『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「S・Y」の供述書(原文P004~P082)

・以下は撫順戦犯収容所に収容されていた戦犯「S・Y」の自筆供述書の原文P004~016の一部である。
・「S・Y」は1890年生まれ、最終学歴は1911年の陸軍士官学校卒業(第23期)もしくは1918年の憲兵練習所卒業、最終経歴は1945年の「満洲国」憲兵訓練処長である。ちなみに、陸軍士官学校時代の同級生に戦犯の「F・S」および「S・H」がいる。

・日本人名は原則「××××」と伏字にした(原文には明記されている)。
・読みやすくするためとはてなブログの筆記法を使うと完全に現物を再現できないという問題のため、原文とはすこしレイアウトを変えている。文章は変えていない。
・読解困難な部分は□とした。あとで埋める予定である。

原文は以下サイトを参照
http://61.135.203.68/rbzf/index.htm
http://japanese.cri.cn/781/2014/07/03/Zt145s223191.htm

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友人T・K(もしくはT・S?) 陸軍大佐 陸軍士官学校卒業、陸軍幼年學校次来同期生として親交あり。政黨政派関係なく任官後職務地を異にしたる為通信に依って友好せり。日本中国侵略作戦中河北省に於て一九三八年戦死せり。
同E・K 先妻の兄、姻戚関係として交はりしが先妻没後も親しく交はれり、八・一五に至る。政黨政派関係なく、彼との交友関係は私事につき相談合手となりあいたり。
同僚F・S 陸軍中将 第五十九師團長として一九四五年八・一五に至る。彼とは陸軍士官學校同期(第二三期生)、幼少のこ頃京都府、伏見町小學校の學友、陸軍幼年學校も同期生として共に學びたり。任官後は職務地を異にしたる為友好関係中断勝ちなりしが、一九四八年九月よりハバロフスクに於て同一収容所に起居を共にし爾来今日に至る。
同 S・H 『北支那派遣軍』兵團長として一九四五年八・一五に至る。彼とは陸軍士官學校同期にして幼年學校以来友好関係あり。任官後は職務地を異にしたる為友好関係中断勝ちなりしが、一九四八年九月よりハバロフスクに於て同一収容所に起居を共にし爾来今日に至る。

経歴[004]

一八九〇年八月三〇日 出生
一八九六年四月一日  京都府伏見町尋常小學校に入校。
一九〇〇年三月三〇日 同校卒業。
一九〇〇年四月一日  京都府伏見町立高等小學校に入校。
一九〇一年四月一日  東京府北豊島郡赤羽、岩淵尋常高等小學校第二年級に轉向。
一九〇二年四月一日  東京市牛込區私立早稲田中學校に入校。
一九〇四年九月一日  東京陸軍中央幼年學校豫科に入校。
一九〇七年七月二〇日 同校卒業。
一九〇七年九月一日  同校本科入校。
一九〇九年五月三〇日 同校卒業、陸軍士官候補生を命せられ歩兵第五二聯隊(青森縣弘前)配属。
一九一一年五月三〇日 同校卒業、陸軍見習士官を命ぜられ、原隊復帰。小隊長勤務に服す。
一九一一年一二月一日 陸軍歩兵少尉、歩兵第二十聯隊附(京都府福知山町)小隊長勤務に服す。
一九一三年九月一日  陸軍戸山學校体操科学性として派遣せらる。
一九一四年二月二八日 同校修業。
一九一四年三月一日  陸軍歩兵中尉[005]

一九一五年三月一日  陸軍歩兵學校(千葉縣千葉市)通信科學として派遣せらる。
一九一五年九月三〇日 同校修業、原隊に於て通信班長を命ぜらる。
一九一六年一二月一日 陸軍憲兵中尉、朝鮮平壌憲兵分隊長。
一九一七年五月一日  朝鮮延安憲兵分隊長。
一九一七年六月一日  東京憲兵隊附。
一九一七年九月一日  憲兵練習所入所。
一九一八年五月を三〇日 同所修業、原隊復帰、東京憲兵隊副官業務を補佐し、外務科長を兼務す。(外事科長の職務は軍機保護警察につき、英・米・蘇・独・佛等外人視察。)
一九二一年七月一日  陸軍憲兵大尉 東京憲兵隊副官。
一九二三年八月一日  愛媛憲兵分隊長。
一九二三年九月二〇日 臨時麹町憲兵分隊長(東京)関東震災地戒厳警備勤務。
一九二四年一月一五日 神戸憲兵分隊長。
一九二六年三月一日  東京上野憲兵分隊
一九二八年憲兵指令部部員、(東京)警務課勤務、軍事警察務に服す。昭和大禮(天皇即位式)大禮使を兼務、主として京都市□□山田市郡住典禮の警衛勤務に服す。[006]

一九二九年四月一日  陸軍憲兵少佐、関東憲兵長春憲兵分隊
一九三一年四月一日  東京渋谷憲兵分隊
一九三三年三月一日  東京麹町憲兵分隊
一九三四年三月一日  朝鮮咸興憲兵隊長
一九三四年八月一日  陸軍憲兵中佐
一九三四年一二月一日 関東憲兵隊司令部部員(警務部勤務、主として治安警察業務に関し課長として一九三六年七月一日以降)一九三七年一〇月三一日まで高級部員として服務す。)
一九三七年一一月一日 新京憲兵隊長
一九三八年三月一日  陸軍憲兵大佐
一九三九年三月一日  関東憲兵隊司令部警務部長
一九四〇年八月一日  南支那派遣憲兵隊長
一九四二年七月一日  憲兵司令部附、待命、豫備役
一九四二年九月一日  召集、支那派遣軍總司令部、軍事顧問部勤務(僞汪政権、軍事顧問として僞警察・僞保安隊の指導業務に當りました。)
一九四四年六月三〇日 憲兵司令部附 召集解除[007]

一九四四年一〇月一日 東京若素製藥株式會社社員
一九四五年二月一日  僞満洲国陸軍少将 憲兵訓練處長
一九四五年八月一五日 日本敗戦により離職。
  賞罰
一九二〇年六月一日  大正三年乃至八年戦役の功勞に依り、勲六等に叙し瑞寶章を□け、大正三年乃至八年戦役従軍記章並一時賜金五百円を受く。
一九二五年六月一日  年功に依り勲五等に叙し瑞寶章を□く。
一九三七年八月一日  僞満満洲事変の功勞に依り勲三等に叙し旭日中綬章及事変従軍記章並に一時賜金一千円を受く。
一九三七年一二月一日 僞満洲国建設の功勞に依り勲三位に叙し柱國章を贈らる。
一九二四年一二月二五日 日本國會開院行幸路に於て廣島縣人難波大助は摂政を暗殺せんとしてその東用自動車窓に近接發砲せる暗殺未遂事件に對し麹町憲兵分隊長として警衛任務を完遂し得ざりし科により軽謹愼八日に処せらる。
一九四二年五月二〇日 南支那派遣憲兵隊長在職中私物品を公用船に託し東京に輸送せる科により南支那派遣軍司令官より想謹愼三〇日に処せらる、七月一日待命、待命豫備役に入る。[008]

  自己罪行
 中国に於て私の犯しました罪行につき、以下年次を追うて担當職務毎に区分して直実に供述致します。
   長春憲兵分隊長當時(自一九二九年四月一日至一九三一年三月三一日)
 私は一九二九年四月一日長春憲兵分隊長として赴任しはじめて日本の中国侵略国策遂行を任務とする関東軍の一員として服務致しました。當時の関東軍は『関東州及南満洲鉄道付属地』に蟠踞する日本の侵略国策を遂行する派遣軍でありました。九・一八までの関東軍は『関東州及南満洲鉄道権益地域』を基盤として東北全体を中国侵略の基地として占有し、ここに先ず日本の確乎たる勢力を築き上げんとする企図を有しました。従って関東軍は其企図を遂行するため右『日本権益地域』内に隷下軍隊を配置し警備上任ぜしむると共に積極的に日本の権益用語を理由として盤踞地域内外に於ける發生事件を捉えて之に乗じて兵力を行使し當時の東北政権(張作霖・張学良)に對し強軟時に應ずる方策を用いて其勢力を『消滅』することを計りました。又日本人と中国人を差別し中国人を對しては挑發を以て之れに當り殊に反日行動を極端に弾壓しました。然し時日の経過と共に人民の排日思潮は高まり、東北政権も對日政策を強化しました。張作霖の存在は関東軍の侵略政策遂行の『障害』となしましたので、関東軍は一九二六年之れを謀殺し、又遂に一九三一年には九・一八事変を起して東北侵略陰謀を実行に移しました。私は事変發生の年の三月末[009]

迄に二年間長春憲兵分隊長として侵略関東軍の一員となり職務を執行しました。
 一、長春憲兵分隊長は當時『南満洲鉄道付属地』の北端たる長春及四平街に憲兵分隊を、公主嶺分遣隊を配置し、又吉林市に新聞記者に変装せる特務憲兵の××憲兵曹長を當時派遣し、憲兵の有する軍事警察権及び一般司法行政警察権を以て之等總兵力の約七十名を指揮して、軍事警察の外『附属地の警備、日本権益の用語、在留人(日人)の保護、中國民心の動向査察』中國軍政機関の情報蒐集工作及中國人民の抗日言論を鎮壓する工作を実施し、関東軍の侵略行動計劃実施実行に伴う警察権を終始執行致しました。
 私は分隊長として部下に對し、右の如き方針を指示しました。
『隊長より與えられた任務に基き服行する。而して長春満洲に於て日本権益の最北端要衝にして警備に万全を期せねばならぬ。特に管内日・中紛争事件發生の場合は機先を制し断乎として之を処理する。若しも、中國側に不當を認むる事由ある場合は、事件後の擴大を敢えて顧慮せず、中國側弱点の眞想を明かにし對者を制壓することを口実とする。中國側に責任のあることを明白にし、遅れをとってはならぬ。』
 右は事件の処理を日本側に有利にし乘ずる事由あらば、之れに乘じて挑發し擴大して侵略發動の理由をを構成する意図を暗示したものであります。
 二、私は在職中終始中國側諸情況を偵察し憲兵隊本部を経て軍司令官に情報そして報告しました。即ち中國對日政策、軍隊政府機関の情況・人民抗日反日情況、一般民心趨向、流言飛[010]

語等に関する事項であります。殊に長春郊外南嶺に中国軍の集団が常駐して参りました。従って部下憲兵密偵をして絶えず其動静を偵察すると共に、其配置・編成・装備・地形等につき情報を蒐集し上司に報告し、一面長春警備隊、公主嶺鉄道守備隊に通報致しました。
 又吉林市は日本の『権益地域』外でありましたが中國側軍政機関の所在地でありましたから憲兵特務××曹長を新聞記者名義を以て入込ましめ、前期同様情報蒐集工作を爲さしめました。
 私は長春憲兵分隊長として在任中、一九三一年九月一八日發生の事変の計劃各図を有することは充分察知して居りました。従って如上の情報は郡の侵略行動の準備工作として実行したものであります。
 三、長春警備隊兵榮建築場に於て一九二九年五月某日夜一〇時頃、警察法令違反者として中國人五名を部憲兵をして『逮捕』せしめました。之れ等を分隊に留置し拷問(横打、水攻等)の上一名を長春司法領事に送致し他の四名を約一週間掃除奴役として酷使致しました。
 四、一九二九年並びに一九三〇年七月及八月の二ケ月に亘り関東軍司令部参謀部は東北侵略準備計劃の目的を以て軍司令部附将校を分派して東北各鉄道(四平街―鄭家屯―斉斉哈爾線―吉林―梅河口―瀋陽線、北鉄各線)、水路(哈爾浜―漢河関、松花江黒龍江沿岸地区)興安嶺等の地形偵察を実行せしめました。此偵察将校は先づ長春分隊に於て偵察工作準備を爲すを例としました。私は分隊長として偵察将校にし、豫め分隊にて蒐集しあある鉄道鉄道時間表[011]
(※ 「畱」の「留」の本字)

松花江汽船運航表、各地在住日本人等を探示し、或は紹介する等便宜を供與しました。
五、長春『附属地』警備演習を一九二九年九月に実行しました。目的は事件勃發の際長春駐屯出勤後は『付属地』の警備は、憲兵、警察、在郷軍人の部隊を以て担当する計劃の下に訓練したのであります。私は憲兵分隊長として長春警察署長、在郷軍人□会分會長と共に此演習を統裁致しました。當時長春には一万の在留軍人が居りました。この軍人の緊急避難処置を研究し、又かヽる非常時に於て中國人民の反抗行動に對して武力を以て鎮壓する方針を採ることを警察署長、□合分會長との間協議申合しました。
六、歩兵第三八聯隊は一九二九年五月長春に移駐し再後部隊戦闘演習の爲常に長春郊外『附属地』外農耕地を荒しました。中國農民の被害届・損害賠償請求が頻々として分隊に到来しました。之れに對し私は『演習場を持たぬ軍隊が農耕地を演習場に充つることは止むを得ぬ』として部下に對し『正式に賠償手續を探れば到底豫算関係上支払許さぬから一々之れを取り上ぐるな』との意を授け被害農民の訴を却下せしめ、人民の権利を無視し抑壓する態度、對策を採りました。
七、長春南方約十キロ米の『満鉄附属地』耕作地に工作中の日本人農民に對し一九二九年九月上旬附近部落より發砲せる事件がありました。私は分隊長として××憲兵曹長に命じ憲兵約一五名を索いて現場に急派し『満鉄附属地』外附近部落を捜索せしめ、中國官憲に無断にて、部落自衛団員約二〇名を分隊に拉致、自警団の武器を掠奪しました。其上苛酷なる取調を行いました。然るに中國側の厳重なる抗議に對し右拉致人数、武器を日本領事を経て還付しました。[012]

 八、長春驛信号所に於て一九二九年一〇月(日時不詳)遊撃中国体の襲撃事件がありました。捜査の目的を以て憲兵下士官以下約十名を現場に急派し、信号所を離るゝ約四、五百米の部落より中国人約十名を遊撃隊に連絡ある嫌疑の下に、中国側官憲の承認を経ず、無断にて分隊に拉致し取調に當り拷問を行いたる上証拠不充分の理由を以て将来を戒め屯長に引渡しました。
 九、長春警備隊隣接地區に射撃場及演習地地域拡張の爲、一九二九年一〇月下旬関東軍経理部は中国人の土地掠奪工作を実施しました。その掠奪坪數は約二平方キロ米でありました。この地域内に民家數軒あり、農作物も尚耕地内に点々残存しある情態でありました。分隊長たる私は部下憲兵をして居住農民を立ち去らしめ、経理部をして演習場射撃場掠奪目的を達成しました。
 一〇、公主嶺、鉄道守備隊司令官中将××の統裁する鉄道守備隊三ケ大隊、長春歩兵第三八聯隊の聯合演習を一九二九年一一月下旬、長春北方中国領土内に於て実施しました。私は長春憲兵分隊長として分遣隊を併せ指揮して演習地の警備を主宰しました。此際演習地に當る耕地に農民の出入を禁止し、人民に通路修築を強要し、又軍隊宿榮に要する民家の強制徴發、宿榮軍隊の人民物資の掠奪の助勢等を実行しました。これより人民に對し財産の損害を與へました。
 一一、公主嶺憲兵分隊に於て一九二九年一二月(日時不詳)中国人約二〇名を警察法令違反として逮捕しました。取調に當り横打、水攻め等の拷問を行いたる上、××××二名を長春司法領事に送致し、残余中国人を『懲戒』と称し暴行(笞刑)を加えたる上屯長に引渡しました。私は所轄分隊長として本事件に對し責任を負ふ[013]
(※ 「击」は「撃」の簡体字

