公刊書簡集』(思文閣出版、一九九一年)
鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 玉里島津家史料』第一~十巻、一九九二~二〇〇一年)
 *幕末維新期の島津久光の動向を分析するうえで不可欠の史料集である。
『中村平左衛門日記』第十巻(北九州市立歴史博物館編集発行、一九九三年)
田村貞雄校注『初代山口県令 中野梧一日記』(マツノ書店、一九九五年)
社団法人尚友倶楽部・山崎有恆編『伊集院兼寛関係文書』(芙蓉書房出版、一九九六年)
『小森承之助日記』第四・五巻(北九州市立歴史博物館編集発行、一九九八~九九年)
並河徳子遺稿『父をかたる』(田中正弘「朝彦親王家臣並河靖之の生涯」『栃木史学』第一五号、二〇〇一年)
喜多平四郎『征西従軍日誌』(講談社〔学術文庫〕、二〇〇一年)
鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書』第二巻(鹿児島県、二〇〇三年)
東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編『勝海舟関係資料 海舟日記(三)』(二〇〇五年)
木戸孝允関係文書』第一~四巻(東京大学出版会、二〇〇五~○九年)
甲斐利雄編『一神官の西南戦争従軍記――熊本隊士安藤經俊「戦争概畧晴雨日誌」』(熊本出版文化会館、二〇〇七年)
家近良樹・飯塚一幸編『杉田定一関係文書史料集』第一巻(大阪経済大学日本経済史研究所、二〇一〇年)
福井県文書館編集・発行『越前松平家家譜 慶永4』(二〇一〇年)
史料叢書『幕末風聞集』(東海大学附属図書館所蔵史料翻刻、二〇一〇年)
伊藤隆他『こんな教科書で学びたい 新しい日本の歴史』(扶桑社・育鵬社、二〇一一年)
佐々木克・藤井譲治・三洋純・谷川穣編『岩倉具視関係史料』上・下巻(思文閣出版、二〇一二年)
朝彦親王日記』第一巻(日本史籍協会叢書、東京大学出版会
岩倉具視関係文書』第五~七巻(同右)
大久保利通文書』第一・二・三・四・七・八巻(同右)
吉川経幹周旋記』第三~五巻(同右)
木戸孝允文書』第三~八巻(同右)
木戸孝允日記』第二・三巻(同右)
『熊本鎮台戦闘日記』第一・二巻(同右)
『再夢紀事・丁卯日記』(同右)
島津久光公実紀』第一上二巻(同右)
『続再夢紀事』第二~六巻(同右)
伊達宗城在京日記』(圜右)
徳川慶喜公伝』史料篇第二巻(同右)
中山忠能日記』第四巻(同右)
「維新前後経歴談」(『維新史料編纂会講演速記録』第一巻、同右)
薩長同盟実歴談」(『坂本龍馬関係文書』第二巻、同右)
「品川彌二郎日記」(『維新日乗算輯』第二巻、同右)
「寺村左膳手記」(『維新日乗算輯』第三巻、同右)

   研究書・一般書(著者名順)
青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、二〇〇〇年)
青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、二〇〇六年)
青山忠正『日本近世の歴史6 明治維新』(吉川弘文館、二〇一二年)
家近良樹『幕末の朝廷――若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社〔叢書〕、二〇〇七年)
家近良樹『江戸幕府崩壊――孝明天皇と「一会桑七(講談社〔学術文庫〕、二〇一四年)
家近良樹『徳川慶喜人物叢書)』(吉川弘文館、二〇一四年)
家近良樹『ある豪農一家の近代』(講談社(選書メチ已、二〇一五年)
猪飼隆明『西南戦争――戦争の大義と動員される民衆』(吉川弘文館、二〇〇八年)
伊藤之雄明治天皇』(ミネルヴア書房、二〇〇六年)
犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』(吉川弘文館、一九八七年)
珪h勲『王政復古』(中央公論社〔新書〕、一九九一年)
鵜飼政志明治維新の国際舞台』(有志舎、二〇一四年)
人久保利謙編『岩倉使節の研究』(宗高査房、一九七六年)
小川原正道『西南戦争――西郷隆盛と日本最後の内戦』(中央公論新社〔新書〕、二〇〇七年)
萩原延寿『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄一三-西南戦争』(朝日新聞社、二〇〇一年)
奥谷松治「品川弥二郎伝」(高陽書院、一九四〇年。のちマツノ書店によって二〇一四年覆刻)
刑部芳則「明治国家の服制と華族」(吉川弘文館、二〇一二年)
落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、二〇〇一年)
笠原英彦『明治留守政府』(慶應義塾大学出版会、二〇一〇年)
加治木常樹『薩南血涙史』(一九一二年。のち青潮社から一九八八年に覆刻)
勝田政治『内務省と明治国家形成』(吉川弘文館、二〇〇二年)
勝田政治『〈政事家〉大久保利通――近代日本の設計者』(講談社〔選書メチエ〕、二〇〇三年)
紙屋敦之『東アジアのなかの琉球薩摩藩』(校倉書房、二〇一三年)
芳即正『島津斉彬人物叢書)』(吉川弘文館、一九九三年)
芳即正『坂本龍馬薩長同盟』(高城書房、一九九八年)
芳即正『島津久光明治維新――久光はなぜ討幕を決意したのか』(新人物往来社、二〇〇二年)
 *島津久光を本格的に取り上げた最初の著作である。以後、本書に刺激され、久光に関する著作や論文が相次いで発表されることになった。
姜範錫『征韓論政変(明治六年の権力闘争)』(サイマル出版会、一九九〇年)
京都市編『京都の歴史』第七巻(京都市史編纂所、一九七九年)
久住真也『長州戦争と徳川将軍』(岩田書院、二〇〇五年)
後藤正義『西南戦争警視隊戦記』(サンケイ新聞データシステム編集制作、一九八七年。のちマツノ書店によって二〇一六年覆刻)
雑賀博愛『杉田鶉山翁』(鶉山会、一九二八年)
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、二〇〇四年)
佐々木寛司『明治維新史論へのアプローチ――史学史・歴史理論の視点から』(有志舎、二〇一五年)
佐藤誡郎『幕末維新の民衆世界』(岩波書店〔新書〕、一九九四年)
佐藤隆一『幕末期の老中と情報――水野忠精による風聞探索活動を中心に』(思文閣出版、二〇一四年)
篠田達明『偉人たちのカルテ――病気が変えた日本の歴史』(朝日新聞出版〔文庫〕、二〇一三年)
菅良樹『近世京都・大坂の幕府支配機構――所司代・城代・定番・町奉行』(清文堂出版、二〇一四年)
鈴木暎一『藤田東湖人物叢書)』(吉川弘文館、二〇〇五年)
関口すみ子『御一新とジェンダーーー荻生徂徠から教育勅語まで』(東京大学出版会、二〇〇五年)
高木不二『日本近世社会と明治維新』(有志舎、二〇〇九年)
高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、二〇〇七年)
高村直助『小松帯刀人物叢書)』(吉川弘文館、二〇一二年)
高村直助『永井尚志』(ミネルヴア書房、二〇一五年)
田中彰明治維新観の研究』(北海道大学図書刊行会、一九八七年)
知野文哉『『坂本龍馬』の誕生――船中八策と坂崎紫瀾』(人文書院、二〇一三年)
辻ミチ子『和宮』(ミネルヴア書房、二〇〇八年)
津田茂麿『明治聖上と臣高行』(原書房、一九七〇年)
堤啓次郎『地方統治体制の形成と士族反乱』(九州大学出版会、二〇一〇年)
友田昌宏『戊辰雪冤――米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」』(講談社〔現代新書〕、二〇〇九年)
友田昌宏『未完の国家機構――宮島誠一郎と近代日本』(岩田書院、二〇一一年)
中村武生『池田屋事件の研究』(講談社〔現代新書〕、二〇一一年)
奈良勝司『明治維新と世界認識体系――幕末の徳川政権 信義と征夷のあいだ』(有志舎、二〇一〇年)
布引敏雄長州藩部落解放史研究』(三一書房、一九八〇年)
畑尚子『幕末の大奥――天璋院薩摩藩』(岩波書店〔新書〕、二〇〇七年)
林吉彦『薩摩の教育と財政並軍備』(鹿児島市役所、一九三九年。のち第一書房によって一九八二年覆刻)
原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店、一九六八年)
原口虎雄『幕末の薩摩』(中央公論社〔新書〕、一九六六年)
坂野潤治宮地正人編『日本近代史における転換期の研究』(山川出版社、一九八五年)
藤野保『近世国家解体過程の研究――幕藩制と明治維新』後編(吉川弘文館、二〇〇六年)
保谷徹『戊辰戦争』(吉川弘文館、二〇〇七年)
牧原憲夫『明治七年の大論争――建白書から見た近代国家と民衆』(日本経済評論社、一九九〇年)
升昧準之輔『日本政党史論』第一巻(東京大学出版会、一九六五年)
升昧準之輔『日本政治史――幕末維新、明治国家の成立』(東京大学出版会、一九八八年)
町田明弘『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社〔選書メチエ〕、二〇〇九年)
町田明弘『幕末文久期の国家政略と薩摩藩――島津久光と皇政回復』(岩田書院、二〇一〇年)
町田明弘『グローバル幕末史――幕末日本人は世界をどう見ていたか』(草思社、二〇一五年)
松浦玲『明治の海舟とアジア』(岩波書店、一九八七年)
松尾正人『木戸孝允』(吉川弘文館、二〇〇七年)
丸山幹治『副島種臣伯』(大日社、一九三六年。のち、みすず書房によって一九八七年覆刻)
三谷博『愛国・革命・民主――日本史から世界を考える』(筑摩書房〔選書〕、二〇一三年)
三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館、二〇一三年)
宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』(岩波書店、一九九九年)
毛利敏彦『明治六年政変の研究』(有斐閣、一九七八年)
毛利敏彦『明治六年政変』(中央公論社〔新書〕、一九七九年)
 *両書の刊行をきっかけに明治六年政変の研究が格段に深められたという点で、画期的な位置を占める。
山内昌之『歴史の作法――人間・社会・国家』(文藝春秋〔新書〕、二〇〇三年)