次第であります。
 一二、寛城子に於て一九三〇年二月(日時不詳)日本警備隊演習中、其歩哨に對し發砲事件がありました。
日本警備隊は現場附近巡羅中野中国路警兵二名の所爲なりとし、路警備隊長に無断にて之れを拉致し憲兵隊に引渡しました。私は分隊長としてその取調を部下に命じました。取調に際し發砲いたることを自供せしむる爲横打して一名の面部に受傷せしめました。路警備長の抗議に對し、警備隊は受傷者の治療を施し、治療費をおくり路警兵二名を還付しました。本件につき私は發砲行爲が果して路警兵の□□ありしや否やの問題を究めず、警備隊の言のみを信じて路警兵を取調べ且つ横打により責傷せしめ、及日本警備隊が中国領土内に於て中国軍人を不法拉致し中国に與へたる侮辱行爲を不問に附した点につき、実行責任を負う次第であります。
 一三、日本陸軍大學校學生約六十名が現地演習の目的を以て一九三〇年五月中旬、公主嶺、長春に参りました。學生中に××××大尉が参加して居りました。××大尉の公主嶺長春に於ての行動宿泊につき鉄道沿線、市内、演習場、旅館の警衛に任じました。此際警衛警戒の爲中国人を極度に壓迫しました。即ち『危険分子』(反日思想積極分子、游撃工作を嘗てなしたる者等)を検束し、実手銃、手榴弾發見を目的とする市内検索、市内沿道の交通整理、停車場旅館の警戒等をなしました。これにより市民の行動を制限したのみならず検索によって人民の生命・身体・財産上に大なる損害と壓迫を與へました。[014]

 一四、中国が北鉄接収工作を実施し之れに関聯して一九三〇年六月上旬中国軍が北満に出動しました。此軍の出動に際し私は分隊長として治安上の事故防御を理由として日本領事を通して『長春附属地』通過につき厳重なる制限を加え出動軍の行動を著しく妨害遅延せしめました。平生日本軍は自分勝手に中国側領土に於て演習訓練等を実行しあることについては、之を不問に附し、偶ゝ中国軍隊の『附属地』通過に對して極端なる制限を以て□み全く一方的な処置を採りました。
 一五、前第一四項に関係し人民の中国軍の出勤に関する声援盛んに起り『長春附属地』内に於ても中国人の志氣沸騰し、中・日人間に紛争が惹起しました。之れ等の事故發見の都度當事者の中国人を検束し日人と差別して極めて不公正なる処理を実施しました。
 又吉林大學生の中国軍支援の示威運動が長春に於ても行はれました。この示威運動が長春城内より『附属地』に波及することを虞れて學生運動を制限し同團体の進入を禁止し以て學生を『附属地』内中国人との間を故意に分離しました。
 一六、萬賓山事件が一九三一年三月一四日に發生しました。當時日本領事館の對鮮人政策は表面的保護政策を採り朝鮮人を東北に出稼ぎさせしむることを奨励し、日本勢力の東北侵染を強化することを各図して参りました。万宝山に於ても此政策が採られ鮮人を支援し、土地問題、水利問題等につき中国人を壓迫する對策を行いました。現地中国人は侵略日本勢力の現地侵入を嫌悪して居りました。其の結果中鮮人間に對立感情が醸成せられ遂に三月一四日衝突を惹起するに到りました。現地鮮人は長春領事館に[015]

急報し調停方で制限しました。領事館は長春中国側商外機関に接衝し係官並に領事館警察官を現地に派遣し應急對策を実施しました。関東軍は万宝山事件を大々的に宣傅し、日本の庇護下にある鮮人が中国政府並に人民より『不當の壓迫処遇』を蒙りありと吹張した爲、之れに刺激をうけて現地の紛争は其度を深め、七月に入り一層激化するに至りました。之れは日本侵略者が万宝山事件を拡大紛叫せしめんとする對策を裁しあることを制するものでありまし。万宝山事件の直接『九・一八事変』を起しました。即ち日本帝国主義侵略にこの事件を利用し『九・一八事変』發生の事由として取り揚げました。私はその年三月末日迄長春憲兵分隊長として在任間自己又部下が直接に同事件の鎮壓工作に参加して居りません。然し憲兵分隊長初期の状況調査並に上司に對する報告をなしました。
     関東憲兵隊司令部部員當時(自一九三四年一二月一日至一九三七年一〇月三一日)
 私の関東憲兵隊司令部部員として在任當時の偽満内一般情勢は、関東軍は九・一八事変以来帝国主義日本の中国侵略の基地たる偽満洲国建設の爲、先ずに偽満国内治安の確率を得んとして軍・偽満軍警其他の機関を動員して治安工作を実行中でありました。其當時東北に於ける抗日遊撃隊の勢力は焼く一〇万内外でありました。其中抗日聯軍と反満抗日遊撃隊は約四万弱でありました。前者は中国共産黨指導の下に果敢なる抗争を展開し、又後者は国民黨と連絡し又は単独で抗日抗争を行って居りました。一九三五年遊撃隊の情態の主たるものは、鉄道被襲事件数が前年に比し・四一件の[016]
(※ 「うかんむり+尓」は「宝」の異体字

急報し調停方で制限しました。領事館は長春中国側商外機関に接衝し係官並に領事館警察官を現地に派遣し應急對策を実施しました。関東軍は万宝山事件を大々的に宣傅し、日本の庇護下にある鮮人が中国政府並に人民より『不當の壓迫処遇』を蒙りありと吹張した爲、之れに刺激をうけて現地の紛争は其度を深め、七月に入り一層激化するに至りました。之れは日本侵略者が万宝山事件を拡大紛叫せしめんとする對策を裁しあることを制するものでありまし。万宝山事件の直接『九・一八事変』を起しました。即ち日本帝国主義侵略にこの事件を利用し『九・一八事変』發生の事由として取り揚げました。私はその年三月末日迄長春憲兵分隊長として在任間自己又部下が直接に同事件の鎮壓工作に参加して居りません。然し憲兵分隊長初期の状況調査並に上司に對する報告をなしました。
     関東憲兵隊司令部部員當時(自一九三四年一二月一日至一九三七年一〇月三一日)
 私の関東憲兵隊司令部部員として在任當時の偽満内一般情勢は、関東軍は九・一八事変以来帝国主義日本の中国侵略の基地たる偽満洲国建設の爲、先ずに偽満国内治安の確率を得んとして軍・偽満軍警其他の機関を動員して治安工作を実行中でありました。其當時東北に於ける抗日遊撃隊の勢力は焼く一〇万内外でありました。其中抗日聯軍と反満抗日遊撃隊は約四万弱でありました。前者は中国共産黨指導の下に果敢なる抗争を展開し、又後者は国民黨と連絡し又は単独で抗日抗争を行って居りました。一九三五年遊撃隊の情態の主たるものは、鉄道被襲事件数が前年に比し・四一件の[016]

増加を示し、又角遊撃隊は治安攪乱の目的を以て都邑を襲撃する等関東軍並に偽満軍警に痛烈な打撃を與えました。尚又これ等遊撃抗争に對應する人民の日帝を憎しむ心からの支援行動は全面的に展開せられ、人民と遊撃隊の間は眞に不可分の関係にありました。
 一、職務範囲
 一九三四年一二月一日―一九三五年五月三〇日間は警務部内に課の編成がなく、私は治安警察を斉可し軍事警察務につき高級部員××中佐の副任として業務に當りました。一九三五年六月一日―一九三六年六月三〇日間第三課治安に関する課長として、一九三六年七月一四日―一九三七年一〇月三一日迄高級部員として、又警務課長(第二課)として××中佐の後を継ぎ、軍事・治安に関する警務部業務一切を管掌し、警務部長を補佐しました。一九三四年一二月―一九三七年一〇月末の間偽中央治安維持會幹事を、一九三五年九月一日より一九三六年三月三一日迄偽中央警防連絡委員會員兼幹事を、又一九三六年四月一日より一九三七年一〇月三〇日迄偽中央警務統制委員會委員兼幹事を兼務し、幹事長(警務□長)事故ある場合、幹事長代理の職に當ったことも屡々ありました。
 私は如上の職務範囲において、又如上の偽満治安情勢に對処して、警務部に於て同部の諸對策計劃、部長、幹事長の名儀を以てする命令、指示又自己、課長名儀を以ってする注意事項をもって隊下、偽地方警務統制委員は、指示し要求する等、人民鎮壓に関する諸工作を自ら主謀し、劃策し、各憲兵隊を指揮し偽地方警務統制委員會を運榮したことが屡々あります。又各憲兵隊、偽各方警務統制委員會の情報、報告の審査、査察等の業務に當りました。[017]

 二、立案審議決定したる法令・規定・對策事項
 (一)『思想對策に就て』と題する印刷物を一九三六年一月憲兵隊長會議開催の際、私は治安課長として各体調に配布し且つ講演を行いました。
 其要旨は右の如くであります。
 『1、思想對策の第一要件は憲兵偽警察機関の統合能力を發揮し重要目標たる共産黨・国民黨等の地下組織分子を成るべく速かに検挙し、又各遊撃隊を討伐検挙することである。
 2、将来の對策及要領
 一九三五年度秋季工作の結果東・東南・防衛地區に於て遊撃隊を山岳地帯に壓迫したが好日聯軍は分散して多数隊員は討伐地区より脱して都市農村に潜入した。依って之等潜入者の検挙工作を徹底することを要する。又主要人物の未検挙に終っているものが多い。中には端緒だけを検挙し中絶しているものもある。之れ等検挙討伐工作はまだまだ初歩的であるに過ぎない。よろしく事件の系統的研究判断、検挙に関する各機関の連繋工作を緊密にし、機を失せざること、検挙後の取調、取扱方法手続を改善すること並に処理の合法適正化等に着意することを要する。
 3、思想對策の目標
 主たる目標は潜入南京政府の抗日地下工作員、東北軍閥系分子、中国共産黨工作員等である。其區分は右の如くである。』[018]

 ①反満抗日分子団体――藍衣社、藍志社、除奸団、力行団等。
  日満政・軍情報蒐集工作者、――蘇同盟軍及南京政府軍事分會派遣員。
  □□団体の衣を籍る団体並其工作員
  反満抗日遊撃隊
 ②中国共産黨満洲省委、蘇同盟共産黨国際工作班
  抗日連軍
 ③其他、所謂土匪、遊撃隊との連絡者、使嗾者 資産・弾薬供給者、討伐計劃探知蒐集者。
 4、思想對策の重点
  ①黨地下組織の分布状況、の偵謀、――之れにより状況を明知す。
  ②検挙に依る組織破壊覆滅工作
  本項(4)は別に定むる計劃(即ち特別探査機関を以てする工作)により実行する。』
 (ニ)『共産黨処理要綱』の編纂と実施
 関東憲兵隊司令部は一九三六年七月八日附関東軍司令部より『共産黨処理』に関する命令を受領しました。
 右要綱の内容は『第一、思想對策実施に基き共産黨関係者は縦前の如く憲兵に於て厳重処分に附すること。 第二、日満警務機関は憲兵の區□により厳重処分に附することを得。 第三、厳重処分に附することを適當とせざる共産黨関係者は原則として軍法會審に送致す。 第四、関東憲[019]

隊司令官は要綱に依る処理に関し日満警務機関を統制す。』というのであります。 私は憲兵隊司令部治安課長として該要綱案を憲兵隊司令部第一官庁××大佐、同第三課思想對策主任将校×××大尉を指揮して起案せしめたる上、之れを軍司令部第一課××参謀に回付し、之に基き軍司令部命令として該要綱が下達せられました。依って同要綱趣旨の徹底と其実行を適確なしむる爲××・×××両人に『要綱に関する説明書』を作製せしめ、要綱と共に隊下に示達する手續を執り行いました。
 右要綱の本質と目的は一、共産黨関係者は苛なく『厳重処分』を以て□むこと。二、同関係者中には官吏公職員等の身分を有する者、學生智識分子等を包合し之れ等の所謂インテリ階級者を『軍行動による厳重処分』をもって処理することは、目前の法治尊重現含による国際関連に照して憚るところがある関係より、これを糊塗偽瞞すること爲に唐突に『厳重処分』に附することを避け一應裁判所の審理にかけ合法化を装う手段とすること。三、尚一般法員の審理速度は緩慢にて戦時情勢下の當時の偽満治安上の処理要求に適當せず因って即決主義の軍、軍法會審によって処理するを適當とする見解を固守したこと。……を魂胆とするものでありました。つまり共産黨関係者はその存在を客ず其生命を断つ方針を以てし世上の眼を欺瞞するための申譯に一部分を裁判によって合法化せんとする正に帝国主義的陰険、悪辣なる制作を露骨に現示したものであります。
 私は當時軍憲兵の幹部として極端なる反共思想を抱持し共産黨は日本帝国主義侵略上の癌腫であると考えて居りましたから徹頭徹尾之れを『撲滅』する對策と実行とを企図して参りました。[020]

従ってこの要綱の起案を指揮し發令後は之れを指示してその実行を督励し、よって多数の共産黨関係員を厳重なる処断に導き、多数の人民領導の烈士を尊き犠牲として葬るの大罪を犯しました。こゝに衷心より認罪する次第であります。
 (三)中国人民の抗日統一戦線結成及専門争行動に對し一九三四年次来其済滅工作を実行し来りましたが當時偽満に於ては此運動が盛んで各階層の反満抗日思想が昂揚し偽満の排日興論は中国本土方向の影響下に益ゝ㳽満の道を歩んで居りました。私は偽中央警務統制委員會を通じ、本運動の中核母体たる国民黨、共産黨を始め、宗教団体、社交団体、文化団体等の救国を以てする統一戦線結成団体を目標として偵察の上弾壓する計劃を樹立し、一九三六年一月警務部長通諜を以て各隊に示達し、又隊長会議の際『思想對策に就て』の講演をなした節本項に及んで掲示しました。私は各抗日団体の『検挙工作』を通じて抗日戦線結成妨害及鎮圧を憲兵隊司令部に於て指揮しました。
 (四)日本の對偽満沿外法権撤廃問題に関して一九三六年初頭関東軍司令部に沿外法権撤廃準備委員會が構成され、私は其委員を業務致しました。(偽満に於ける日本の沿外法権撤廃は一九三七年一二月一日□絶しました。)この委員會に一九三七年一一月末迄に三回出席しました。担當業務は右の通りであります。
 1、日本憲兵は偽満に於ける日本の治・廢後偽満国人に對し偽満法令を以て警察権を行使し得る爲『日本憲兵を偽満警察官と見做し偽満警察官と同様の警察権を行使し得』の偽満法令を[021]
(※「㳽」は「瀰」の異字体)

政府より公布せしむる案を作製しました。
 2、治・廢に伴い警察機構運榮上の人事異動を除き、日本警察機関を偽満に移交するに際し其編成人員等成るべき現状のまゝ移管すること。
 日本より偽満機関に移る人員の待遇は既に法権撤廃以前に偽満機関に入りたる警察官の現状待遇と均衡を得せしむるやう処遇する。
 3、『日本権益地域』内に施行せられありたる警察法規は日本人に適合にするやうに制定せられてありました。沿廢後偽満警察法令を右日本法令に基準して調整せしむる。(例へば行政警察法に於て日本人榮業者に對する取締を日本人に適合するよう該法を修正する如し。)
 本治・廢問題は侵略日本の内外に對する欺瞞政策に過ぎません。事実上既に偽満を支配する方策は軍と多数の日本人官吏を以て確立し中国人民を統制する機構を整備しありましたから治廢により日本は何等の影響を受ける情態でなく寧ろ日本憲兵の警察権を拡充し偽満警察内に多数の日本人警察官を抱擁したる等単に警察についてみると治廢によって其権力を強化したのであります。治廢は名のみ基本質は偽満を一層日本帝国主義強壓下にその権力支配の下に置いたのであります。私は其支配権実現のため準備工作に當り配置致しました。即ち武力警察力を合法化して一層人民を迫害する為の準備工作を為しました。
 (五)間島図們に於て偽満鮮警察協助協定を一九三六年一月下旬に締結されました。偽満側は関東憲兵隊司令東条英機が協定員になりました。協定事項の主たるものは、偽満治安工作に對する朝鮮[022]

例殊に国境警察機関が協助すること。また朝鮮国境警備につき偽満洲治安工作情報を絶えず朝鮮側に連絡すること、及コンチュン地方を主とする防諜工作情報の交換等に関する事項でありました。従って再後偽満鮮警務機関が協助能力を發揮して、中・鮮人民の抗日行動に當りましたから、東辺地方遊撃隊の工作、琿春地方に於ける抗日工作に大なる妨害影響を齎しました。私は本協定會議に直接参加せず司令部にありまして協定事項起案業務につき総務部××少佐の準備作業を援助指揮致しました。
 (六)偽警務統制委員會
 1、偽警務統制委員會設立の経緯
 正工作を実施しました。此方第廿治安工作に良結果を齎しました。同時に準備に於ける全警務機関を包含する連絡委員會を構成して工作の連絡を実施しました。然しながら『思想對策』上未だ警務機関の統合能力を発揮するにつき遺憾の点がありました。因って私は治安課長として関東憲兵隊司令部をして警務統制力を把握せしむるを要する上日軍の××参謀に提案しました。軍に於ても其意図を有して居りましたので、一九三六年四月一日関東憲兵隊司令官、同憲兵隊長に對し各〃其職務に應ずる日偽満警務機関に對する統制區□権を附□し一面関東憲兵隊司令官・憲兵隊長・憲兵分隊長を委員長とする、中央・地方・地區偽警務委員會を構成し各偽満警務機関統制指揮して『思想對策』を実行せしむる命令を發しました。これによって偽満警務統制委員會が構成せられました。[023]

 2、偽警務統制委員會規定、本規定は私の指揮の下に豫め憲兵隊司令部に於て××、××両大尉が協力起案しました。規定の骨子は任務(治安粛正工作治標工作中の『思想對策』を重点とす)機構(別項供述)運營(委員會を中央は年約四回必要により臨時開會、地方、月一回、必要により臨時開會、地區毎週一回)偽警務統制委員會に幹事會を附設し実行機関たらしむ、報告規定(特報、並に月報を基礎とす)経費(各機関治安工作より自体経費支辨、特に必要ある場合は偽中央委員會にて支出を考慮す)等でありました。
 3、機構、偽中央警務統制委員會は関東憲兵隊司令官を以て委員長とし、各偽警務機関の長及警務、特高、警備(警防)運長其他必要なる職員(主として治安関係者)を委員として構成せられました。委員中より各機関数名次内の幹事を兼務せしめ、憲兵隊司令部警務部長をして偽中央委員會幹事會幹事長とす。各憲兵隊本部に偽地方委員會を設け憲兵隊所轄地區内の偽警務機関の長及課長を以て委員とし必要人員を以て幹事と兼務せしめ、憲兵分隊・所在地に分隊長を委員長とする前項に準じたる地區委員會を組織せしめました。
 4、任務、偽警務統制委員會の任務は関東軍治安粛正要綱に基き治安工作の治標工作中『思想對策』として共産黨国民黨其他抗日反満政治思想関係団体分子、抗日将軍、反満抗日遊撃隊を目標とする『討伐検擧工作』でありました。即ち抗日闘争を以て『王道楽土建設の』[024]
※「治標工作」という単語は現在はほとんど使われないが警察用語として存在する
※「支辨」はかなり字がつぶれているため、入力者もあまり自信がない

反對行動であり反人民行動なり』との断定のしたに苟くも侵略日本の利益目的に反するものは偽満法令の違反者として『取締・弾壓・処理』を行つたのであります。共産黨を始め凡ゆる抗日黨團分子に對し特務警察力と武力警察力とを以て『撲滅對策』を講じました。
 (七)特別捜査班の編成、私は一九三六年四月一日偽警務統制委員會第一回中央委員會開催の際憲兵隊司令部治安課長として又委員として會議に提案しました。此時の特設理由は各地區防衛管區『討伐』に特設遊撃隊を編成して重要遊撃隊を索めてこれを消滅する方策を実施するにつき之れに即應する爲偽警務機関に於ても特別捜査班を設け遊撃隊長、幹部を消滅する工作をなすにありました。同會議に於て各機関の用意する所となり偽民政部警務司に於て一九三六年七月より治安工作重要縣三方縣に長以下二〇名の特別捜査班を設け工作を實施することヽなりました。其法案夏季工作以降毎索に遊撃隊長・幹部を『検擧討伐』し又『誘致』により抗日遊撃隊の戦力消磨に相當の影響を斉すに至りました。
 (八)共産黨『検擧工作』の準備として偵謀、培養、一斉検擧計劃の適格性を期する目的を以て、私は幹事長代理として一九三六年八月の『中央幹事會』に於て、偽省警務廰特高課に『思想調査班』の設置
方を提案し各幹事の同意を得ましたので、一再令之れを実行するに至りました。
 又偽中央委員會におさまりて共産黨を對照とする工作計劃・指揮上、資料の蒐集・情報の審査・整理、對策の決定の爲、『思想對策調査班』の設置につき大使館警務部[025]
※「廰」は「庁」の異字体
※「一再令」という単語の意味は調べてたが不明、執筆者のミスか?
※「對照」は「対象」のまちがいだろう

××幹事の提案があり、一九三七年五月第五回偽中央幹事會に於て私は私は幹事長代理として之れを決定の上実施することを指示しました。よって偽中央委員會規定第六條の二として『思想對策防共の目的を以て中央幹事會に思想對策調査班を設け研究計劃は當らしむ。其実施内容事項は別に定むる所による』旨追加致し本調査班は偽各機関より警部補級以上の適任者を選抜し一・二名宛を憲兵隊司令部に差出し××幹事(憲兵少佐)を班長として六月頃より業務を開始しました。一九三七年末『在満中国共産黨に就て』と題する文献を編纂し配布致しました。
 次上二つの思想調査班は何れも共産黨對策を更らは周到適切に実行する爲、私自ら策劃参與、実行に當ったものでありまして日本帝国主義の手先として凡百ゆる手段術策を盡して黨の『撲滅』を計った對策の一つであります。帝国主義に抗争する人民の領導機関中国共産黨に對する陰謀並に鎮壓工作実行の上に於ける重大なる罪行として衷心認罪する次第であります。
 (九)外事班の編成を一九三六年五月二五日の偽中央幹事會に於て審議決定いたしました。當時蘇同盟より派遣せられたる對日地下工作員が増加の傾向にありましたので警務部防諜係××大尉の提案たる、『従来防諜目標たる蘇同盟情報工作員の發見検擧工作は思想對策の一部として実行したりしも再後併行実施することとしたし。』に對し私は××案に同意し『憲兵偽警務機関は将来の防諜の爲外事班を[026]
※「宛」の使用法が正しいのか入力者には不明
※「凡百ゆる」の読みは「あらゆる」だろう
※「盡」は「尽」の異字体
※「再後併行実施」の部分はあまり意味が通らないように入力者には思われる

特高課若くは特務課内に設け思想對策とは別に実施する』ことに決定しました。私は常に司令部内にありまして各機関イ本工作を指揮しました。
 (一〇)集團部落の結成工作を一九三五年一月より一九三七年一〇月迄の在任間私は中央委員兼幹事として提案、決定実行指揮を致しました。集團部落の結成目的は各遊撃隊活動地域たるに範囲に於ては人民に對する、憲警の監視が及びにくいのでこの地域から人民を、憲・警の監視範内に収容し遊撃と人民との関係を遮断する爲でありました。因そ本工作を偽警務委員會の對策の一つとして実行しました。この実行については、憲兵・偽縣警察が主動員となり、武力を以て遊撃地域より住民を立ち退かしめ耕地と遠隔する等の顧慮をも言いた豫定地に移住集家せしめたのであります。又一面部落の防備施設として外囲に阻止壕を作り囲壁を築く等の施設をなさしめました。集團部落の結成工作は農民生産を生活の基礎とする農民の経済生活を根本から破坏しました。耕地の遠隔等により農耕不能に隔られ農民破産の状態を出現した例も尠くありません。私は偽満の治安確立の爲と称して多数の人民に大なる損害を與へました。誠に反人民的なる重大罪行を犯しました。
 (一一)鉄道警備對策として
 1、鉄道列車を襲撃轉覆せしむる等の謀略工作を警防する措置として、鉄道線両約百米の通視地帯を設定する對策を偽警務統制委員會に於て決定実行しました。本工作は偽満治安工作開始時より実行して参りましたが一九三五年來鉄道運行妨害事故が頻發したのに鑑み私は偽中央委員として特に之れが徹底実行を提案し幹事會の決定を得て示達したのであります。京図線、佳木斯
[027]
※「坏」は「壊」の異字体である

勃利―牡丹江線等に於て完全に通視地帯工作が出来て居らぬ所がありました。かゝる鉄路は事故が比較的多かったのであります。本工作は一九三七年に入り概ね完成に至りました。右の結果鉄道警備には効果を斎しましたが沿線住民の耕作制限(一九三五年来この地帯には高い作物の栽培を禁止しました)又森林の伐栽焼却等人民財産上に與えたる損害は莫大な額に達しました。
 2、鉄道、水路、陸路の検問強化を実行せしめました。遊撃隊員抗日地下工作員、其他警察法令違反者の發見工作を周密ならしむる目的を以て憲兵指揮の下鉄道警備隊員約三名の検問班を設けて検問工作を徹底的に実行せしめました。この工作の結果多数の人民を検擧しました。
 3、鉄道警護の爲鉄道愛護村を設け人民が自發的に鉄道を護衛する工作を従来より実施中一九三六年春季以降この業務を鉄道警護隊の専管業務(従来は『満鉄、国鉄』自ら工作を行いました)としました。目的は愛護村を鉄・警の補助体として完全に利用するにありました。私は鉄道警護隊幹事の提案を支持し軍に謀り愛護村工作を鉄・警に専管せしめて鉄道警備力の強化を実行しました。
 (一二)抗日遊撃隊『討伐検擧工作』の一つの欠陥は偽省縣境に於ける工作が不徹底に流れる傾向があることでありました。之れによって遊撃隊に配備なき一方の省縣内に離脱せしむる虚隙を作ることになります。私は委員幹事として偽各地方委員會個々の工作を避け隣接地方・地區は必ず事前連絡を遂げて工作を実行するよう幹事會に計り殊に一九三六年五月下旬の幹事會に於て審議の上同意を得之れを次索以降の對策着眼として各地方委に示達致しました。[028]
※「虚隙」は中国語か?

 (一三)民間武装を解除し遊撃隊に對する重機弾薬補給源を消滅する目的を以て自衛団用を除くの外民間重機弾薬の回収(掠奪)を実行しました。本工作は従来より実行し來りしも一層之れを徹底せしむるの要がありました。私は中・警・委を連帯し武力を検索の手段を使用して、又隠匿する者に對して厳重なる処置を以て臨み本工作を徹底実行せしめました。
 (一四)国境地帯は関東軍が偽満政府機関を運營して偽満国防並に對ソ作戦準備の爲對ソ国境線に法律的制限區域を設け該地域人民の居住権を奪い、或は行動を制限した法律であります。本法は一九三六年末頃制定公布したと記憶します。該法の根幹経項は関東軍の起案になり偽満政府をして法律案を作製せしめ更に軍にて審査の上偽満政府より公布したものであります。
 該法中の警察事項については次の如き段階を経て法制化され又施行となりました。
 1、居住証明書制度、防諜工作の実行上国境地帯居住民に身分証明書を持たしめ、検問の際偽造証明書、不正行使等の容疑者發見に資する目的を以て憲兵隊司令部防諜係××大尉起案、偽中央幹事會の審議を経、軍の承認を得、偽満法制局に回付し法律案に挿入せしめました。居住証明書發給機関は偽国境縣政府警務機関と致しました。偽造並に乱發を防止するため、日本所轄憲兵隊係官の捺印用紙を証明書に用いしめ、又本人の写眞を貼布することに定めました。
 2、旅行証明書、国境地帯に旅行する者は居住所轄警察發給(官区吏は所轄官應)の旅行証明書を所持せしめ、官憲の検問に當り身分を証明せしめました。[029]
※「官区吏」は「官吏」の書き損じを消去しなかったものか?