   論文他
青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』第五五七号、一九八六年)
青山忠正「龍馬と薩長盟約」(佛教大学歴史学部編『歴史学への招待』世界思想社、二〇一六年所収)
飛鳥井雅道「皇族の政治的登場――青蓮院宮活躍の背景」(佐々木克編『それぞれの明治維新吉川弘文館、二〇〇〇年所収)
家近良樹「島津久光の政治構想について――武力倒幕を決断したか否か」(明治維新史学会編『幕末維新の政治と人物』有志舎、二〇一六年所収)
市村哲二「企画展『玉里島津家資料から見る島津久光と幕末維新』展示資料に関する調査報告」(『黎明館調査研究報告』第二九集、二〇一七年)
伊牟田比呂多「西郷下野に伴い辞職した警察官、明治中・後期に警察トップへ復活の背景」(『敬天愛人』第三十一号、二〇一三年)
刑部芳則廃藩置県後の島津久光と麝香間祗侯」(『日本歴史』第七一八号、二〇〇八年)
刑部芳則「宮中勤番制度と華族――近習・小番の再編」(『大倉山論集』第五七輯、財団法人大倉精神文化研究所、二〇一一年)
柏原宏紀「内治派政権考」(『日本歴史』第七八五号、二〇一三年)
芳即正「薩摩藩薩長盟約の実行」(明治維新史学会編『明治維新の新視角――薩摩からの発信』高城書房、二〇〇一年所収)
芳即正「篤姫とその時代」(芳即正編『天璋院篤姫のすべて』新人物往来社、二〇〇七年)
久保正明「明治六年政変後の島津久光派」(『日本史研究』第六一一号、二〇一三年)
栗原伸一郎「米沢藩士宮島誠一郎『戊辰日記』に関する一考察――広沢兵助(真臣)との密談をめぐる諸史料」(『歴史』第九十八輯、二〇〇二年)
栗原伸一郎「米沢藩の諸藩連携構想と[奥羽越]列藩同盟」(『歴史』第一〇七輯、二〇〇六年)
古賀勝次郎「伊地知正治と立憲構想――安井息軒との関連で」(早稲田大学日本地域文化研究所編『薩摩の歴史と文化』行人社、二〇一三年所収)  佐々木克大久保利通囲碁の逸話」(前掲『明治維新の新視角』所収)
笹部昌利「薩摩藩島津家と近衛家の相互的『私』の関わり――文久二年島津久光『上京』を素材に」(『日本歴史』第六五七号、二〇〇三年)
鮫島吉廣「薩摩の焼酎と食文化」(前掲『薩摩の歴史と文化』所収)
清水善仁「文久二年閏八月の島津久光帰国と朝廷」(『明治維新史研究』第五号、二〇〇九年)
仙波ひとみ「幕末における議奏の政治的浮上について――所司代酒井と議奏『三卿』」(『文化史学』第五十七号、二〇〇一年)
仙波ひとみ「幕末における関白―『両役』と天皇――安政五年『外夷一件』をめぐる『朝議』を中心に」(『日本史研究』第四七三号、二〇〇二年)
平良聡弘「旧紀州藩明治維新観――『南紀徳川史』を中心に」(『和歌山県立文書館 紀要』第一七号、二〇一五年)
高木不二「慶応期薩摩藩における経済・外交路線と国家構想」(前掲『明治維新の新視角』所収)
高久嶺之介「書評『西郷隆盛と幕末維新の政局』」(『経済史研究』第こ(号、二〇一二年)
高橋秀直廃藩置県における権力と社会――開化への競合』(山本四郎編『近代日本の政党と官僚』東京創元社、一九九一年)
高橋秀直征韓論政変と朝鮮政策」(『史林』第七五巻第二号、一九九二年)
高橋秀直「廃藩政府論――クーデターから使節団へ」(『日本史研究』第三五六号、一九九二年)
高橋秀直征韓論政変の政治過程」(『史林』第七六巻第五号、一九九三年)
高橋秀直二都物語――首都大坂と離宮都市京都」(『京都市政史編さん通信』第一九号、二〇〇四年)
高橋裕文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」(家近良樹編『もうひとつの明治維新――幕末史の再検討』有志舎、二〇〇六年)
田村貞雄「『征韓論』政変の史料批判――毛利敏彦説批判」(『歴史学研究』第六一号、一九九一年)
田村貞雄「棡野利秋談話〔一名『桐陰仙譚』について〕」(日本大学国際関係学部国際関係研究所『国際関係研究』第二六巻一号、二〇〇五年)
田村省三「島津斉彬の集成館事業――薩摩藩の近代化とその背景」(前掲『薩摩の歴史と文化』所収)
辻ミチ子「近衛家老女・村岡-女の幕末社会史」(前掲『それぞれの明治維新』所収)
寺尾美保「晩年の篤姫」(前掲『天球院篤姫のすべて』所収)
遠山茂樹「有司専制の成立」(遠山茂樹・堀江栄一編『自由民権期の研究』第一巻、有斐閣、一九五九年)
徳永和喜「将軍家と島津家との婚姻」(前掲『天埠院篤姫のすべて』所収)
中元崇智「『土佐派』の『明治維新観』形成と『自由党史』――西郷隆盛江藤新平像の形成過程を中心に」(『明治維新史研究』第六号、二〇〇九年)
原口清「参預考」(『原口清著作集1 幕末中央政局の動向』岩田書院、二〇〇七年所収)
原口清「孝明天皇の死因について」(『原口清著作集2 王政復古への道』(同右)
原口清「廃藩置県政治過程の一考察」(『原口清著作集4 日本近代国家の成立』(同右、一一〇〇八年)
原田良子・新出高久「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」(『敬天愛人』第三四号、二〇一六年)
坂野潤治「明治政権の確立」(大久保利謙他編『日本歴史大系』4、山川出版社、一九八七年)
広瀬靖子「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号、一九七〇年)
福田賢治「薩摩と明治維新」(前掲『薩摩の歴史と文化』所収)
藤井貞文「解題」(『維新史料編纂会講演速記録』二、東京大学出版会、一九七七年)
真栄平房昭「異国船の琉球来航と薩摩藩―一九世紀の東アジア国際関係と地域」(明治維新史学会編『講座 明治維新1』有志舎、二〇一〇年所収)
町田明弘「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』第八号。二〇一六年)
真辺将之「青年期の板垣退助大隈重信――政治姿勢の変化と持続」(『日本歴史』第七七六号、二〇一三年)
三谷博「維新における『変化』をどう『鳥瞰』するか―『複雑系』研究をヒントとして」(前掲『明治維新の新視角』所収)
宮地正人「中津川国学者薩長同盟――薩長盟約新史料の紹介を糸口として」(中山道歴史資料保存会『街道の歴史と文化』第五号、二〇〇三年)

「西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手とせよ」(2018年、家近良樹、ミネルヴァ書房)

目次

はしがき
序章 西郷とはいかなる人物か(001)
 1 日本史上でも有数の人気者(001)
     圧倒的な人気  敬天愛人
 2 西郷隆盛という個性(002)
     落差の大きい人生  立派な風貌  謹言・実直・生真面目  激しい好悪の情  西郷固有の特性  死の壁を乗り越える
 3 本書の執筆で留意すること(007)

第一章 誕生から青年時に至るまで(011)
 1 誕生(011)
     下加治屋町に誕生  貧窮を極めた生活
 2 鹿児島(薩摩藩)の置かれた特殊性(013)
     英雄誕生の三条件  琉球を通じて海外と繋がる
 3 少年時(015)
     傷害事件とその影響  郷中教育
 4 青年時(017)
     農村の実情を知る  陽明学  佐藤一斎  禅との関わり  お由羅騒動  赤山靭負の死

第二章 将軍継嗣運動に関わる(027)
 1 肉親の相次ぐ死と島津斉彬との出会い(027)
     肉親の相次ぐ死  隆盛最初の妻  庭方役を拝命  初めての江戸行  藤田東湖に心酔  東湖と西郷の共通点
 2 斉彬の信頼獲得(032)
     暗殺計画を立案  斬奸の対象  西郷の涙  斉彬との濃厚な面談  ネットワークの形成  斉彬の教え
 3 将軍継嗣問題(037)
     ペリー来航後の政治状況  斉彬の立場  内訌の調停  西郷本来の業務  ミイラ取りがミイラになる  篤姫が将軍の正室となった背景  嫁入り道具の選定にあたる
 4 橋本左内との運命的な出会い(043)
     再度江戸へ  敵と味方を峻別  燕趙悲歌の士  西郷の美質  大奥工作  中川宮の村岡矩子評  孝明天皇の不承諾  朝幕関係の悪化  帰国の途へ