 3、無住地帯の設定、国境線より約深度二〇キロ米を無住地帯として日本軍陣地線は尚深度を拡大しました。本件の効力發生直前、憲警の警察力と以て強制的に法定の線外に居住民を立ち去らしめました。
 4、掲影模寫の禁止
  以上国境地帯法の施行に関係して人民の蒙りし影響は甚大なるものがあり殊に居住・旅行の制限・立入禁止等に基く人民の生活権侵害は最も大なる帝国主義的罪行でありました。私は該法案の審議・公布による對人民強制執行業務及違反取締業務に関し偽中央委員會幹事として終始参加し、掲示を與え、人民に對し大なる迫害を加えました。
 (一五)偽満洲国軍機保護法に関する審議、一九三七年三月偽中央幹事會に於て、憲兵隊司令部××幹事が偽満洲国軍機保護法の制定公布を見ざるため該報發表と軍機に抵触するや否やの標界分哨ならず困惑しありとの發言を爲しました。之れに對し私は該法は現在立案中本年一二月中、公布の豫定なりと回答致しました。其後本法の内容につき偽幹事會で審議致しましたが其内容は如何なりしや記憶に存じませんので茲に供述することを得ません。誠に申譯ありません。
 (一六)一九三七年の偽満恩赦令の發布に對し、一九三七年九月偽中央幹事會に於て『憲兵・警務機関に留置中の共産黨関係者に對しては本令をせず法的処置をとる』べく、私は幹事長代理として決定示達致しました。當時帝国主義侵略者の手先として中国の愛国抗日工作員たる共産黨員を故意に『弾圧』する思想を以てこの処置を執りました。自己の最も憎むべき罪行として衷心陳謝認罪する次第であります。[030]

 (一七)関東軍命令による電信電電話通信検閲規定に基き一九三七年一月より同検閲を実行致しました。本規定は治安防諜上の必要より私及××大尉提案、関東軍が命令して実行せしめたものであります。右提案内容は□□に電□□紙を検閲し、電話を傍受し郵便封筒を開封して内容を検閲し、若し容疑者を發見せば其發信、着信者を□□し要すれば『検擧』する等の事項を骨子と致しました。本規定の実行の実行に右の□□を採しました。
 1、電信検閲は憲兵及警察官を偽郵便電報局に派遣し検閲しました。
 2、電話は偽電□會社内に特設せる電話傍□室に憲兵を派遣し豫め□定せる目標人物の電話を盗聴
  1、或は□□に交話線に傍受□を□し入れて通話内容を盗聴せしめました。
 3、郵便通信は秘密開封により内容を検閲致しました。
 右工作の結果は防諜治安工作として情報蒐集工作に相當の成果を治めました。然れども人民の信□の秘密保障権を蹂躙侵害した陰険悪辣なる帝国主義罪行でありましてこれを審劃実行した自己罪行の重大なることを反省し衷心認罪する次第であります。
 (一八)新聞紙法・出版物取締法に基き偽警務機関に於て機関に於て機関業務を担任致しました。豫め関東軍報道班・憲兵隊司令部間の協議の上有害影□を與える政治思想関係事項・軍機保護に抵触する事項は特に注意し□要事綱は隊司令部に連絡の上処置を与ることを偽刑務機関に申入れ実行せしめました。
映画・ラジオ検閲は偽警務機関(警務司)は於て右に準じて実行致しました。
本検閲により違法行為として發行禁止・停止・記事削除等の命令処理を□けた件数は厖大なる数に上りました。[031]

 (一九)寫眞毛熱 国境地帯法違反行為に憲・警をして取締に着意せしむると共に国内要地、司令部、豫庭會等を撮影することを厳□しました。然しながら繪葉書ポスター等不用意に撮影□□□□する事例が□くありませんでした。私は偽中央幹事會に於て取締につき審議した上、例示写眞を各機関に送り着意を喚起し□令違反者に對しては写眞器材・原版・繪画等を押収する等の對策処分を行はしめました。次に取締を強化したる結果一九三七年以降違反事例は激減するに至りました。
 三、人民鎮壓に関する事項。
 (一)牡丹江土龍山に於て一九三四年春季以来自衛団を中核とする武装蜂起事件が發生しました。同事件は関東軍が開拓村を設□せんとして人民の土地を多量に掠奪したことに起因して發生しました。現地人民は激昂の局に達し自衛団長(或は保長?)謝文東が中心となり自衛団に□其他土地の有志がこれに参加し、現地人民の熱烈なる支援の下に抗日遊撃行動を持續しました。この謝文東遊撃隊の『討伐』は一九三四年度來実施中でありましたが、日本軍は□ヽ反撃をうけ遂に□隊長××大佐は戦死する等の事がありました。一九三五年に入り更に大規模の『討伐』を行うことヽなりました。私は治安課長として『討伐部隊』配属憲兵の兵力區・偽警察隊の兵力法定(約五百名を吉林省より出勤)並びに遊撃出動につき偽警務司當局との□□□、軍との連絡等各種業務に當り、以て憲兵隊司令部に於て本『討伐工作』に策劃□□與しました。 謝文集東司令は一九三六年六目屯に遊撃行動で停止し誘致工作に應じました。
 (二)敦化に於て一九三五年二月私自ら遊撃隊『武装解除』を実行しました。偽吉林省末高兵團(兵団長××[032]

文□)隷下偽敦化守備隊長大佐××××は□□工作により反満抗日遊撃隊百五十名を敦化□□縣境より敦化市内収容所に収容しました。誘致條件は『武装解除』をなさず、一定地域の警備に充當する約束が取□はされてありしため、収容所に於て武装のまヽ約十日間□禁しある状態で□□しました。この事が関東軍司令部には□□となり、□□調査の上解決の任務を帯びて、私は現地は出張収容所の状態を実施しました。其結果『武装解除をなさざるは軍の方針に反し且誘致は無條件たるを本別とする断乎武装解除すべきである』□□××大佐に意見を述べ遂に××大佐を同意せしめましたので収容遊撃隊の『武装解除』を私の意途に依り実行しました。中心幹部約一〇名は部隊に於て利用し他は解散帰農せしめました。私は××大佐をして遊撃隊と締結した條件を□□せしめ、遊撃隊を『武装解除』し其武器弾薬(小銃約一五〇、拳銃約二〇、弾薬多数)を押収掠奪しました。
 (二)関東憲兵隊司令東条英機は一九三六年二月上旬磐石、樺甸両縣の治安不良なる情況に鑑み其一部地區を視察しました。私は之れに□行しました。この□□に右両縣を所管地區とする吉林憲兵隊長×少佐を同伴しました。××偽副縣長の案内にて同縣城北方約四〇キロ米の農村の□□情態を視察しました。其附近一帯は過去縣下□□の農耕地でありましたが、日本軍の侵略により農民の大部は避難し耕地は荒廃状態に當りました。尚樺甸副縣長も磐石に□□□其報告により同縣も□□□□状態にある旨を承知しました。當時其責任を抗日遊撃隊に負はせ、その遊撃行動を速かに『消滅』して農民の□地□□を誘致すべきである、との方策を□て××分□長に對し磐石樺甸地區の抗日聯軍を果敢に『討伐検擧』するよう指示しました。[033]

尚此機に□□□江両縣を管區は□□□憲兵隊長が□□××を□□に□□し□□□□□□□□□縣『討伐□□』につき現地□□を開き、私は□□□□□□各縣境にある抗日聯軍第一路軍×××司令直轄舞台を該地區に包囲し、來るべき□□□に於て軍各機関と□切る連□□の下は『討伐検擧』を実行することを掲示しました。此會議決定案に基き春季工作を実行しましたが抗日聯軍は□□も『討伐』側の企図を察して事前に□江縣方面に移動しました。従って同春季工作に於ては大なる結果を得ませんでした。當時の具体的検擧状況は記憶しませんので、こヽに記述するを得ません。
 (四)熱河省青龍縣反満抗日遊撃隊(×××司令)並錦州省朝陽縣反満抗日遊撃隊に對し一九三五年三月中旬、西南地區防衛西部は錦□□は満軍警をもって大『討伐』を実行しました。私は治安課長として承徳憲兵の配属憲兵□出計劃並命令下達に従事し、又憲兵隊司令部に於て承徳憲兵隊の『討伐検擧』の指導と同隊の報告取締業務に當りました。又警務部より××少佐と現地に派遣した『討伐検擧』工作を指導せしめました。本工作の結果×××遊撃隊長は敗北し又青龍朝陽両縣遊撃隊は消滅しました。
 (五)偽奉天地方委員長が××××は東辺路に於て×××将軍の遊撃隊を本目標とする特別工作隊を編成し工作を実施する計劃を報告しました。之れは一九三六年四月頃でありました。其計劃は奉天憲兵隊□□長××××を長として誘致工作により獲得せる約一〇〇名を基幹とする特設遊撃隊でありました。私は偽中央委員としてこの計劃を支持し□□、□□、□□等につき援助を與えました。其後一九三九年私は警務部長として在任の時××工作隊を□□東辺道討伐部隊に配属し□□軍の『討伐誘致[034]

工作』を実行せしむる等同工作隊の運用援軍を致しました。尚同工作隊の活動に對し関東憲兵隊司令官の黨□を□□する手續を執行しました。
(六)海□□憲兵隊に於て一九三五年(月日不詳)偽興安軍司令官××××を首領とする□□を□□とする抗日行動と劃策中の約十名の行動を探知し偵察を進めた結果略明瞭となりました。因って之れを司令部に報告して参りました。司令部に於て『一斉検挙』を決定し、私は検擧命令案□□防諜係××大尉を現地に派遣措置に當らしむる等警務部長の業務を補佐しました。海□□憲兵隊に於て××司令官及一〇名の偽満軍官を『検挙』し××××司令官の寝台に隠匿しありたる多額の金貨を証□品として押収し人員を偽軍事部軍法會審に送致致しました。××××は死刑、其他一二年及至七年の徒刑刑決を□け処理されました。
(七)一九三六年四月偽牡丹江市の新設・牡丹江―図□鉄道の建設・羅津港の建設に関聯し延吉憲兵隊牡丹江憲兵隊の所管地區内防□治安工作は重要性をを加えました。重要建設工程を阻害する愛国行動を『弾壓』する目的を以て私は業務部員として両隊に出張し建設途上の現地一部情況を実視すると共に工作情況を聴取し且□水兵団(□中時□水□□)参謀長大佐□□□と協議の上牡丹江郊外□河及延吉の日本侵略軍兵營並附属□軍事施設建設の中国人勞働者、牡丹江―図們鉄道工事中国人勞働者、並に各地より図們牡丹江方面に流入する人民並に混入する對日地下工作員及治安攪乱工作員の情況を偵知し有害分子の『検挙工作』を徹底すべき両憲兵隊及両偽地方警務統制委員會を指導しました。 其結果、各憲兵隊は主として軍工事場及鉄道に偽警務□□は牡丹江延吉に流入する人[035]

民に對し偵諜検問を以て容疑者の『検挙』を行い極めて多数人民の□禁投獄しました。尚□河軍□築場に於て對日地下工作員一名を『逮捕』し『厳重処分』に附しました。
(八)関東憲兵隊の兵力は一九三五年に於て約一八〇〇名でありました。日本侵略政策に要する関東郡の兵力増強・偽満洲国建設工作の進展に伴い関東憲兵隊の編成配置をより一層完□増強することが重要であったため現有兵力を増加し約三〇〇〇名とする計劃を一九三五年一〇月頃審議し決定しました。私は部員として審議に参加し主任将校××少佐(総務部第一課長)を指導援助しました。この計劃案は関東軍を経て陸軍省令として一九三六年四月に実施し□□所轄の結果を見ました。私は帝国主義侵略の爲の憲兵力を増加し人民鎮壓を強化する計画・工作に参加しました。
(九)一九三六年四月本渓湖中心安奉線地區共産黨反帝反□運動に對する『一斉検挙』を偽中央警務統制委員會統制の下に関東局警察機関が中止となり実行致しました。本検挙の結果人員数は記憶に□しませんが国境域一帶の黨組織は『消滅』に至りました。 又偽奉天地方委員會に於て、奉天、撫順、鞍山□□に於て共産黨地下組織の『検挙』を行い又実□縣下黨組織の『検擧』により統計約五〇〇名を揚げました。その処理結果について記憶に存せず供述致し得ませんことを誠に申譯ありません。 が以上により南満省委、撫順特委等の中心勢力は破□せられました。 私は中央委員として司令部に於て右工作情況の経過取締の報告、連絡並に経費事項等につき業務に服し該工作を援助致しました。
(一〇)熱河省□平、豊寧両縣長城線にある偽熱河省警察機関に對し河北側よりする遊撃危襲
が頻り[036]

に実行せられ一九三六年春季頃最も熾烈でありました。偽中央委員會は辺境警備の万全を期する爲偽承徳地方委員會を督励し処置を構せしめました。私は偽警務司を通じ其警察力強化に関する打会を実施し偽承徳地方委員會を援助しました。
(一一)各地區防衛管區の日偽満軍の治安工作『討伐』に併行し憲警の治安工作『思想對策』は私の部員在任間各年度・春・夏・秋・冬の四季に亘り『討伐検擧』を行いましたが其結果全期に亘る統計数は記憶に存じませんが人が一九三五年一〇月より一九三六年三月末迄の六ヶ月間に於ける憲・警の総検擧数は六五八件、一一、八九〇名、誘致人員六四六七名となって□ります。又軍の『討伐』数は一二、四二五名でありますと次に総計三〇七八二名、と示しております。當時人民の抗日行動に對し日満軍・警の『討伐検擧工作』により如何に多くの犠牲者を出したかはこの一部分の数字を以ても知ることが出来ます。私は治安課長として右工作の計劃・実行或は指揮又参加して大なる罪行を犯しました責任を負う次第であります。
(一二)奉天憲兵隊長が□中佐は一九三六年四月奉天交通銀行に所謂適正預金約二〇〇万円あるを以て之れを差押へ□□□司令部に報告しました。私は該預金は一部敵性公金であり其大部分は人民預金であり九・一八以後預金者が国民黨統制區域に居住するため預金を其儘となしあることを承知しながら、上司の承認を得□□体調に對し、警務部長名を以て即刻実施すべき旨指示をなしました。□□隊長は部下将校を派遣して右銀行預金約二〇〇万円を差押(掠奪)之軍司令部に送附しました。私は人民預金掠奪工作を援助しました。
(一三)アメリカの銀員右めにより一九三六年四月頃河北方向より山海関を□て多額の現大津が偽満内に密輸入され[037]

偽満内を□□して安東より朝鮮に流出しました。これを警察法令違反として私は銀差押えを□劃し山海関憲兵分隊長に對し警務部長通牒を以て差押実行を掲示しました。同分隊は国境線に於て密輸工作員を『検擧』し相當額の銀を掠奪しました。この掠奪銀は関東軍に送附せしめました。□は何□□しや記憶致しません。
(一四)一九五六年六月より各隊をして共産黨地下組織偵察工作を実行せしめありし所同年春季□□□憲兵隊に於て北満□委□□□以下一〇名余を『検挙』し□置中□□□が離脱しました。このことは他隊の黨偵諜と『検挙』に重なる影□を齎しました。哈爾浜憲兵隊は□□□の離脱により同地□□□に必らず連絡あるべきにより『検挙』の時□につき考慮を要する旨上申しておりました。偽中央幹事會は審議の上私は治安課長として警務部長(幹事長)名を以て六月一五日各関係隊は黨員を検擧すべきことを指示しました。其結果各隊は左□の如く共産黨を『検擧』しました。
哈爾浜憲兵隊 五二名   斉斉哈爾憲兵隊 三八名   牡丹江憲兵隊 二九名   新京憲兵隊 一三名   海□□憲兵隊 一二名   計 一四四名
 備考、この『検挙』数は中間報告で未だ確実数字ではありませんでした。
 六月一八日偽中央幹事會におきましては右『検擧』の結果確定数を知りました。その報告によりますと總『検擧数』一七二名、其中四〇名八七名は智□分子(教職員等)であることが判明しました。よそ私は黨工作員として智□分子たる學校教職員等に□分の□意を要することを偽幹事會を[038]