第三章 二度の流島生活(053)
 1 大獄発生直前の政治状況(053)
     形勢一変  斉彬の急死  斉彬と久光の関係  斉彬の「御遺志」
 2 殉死の決意と挙兵計画(056)
     一橋派諸侯の蟄居・謹慎  戊午の密勅  密勅の返納  殉死を決意  西郷のプラン  荒唐包稽な挙兵計画  斉彬の継嗣問題  かなりの有名人となっていた西郷
 3 錦江湾での投身と第一次流島時代(062)
     月照  西郷の月照への思い  慈愛と知恵  藩論の転換  入水と蘇生  後悔の念に苛まれる  脱藩突出策の中止を求める  上から目線  大島での生活が始まる  苛政への怒り  孤独と体調不良  弱音と愚痴  相撲と狩猟  愛加那との結婚  生活臭  強い復権願望  脱藩突出策の中止と「諭告書」  ストレス太りと自暴自棄気味な精神  井伊暗殺を喜ぶ  西郷の見通した今後の日本  菊次郎の誕生
 4 一時的帰藩(077)
   帰藩を許された理由  久光の率兵上洛問題  延期を提言  西郷の問責  久光を痛烈に批判  地ゴロ発言  下関ついで大坂へ  大久保利通の直話
 5 再度の流島へ(087)
     尋常ではなかった久光の怒り  徳之島へ  沖永良部への再度の流島  生への執着  心境の変化をきたした背景  座敷牢への生活  人材から人物レベルへ  西郷の反省の弁  川口雪篷との出会い  「西郷先生」の感化力  人生哲学の確立  西郷の農民観  西郷崇拝熱  子供への想い  生麦事件  薩英戦争と西郷  文久政変と薩摩藩

第四章 流島生活の終焉と中央政局への再登場(103)
 1 再度の召還(103)
     西郷の赦免を求める動き  妻子との対面
 2 京都へ(105)
     軍賦役に就任  スピード出世  久光に対する慎重な姿勢  「演技派」として再登場  参預会議の成立  参預会議の解体  西郷の暗い見通し  長崎丸事件  西郷の奇策  久光の帰国  薩摩藩に対する嫌疑  朝廷上層部への接近  対長州問題  池田屋事件  長州藩会津藩孤立策  西郷らの対応  方針転換  負傷・落馬  初めての戦闘体験
 3 第一次長州戦争と西郷隆盛(121)
     長州藩が「朝敵」となる  大久保に対し再度先行することになった西郷  側役に昇進  開国へのチャンス到来  将軍の進発を強く求める  なぜ家茂の進発を求めたか  対長州強硬論  勝海舟と会う  褒賞問題の発生  越権問題  帰国が先送りされる  自らの判断を優先  長州藩処分問題  征長総督が徳川慶勝に決定  西郷が征長を急いだ理由  征長軍の事実上の参謀に就任  西郷が起用された理由  岩国行と特有の対応  三家老の首実検  素早い対応  独特の問題解決法  下関行  高杉晋忤らの挙兵  第一次長州戦争終結  感(謝)状の授与  一会桑三者と幕府首脳の不同意  不同意の理由  深刻な対立状況の発生
 4 再度の上洛と薩摩藩の出兵拒否(141)
     帰郷  再度京都へ  再婚  幕命停止工作  幕命拒絶  大番頭に昇進  将軍上洛問題  上洛から進発へ  一会桑三者の斡旋  西郷の猛反発  諸藩が長州再征に反対した理由
 5 藩政改革と西郷(150)
     留学生のイギリスへの派遣  藩際交易  兵制改革
 6 西郷の再上洛と長州再征をめぐる動き(152)
     再上洛とすっぽかし事件  西郷の言い分  西郷がすっぽかした理由  西郷不在中の京坂地域の政治状況  天皇・朝廷上層部の一会桑への依存  江戸幕閣と会津藩との関係修復  長州再征を阻止する活動に取り組む  処分に至る手順が決定  長州側の拒絶  再征への流れが固まる  江戸藩邸の減員問題
 7 条約勅許(162)
     四力国艦隊の兵庫渡来  二老中の官位剥奪  将軍の辞表提出  辞表撤回と勅許奏請  条約勅許  勅許の歴史的意義  大久保の勇猛な阻止活動  正論  叡断で長州再征が決定  西郷の伝言  慶喜に対する底知れぬ恐れの念

第五章 新たな段階へ――打倒一会桑をめざす(171)
 1 状況打開策を模索(171)
     新方針  妥協に終始した訊問  冷静な現状分析  西郷の計算  討幕(一会桑)願望  挙兵論と距離を置く形勢観望論  久光と西郷の将来構想が同じか否か  福井藩士の久光擁護  挙兵論に不同意だった久光
 2 薩長盟約と西郷(180)
     特別視される盟約  木戸上洛に至る経緯  木戸の後年の回想  有名なエピソード  在京薩藩指導部の考え  長州処分令の内容  なぜ木戸に処分令の受け入れを勧めたのか  深い絶望  不可思議な点  異様さに満ちた書簡  手柄を必要とした木戸  言質をとる必要があった  木戸書簡の巨大な影響  六ヵ条の内容  一会桑三者との戦い  長州再征の可能性は低いと判断  久光の指令とそれへの服従  リップサービス
 3 離京(鹿児島への帰国)(197)
     長州藩士を手厚く処遇  長州への出兵を拒否  西郷が呼び戻された理由  パークス一行の鹿児島訪問  「英国策論」  西郷とパークスの応答  大目付役を辞退  深刻となった体調不良  西郷不在中の中央政局  想定外の政治状況が突如出現  久光らへの上洛要請
 4 再び京都へ(209)
     小松・西郷・大久保三者の京都集合  形勢を観望  原市之進と小松帯刀  三条実美らの帰洛問題  幽閉公卿の赦免と解兵令  小松尽力の成果  新たな方策を採用  西郷の印象が薄い理由  慶喜への将軍宣下と天皇の急死
 5 国元に帰る(218
     在京薩藩指導部の新たな選択  西郷が帰国するに至った背景  帰鹿後の西郷の動向  久光の上洛が決定

第六章 旧体制の打倒を実現(223)
 1 島津久光の再上洛(223)
     久光上洛  「薩の奸計」  幕府単独での兵庫開港勅許要請  薩摩サイドの猛反発
 2 徳川慶喜島津久光(薩摩側)の対立(226
     小松発言と原の「当惑」  四侯の京都集合  パークスの敦賀行問題  議奏武家伝奏の解職  徳川慶喜の激怒  大久保への批判  西郷と小松・大久保との違い  大久保の強引な手法  対立点  慶喜の内幕話  堂上への「説得」要請  四侯問の意見の相違    同時奏聞案
 3 兵庫開港勅許と在京薩摩藩邸内での決議(237)
     二件同時勅許  慶喜との関係の極度の悪化  長州藩とともに「挙事」  久光と長州藩士との会見  疑問点  「三都一時(に)事を挙げ候策略」  策略の内実と注目点  薩土盟約の締結  「渡りに船」と飛びつく  久光は承認したのか否か  薩土盟約の破棄  虚偽発言の可能性  久光の深刻な体調不良  計画を告げた相手  近藤勇の発言
 4 薩摩藩内における挙兵反対論の高まり(253)
     西郷を弾劾  道島某の得た情報  奈良原の西郷刺殺発言  挙兵反対論が高まった背景
 5 島津久光の帰国とその後の政治状況(256)
     土佐藩兵の上洛を待ち望む  久光に帰国を勧める    挙兵を考えていなかった久光  挙兵に向けての動き  挙兵を急いだ理由  久光の帰国  薩長芸三藩の出兵協定  出兵反対論が渦巻く  武力倒幕を明確に否定した久光  京都藩邸内での深刻な対立  建白書提出に同意  八方塞がりの状況  討幕の密勅  密勅を携えて帰国
 6 政権返上(大政奉還)とその影響(272)
     政権返上  先見性に富む決断  常識人と無常識人   慶喜に対する極度の恐怖心  小松との関係に変化が生じる  小松の興味深い発言  三人揃えて帰国  政権返上を歓迎した久光  忠義の上洛が決定をみた諸々の理由  西郷の従軍を拒んだ久光  小松の上洛断念
 7 王政復古クーデター(282)
     藩主一行の鹿児島出発  予期しえぬ事態  クーデター計画の作成  慶喜への根深い不信感  新政権からの慶喜排除  摂関家の朝廷支配を否定  会・桑両藩の排除  対会桑戦を想定  戦闘を望んだか否か  武力発動に伴う効果を重視  西郷の計算  クーデター計画を事前に知らされた慶喜
 8 クーデター後の政治状況(294)
     クーデター決行  参与となる  予想が外れる  慶喜一行の下坂  慶喜に有利な状況の到来  新政府の財源問題  納地問題  王政復古政府内で孤立  西郷らの敗北  苛立つ  大久保・西郷への痛烈な批判  江戸薩摩藩邸焼き打ち事件  西郷にとって計算外の出来事
 9 鳥羽伏見戦争の勃発(304)
     討薩の動き  対徳川戦の決意が固まる  戦闘開始  西郷の大悦び  陣頭指揮をとる  歴史的大勝利  公議政体派の凋落  喜びの爆発