通じて掲示しました。 尚□に至り(国年一一月)右『検擧』中に哈爾浜国際交通局が含まれありしを知りました。 本『検擧』は東北に於ける共産黨に對する第一回組織的『検擧』と見るべきものであり、黨の抗日工作に甚大なる影響を□來せるのみならず多数の人民□□を黨□□より消耗せしめ抗日戦線に重大な損害を斎しました。私は本『検擧』工作については最初より参加し工作の主謀、劃策、実行指揮に□って□々私の罪行中顕著なる事項として茲に衷心より認罪するものであります。
(一五)湯原縣城の襲撃が抗日聯軍第二聯軍によって一九三六年夏季に実行されました。同軍は襲撃に際し日本人偽副縣長次下官吏を数名斃しました。私は治安課長として湯原憲兵分隊長に對し、其西北方山地帶の第二路軍根拠地を軍と□□し徹底的に『粉砕』すべきことを指示しました。同分隊長は偽湯原地區委員會を指揮して、□□偵察を行い、同年秋季『討伐検擧』を実施して該聯軍を『駆逐』しました。然しながらその具体的情況については記憶しませんので茲に詳述するを得ません。又當時聯軍の奇襲戦法につき之を偽中央委員會に報告して地方縣城警戒につき指示を與えました。同年依蘭縣城の襲撃事件もありしと存じますが記憶明瞭ならず、茲に供述を為し得ません。
(一六)偽満皇帝は一九三六年九月一六日公主嶺を迭視しました。依って事前に公主嶺を中心とする共産黨関係、各遊撃隊の『討伐検挙』工作を実行し特に磐石伊通地區の『検討』を実施し警備上□□なきより同月初旬の偽中央幹事會に於て幹事長代理として指示しました。右に依り偽公主嶺磐石地區委員會は所管内の『討伐検擧』工作を実施し偽皇帝の迭視は事故なく終了しま[039]

ました。右送致の事前並に當日の警備に関する工作につき、私は中央幹事長代理として司令部にあって工作を□劃し人民鎮壓工作を指揮しました。
(一七)虎林饒河富錦憲兵隊の防諜工作指導の爲一九三六年九月上旬私は高級部員として、以上各隊に出張し特に冬季□□時の越境警戒に備え、情報関係の抗日地下工作員の發見工作につき支持を與えました。指示した主なる事項は①国境配備の日満軍警、特に特務機関との□□□□□□、情報の交換、を行い情況を明にして工作に當ること。②密偵 連絡者を以てする視察警戒組の構成 ③検擧取調上の□意事項④□□交通路、鉄道、汽船、□□等の鉄道警護隊員との合同検問検索の強化等でありました。 再度同方面防諜工作は漸時發揚するに至り、佳木斯憲兵隊の當該検擧数は大部分同方面の『検擧』によるものでありました。
(一八)一九三六年九月一日より僞中央警務統制委員會は夏季『思想對策』に引續き同方針の下に秋季『思想對策』を実行しました。この九月中の『總検擧数』は左の如くであります。
   『總検擧数』   三一七四名
   法院送致   九一二名
   厳重処分   二七六名
   利用     一三六名
   釋放     一三二四名[040]

私は部員、委員、幹事として右検擧工作に司令部に在って工作の計劃、工作指揮業務を執行致しました。
(一九)私は僞中央委員、同幹事として一九三六年七月六日同會議席上『北満に於ける去る六月一三日共産黨検擧の結果検擧者一七二名四〇%八七名は教職員なりしこと。黨員獲得の為、中國共産黨が智識分子を重視しあることはこの数字により明かである。各機関はこの情況に着意し黨組織の索出検擧に努力すること。』を提示しました。午後、憲・警はこの着意を以て偵察工作を進めました。関東局警察も亦この着意により安奉線沿線の黨組織を偵諜中安東に於ける抗日團体保團會の組織を探□し一層内査を進めた結果同年一一月(日時不詳)安東保團會會長僞安東省教育廳長以下會員六〇名を『検擧』しました。而してこの人員と僞奉天地方委員會を経て僞奉天高等法院検察廳に治安維持法事案として送致しました。私は中央院□幹事として本『検擧工作』につき憲兵隊司令部に在って本年七月以来参加し捜査の結果整理、對策指示、『検擧実施』につき業務を執行しました。
(二〇)私は僞承徳地方委員會をして従来英・米・其他外国宗教団体が自衛の理由を以て武器弾薬を貯治安工作上藏し僞満治安工作上陰然たる抗争武力の□を是して居りましたから、宗教団体の反對を押し切り武器類を回収しました。結果小銃三二一、弾薬七四・一七三、平□弾一〇〇を押収しました。
(二一)一九三六年冬季工作につき同年一一月二七日私は幹事長代理として僞中央幹事會に於て左の如く指示しました。
(作成者注:「平□弾」は、「平揚弾」か?)[041]

『抗日聯軍は経過累次の討伐検挙工作により東辺道地區、第二□軍は牡丹江省地區、第三聯軍は濱江省、竜江省地區山岳に、又×××将軍の遊撃隊は間島適化両省密林地帯に壓迫せられたるも依然として遊撃戦を續行中である。因って各地方委員會は冬季盗伐検擧工作を徹底すべき、各山岳地域個々の根據地にある遊撃隊相互の連絡を遮断すると共に、遊撃隊の兵器弾薬、糧食衣服の補給工作を隔絶して其戦力を滅殺する方策を併用すべきである。又共産黨の検擧工作は従来の工作に鑑み、要すれば温存□□して更に内定を續行し成るべく黨組織の全貌を把握することに努むるを得策とする。』この提案に對する各機関は同意しました。よって特別事務あるものを除き来年四月以降は『一斉検挙』を実施する事に協議を決定しました。この協議案は同年一二月四日実施の偽中央委員會第五同會議に報告したる上実行に移しました。
 以上の對策方針に基き各偽地方委員會に於て一層偵諜工作を進め一九三七年四月中旬『検擧工作』を開始し奉天、新京、哈爾浜、大連、牡丹江、斉斉哈爾、海拉爾、撫順各地區に於て夫に『検擧』を実施しました。而して本『検擧』人員処理結果等の具体的供述をするだけの記憶がありません。此『検擧』につき私は終始関與し計劃主案、對策の審議偵察工作案につき司令部に在って指揮執行致しました。
(二二)斉斉哈爾日本軍駐屯部隊の軍事機密□□暗号書類紛失事件が一九三七年五月に發生しました。僞斉斉哈爾地方警務統制委員會を督励し其索出に當らせました。①斉斉哈爾市に□□及附近一体部隊の一斉検索 ②暗号搬出推定路の検問 ③逮捕せる暗号搬出容疑者の自供による河水捜索、[042]

④ソ聯と連絡ある人民、遊撃隊と連絡する疑ある人民其他警察法令違反者等の一斉検挙を行う等でありました。この捜索の結果は暗号書は發見するに至らず、唯××という人民が暴力的捜索の對照として□□る壓迫と不法取扱いを□けました。私は司令部に於て本事件の捜索につき斉斉哈爾機関を指導しました。
(二三)所謂七・七事変が一九三七年七月七日に勃發を間もなく関東軍は其一部を関内に出勤せしめました。私は高級部員として、関東軍戦斗司令所(長總参謀長中将東条英機)□属憲兵長として警務部大尉××××を選定派遣しました。又各隊に對し所管内治安確保に任すると共に軍輸送警務に對する警戒援護並に『民心の動向査察』等に遺□なきより示達致しました。
(二四)私は治安課長として一九三六年一月以降邪教宗教團体たる紅鎗會等が安東地區、濱江省海倫地區等に於て抬頭して参りましたのでこれを処理すべき関係僞地方委員會に指示して、僞満法令を適用して之れを禁止せしめました。又□□の動□を□察し若し秘密會合を發見せば治安維持法を適要して之れを□□せしめ中心人物は之れを『検擧』する對策を指示しました。
(二五)一九三五年五月一日、憲兵隊長會議を関東憲兵隊司令部に於て開催の節私は治安課長として警務部長指示事項中に『共産黨検擧對策』を掲げ各隊に指示しました。指示の要旨は
『1、各隊は特別□□班を設けて所管地区内共産黨地下組織を偵諜すること。
 2、索出したる目標を□□□□し或るべく組織□の全貌を把握すること。
 3、機を見て司令部に於て統制の下に一斉検擧を行う』[043]

憲兵隊は以後偵諜工作をつづけ、同年九月上旬警務部長名を以て私は各憲兵隊に對し『一斉検擧』を指示しました。
その結果『検擧数』   八一件   三六七名
    処理内譯『厳重処分』   一七名(各隊取調報告に『厳重処分』の意見を上申しているものを私は課長として審査の上其処刑執行を司令官命令を以て各隊に示達し銃殺せしめました。)
   『法院送致』   四三名
   『利用』     二三名(各隊に於て以後の捜査に利用するものであります)
   『譯放』     二〇四名
   『取調中』    八〇名
私は本事件の捜査計劃、同工作検擧処理につき憲兵隊司令部に在って五月一日より十月□日間五ケ月に亘り参加し全工作の実行指示に當りました。[044]

新京憲兵隊長当時(自一九三七年一一月一日至一九三九年二月末日)
一、私は関東憲兵隊司令部から一九三七年一一月一日新京憲兵隊長として転任しました。其時は中佐であり一九三八年三月一日大佐に進級しました。
 新京憲兵隊は当時の吉林省を管区とし、軍事警察務軍機保護、軍司令部の警戒、其他軍機関の警戒、軍人軍属の非違犯罪の取締等)の外、治安上の警察務を主なる任務と致しました。
 新京憲兵隊の編成配置は概ね左の如くでありました。
  新京憲兵隊本部 副官室 少佐以下一五名
  特高課         少佐以下二五名
  新京北憲兵分隊 分隊長 少佐以下四〇名
  新京南憲兵分隊 分隊長 中尉以下二〇名
  公主嶺憲兵分隊 分隊長 大尉以下二〇名
  吉林憲兵分隊  分隊長 少佐以下三〇名
  敦化憲兵分隊  分隊長 大尉以下二〇名
  敦化   分隊は一九三八年七月一日
延吉憲兵隊より移管   編入されました。
計               一七一名

二、人民鎮圧に対する方針対策
(一)就任当時治安防諜に関する指示事項
「1.新京憲兵隊管区は偽満洲国の心臓部にて、首都新京を中心として関東軍司令部、偽満政府機関、其他日満中央機関が彙集し、政治経済の中心地である。又公主嶺、吉林等地方都市は、軍高等司令部、省公署所在地にて地方政治経済の重要都市である。所管内に発生する事件は敏感に波及し、民心に刺激動揺を与える。よって軍政機関の保衛警戒並に首都を中心とする治安攪乱工作を未然に防圧し、特に思想対策を工作重点として其万全を期す。
2.思想対策は、都市を中心とする治安平定地区に於ける共産党、国民党地下組織の偵諜弾圧工作を行うと共に、治安不良地区たる永吉、磐石、樺甸、額穆、敦化各県に於ける抗日聯軍第一路軍及朝鮮遊撃隊を重要目標として討伐検挙工作を実行する。
治安平定地区に於ける党検挙工作は、憲・警機関とも工作計画に基き各ゝ特別捜査班を編成し、偵諜 索出工作を行い、機を見て隊長命令により一斉検挙を行う。
 抗日聯軍、其他遊撃隊に対しては軍の討伐に即応し、配属憲兵及討伐警察隊は前季工作に引続き討伐検挙工作を実施す。特に吉林省警察庁に於て数個の特別捜査班を設け、軍特設遊撃と共同して有力なる遊撃隊長を目標として工作を実行す。
 抗日聯軍情報蒐集は最も重要なり。憲・警は特務能力を発揚して工作に努め、獲たる情報を機を失せず報告、通報して生きた資料とすること。
3.遊撃隊と人民とを分離する為、一層集団部落の結成を行き亘らせる。よって吉林憲兵分隊は偽警務機関と聯系し、治安不良地区の右情況を調査し、之れに基き憲・警協同して計画的に実行すること。尚討伐地区・隣接地区の人民にして游撃隊に通する者、或は支援、補給工作に携る者を徹底的に検挙すること。
4.都市県城、農村に潜入する游撃隊員を発見検挙すること。
5.游撃地区に通ずる交通路の検問を強化する。
6.鉄道交通路を厳重に検問検索する。
7.防諜工作は憲兵・警察共外事班を強化して、抗日地下工作員の発見偵諜を進め、市に於ては特に旅館、妓楼、劇場、偽装商戸、屑物商等に密偵網を敷設し、列車、駅検問班を強化する等各種対策を計画、実行して、地下工作員の発見偵察に努むること。尚通信検閲、並に軍特設通信班と協同する無電連絡工作の発見工作を併せ行うこと。
(二)一九三七年一一月初旬、新京北・南憲兵分隊、及偽首都警察庁の「厳重処分」に附すべき中国人約三十名を 隊附××憲兵少佐に指揮せしめ、偽首都警察庁押送用バス二台に分乗せしめ、憲兵偽警察官約四〇名を以て護衛し、偽新京東北方約二〇吉米の刑場に押送途中、被護送遊撃隊員一名が手錠を装したるまゝ警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、其場に斃し離脱を計りました。××少佐は後部車輛にありましたが、急遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄部落より自衛団を集めて遂にこの勇敢なる遊撃隊員其他全 員約三〇名を射殺し、引揚の上其顛末を報告しました。私は××少佐が臨機応変の処置を講じたことに対し賞詞を与へました。本件は被押送者が受刑の直前、必死の最後的反抗闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指揮官××少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射撃屠殺致しました。私は隊長として××以下を指揮し、この屠殺を実行せしめたのであります。しかも当時××に対し賞詞を与へて居ります。私の罪行は最も厳重であります。茲《ここ》に衷心認罪致します。
(三)一九三七年一一月初旬、新京憲兵隊本部に於て隊下分隊長の会議を開催致しました。この会議に於て治安工作につき指示した事項は左の如くであります。
「抗日聯軍第一路軍は樺甸、磐石、額穆、敦化各県山岳地帯に於て、又第二方面軍は安図、濛江各県より敦化県方面に亘り游撃行動を展開しあり。よってこの抗日聯軍を主目標として思想対策を徹底せんことを期す。就中軍討伐と聯系して、楊靖宇司令統率の第一路軍直轄部隊の根拠地を覆滅する計画の下に対策を実行する。就ては警察力を集中して之れに当る為、警察隊の増援を計り、各討伐地関係の憲警は討伐工作に即応する管内警備を強化すること。」
以上、対策に基き軍「討伐」と協同して憲・警の「討伐検挙」を実行した結果、楊司令の直轄部隊は約一〇〇名の損傷を出し、春季金川、輝南方面に移動しました。右冬季工作に於て配属憲兵により「逮捕」し、吉林憲兵分隊に後送した聯車隊員約二〇名は、其中約 八名を「厳重処分」に附し、五名位を法院に送致し、他を利用又は釈放しました。
(四)一九三八年一月二六日、関憲警第五八号をもって石井細菌化学部隊と関係ある憲兵隊司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなることを察知しました。
私は右命令に基き処置を取りましたが、当時如何なる手続を経て何名の人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、こゝに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡 したことについては、一九三八年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐××××が、一九四八年ハバロフスク国際裁判法廷に証人として証言したることにより、之れを確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基いて、私は新京憲兵隊長として之れに対する措置を実行したのに相違なく、従って私は石井細菌化学部隊の試験工作に封帛助協力して国際法規に違反し、非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であります。
(五)一九三八年二月中旬春季「討伐検挙工作」につき、吉林分隊に於て憲・警機関の会議を施行し、私は会議に臨んで対策指示を致しました。其要旨は左の如くであります。  「前冬季工作により相当の成果を揚げ、第一路軍楊 司令直轄部隊に其約五分の一の損耗を与えたるも、該部隊を金川方面に逸したり。就ては来る春季工作に入る前に同軍と連絡ある人民の一斉検挙を実行し、一面 吉林、及各農村に潜入せる隊員を索出検挙すこと。
 春季工作に於て吉林地区は依然第一路軍に対する工作を実行す。之れがため通化独立憲兵分隊との連繋定を遂げ、彼此相呼応して工作を実行すること。(之 れがため吉林分隊長及吉林省警備課長を通化に派遣し協議せしめました)
 第一路軍に対する情報蒐集を適確にし、同軍の移動方向を予め把握して、捕捉殲滅を期すること。」
 春季工作は一九三八年三月中旬より開始しました。
之れに先行して聯軍に連絡ある人民を「一斉検挙」し、又都市農村潜入の游撃隊員を「逮捕」し、「討伐検挙工作」により聯軍隊員に又人民に多大の犠牲を出しました。この春季工作を通じて憲・警の総「検挙」数は約七〇〇名に達しました。私は隊長として各工作を画 策し、指揮し、且つ「被検挙者」の処理につき之れを指揮して多数の「厳重処分者、法院送致者」を出しました。
(六)一九三八年四月中旬、偽新京・吉林市に於て共産党員約一〇名を検挙しました。本検挙は一九三七年一一月、憲警連絡打合せの上、各々特搜班にて内偵を進めた結果、中・小学校職員中に党関係者あることを確かめ、司令部の承認の下に害で警聯系「検挙」したものであります。二名を法院に送致し、三名を偽新京市に引渡し解職となりました。吉林に於ける分は、吉林警務庁に於て取調べ処理しました。
(七)一九三八年四月下旬、国民党関係者を検挙しました。
本件は憲・警特別捜査班に於て予ねてより査索中、偽新京特別市政府機関内に同党員の潜在しあること、及之れと連絡関係を有する吉林市政府内同党関係者あることを探知したる結果によるものにて、新京、吉林併せて十数名に上る「検挙」であったと存じますが、中約一五名を法院に送致したと記憶致します。
(八)一九三八年五月中旬、夏季治安工作につき左の指示をなしました。
「1.夏季工作につき吉林憲兵分隊は、依然第一路軍に対する「討伐検挙」を行う。楊司令軍は農作物繁茂期を目指して再び磐石、樺甸地区に侵入せんとするものゝ如く、依って樺甸濛江県境に於ける配備を強化し、通化地区機関と相呼応して聯軍捕捉消滅工作を実行すること。又敦化、寧安地区の游撃隊は南下して第一路軍と連絡を策する企図あるものゝ如く、最近情報は活溌なる行動を報じあり。よって夏季工作に於ては、第一路軍と敦化方面港撃隊の連絡を遮断する為、交通路検問を強化すること。
2.吉林、敦化両憲兵分隊は緊密なる連繋の下、一部警察力をもって敦化討伐工作に呼応し、敦化、額穆、永吉県境工作を果敢に実行すること。
3.春季工作により脱離せる都市農村潜入港撃隊員検挙工作を徹底すること。」
この夏季工作は六月下旬より実施に入りましたが、七月より敦化憲兵分隊が新京憲兵隊に編入せられましたので、第一路軍と第二路軍の合作妨害工作上、著しく効果を上げました。第二路軍の鏡泊湖《きょうはくこ》方面よりする南下企図を挫折せしめました。
(九)一九三八年五月、関東軍司令部航空写真製図班を新京に設置し、工作を開始しました。製図用機器及製図は軍事機密扱となって居り、又製図は国防軍事工作、治安工作、偽満政府土地整理工作に必要欠くべがらざる資料でありましたから、私は隊長として、其防諜並に 警備警戒につき、新京南分隊に命じて之れが任務に当らせました。
(一〇)一九三八年六月上旬、偽満皇帝は、安東、鞍山、撫順、奉天を巡視しました。此時偽新京市内、管内鉄道沿線に亘り偽皇帝に対する危害を防制するため、厳密なる警衛警備を実行しました。特に事前に政治思想上視察中の要注意人の検束、拳銃・手榴弾の検索を行い、又偽皇常の出発帰還当日、交通整理、堵列部隊の掩護、停車場の警戒等により、人民に対し交通遮断、立入禁止等、大なる制限抑圧を加え、且つ警察制令に違反せる人民に対しては過度の処理を以て臨打等、反人民的対策を実行しました。
(一一)一九三八年七月初旬、敦化憲兵分隊を初度巡視しました。敦化分隊は延吉憲兵隊より新京憲兵隊に移管編入替(同年七月一日)となりましたので、該分隊を掌握するためにこの巡視を行いました。敦化県の治安情況は当時、敦化―鏡泊湖道に沿う地区、又敦化額穆県境附近に遊撃隊の行動が活溌に行はれ、東辺道方面第一路軍と協同遊撃行動をとらんとする関係にありましたから、分隊長××大尉に各機関との連絡を一層緊密化し、第一、第二路軍の連絡を遮断するやう指示しました。よって敦化分隊は軍「討伐」に即応し、吉林機関と協力し夏季以降の工作を実行しました。其結果抗日聯軍の連絡工作は、或る程度挫折し得たと認めます。
(一二)一九三八年七月上旬、新京憲兵隊本部特高課外事班は偽新京児玉公園に於て街頭連絡中の蘇同盟関係抗日地下工作員中国人二名を発見「逮捕」し、留置中、共謀逃走を企てたる理由により二名を「厳重処分」しました。私は隊長としてこの「厳重処分」を命じました。
(一三)一九三八年七月下旬、偽新京市内に偽装商戸を構えて日本軍軍情を蒐集する抗日地下工作員二名を外事班に命じて「逮捕」の上、「厳重処分」せしめました。本件は、この二名と連絡を有する奉天工作員一名が憲兵特務の追跡をうけ、自爆即死したる通報を受けましたので、逃走を慮れて右二名を処分したのであります。私は隊長として命令をもってこの二名を部下をして厳重処分として銃殺せしめました。
(一四)一九三八年七月下旬、新京駅、寛城子駅中間の急造バラック式部落を検索整理せしめました。この部落は一九三七年頃より漸次に部落的集団家屋を見るに至ったものであり、部落民は各地より流転してこの地に居住するものが大部分でありました。保甲制度も確立しあらず、衛生施設も甚だ不備であり、且つ警察の捜査にも困難の場所でありました。依って偽首都警察庁と協力して部落の整理、粛正工作を実行しました。其結果、行動容疑、身元不明確、遊民、密買売等の理由の下に、多数の「追放者、逮捕者」を生じました。本部落民は生活上困窮しあることは一目明瞭でありました。当時之れに対する救済善導の措置を少しも考慮することなく、徒らに部落人民を圧迫し追放する等の対策をとり、多数人民をして益々窮境に陥れました。
(一五)一九三八年七月下旬、新京駅貨物倉庫に謀略放火と認なる火災事件が発生しました。私は隊下を指揮して厳 重なる捜査を実行せしめました。火災現場検証により放火材料(マッチを加工したるもの)を指定されたる位置に装置したる中国人労働者一名を「逮捕」し、続いて倉庫に働く労動者多数を新京北憲兵分隊、偽警察機関にて取調を行はしめ、工作中心人物を発見せんとしましたが目的を達成しませんでした。私の捜査命令により多数の人民に対し凡百ゆる拷問を行い迫害を加えました。
(一六)私の新京憲兵隊長在任期間を通じて各憲兵分隊は所管地区内軍倉庫、官舎等より警察法令違反事件被害届を多数受理しました。憲兵は之等事件の中、重大事件を除くの外は、微罪不検挙の方針の下に刑事訴追手続を省略し、被逮捕者に対し将来を戒むる理由によって横打暴行等凡ゆる帝国主義的野蛮手段を加え、然る後釈放する処理法を採りました。私は部下が人民に与へた不法行為に対し、深く其責を負う次第であります。
(一七)一九三八年一〇月上旬、吉林師導大学学生中に思想動揺現象のあることを吉林分隊が偵知しました。私は予ねてより学生の思想動向に著意するよう指示しておりましたから、其機に容疑者の思想調査を分隊に命じました。分隊は思想上要注意学生約一〇名を分隊に於て取調べました。結果は特に注意を要する程度にあらざりし為、説諭の上学校に引渡しました。然しながらこの取調べにより、全学生に対し無形の威嚇を行い尠からず学内に刺激影響を与えましたことにつき責を負う次第であります。
(一八)一九三八年一二月一日、敦化憲兵分隊に対し検閲を行いました。目的は同年七月指示した事項の実績を点検し、爾後の対策を指導するにありました。実績より見て敦化-鏡泊湖方面の遊撃隊は概ね分散しましたので、此方面にも偽警察の配備に委し分隊は東辺道方面額穆、樺甸県境の第一路軍に指向することに決定し、秋季工作に引続き冬季工作を実行せしむるよう指導しました。
(一九)一九三八年一二月三日、吉林憲兵分隊に於て冬季工作に関し会議を開催し、私は冬季結氷期を利用し磐石樺甸県境山岳地帯内に越冬する第一路軍を「追撃消滅」すべく指示しました。吉林省の用い得る警察力を動員して冬季工作に充当することとなりました。軍の「討伐」と併行して「討伐検挙」を行いましたが、第一路軍の軽快神速なる行動により、却ってその奇襲反撃を蒙る状態でありました。楊靖宇将軍は機を見て「討伐圈」を脱し、金川方面に転移しました。
(二〇)一九三八年一二月初旬、新京犬猫病院にペスト患者が発生しました。偽新京防疫委員が編成され、部下からも将校が其委員に加はりましたと記憶します。偽首都警察庁が中心となり、防疫警戒を実行しました。防疫の名のもとにペスト汚染地区の封鎖、家屋焼却、消毒、ペスト源泉地農安の包囲封鎖、農安―新京の交通遮断、ペスト予防接種等を実行しました。この事件に対し防疫委員の人民の利益を無視した過度の諸対策は、甚だしく人民を迫害したものでありまして、私はこの業務に携はりました間、自己の犯した罪行につき責を負う次第であります。
(二一)一九三九年一月下旬、隊下分隊長会議に際し、前年度「思想対策」の実施結果に鑑み、概ね次の要旨の指示を与えました。
「所管地区内思想対策上の重要目標たる抗・聯第一路車楊総司令とその直轄部隊は、其兵力を減じて約三九〇名を残すのみとなった。然しながら其闘志は益と堅結不屈、山岳内を軽妙に移動して逆襲に転じ、屡々討伐車警をなやます情態である。従って冬季工作中大勢に変化なし。よって前方針を以て冬季工作を継続すると共に、偽吉林警察庁に於て更に特別捜査班を増強し、中枢幹部を目標とする工作を実施するを得策とすべく吉林分隊長は本計画実現につき努力すること。尚第一路軍に対して特に大討伐をもってする画期的工作を実施するよう中央に意見を具申する予定、吉林敦化分隊は第一路軍行動情報を随時蒐集提報すること。」
 私は新京憲兵隊長として、第一路軍に対する画期的大討伐を実施するの要あることを憲兵隊司令部に意見上申しました。その結果は、一九三九年度秋季工作より吉林地区防衛司令官野副少将を指揮官とする東辺道特別討伐隊を編成して統一ある工作を実施することゝなりました。(この項については後に供述致します。)
関東憲兵隊司令部警務部長当時[原文P055~P082]
   (自一九三九年三月一日至一九四〇年七月三一日)
 私は一九三九年三月一日、新京憲兵隊長より関東憲兵隊司令部警務部長に転任致しました。当時の偽満国内一般治安情勢を総括致しますと、過去累年の「討伐検挙」等「治安粛正工作」によりまして治安は著しく安定に向いつゝありましたが、抗日人民闘争は依然として各所に継続せられて居りました。其武装游撃抗日行動総兵力は抗日聯軍五二〇〇名、地方游撃隊一三〇〇名、計六五〇〇名が各所に分布活動中であり、其中最も優勢なりしは東辺道の抗日聯軍第一路軍総指揮楊靖宇将軍の一八〇〇名でありまして、其中楊将軍の直轄部隊は約五〇〇名、同隷下部隊一三〇〇名が撫松、濛江、長白、臨江、輯安、磐石、樺甸、金川、輝南方面にあり、その第二方面軍として金日成、全光、方振声各司令が楊将軍と相呼応して活溌なる游撃戦を展開し、又第二路軍の第五師陳翰章部隊は敦化県三台山に根拠地を占め第一路車と聯系し協同作戦中でありました。第三路軍は浜江省東北部海倫東方地区に根拠を築き、耕作地を開墾して持久抗日作戦を企図して居りました。尚熱河省興隆、青龍各県に於て河北側よりする第八路軍関係の抗日攻勢が漸次活溌となり、屡ゝ同方面は治安上の脅威を感ずる情態でありました。加うるに偽満国内民心は反日思想日に益ゝ高まる傾向でありまして、表面の安定情態は何時変革するや、真に計り難き情勢でありました。然しながら一面偽満軍警は、概ね其編成機構能力の充実整備を得る情態になりましたので、国内治安工作は偽満軍警を以て担当せしめ、関東軍は対ソ作戦凖備に軍力を傾注する方策を採りつゝありました。
 一、職務範囲
 警務部長は関東憲兵隊司令官を補佐し(警務部業務たる軍事警察(関乗軍司令部、其隷下部隊の保衛、軍機保護防諜、軍人軍属の非違犯罪の警防、軍事特高警察―思想警察を主とす――等)及治安警察務(思想、政治、治安攪乱工作の警防弾圧警察工作等)を管掌しました。警務部業務に関しては、関東憲兵隊司令官隷下各憲兵隊に対し指示指導権(実質上の指揮)を有しました。因って警務上に於ける憲兵隊運営指揮の職能を持って居りました。
二、警務部長として決定、実行したる方針対策。
(一)治安工作中の治標工作並に軍事防諜(謀略防衛事項含む)に関し、着任当時左の如く方針対策を決定し、隊下に示しました。
「1. 方針
  ①思想対策 本年度関東軍治安粛正要綱に基き決定せられたる関東憲兵隊治安粛正工作準則に示す思想対策の要領を踏襲す。
  ②防諜工作 関乗軍の意図に基き憲兵の実施する防諜工作を警務部に於て統制す。」
「2. 対策
  ①抗日聯軍、反満抗日清撃隊を主要目標として治標工作を実施す。
  ②在東北共産党、国民党組織検挙消滅工作其他抗日思想政治行動を為す団体並人民の検挙工作。
  ③防諜蘇同盟より派遣の抗日地下工作員に対し、憲兵各偽警務機関特高課、外事班及検問班を設け、索出検挙処理を行う
   i 地下工作員発見の場合、視察温存培養により全貌把握に努む。
   ii 検挙は憲兵隊司令部に於て之を統制実施す。
   iii 無電工作員は軍司令部特設通信隊に引渡す。
   iv 逆用工作は軍第二課にて統制指揮す。
   v 鉄道、船舶、バス、駅に於ける合同検問班を憲兵鉄警に於て特設す。
   司尾行引継簿を憲兵隊司令部に於て制定実施せしむ。
   vi 八六部隊に於て電気検索器、無電方向探知機を作製し各隊に交付す。又工作員より押収せる秘密文書、伝書類の化学鑑識を併せ行う。
   vii 防謀勤務者の教育を憲兵教習隊、鴒満各警務機関教練所に於て実施す。
   viii 防謀関係抗日地下工作員発見方法として秘標工作を施設実施す。
(二)本工作は国境地帯法に基く居住証明書様式の用紙に秘密標示を施し、検問の際、該秘標の有無を秘密に検査し、正偽発見に便せしむ。右項目中、尾行引継簿、秘票工作は防諜係××・××両大尉の発案を私が決裁し実行したものであり、八六部隊の特設は××少佐の発案にかかり、審議の上特設することに決定し、軍命令を以て編成実行しました。(八六部隊については別項に詳細供述致します。)
(三)謀略防衛。一九三九年初頭より偽満内各地に謀略容疑の事故が頻発しました。其内容から視察しますと、抗日各游撃隊の実行せるもの――鉄道運行妨害、県城・部落襲撃、日偽満軍建築の放火破壊等、及地下工作員の実行するもの――大連埠頭の日本軍用飛行機、関東軍防寒被服倉庫の放火全焼事件等の中、後者に属するものが同年に入り急激に続発しました。而して事件の発生の都度捜査を実施しましたが、工作指揮者を発見したる事例は稀有の状態でありました。因って対策として、
「1. 謀略現場の検証を厳密に実行し、例えば放火か失火かを明確に判別すること。
 2. 謀略手段を調査分類し、特別捜査班を以て捜査を系統的に実行すること。
3.謀略目標となる施設の平時警戒力を強化すること。」
等の方法を実行せしめました。
(四)(五)[略]
(六)一九三九年四月一日、関東憲兵隊司令部直轄八六部隊が編成されました。八六部隊設立の目的は、関東憲兵隊の軍事防諜、謀略防衛並に思想対策任務遂行上に要する科学的捜査活動を為し得る能力を具備する為でありました。其基幹人員は警務部第四班でありました。××少佐を部隊長とし、憲兵三〇名及嘱託技術者二名を以て編成せしめました。任務は電気検索器、無電方向探知機(旅行用小型鞄に装入し使用目的を秘匿す。)の製作、使用法の演練、写真化学、発射弾の鑑識、犯罪指紋による犯罪捜査(偽満指紋管理局と連絡しました)、及器材使用技術教育等でありました。該部隊の任務を秘匿するため、偽新京郊外寛城子の一建物を部隊庁舎に充て、私服をもって勤務せしめました。又各隊の特種事件捜査に対する応援出動をも命じました。要するに八六部隊の設立は、科学捜査法を以て人民の 抗日行動を一層容易に発見し、「弾圧」する目的に外なりません。私は当時警務部長として該部隊の設立と爾後の活動につき積極的に指揮指導しました。