第七章 明治初年の西郷隆盛(311)
 1 戊辰戦争と西郷(311)
     西郷の存在と名前が一気に全国区に  東征大総督府参謀に就任  独特の死生観  慶喜の追討問題  厳酷な処分にこだわる  武人としての希望  薩摩藩に反発する声  反薩摩の動き  孤立を深めつつあった薩摩藩  対応に苦慮した西郷  脱走ついで江戸総攻撃へ  戦い(維新)の精神  江戸総攻撃の中止  勝海舟との面談  柔らかな対応  駿府、京都、駿府へ  江戸城に乗り込む  ある種の「いやらしさ」  有名なエピソード  再び京都へ  江戸へ戻る  上野戦争  勝利の立役者  詳細な指示  神経のこまやかさ  忠義の出征を止める  藩主に随行しての帰藩  鮮明となった体調不良  柏崎ついで新潟へ  米沢を経由して庄内へ  すこぶる寛大な措置  西郷に対する敬愛の念  美談の影響  次弟吉二郎の戦死
 2 帰郷(337)
     帰鹿と参政職への就任  凱旋兵士の改革要求  蝦夷(北海道)へ  中央政府入りしなかった理由  島津久光との関係  下級士族優遇策  西郷に対する猛反発  道の前には誰もが平等  体調のさらなる悪化  下血  強列なストレス源  加齢による免疫力の低下  菊次郎を引き取る  参政辞任  大久保の鹿児島への派遣  西郷の上京が求められた背景  山口に赴く  西郷の神経を傷つける  位階を辞退  大参事職に就任  苦衷を洩らす  西郷の緊張感
 3 中央政府入り(356)
     贋札問題  福岡に赴く  激列な政府批判  久光・西郷への強い期待  大久保の目論見  岩倉勅使の鹿児島派遣  西郷が要望した改革案の骨子  注目点  政府入りを承諾  急進的集権化を決定  木戸とともに参議に就任  断然廃藩に同意  なぜ同意したのか  廃藩の立役者  激しい憎悪を浴びる  久光の激怒  西郷に対する「詰問」状  天皇の臨幸を希望  西郷の苦しみと本音  西郷の憂慮  久光党の動向に神経を尖らせる  久光の県令志願と西郷の批判  ストレスに満ちた年末年始  怒りを鎮められなかった西郷
 4 留守政府時(376)
     岩倉使節団の派遣  不可解な点  割りを食った西郷  西郷が舵取り役を引き受けた理由  留守政府時の改革  リーダーシップが認められるか否か  福沢諭吉の高い評価  国会解説を支持  天皇教育と宮中改革  独自の人材活用論  当初は平穏であった政治状況  雲行きが怪しくなる  大蔵省問題  近衛兵をめぐるトラブル  悪夢の再現  弱音を吐く  反西郷グループ  鹿児島への気の重い帰国  相変わらず独立国  謝罪状の提出  鹿児島に長く留まった理由  激しい胸の痛み  ようやく帰京  深い絶望感  辞意を表明  陸軍大将兼参議

第八章 明治六年の政変(403)
 1 征韓論が登場するに至る背景(403)
     謎の最たるもの  明治五年段階説と新説  対馬藩士の征韓論  王政復古を通告  再度征韓論を提唱した木戸  樺太問題の浮上  朝鮮問題をめぐる政府内の動き  台湾問題の発生  いまだ征韓論とは縁遠かった西郷  副島外務喞の渡清  渡清中の副島外務喞の活動
 2 西郷の朝鮮使節志願(414)
     突然の朝鮮使節志願  使節を志願した動機  なぜ突然なされたか  主要な論点  ロシアの存在  大隈重信の証言  戦死願望
 3 朝鮮使節を志願した理由(背景)(421)
     板垣にまず協力を求めた理由  三条に使節就任の希望を伝える  閣議で初めて自分の考えを主張  切羽詰まった依頼  死に急ぐかのような姿  注目すべき点
 4 西郷の派遣を「内決」(429)
     早急な決定  異常なほどのはしゃぎぶり  数十度の下痢  木戸孝允の異論  準備を全くしなかった西郷
 5 事態の停滞と西郷の異常な精神状態(434)
     黒田清隆の建議  建議に賛同  進展しなくなった事態  尋常ではない精神状態  至急解決を要したのは樺太問題  内なる敵  「諸君」の正体  独走
 6 事態の急展開と政変の発生(441)
     急展開  大久保の参議就任  自殺をほのめかす  三条・西郷両者の認識の相違  三条の姑息な提案  十月十四日の閣議  大久保の反対意見  副島外務卿に対する批判  西郷本来の戦略論  十月十五日の閣議  西郷の即時派遣を決定  大久保の辞意表明  三条実美の錯乱  「一の秘策」  勝敗が決す  西郷らの辞表提出と受理  西郷の不可思議な対応
 7 政変の影響(456)
     新しい政治状況の到来  より独立国の様相を呈するようになった鹿児島

第九章 西南戦争(459)
 1 帰郷と鹿児島での平穏な日々(459)
     大久保との別れの言葉  湯治と狩猟  私学校等の設置  私学校の教育方針  吉野開墾社  体調の回復  農業に全力で取り組む
 2 西郷の動静への注目(467)
     探索書  面会希望者の鹿児島入り
 3 西郷の再出仕を求める動き(470)
     各方面からの復職の要望  木戸・板垣両人の政界復帰  大山県令からの協力要請
 4 西郷と中央政局の動向(474)
     佐賀の乱  台湾への問罪使派遣を決定  方針転換と長州派の猛反発  相矛盾する情報  出兵を強行した西郷従道の将来構想  大久保の渡清と西郷の予想  大久保に対して連敗  江華島事件を批判
 5 戦争前の西郷の動向(482)
     安逸でかつ幸せな気分  島津久光の東京での言動  久光サイドからの接近の動き  熊本神風連の乱秋月の乱萩の乱  士族反乱の発生を面白がる  「天下驚くべきの事」とは何か
 6 戦争の発生と自滅(490)
     西郷の暗殺計画  暗殺計画が実在したのか否か  弾薬庫襲撃事件  挙兵に決定  暗殺計画を事実だと受け止めたらしい西郷  西郷軍の鹿児島出発  甘かった見通し  大義名分を欠いた挙兵  戦略ミス  政府がとった対応策  大久保の非情なまでの冷徹さ  西郷の陸軍大将職と官位を剥奪  熊本城をめぐる攻防  田原坂での激闘  軍略家としての西郷の能力  西郷軍にとって不利となった戦局  西郷の処罰をめぐる噂話  脱出  西郷の微笑  鹿児島への帰還  死に急ぐ様子を見せなかった西郷  西郷の死  西郷軍が敗北した理由  戦争の及ぼした影響  西郷家の人々のその後

終章 死後の神格化、そして「西郷さん」誕生(523)
     死後も抜群の影響力を保持  復権  海舟談話の影響  『南洲翁遺訓』         西郷の神格化  愛され親しまれる西郷へ

主要参考文献(533)
あとがき(547)
西郷隆盛年譜(553)
事項索引
人名索引
        


図版写真一覧

肥後直熊筆「西郷隆盛像」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)………カバー写真
佐藤均筆「西郷隆盛像」(尚古集成館蔵)………口絵1頁
鳥羽伏見の戦い戦災図」(京都市歴史資料館蔵)………口絵2頁
結城素明筆「江戸開城談判」(明治神宮聖徳記念絵画館蔵)………口絵2頁
楊洲周延筆「鹿児島戦争記 熊本城攻城計画」(花岡山群議図)(鹿児島県立図書館蔵)………口絵3頁
西郷札」(鹿児島県歴史資料センター黎明館藏)………口絵3頁
西郷隆盛筆「敬天愛人」(西郷南洲顕彰館蔵)………口絵4頁
高村光雲作「西郷隆盛像」(東京都台東区上野公園)(時事通信フォト)………口絵4頁

関係略系図………xx
関係地図………xxi
勝海舟国立国会図書館蔵)………003
島津久光国立国会図書館蔵)………005
大久保利通国立国会図書館蔵)………009
西郷隆盛生家跡(鹿児島市加治屋町)(時事通信フォト提供)………012
鶴丸城(鹿児島城)跡(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………021
島津斉彬(尚古集成館蔵)………022
天埠院(篤姫)(尚古集成館蔵)………042
島津忠義(尚古集成館蔵)……061
大山綱良(『鹿児島県史 第三巻』より)……061
小松帯刀国立国会図書館蔵)……078
西郷隆盛謫居地(鹿児島県大島郡和泊町)(和泊町教育委員会提供)………091
一橋(徳川)慶喜茨城県立歴史館蔵)………109
松平容保国立国会図書館蔵)……117
蛤御門(京都市上京区烏丸通下長者町下ル)………120
坂本龍馬国立国会図書館蔵)………125
薩摩藩邸跡(京都市上京区烏丸通今出川上ル)………144
木戸孝允桂小五郎)(国立国会図書館蔵)………153
ハリー・パークス………199
伊地知正治国立国会図書館蔵)………283
岩倉具視国立国会図書館蔵)………286
西郷南洲勝海舟会見之地(東京都港区芝)………321
江戸城(東京都千代田区千代田)………323
大隈重信国立国会図書館蔵)………350
西郷従道国立国会図書館蔵)………359
三条実美国立国会図書館蔵)………375
福沢諭吉国立国会図書館蔵)………381
後藤象二郎国立国会図書館蔵)………398
江藤新平国立国会図書館蔵)………398
板垣退助(個人蔵、高知市立自由民権記念館提供)………398
副島種臣国立国会図書館蔵)………412
私学校跡(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………462
大山巌国立国会図書館蔵)………471
熊本城(能本市中央区本丸)(能本市提供)………503
田原坂(能本市北区植木町豊岡)(時事通信フォト提供)………504
西郷隆盛洞窟(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………510
西郷隆盛終焉の地(鹿児島市城山町)(時事通信フォト提供)………513
南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)(鹿児島市提供)………530

   はしがき

 ここ十数年の間に、幕末維新史上にその名を大きく留めた二人の人物についての本を出した。徳川慶喜西郷隆盛である。しかも、一冊にとどまらず数冊におよんだ。自ら手を挙げて、どうしても書きたいと希望したわけでは必ずしもない。しかし、こういう結果となった。縁としか言い様がない。 両人を図らずも取り上げて分かったことがある。国民の間での人気度の激しい差である。断然人気があるのは西郷の方だ。というか、有り体に書けば、日本史上、西郷ほど広範な層の日本人に深く愛された歴史上の人物はいないのではないかとすら思わされるレベルの人気である。
 「広範な層」と「深く」というのがキーワードとなる。ところが反面、これが西郷隆盛という人物を理解するうえで落とし穴となる。西郷には、一見しただけでは広範な層の人々、つまり誰にでも理解できるような気持ちにさせられるところがある。世間に浸透しているイメージでは、英雄でかつ親しまれるキャラクターの持ち主だろう。
 だが、これほど一定の枠組みを設け、その中に押し込めようとしても、収まりきらない人物もいない。必ず、どこかの部分かはみ出るようなところがある。それが西郷という人物の大きな特色である。もっとも、それだからこそ、西郷のことをより深く知りたいという気持ちにさせられるのかもしれない。
 また、西郷が残したとされる数々の言葉には、魅力が詰まっている。これは彼が繊細な感性の持ち主だったとともに、たくさんの苦難を経験し、それを乗り越えてきた人物だったからこそ発せられたものであった。そして、そこに多くの人々が西郷に心を奪われる最も大きな要因がある。
 さらに、いま一つあえて付け加えると、西郷ファンの特徴は大真面目だということである。およそ、西郷の信奉者ほど、この国の行く末や日本人の在り方について憂慮し、なんとかしなければと思っている人たちはいないのではなかろうか。そして、西郷独特の生き方や彼の発したとされる平易で味わい淺い言葉には、そうした生真面目な人たちを強く惹き付け、のめり込ませるものがある。
 ただし、それは変幻自在なものを多分に含んでおり、そのぶん謎が多いということになる。本書は、こうした実は容易に捉えがたい(理解しがたい)西郷の人物像とその行動の意図を、彼の全生涯を振り返ることで少しでも明らかにしようと試みるものである。

   あとがき

 西郷隆盛の評伝を書くようになるとは、ほんの十年余ほど前までは、まったく想像すらしなかった。それが思いもかけない切っ掛けで、六年前に西郷の動向を軸に幕末維新期の中央政局を俯瞰した専門書を出版することになった。そして、つづいて今回の評伝の刊行となった。そのため、この評伝は、前作の成果を大いに取り入れて、それをさらに発展させた内実のものとなった。ただ、今回、改めて、西郷の誕生から、その死に至るまでの間を記述して、前作での西郷に関する自分の理解が不十分であったと思わされるところが少なくなかった。やはり個人の歴史過程を検討する場合、たとえ一時期をのみ主たる対象とするにしても、全生涯を視野に入れてから分析する必要があるかと考える。
 さらに、今回初めて西郷の評伝に挑戦してみて、いつまでも完成しえないことに困惑させられた。反面、不思議なことに、今回の著作では、私のこれまでの著作に比べ、執筆期間もその分量も、ともに格段に増えたにもかかわらず、苛立ちを覚えることがまったく無かった。しかも、今回は、親族の介護に関わる時間等も含め、執筆をやむなく中断せざるをえないことが多かったにもかかわらず、である。
 これは、一つには、洒落でなく、西郷(サイゴー)の評伝をもって自分の執筆活動の最後(サイゴ)としてもよいかと率直に思えたことに因るのかもしれない。また西郷は、私にとっても、研究者生活の最終段階で対象として格闘するには、充分すぎる相手だと思えたことも、要因としては大きかったかもしれない。だが、あまりにも巨大な存在だったので、稿を終え校正作業に入った今でも、完成したという気持ちには到底なれないでいる。現に加筆したい箇所が何カ所もある。
 したがって、私にとっては、本書は未だ完成ならざる著作ということになる。正直に記せば、一生懸命に闘った(私のこれまでの勉学の成果と、情熱のすべてを注ぎ込んで取り組んだ)ものの、十二ラウンド、試合終了を告げるゴングが鳴り、やむなくリングを降りねばならなかったというのが実際のところである。
 さて、それはおき、いまの私にとって西郷はごく身近な存在となった。その理由の一つに、祖父の存在が挙げられる。私の祖父は、明治十年二月に豊後国(現・大分県)に生を享けた。ということは、西郷がこの年の九月に城山で亡くなっているので、七カ月間ほど同じ九州の地で、同じ空気を吸ったことになる。そして私は、この祖父の七十三歳時の孫で、祖父は私の十歳の時に他界したので、祖父の風貌は辛うじてわが記憶の中にある。
 今回の仕事を始めるにあたって、ふと気になって祖父の生誕日を確かめ、右の時日を知った。その時西郷の存在がひどく身近なものに思えた。祖父を介して、ほんのわずかだが西郷と繋がった気がしたからである。すなわち西郷は、私にとって遠い過去の人間ではなくなった。
 それといま一つ、西郷が身近な存在だと思えたのには、本書中でもしばしば取り上げたように、不器用で、そのぶん、失敗もけっして少なくはなかった人生を歩むなど、わが人生とも重なり合うものがあったからであろう。さらにそのうえ西郷には、どうにもこうにも、理解しがたい行動が随所に見られた本書中にも記したように、なかでも最たるものは、西南戦争勃発後、西郷(薩)軍の敗北が明らかになった時点で、なぜ彼が死ななかったのだろうという疑問である。西郷が早い段階で亡くなっていれば、犠牲者の数が大きく減ったことは間違いない。
 もっとも、長井付(現:宮呂崎県束臼杵郡北川町長坪)に籠居していた時点で一度は自分か死ぬことで爲兵の生命を助けようとしたとの記述も勝田孫弥『西郷隆盛伝』には見られる。しかし、これは城山での西郷の行動とはあい容れない。いずれにせよ、あれほど死に対して恬淡《てんたん》としていた(はずの)西郷が、城山まで部下を引きずり込み、結果として西郷軍兵士のみならず、政府軍兵士をも含め、多数の死傷者を出すことになった。その意図(気持ち)が、私にはよくわからなかった。しかし、それはそれとして、西郷の魅力は、案外こうした不可解さに因るのかもしれない。
 なお、いささかしつこくなるが、本書の執筆中、私の心中で折に触れ、自問自答を繰り返した問題があった。それは、「人が生きるとか、死ぬるとかというのは、どういうことなのだろう」との問答であった。ここ十年ほどの間に、入院や手術を経験した私にとって、老・病・死の問題が、避けて通れない緊急に回答を求められる課題となっていたからである。
 そして、この点に関しては、西郷が歩んだ人生を後追いする中で、ごく自然と納得できるものが見つかった。それは、西郷が、死後、ずっと多くの日本人の心の中で生き続けてきたという事実に、改めて気付かされた結果でもあった。もちろん、西郷の肉体的な死は城山で訪れたが、これほど死後も多くの日本人の胸奥に、しかも活き活きと生き続けた歴史上の人物は他にはいないであろう。人物評価に関しては、なかなか断言しえない私でも、この点は断言できる。
 西郷ほど、生前はおろか、死後も、その独特の人間ぶりに魅せられ、ずっと深く彼のことを愛し、思い続ける多くの日本人を生み出した例は他にはない。つまり彼は、近年ぐっと減ったとはいえ、いまでも多くの日本人の心の中で生き続け、死んではいない。
 そして、人が生きるとか死ぬるとかというのは、究極のところ、これに尽きるのではないかと考えさせられた。反対に、他人の心になんら愛を届けることもなく、ただ自分の利益(エゴ)のためだけに生きた人間は、生前からもはや死んでいると評してもよいのではなかろうか。それに比し、西郷はいまでも生きている。私は、こうした結論に最終的に辿り着いた。
 最後に、少々釈明をしておきたいことがある。本書は、一目見てわかるように、すこぶる分量の多い著作となった。これにはいくつか理由がある。まずその第一に挙げねばならないのは、西郷の生涯をできうる限り正確に描くには、それなりの紙幅(枚数)が必要だったことである。本書を精読していただければわかるように、私は、極力、自分なりには、分量を少なくしようと努めたつもりである。だが、西郷の生涯の密度があまりにも濃く、それが不可能だということを執筆の途中で悟った。そこで脇道にそれず、本道をひたすら歩むように心掛けた。そのため、まったく取り上げることができなくなった問題や、もっと深めたいテーマも若干だが残った。しかし、そうした心積りにもかかわらず、その結果がこの分量となった。
 ついで、その第二は、西郷を立ち上がらせ、躍動感を伴う形で彼の生涯を描くには、西郷の個性・持ち味が凝縮して反映されている彼の書簡をできるだけ活用したいと考えたことによる(ちなみに、西郷の同志でもあり、ライバルともなった大久保利通のことをよく理解するためには、その日記を見なければならないとされている)。そのため、殊の外、行数をとられることになった。
 第三は、せっかくの機会を与えられたので、悔いのない西郷隆盛伝にしたいとの私の思いが強かったことによる・私は、出版にあたって、これまで我を張ったことはないが、今回だけは違った。変に短くして、西郷が持つ固有の人間的香りといったものが漂わない味気ない評伝となることは避けたいとの思いが日々強まった。その結果、編集を担当してもらった田引勝二さんには多大な迷惑をかけることになった・売れ行き(販売)を考えれば、もっと短縮しなければならないことは重々承知していたが、より良い評伝にしたいとの私の思いの方が勝ったため、このような分厚い評伝となったのである。それと田引さんには、とくに校正作業の段階で苦労をかけた。とにかく、自分でも想定外の分量となったので、校正に伴う疲れは生半可なものではなかったことは間違いない。このことは、私には実によくわかった。仕事といえばそれまでだが、つくづく有り難いことだと思う。
 以上、最後は真に取り留めのない釈明および感謝の辞となったが、本書が一人でも多くの歴史好きの方にとって、ほんの少しでも参考になりうるものを含む内容となっていれば、筆者としては、これ以上の悦びはない。このことを末尾に記しておきたい。
  二〇一七年五月吉日
  家近良樹