(七) 一九四〇年五月初旬、憲兵隊長会議席上、警務部長指示事項として思想服務要綱を各隊に示達しました。本要綱につき、私(警務部長)の指示要旨は左の如くであります。
「爾今関東憲兵隊の思想警察を思想服務要綱により実施する。元来関東隊思想対策は、関東軍治安粛正工作要綱の示す範囲に於て実行し乗れり、而して思想警察は憲兵本来の主要任務にして、当面の治安工作過程中の思想対策に限定すべきものにあらず、憲兵は本然の任務として思想警察を遂行すべきである。思想服務要綱は、永年計画と年度計画を樹て、関東軍治安工作と併行して実行するよう規制した。
(1)思想警察目標を甲・乙に分類し、甲は抗日思想闘争党団(共産党、国民党等)、抗日政治党団及之に属する者、反軍思想運動者、治安攪乱工作をなす団体分子を対照とし、乙は満蒙白系露人等の思想動向、民族意識、時局に対する民心趨向、政治経済方面における人民不平不満事項、其他民間に現はるゝ特異事項等である。
(2)処理要領 甲目標に対しては、特高能力を十全に発揚して内偵並に査察と法的処理を適正に実施すべく、乙目標に対しては、動向趨勢を察知し、情報蒐集を為すを本旨とする。即ち情況を明知して変に備うる 趣旨であって、徒らに民心を刺激する如き措置を戒 めねばならぬ。元より甲・乙目標は常に関聯性を有し、殊に乙については其趨向によって甲に含有する場合あるも、原則として之れを視察に止め、要すれば弾圧措置を執るべきである。
(3)従来、思想対策の欠陥は、思想対策有能者のみに委し、その独断処理が大部分で「思想のことは彼に委せる」風象がある。全体的に有機的機能が発揮せられて居らぬ。又密偵の作用に牽制せらるゝ傾向が顕著である。依って指揮に任する者は、思想警察指揮能力の培養と肯綮に当る指揮を行はねばならぬ。
(4)国内外の情勢に基き、平戦両時に亘り、思想警察の万全を期すべく、殊に満洲国建設の途上、民心の安定は尚未だ確固不動と認め難く、就中蘇中両国の対満策動は日を追うて熾烈化する今日、民心は何時変革するや甚だ戒心を加うる要がある。此際、変に具うるの用意あることが最も緊要である。
(5)隊司令部、隊本部は永年計画、年度計画を立案し、思想警察を系統的に進むべく、分隊以下は永年計画は隊本部の計画に基き、年度計画は自ら立案して実行すべきである。計画は常に重点目標を把握し、之れに向って工作を遂行し、而して次に移る如くすべきである。」
の指示を行い、思想服務要綱、説明、及注意事項を印刷配布しました。
(八)戦時有害分子処理要綱を一九四〇年五月初旬、憲兵隊長会議席上、警務部長指示事項として各隊に指示しました。この要綱は、関東憲兵隊司令部第二課××少佐提案、書記××××の起案に成るものであります。私は××より要綱案を提示せられ、之を承認しました 要綱は関東軍対ソ作戦準備に関聯し、戦時警備に備える必要上作定しました。戦時有害分子名簿を制定し平時より視察調査して(例えばソ聯に居住した経歴を有する者、ソ聯と連絡ある者、愛国意識旺盛にして抗日言動を為すもの等、反日分子)、容疑要視察人を名簿に登録しました。名簿は甲・乙・丙の三種に分類し、甲に属する者は戦時に入るや直ちに「逮捕」の上、死刑処分し、乙は事情厳重なる者は直ちに死刑(憲兵隊司令部査覈《さかく》の上)、丙に属する者は厳重に視察し、逃亡を予防し厳重なるものは司令部の指示を待って処理することとなって居りました。
三、人民鎮圧に関する具体事項。
(一)一九三九年四月一日より五月末日に至る間、各地区防衛管区に於て春季治安粛正工作を実行しました。当時の情勢は抗日聯軍第一路軍は樺甸県大蒲柴河部落を襲撃しました。吉東省委責任兼第二路軍総指揮周保中将軍は依蘭県老爺嶺山中より苗地盤寧安県鏡泊湖附近を 窺いつゝあり。北満党抗・聯第三路軍は浜江省海京地区に根拠し、游撃区内に耕地を開墾し、農耕による持久抗日戦を画策中でありました。尚国内に於ける共産党(軍)の主義的抗日救国思想宣伝工作は益と積極化し、特に偽満軍警に対する背反指導工作が著しく露骨化して参りました。
 右に関し、私は警務部長として治安工作に関し左の 如く実行するよう指示しました。
「1. 東辺道に於ける抗・聯第一路軍・浜江省海東地区の抗・聯第三路軍を主目標とし、各地区防衛管区討伐隊と協力して討伐検挙工作を実行する。
2.右第一、第三路軍は漸次接近し、中満地区に強固なる游撃区を開拓し、抗日全民戦線強化による陣容整備を目的とする戦略的企図を有する情報あり。本件に対し、更に情報蒐集に努むると共に、各路軍を現地に於て圧迫し、其企図を未然に防圧する処置を構すること。
3.ラジオ放送による国外よりの抗日救国、反日逆宣伝は中国、蘇聯より、中、露語をもって盛んに行はれつゝあり。其回数は哈府二一一件、モスコー二八件、重慶二四六件、貴陽一八三件等にして日本帝国主義侵略行動を暴露しつゝあり。一面国内、党、軍の偽満軍警に対する亡兵工作は、愈ゝ積極的に宣伝せられつゝあり。
右に対しラジオ放送妨害工作を為すと共に、聴取者の動静を監察し適当の逆宣伝を弘報機関、協和会、偽警 務機関に於て実施すること。又亡兵工作に対しては、満軍・警自体警防工作を実行すると共に、其帰趨を監察すること。」
結果四・五月に於て憲兵の検挙」せる思想対策関係者は、一九八名を示して居ります。又第一路軍、第三路軍の接近策は「討伐作戦」によって北上南下を防止しましたので、其実現を見るに至って居りません。北満に於けるラジオ放送による民心影響は、等閑に附し難き状態であることを認められました。
春季討伐に於て憲兵のみの「検挙」数が一九八名に達したることから推察し、「全討伐検挙数」は巨大なる数に達したと認めます。私は警務部長として春季思想対策を指揮し、膨大なる損害を人民に与えたることを認める次第であります。
(二)一九三九年初頭頃より海拉爾《ハイラル》日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良の為め、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、防諜の見致より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集し来たりしものであります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或は伝染病が多発したのであります。海粒爾憲兵隊は防諜警備上現 場に出動服務し、労働者に酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令指示を致しました。其関係に於てこの事件に対する重大なる責任を負う次第であります。
(三)一九三九年四月上旬、私は奉天、大連両憲兵隊を司令官の検閲に代って査閲しました。其目的は、当時偽満建設上最も重要なる工業経済の中心基地を管轄する両隊の服務状態を査閲し、対策方針を指示するにありました。其指示したる事項は左の如くであります。  「奉天、鞍山、撫順、本渓湖、及大連を包含する地区は、偽満建設の工業経済の中心基地である。此地区の治安確保工作は直ちに偽満建設の基本となる。現下奉天大連憲兵隊管内、南満党、抗日遊撃隊の活動は微々たる状況にあるが、中国共産党、同国民党の本地区に対する思想宣伝工作は熾烈であり、ラジオ、文書を以て実行せられ、各階層就中工場労働者に対する工作を重点としている。本地区はまさに抗日統一戦線結成の温床地域たる特色を示している。表面の平静は決して油断を許さぬ。これに幻惑さるゝは最も危険である、一層思想警察を徹底して推移情勢を把握し、変に応ずる適切の措置を講じ得るよう努力すること。大連に於ては一層州庁警察部との連繋を密にし、殊に近来頻発する謀略放火事件の検挙を達成するよう、綜合成果を発揚せんことを望む。」
 右指示の結果、両憲兵隊の思想警察活動は概ね適正に実行され、発生事件を萌芽の中に処理することを得ました。但し大連市の謀略放火事件は、遂に年内に於て解決し得ず、一九四〇年二月関東軍防寒被服倉庫の放火焼失により莫大な損害を蒙るに至りました。然しこの事件発生の直後、謀略放火団を総検挙することが出来ました。
(四)一九三九年五月上旬、佳水斯《チャムス》憲兵隊の査閲を実行致しました。目的は当時、饒河-冨錦-佳水斯、及仏山―冨錦―佳水斯両交通路(水路含ム)は抗日地下工作員のソ聯との連絡路であり、又抗日聯軍のソ聯えの移動連絡路と目せられ、防諜思想対策上の重要交通路に当りましたから、佳木斯憲兵隊の右対策実施状況を査閲し、又指導を行はんとするにありました。私は査閲官として隊長中佐橘武夫に対し、左の如く指示をなしました。
「1.佳水斯憲兵隊所管地区内に於て、治安並防諜上最も重要なる目標は、抗日聯軍第二路軍である。同軍総指揮周保中、軍長柴世栄は軍内幹部の誘降続出により部内の動揺防止、鎮圧に努むると共に、逃走誘降の傾向顕著なるものに対しては、極刑処分を以て臨むものゝ如く、此機に乗し彼等に対する思想諜略は効果大なるべく研究を望む。
2. 佳木斯―ソ境要地路線は、抗日工作員の連絡路なり。従来当隊防諜成果を見るに其努力の跡を認むるも、尚は住居証明書秘票工作の励行、抗日地下工作員の連絡拠点たる饒河、仏山、冨錦、佳木斯、勃利等主要地の検問検索の強化、要地に於ける計画的一斉検挙の実施、各捜査機関の連繋協同工作の励行、既得材料の査覈利用等につき研究実行をのぞむ。」
旨指示する所がありました。
 其後佳木斯憲兵隊の防諜工作の結果は逐次向上し、私の在任間に於て聯関係抗日地下工作員の発見、利用、工作は約十件十名を算しました。又抗日聯軍内部攪乱工作を行いたる結果と認かべきは、同年七月第二路軍内部第九軍長李華堂が部下と共に抗日行動を停止 し、誘降に応じました事例等があります。
(五)一九三九年五月下旬、偽満国境ノモンハン事件が発生致しました。以下本件に関する事項につき供述致します。
1.一九三九年五月下旬、関東軍司令部に於て情報会議が開かれ、私は出席致しました。会議に於ては、緒戦戦況が報告され、引続き各部隊担任の情報の交換報告が行はれました。私は関東憲兵隊関係情報の要旨を左の如く報告致しました。
「(1)満洲里ソ聯領事館並に「モ」鉄従業員間に相当激越なる反日言動を漏すものあり。
(2)各地治安情勢は、本事件勃発の影響下に変化あるべきを予想せらるゝも、現在特異事項なし警戒を倍?[くさかんむり+徒]《ばいし》するの要あり」
 本会議に於て軍の指示したる事項は「国内治安の確保につき、各地区防衛管区は警備の万全を期すること。及関東憲兵隊は地方警務機関を統制して警戒を厳にすると共に、民心の動向に留意し、其動揺を防止すること。」を示しました。
 右に対し、私は警務部長として各隊に対し、ノモンハン事件に伴う治安警備を厳にし、並に異変徴候を察知し、機を失せず鎮圧所置を構すると共に急報すべきことを指示しました。
2.ノモンハン事件勃発と共に関乗軍は国内非常警備を令し、各部隊より総計約三ヶ大隊の歩兵を差出さしめ、補助憲兵を命じて之れを関東憲兵隊に配属しました。私は警務部長として此人員を各憲兵隊に概ね一乃至二ケ中隊づゝ配属せしめました。各隊は補助憲兵を基幹とする警備部隊を編成し、各所管地区内要警備個所、停車場、埠頭、軍需工場、軍倉庫、飛行場、燃料工場、同蓄積場、火薬庫、炭礦、食糧 集積場等の警備衛兵、並に要地巡察等の勤務を為さしめました。
 補助憲兵は「憲兵」の標式腕章を附せしめましたから、一見憲兵たること明瞭でありまして、武装憲兵を平時に比し尚更露骨に現はしました。之等の武装力を以て平素より一層強度の警戒取締りを実行せしめましたから、人民の蒙りし迫害は甚大でありました。この補助憲兵は一九三九年八月上旬停戦と共に撤退致しました。
3.一九三九年五月末日、憲兵隊長会議に於てノモンハン事件、及治安工作につき警務部長として左の如く指示しました。
ノモンハン事件の勃発により国内治安は其影響下に変化あるべきを予想せらる、依って左記事項につき各隊は治安警備を強化すること。
①国内抗日党団のノモンハン事件を契機とする策動の情況・調査・報告。
②国内抗日党団の治安に及す策動の弾圧。
③民心の動向調査、流言蜚語の取締、流言者の厳罰。
④国外よりする宣伝、国内よりする宣伝、各種工作の情況・調査報告、ラジオ電波封鎖工作の徹底(電波攪乱工作は車にて行う。)
⑤要警備物件(旅館、劇院、映画館、駅、船着場、群衆場所等)の警備査察。」
 治安対策につき左の如く指示しました。
「①ノモンハン事件を契機として、各遊撃隊が反撃に出づることを予想せらる。春季工作の結果によるに南満遊撃隊は抗日聯軍第一路軍の果敢なる遊撃戦は、同地方治安を悪化し、日満軍に対し益と反撃作戦に出でつゝあり。吉林省東南部及通化省に於ける抗聯第一路軍兵力は二〇〇〇名にして軍警部隊、集団部落を奇襲し、武装解除人質拉致を行いつゝあり。又長白県下にありし金日成遊撃隊は又もや鮮内に進撃を行いつゝあり。
 浜江省海東地区抗聯軍第三路軍は屡ゝ北黒線駅を襲撃破壊する等、交通路線を目標とせる点注意を要する。
②本夏季討伐検挙工作に於て、○憲・警による遊撃隊情報の蒐集を一層適確機敏化し、之を討伐部隊に通報して対策処置を適正ならしか。○集団部落の内部粛正――遊撃隊に連絡する分子の掃討工作を徹底すること。○吉林省討伐重点地区に対する兵力増援を行う。(吉林省に於て一五〇〇名を樺甸県に増援実施予定。)
③鉄道其他主要交通路線の警備、並各地方県城の警戒を一層徹底すること。)
右対策決定の上夏季工作を引続き実行することとなりました。
五月中に於て、熱河省南部国境附近共産党八路軍第二一総隊所属地方遊撃隊長徐峯以下一二名、及東辺道輯安県下共産党支援団体、及中国共産党東京支部責任一を憲兵に於て「検挙」取調の上、利用し若くは法院に送致しました。
4.一九三九年六月上旬、ノモンハン事件に関する警備工作視察、並指導の為、憲兵隊司令官少将××××に随行し、海粒爾憲兵隊に出張しました。私は警
部員として直接に海粒爾憲兵隊長中佐××××に対し左記の指示を与えました。
「(1)戦場直後地区たる海粒爾憲兵隊所管地区内の治安を確保すること。
 (2)蘇聯関係抗日地下工作員、及通蘇容疑者の検挙を実施し、ソ聯外蒙より西部国境を越境進入する抗日地下工作員の発見検挙を行うこと。
 (3)民心の動揺情況を調査し、報告すること。」
 指示に基き同憲兵隊は抗日地下工作員中国人白系ロ人蒙古人約三〇名を「検挙」しました。又以前より温存視察中の無電工作員五名(海拉爾二、斉々哈爾一、哈爾浜二)を夫々関係隊をして「検挙」せしめました。又軍命令に基き憲兵隊司令官命令を以て全憲兵隊に対し温存視察中の抗日地下工作員中国人約一○○名を「検挙」せしめました。
右「検挙人員」は各憲兵隊に於て取調べの上、軍命令に基き「戦時利敵罪」として大部分を「厳重処分」に附せしめました。
5.一九三九年六月下旬、海拉爾憲兵隊報告に依れば西部国境一帯に流言蜚語が盛んに流布し、日本軍の 敗戦状況を伝え、民心動揺甚しく、機に乗じ国内外よりする宣伝は激増し、ラジオ放送六六五件に達しました。又諸物価の高騰に依り賃金値上に起因する労働争議問題の激増を示しました。本件に関し私は警務部長として左の如く決定指示しました。
「①西部国境に於ける日本軍敗戦に関する流言蜚語については「モ」鉄従業員の言動に注意すると共に、積極的に「モ」鉄従業員に接近し流言行為を拡大する者を検挙すること。
②高度ラジオ受信機を禁ずること。電波妨害工作を行う。
③民心安定を目的とする逆宣伝を行うこと。
労働争議に対しては警察機関に於て調停工作を行うと共に、悪質争議は検挙弾圧を以て処理すること。」
 本決定事項は警務部長通諜を以て各隊に示達しました。其結果は大なる争議事件の発生を見ることなく推移しました。しかし民心を刺激せしむる対手国の宣伝工作により益と影響を蒙りました。
(六)一九三九年七月中旬、大連埠頭に於て日本軍戦闘機焼
却事件が発生しました。之れは謀略放火と認めましたので、警務部長通諜を以て大連憲兵に対し捜査指示を致しました。其工作援助のため八六部隊より一部を大連憲兵隊に配属致しました。
 大連に於ては鋭意捜査に当りましたが、未だ検挙に至りません。其後も被害は頻々として続出し、遂に一九四〇年二月、大連郊外関東軍防寒被服倉庫一棟を放火によりて焼却せられました。私は関東軍司令部第二課長××大佐と共に急遽大連に出張し、直接大連憲兵 隊及大連警務機関の捜査工作を指揮しました。遂に大連警察署に於て謀略関係地下工作員約二〇名(天津方面より派建せらる)を検挙しました。
 本捜査のため事件発生の都度埠頭其他の現場から中国人労働者を憲兵隊偽警察に拉致し、厳密なる取調を行い、自供を強いる等人民に対し甚しき脅迫迫害を加えました。
(七)一九三九年八月八日、関憲作命第二二四号を以て河北より石井細菌化学部隊に引渡すべき中国人九〇名を哈爾浜、及孫呉に押送すべき関東憲兵隊司令官命令を下達しました。この命令は関東軍作戦命令によるものでありまして、私は警務部長として第三課に命じて命令案を起案せしめ、司令官命令として下達したものであります。命令内容の要旨は左の如くであります。
憲兵教習隊××中佐は、附属人員憲兵約三〇名、及看護下士官一を指揮し、河北より押送し来る中国人九〇名を山海関に於て河北押送者より受領し、之れを孫呉に押送し中、哈爾浜にて三〇名を残余を孫呉に於て夫々石井部隊受領員に引渡すべし私は、当時被押送中国人は石井細菌化学部隊に於て実験用に供すべき事を承知の上、押送引渡業務を事実上指揮して、石井細菌部隊の化学実験の下に中国人民を虐殺する工作に協力致しました。
 又、一九四〇年四、五月の候、日本陸軍技術本部並習志野|瓦斯《ガス》学校合同試験班が毒瓦斯砲弾効力試験を北黒線地区に於て実施しました。此際関東軍作戦命令に基き、私は警務部長として右試験場特別警戒の為、憲兵将校以下約六〇名を差出し、又憲兵隊留置中の厳重処分に該当する中国人約三〇名を該試験団に引渡すべき工作を司令官命令を以て示達しました。
 右二件は何れも生体を化学試験に供したのでありまして、私は警務部長として其目的を承知しつ大人員引渡を為さしめたのであります。誠に非人道非人間性の惨虐を絶する行為であり、且つ又細菌毒瓦斯兵器は国際法に於て厳に禁止する事項でありまして、右行為は国際法違反行為たることを確認致します。今当時之等悪虐非道の日本軍事ファシストの毒牙に斃れた人々の身の上に想到致しますると、自責の念に堪へぬ次第であります。私は言語に尽ぬ滔天の罪行を犯しました。唯々謹んで認罪致します。
(八)一九三九年八月中旬、秋季治安工作に関し警務部長として左の如く指示しました。
「東南地区第一路軍は兵力約二〇〇〇名、軍警、集団部落を猛襲しつつあり、浜江省海東地区抗聯第三路 軍は南下して新游撃区を開拓せんと企図しあり。虎林地区第二路軍はノモンハン事件に伴い行動積極化せり。就中第一路軍は敦化県大蒲財河を前後六回に亘り襲撃する等、行動最も活溌なり。第一路軍に対する決定的討伐工作実施の要あり。これが為、秋季工作に於て関係各偽警察力を集中して軍と協力大攻勢を以て討伐検挙を実行せんとす。」
 其結果、偽各関係省警務機関警察隊を束辺道地区及浜江省海東地区に増援し、軍と協力して秋季工作を実施することゝなりました。
(九)一九三九年八月下旬、関東軍治安会議を開催されました。私は本会議に出席致しました。会議には各地区防衛管区治安対策、夏季工作の成果、今後の対策につき報告がありました。私は関東憲兵隊業務上、大要次の如き報告を致しました。
「(1)ノモンハン事件の経過に伴い全満各地殊に西部国境地帯は民心動揺の徴ありしも、時日の経過と共に鎮静に向いつゝあり。但し物価騰貴による労働争議の頻発、国内外よりする抗日思想宣伝工作は依然熾烈にて警戒を要す。
(2)夏季工作の結果、東南地区、北満海東地区は游撃行動尚執拗なり。東南地区第一路車は夏季討伐の終季に於て軍勢却って増強を見る。来る秋季工作に成し得る限り警察力を増強し軍に協力する大討伐を実施る計画なり。此際軍に於ても、決定的大討伐を行はれんことを期待す。」
 右第(2)項につき軍に於ても予め対策計画を持って居りました。軍は次の如く決定指示しました。
「九月中旬以降、各地区防衛管区に於ける秋季工作を継続する。而して東辺道地区第一路軍に対し東南地 区防衛司令官野副少将指揮の下、関係日満軍警を統合する東辺道特別討伐隊を編成し、同軍を徹底的に殲滅する迄討伐を続行する。」
(一〇)右に依り私は警務部長として以下の指示を致しました。
「日本憲兵は野副討伐隊に有力なる配属憲兵を附属す。別に通化独立憲兵分隊の××特別工作隊を野副部隊に配属す。
 偽満各関係者は有力なる県警察を野副部隊に配属すると共に、関係県警察は討伐検挙に即応する管内警戒並に検挙工作を実行す。
 討伐地区より離脱する遊撃隊員、遊撃隊と連絡ある人民、都市に潜入しある潜撃隊員の検挙工作を徹底せしか。鉄道、水路、陸路の検問検索を強化す。
 聯軍、遊撃隊の軍・警・集団部落に対する奇襲作戦に備う。尚襲撃事件に対し其外、内因を研究(例えば内部連絡者の処理問題等)対策を構すること。
 野副討伐部隊に即応し、偽満の最後的決定的治安工作として本工作を完遂すること。」
 九月中旬来、その開始時機に於ける抗日聯軍其他遊撃隊兵力は、合計四一四〇中、抗・聯三一二〇、其他一〇二〇名、東南部第一路軍約二〇五〇名でありましたが、秋季工作末期たる一一月末は全満総数三三〇〇名、抗・聯二五五〇名、其他七五〇名にて第一路軍一四〇〇名、一九四〇年一月末は全満総数二六〇〇、抗・聯二一五〇名、其他四五〇名にて、第一路軍一一〇〇名となって居ります。即全満総数に於て秋季工作によって八四〇名を「消滅」し、一九四〇年一月末に於て更に七〇〇名を減じ、第一路軍については秋季工作によって六五〇名を一九四〇年一月末に於て更に五〇名を減じて居ります。
 又秋季工作に警務部長指示に基き憲兵に於て検挙したる数は左の如くであります。