P073~074

   強い復権願望

(略)こうしたことを受けて西郷は、大久保の書簡中にもあったように、来たる新年の春までには帰藩が赦されるのではとの期待を抱いたようである。
 しかし、この後、これが糠喜びであったことを知ると、一転、きわめて暗い内容の書簡を同志に送りつけることになった。万延元年(一八六〇)二月二十八日付で大久保ら鹿児島の同志四名に宛てた書簡(同前)がそれである。以下、いささか長くなるが、いかにも西郷らしさが横溢している文面なので、左に主要な箇所を抜粋して掲げる。

隠然として此の御恥を義挙を以て、取り返され候御謀略願い奉り候。此の豚(=西郷が自分を卑称したもの)入らざる儀に御座候得共、考えの儘《まま》申し上げ候。…陳《のぶ》れば天下の形勢漸々衰弱の体、実に慨歎《がいかん》の至りに御座候。橋本(=橋本左内)迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候。…願わくは此の一ヶ年の間、豚同様にて罷り在り候故、何卒姿を替《か》え走り出でたく、一日三秋にて御呼び返しの期、相待ち居り候処、益《ますます》報い深く罷り成り、尚々|恨《うら》みを生じ候|時宜《じき》にて、野生罷り登り候で又々|何様《いかよう》の肝癪《かんしゃく》差し起こし候も計《はか》り難く、幸い孤島に流罪中の事故、黙止候様との猶予不断の蜚(=保守派)吟味相付け候わんかと、苦察いたし居り候儀に御座候。(略)。然る処、容易ならざる御直書(=藩主忠義直筆の誠忠組への諭告書)迄の一条、夢々斯《ゆめゆめかく》の如き時宜に及び申す間敷と考え居り候処、何とも有難き御事、只々此の死骨さえ落涙仕り候儀に御座候。畢竟《ひっきょう》、諸君の御精忠御感応と飛揚仕り候次第に御座候。御国家の柱石に相成れとの御文言恐れ入り奉り候御事に御座候。…一野生御呼び返しこれなき儀は何方に拒《こば》まれ候や、残情此の事に御座候。早《はや》捨て切り居り候|命《いのち》、何のため生きながれ(=生きながらえ)候や(下略)


P288~290

   対会桑戦を想定
 さらに、この点との関連で目を引くのは、西郷と大久保の両者が、クーデターを決行することで、会桑両藩(とくに会津藩)が軍事的行動に出る可能性を、かなりの確率で想定(予想)していたことである。(略)
 このことは、クーデター決行直前段階の西郷書簡によって窺われる。西郷は、十二月五日付で郷里の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(『全集』二)において、京都の昨今の情勢を伝えた。(略)
 西郷は、こう記したうえで、さらに「此の上は、十分王政復古の御基本は罷り立ち申すべき勢い」だと書き足した。つまり西郷は、いままでの幕府政治は良くないとする徳川慶喜の考え方がはっきりしてきた、そして二条摂政も慶喜が昔の政治体制に戻すという考えを持っていないこと、および旧い体制でやっていこうという会津・桑名の論が幕府(慶喜)の考え方ではないことが初めてわかったのだと報じた。ついで、これを受けて王政復古クーデターの成功はほぼ間違いないとしたうえで西郷は、「会・桑の処は、如何にも安心は出来申す間敷《まじき》か、動くものならば、此の両藩かと相察せられ申し候[#「動くものならば、此の両藩かと相察せられ申し候」に傍点]」(傍点引用者)と断じた。
(略)
 同様の認識は、情報を共有していた以上、もちろん大久保にもあった。そして、大久保の場合は、西郷よりも、より戦いの相手を絞っていた。会津藩である。このことは、大久保が十二月五日付の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(『大久保利通文書』二)中に次のように記していることで判明する。「会桑に至りては今に周旋もいたし、反正の廉《かど》これ無く、……御発動の日にいたり候得ば、幕(府)に於いて究めて干戈《かんか》(=武器)をもって動き候義は万々御座無く、今は会のみの事にあい成り候得ば、少々動き候ても差し知れたる事と愚考仕り候」。
「御発動の日」とは、言うまでもなく王政復古クーデターを決行する日であった。大久保の認識では、クーデターをやっても、幕府は兵を挙げて動くことは「万々御座無く」、絶対になかった。それゆえ、大久保は、クーデター後に挙兵するとしたら会津藩のみだとみて、同藩との戦いには十分勝利できると踏んだ(「差し知れたる事」)。

P303

   西郷にとって計算外の出来事

(略)
 だが、近年の研究では、こうした見方を修正する見解も出されつつある。最大の根拠は、西郷が、当初はともかくとして、徳川慶喜の政権返上後は攪乱工作の見合わせを伊牟田・益満に指示したことである。したがって、十一月下旬から関東各地で始まった浪士集団による攪乱工作は、西郷の命令に従わなかった現地指導者独自の判断によったと考えられるようになった。
 新たに登場してきた見解は正しいと思われる。それは、薩摩藩邸焼き打ちの情報を知らされた直後の慶応四年一月一日付で蓑田伝兵衛に宛てて発せられた西郷書簡(『全集』二)中に、次のようにあるからである。「(事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。
 事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。

P322

   柔らかな対応

夕暮れにようやく終わった、この日の会談に臨んだ西郷の態度は、後年の勝の回想によると、ひどく「おおらか」で寛大なものだったらしい。(略)
大久保は、西郷に劣らない「胆力」の持ち主ではあったが、彼では西郷のような柔らかな対応はなしえなかったであろう。ましてや、「逃げの小五郎」といわれた木戸の「胆力」では西郷のマネはとうていできなかったとみなせる。まさに心中に余裕のある千両役者なればこそとりうる風格の漂う対応となった。

P365~366

   なぜ同意したのか

 つづいて、記述上の流れからいって、当妖、ここで検討しておかねばならないのは、士族の救済問題に人一倍熱心であった西郷が、なぜ士族の特権を全面的に否定することになる廃藩クーデターに同意したのかという問題である。この点を解明するうえでまず参考にしなければならないのは、廃藩直後に郷里の親友である桂久武に宛てて送られた西郷の七月二十日付の書簡(『全集』三)である。そこには廃藩に同意した被の心境が次のように綴られていた。長くなるが、重要なので大事な箇所を以下に抄録することにしたい。

天下の形勢、余程進歩いたし、是迄《これまで》因循の藩々、却《かえ》って奮励いたし、尾張を始め、阿州・因州等の五・六藩建言に及び、大同小異はこれあり候得共、大体郡県の趣意、日々御催促申し上げ候|位《くらい》、殊に中国辺より以東は、大体郡県の体裁に倣《なら》い候模様に成り立ち、既に長州侯(=毛利|元徳《もとのり》)は知事職を辞せられ、庶人と成らせらるべき思食《おぼしめ》しにて、御草稿(=廃藩願いの草稿)迄も出来居り候由に御座候。封土返献天下に魁《かい》(=さきがけ)たる四藩、其の実蹟(績)相挙らず候わでは大いに天下の嘲笑《ちょうしょう》を蒙り候のみならず、……当時は(=現在は)万国に対立し、気運開き立ち候わでは、迚《とて》も勢い防ぎ難き次第に御座候間、断然公議を以て郡県の制度に復され候事に相成り、命令を下され候時機にて、……天下一般|比《かく》の如き世運と相成り、如何申しても(=どう反対しても)十年は防がれ申す間敷、此の運転は人力の及ばざる処と存じ奉り候。

 ここから明らかとなるのは、名古屋・徳島・鳥取といった有力藩から、藩知事の辞職論や廃藩建白が相次いで出される中、「万国」と「対立(対峙)」するためにも、藩を廃し中央集権国家を樹立することは逆らえない時代の流れだと西郷が冷静に受け止めての同意だったことである。

P414~415

   突然の朝鮮使節志願

 しかし、大事なことは、政府関係者の多くが副島が成果を上げて帰国したと受けとめたことである。そして、その一人がほかならぬ西郷であった。ついで副島は、帰国後、中国で得た大いなる自信を背景に、朝鮮問題の解決に自らがあたりたいと願い出たようである。そして、この段階で西郷の朝鮮使節への志願が突如なされるに至る。そうした意思表示がなされたことを、史料面で証明する最初のものが、先に少し触れたように、明治六年七月二十九日付板垣退助宛西郷書簡であった。いささか長くなるが、重要なので関係する箇所を抄録する。

 扨《さと》朝鮮の一条、副島氏も帰着相成り候て御決議相成り候や。若《も》し、いまだ御評議これなく候わば、何日には押して参朝致すべき旨御達し相成り候わば、病を侵し罷り出で候様仕るべく候間、御含み下されたく願い奉り候。弥《いよいよ》御評決相成り候わば、兵隊を先に御遣わし相成り候儀は如何に御座候や。兵隊を御繰り込み相成り候わば、必ず彼方よりは引き揚げ候様申し立て候には相違これなく、其の節は此方より引き取らざる旨答え候わば、此より兵端を開き候わん。……断然使節を先に差し立てられ候方御|宜敷《よろしく》はこれ有る間敷や。左候得ば、決って彼より暴挙の事は差し見得候に付き、討つべきの名も慥かに相立ち候事と存じ奉り候。……公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せなにとぞられ候に付き、何卒《なにとぞ》私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候。副島君の如き立派の使節は出来申すべきかと存じ奉り候間、宜敷《よろしく》希い奉り候。(中略)
 追啓、御評議の節、御呼び立て下され候節は何卒前日に御達し下されたく、瀉《しゃ》薬(=下剤)を相用い候えば、決して他出相調い申さず候間、是又《これまた》御含み置き下さるべく候。

   使節を志願した動機

 本書簡には、西郷が朝鮮使節を志願した動機(背景)が、すでにかなりの程度鮮明に記されている。(略)


P531

   愛され親しまれる西郷へ

(略)だが、本書中で描写してきたように、本来の西郷隆盛は(略)たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても、見事に演じきれるだけの力量があった千両役者だったが、半面律儀で繊細な神経の持ち主であった。そして、そのぶん、彼は苦悶に満ちた人生を歩みつづけ、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。すなわち西郷は、政治的には、これ以上ない形での敗者(朝敵)として生涯を閉じた。それは、彼が愛してやまなかった武士層による道義的な国家建設を目指すという目標が未完に終わったことを意味した。我々は、このことを忘れてはなるまい。


記事作成者コメント:現代日本社会は、西郷隆盛という人間を切り捨てようとしているらしい。今年のNHK大河ドラマの無残な失敗をみると、私にはどうしてもそう思える。そのかわり、兵士の肉片と武器の残骸でつくった「不死の化け物」で”日本”を守ろうとしているらしい。
これはもちろんたとえだが、単純な靖国史観の復活(それが何を意味するのかはさておき)ではなく、もっと不気味な「何者か」に”日本”がすがろうとしているように思えてならない。明治維新150周年に対する批判は、そこから始めるべきだ。そのようなことでしか守れない”日本”とは何なのか、放棄したってまったくかまわないのではないだろうか。もっと八方破れに生きるべきではないだろうか。それこそ民族文化ではないだろうか。妙な言い方になるが、私にはそう思えてならない。
いくら「過去の人」と切り捨てようとも、未来に必ず待ち受ける人々がいる。どんなに不完全であろうと、まるごとのその人と向き合う価値のある存在、それが過去に確かにいたということ、そのことを確認するのが、歴史を学ぶことの意味であるはずなのだ。その歴史観の変容の罪は、必ず未来で裁かれるだろう。

 歴史学をやってまして、いろんな経験が一方的に不幸だと受けとめなくて済むようになったということが、この年まで生きてきて一番ありかたいなと思いますね。

「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」(家近良樹)の紹介 - s3731127306973のブログ

本郷和人氏の精神的荒廃について   副題「おはぎとオレンジジュース」

「いってみよー、どこまでセコイ大口を叩けるか!」という、見る者をなめきったバラエティー番組のふざけた企画であれば、と思った。
歴史学者兼”売れっ子の書き手”、本郷和人氏の以下の記事である。

www.sankei.com

早川タダノリ氏のツイートで知ったのだが、私は読んで悪性の胸やけがした。

第一、本郷氏は産経新聞が超極右歴史観・「日本はなにがなんでも絶対一つ」歴史観を日々発信していることの危険性をどう考えているのだろうか。
2017年11月に亡くなられたが、佐藤進一という歴史家がいた。本郷氏の指導教官である石井進の指導教官であるから、本郷氏は孫弟子にあたる。代表作は1965年に出版された「日本の歴史9 南北朝の動乱」で、50年以上の時をへた現在も南北朝の通史として名高い。ちなみに、本郷氏自身の話によると、配偶者の本郷恵子氏(専門は日本中世)は佐藤氏から激励の手紙をもらったことがあるという(※1)。
佐藤氏は研究思想も政治思想も穏健派だったようだが、1968年の東大紛争の時に「造反教官」となり、約一年後に辞職している。以下の記事に佐藤氏の言動がある。

あとがき4 「造反教官」の1970年 : 佐藤進一『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年) - あとがき愛読党ブログ

佐藤教授は九月八日に辞表を提出し、十月七日の文学部教授会で受理された。辞表提出にさいし同教授は「退官の趣意に関する覚書」を全文学部教授に配った。要旨は「哲学科学生の処分はすべきでなかったと考えるし、従ってこの処分を行なった教授会の構成員である私は、当然その責任を明らかにしなければならない」というもの。九日夜、東京・練馬区関町の自宅で同氏は退陣の弁を語った。

「一ついえるのは、処分についてもっと本筋にかえって考えるべきで、処分の理由となった事実をもう一度はっきりさせるべきですよ。これが何よりの前提で、教授会の議論には欠けていた……」

本郷氏は、蔵書に確実にあるであろう、佐藤氏の著書にどんな姿勢で臨んでいるのだろうか。私は非常に気になる。
本郷氏は、今はほぼまったく更新されない自身のHPで、以下のように書いている。

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/new-up/15.html

 我が国での史料の解析は、明治時代に始まる史料編纂所での歴史資料の編纂事業を中核として進められてきた。一方で欧米からの歴史理論の受容の必要性が等閑視されたわけではなく、例えば東京帝国大学教授の三上参次は後任の助教授、平泉澄に理論研究の重要性を強く説いたと言われる。1930(昭和5)年の平泉(35歳)の外遊はまさにそれを目的としたものであったが、彼の研鑽は皮肉なことに、およそ科学とはかけ離れた皇国史観として結実したのであった。

  敗戦後の皇国史観の徹底的な否定は、正反対の位相を有する唯物史観の隆盛を招来するが、それもやがて新たな理論に批判的に継承されるべきであった。ところが、ベルリンの壁の崩壊やソビエトの瓦解を目の当たりにした今日ですら、唯物史観はしぶとく根を張り、これを凌駕する潮流はなかなか見えてこない。研究者の怠慢はまさに責められるべきであるが、では彼らは如何にして給料分の活動を持続しているかといえば、実証性を口実に史料解釈に安易に依存しているのである。

アマゾンでの著作リストを見るかぎり、本郷氏は”サブカルチャー”の力をおおいに”動員”して理論(合理的)的史観を広めようとしているようだが、「フレキシブルに売れる人間になってくれ」が基本原理の高度消費社会への警戒心がほぼまったくない。その証拠に、たとえば2018年のうちに7冊以上も本を出している。いや、同程度のスピードで本をだした(本郷氏の仮想論敵の一人であるらしい)網野善彦氏の例もあるが、いくら網野氏でも1年のうちに5冊以上も本を出したことはない。それに、CiNiiで調べるかぎり、本郷氏は少なくとも2010年ごろからほとんど研究論文を書いていない。この点も、最晩年に人生の最後に決着をつけようと「古文書返却始末記」などを書き続けた網野氏と対照的である(※2)。指導教官の石井進氏と五味文彦氏のうち、石井氏はもう亡くなられたが、五味氏はまだ『吾妻鑑』現代語訳を執筆するなど健在でおられるようである。「少し腰を落ち着けて本を書いたらどう?」と教え子に一言でも苦言をいうべきではないだろうか(※3)。サービス精神あふれるのもいいが、その結果無残なものを書いてしまうのならば、「サービス精神」は人をむやみに刺すトゲにしかならない。

Amazon.co.jp: 本郷和人[https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%83%B7-%E5%92%8C%E4%BA%BA/e/B001I7S1QY:titl
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私は戦国時代については勉強不足なので言及できない(※4)が、本記事の幕末期についての文章には、どうしても一点批判をしたい。それは以下の点である。

「なぜ、「実は西郷です」と書いて、「実は、西郷(隆盛)と大久保(利通)です」と書かなかったのか?」

西郷隆盛といえば、江戸城無血開城が最大級の政治的功績の一つとして有名である。西郷が大規模戦争を望んでいただけのならば、なぜ江戸城無血開城させることができたのか理解不能になってしまう。”ひどく冷たい”と評価されることの多い大久保の名前を入れていれば、決定的な記述ミスにはならなかったはずである。ちなみに、西郷隆盛の有名なエピソードの一つとして、戊辰戦争において庄内藩に寛大な措置を行ったことも挙げられる。これが現在も入手容易な『南洲翁遺訓』が庄内藩関係者によって編集された理由である。関係書籍によく出てくるエピソードなので、本郷氏が知らないはずがない。
家近良樹氏の著書『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(2017年、ミネルヴァ書房、索引をさしひいて567頁!)のP312~P325に、徳川慶喜の処罰問題~江戸城無血開城についての記述があるが、家近氏は特にP322で

   柔らかな対応

夕暮れにようやく終わった、この日の会談に臨んだ西郷の態度は、後年の勝の回想によると、ひどく「おおらか」で寛大なものだったらしい。(略)
大久保は、西郷に劣らない「胆力」の持ち主ではあったが、彼では西郷のような柔らかな対応はなしえなかったであろう。ましてや、「逃げの小五郎」といわれた木戸の「胆力」では西郷のマネはとうていできなかったとみなせる。まさに心中に余裕のある千両役者なればこそとりうる風格の漂う対応となった。

と指摘している。今の本郷氏に、家近氏のこのレベルの洞察がどれだけ期待できるだろうか。私には非常に困難だと考える。
私は、政治的立場の違いを認めたうえで、この西郷隆盛の伝記の著者・家近良樹氏を敬愛しているが、家近氏は講演「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」の最後のほうにおいて、以下のように語っている。

歴史学をやってまして、いろんな経験が一方的に不幸だと受けとめなくて済むようになったということが、この年まで生きてきて一番ありかたいなと思いますね(※5)。

本郷氏は、いや失礼、”今の”本郷氏は、この言葉の”奥深さ”を、どこまで理解できるだろうか?


ここまで書いてきて、私は怒りとともに、深い深い失望感を感じざるをえない。日本近現代史「おはぎとオレンジジュース」のエピソードを思い出してしまった。何のことか、以下に説明する。
1995年3月20日の早朝に、地下鉄サリン事件を引き起こした実行犯たちは衣類と傘などを処分(場所は多摩川周辺だと証言されている)して、夜もふけた頃第六サティアンに戻り、松本(麻原)に報告をした。そのとき、松本(麻原)は実行犯たちに「マントラを一万回唱えなさい」と言ったのは有名なエピソードなのだが、同時に”報酬”として渡したのが「おはぎとオレンジジュース」なのである。この記述はwikipediaの記述だが、「[27]降幡賢一『オウム法廷5』 p.307」という出典が書かれているので信用できる記述だろう。関連資料すべてを確認したわけではないが、「オウム「教祖」法廷全記録1 恩讐の師弟対決」に杉本繁郎(現・無期懲役囚)の証言として、たしかにこうある。

P284

検察官「部屋を出た後、証人らは何をしましたか」
証人「麻原からもらったおはぎを食べ、ジュースを飲みました。」

私はこの記述を読んで、頭に血がのぼった。「こんな無神経極まる人間が教祖だったとは!」と。
あまり知られていないが、警察は、3月22日以降の薬品などの証拠押収だけでは警察はオウム真理教教団のサリン製造を立証できず、結局、1995年5月6日の林郁夫の全面自供をまたねばならなかった。4月23日に中枢幹部の村井秀夫が刺殺されたことを考えると、オウム教団側の証拠隠しは「うまくいってしまった」のであって、その分、林郁夫の全面自供は非常に重要だった(※6)。
もし仮に、実行犯たちが地下鉄サリン事件から帰ったとき、松本(麻原)が「私も一緒に唱えるから、マントラ一万回となえることにしよう。今日は身を清めるために絶食だ。」などと言ったらならば、林郁夫(※7)たちの性格から判断すると、実行犯たちの自供までにかかった時間は、二カ月どころでは済まなかった可能性は非常に高い。この「おはぎとオレンジジュース」は、オウム教団の精神的荒廃と、その大規模殺人を可能にした方法論の一端が示されていると私には思われてならない。
本郷氏の、はっきりいえば、”精神的荒廃”ぶりは、この「おはぎとオレンジジュース」のエピソードと、「無神経極まる態度、そして”現実認識のちゃぶ台がえし”という精神的勝利法のとてつもない危険性」という点で、根本的に共通している。本郷氏は物理的に人を殺すことは決してないだろう。それは間違いない。だが、この記事では現に、言葉で他人を殴っている。だから私は、そう判断せざるをえない(※8)。



最後に本郷氏に、一言。

「本郷さん、あなたには心底失望したよ!!! ”売れっ子”ほど危険だと思ってたけど、あなたもだとはね!!! はっきりいって、筆を折ることも考えたほうがいい!!! 今後20年間は絶対にあなたの本を買わないからね! あと、恵子さんはじめ、友人・関係者の著者の本は全部、私の「一人につき十年に一冊だけ購入」のリストに入れておくからね!! 一人の読者にも、それぐらいの意地というものがありますからね!!!」


※1 「本郷和人 戦士から統治者としての王へ」https://www.youtube.com/watch?v=DzTNPyQgPgE の20分~25分あたりを参照。
※2 2000年の書評記事、「細川重男著, 『鎌倉政権得宗専制論』, 吉川弘文館, 二〇〇〇・一刊, A5, 五六七頁, 一三〇〇〇円」の、特に「4 まとめ」の部分を参照。18年という年月があるとはいえ、同じ人物が書いたとはとても思えないほど丁寧な記述である。一部引用しよう。

P116
「これをもとに百十七頁にもわたる鎌倉政権上級職員表、それに寄合関係基本資料、鎌倉政権要職就任者関係諸系図はこうして完成をみた。まこちに、得宗研究の根本史料と呼ぶに相応しい仕事である。これをもとに展開される細川氏の所論もまた、やがて乗り越えられていくのかもしれない。しかしこの膨大な史料部分は、湯学問的成果として後世に残っていく。これから得宗研究をこころざす研究者すべての財産になるに違いない。」

細川重男氏といえば、鎌倉政権成立時の資料をいわゆる「ヤンキー言葉」で現代語訳した本を出して、鎌倉~室町時代の武士(および民衆)の実像は「(ある種の)粗暴さ」抜きに考えられないことを、清水克行氏らと同時期に認知させた歴史家である。細川氏は自身のHPで活動を報告されているが、現在の本郷氏の言動をみて、何か思うところがあるのではないだろうか、と私は勝手ながら推測するのだが……。

https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
※3 2014年の書評記事によると、本郷氏は「研究者として決定的に格が違う」という理由から、五味氏に頭が上がらないようなのだが……
自然の背景に人間の営みを見る|好書好日

※4 中世史研究者としては、徳川幕府李氏朝鮮との国交再開交渉をめぐる有名な「対馬藩国書偽造事件(についての両国の政治的決断)」に言及すべきでは、と素人ながら思う。
※5 「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」(家近良樹)の紹介 - s3731127306973のブログ
※6 即死性の薬物による大規模化学犯罪事件の立証が日本裁判史上ほぼ例がないこと、1995年3月中旬ごろまでには警察が仮谷清志さん監禁致死事件についての一定の立証ができていたことをふまえても、林郁夫の全面供述の重要性はほぼ揺らがない。これがなければ少なくともあとまる1年は裁判が長引いただろう。
※7 林郁夫の送迎役が、危険な意味で”無邪気”な、送迎役の中で唯一の死刑囚である新実智光だったことなどを考えると、1995年3月の時点で松本(麻原)は林郁夫の「真面目な」性格を十分判断できる判断力があったと判定できる。ちなみに、林郁夫と同姓だが親類関係のない、同じく教団内で「真面目」と評価されていたらしい林泰男の送迎役が、上で証言を紹介した杉本繁郎である。杉本は最古参幹部の一人で、専属運転手という、秘書のような立場だったことで、松本(麻原)の俗物性や危険性をかなりよく知ることができたのはほぼ確かである。林郁夫などの「あえて危険な、もしくは重大犯罪をさせて、脱走させにくくした」という推測は本質的に当たっているだろう。
補足になってしまうが、実行役と送迎役の人選がどのような思考過程で決定されたかは、論者の死角になっているようだが、非常に重要だと考えるべきである。オウムという教団の”カラー”がくっきりと出ているとみてよいからである。
※8 上で紹介した家近氏は、西郷隆盛について、P531で「だが、本書中で描写してきたように、本来の西郷隆盛は(略)たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても、見事に演じきれるだけの力量があった千両役者だったが、半面律儀で繊細な神経の持ち主であった。そして、そのぶん、彼は苦悶に満ちた人生を歩みつづけ、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。」と書いていることを付記しておくことにする。