[略]

××部隊××特別工作隊の誘降工作
  九月 臨江県楊靖宇軍特務大隊 営長一名、副官外六五名
  一一年式軽機二、擲弾筒一、同弾八、自動短銃一、拳銃一七、弾六〇〇、長銃五六、同弾四〇〇〇、銃剣一七、双眼鏡三を押収
  一〇月 通化省臨江県第八区紅土崖に於て三六名
  一一月 撫松区に於て団長以下一五四名
以上誘降総数二五五名を算しました
 以上、同年度秋季工作に於ける抗日遊撃隊の戦力「消滅数」は私の警務部長たる職務執行上の指揮又は協力によって、中国人民に与へた鎮圧対策の結果によるものでありまして、私の最も顕著なる罪行の一つであります。人民の抗日戦力を著しく減殺し、爾後の抗日行動に大なる影響を齎し、犠牲となりし戦士の遺族を悲歎の淵に突き落し、生活の根源を奪い、又「討伐検挙」に関連して厖大なる人民に「検挙、拷問、拉致等」凡百《あらゆ》る迫害を加え滔天の罪行を犯しました。其責任の重且大なるを痛感して、茲に誠意を以て認罪する次第であります。
(二)一九三九年九月上旬、ノモンハン事件につき哈爾浜市に於て其善後処置につき、日・偽満・蘇間の談判会議が開かれました。軍司令部の意図により哈爾浜憲兵隊をして会議の警戒及ソ側談判員の身辺護衛を名として談判員の言動を内査せしめました。
又同時頃、綏芥河―哈爾浜―満洲里間列車に於けるソ聯伝書使に対し、軍の指示に基き伝書盗取の目的を以て催眠性瓦斯を列車寝室に放射し、睡眠に陥れんとする工作を憲兵をして実施せしめました。結果は獲る所がありませんでしたが、この二件は軍事ファシストの手先として陋劣陰険極まる性質の罪行でありまして、私は警務部長として之れを憲兵に命じ、強制的に敢行せしめた指揮者として責を負い認罪致します。
(三)一九三九年一〇月下旬、ノモンハン事件日・ソ俘虜交換問題の交渉成立し、日本側俘虜受領委員により日本側俘虜は受領せられました。其人員は約三〇〇名であったと記憶します。この人員は軍に於て俘虜管理委員を組織し、管理することゝなりました。私は其委員に任命せられました。俘虜は吉林の軍病院に収容せられました。憲兵を看護兵に偽装せしめ、監視と看護とを兼ねて勤務せしめました。軍特設軍法会議によりて俘虜を取調べ所刑しました。死刑処分に附せられた者は約三〇名と記憶致します。尚中隊長として戦場に於て俘虜となった大尉一名は、癩病に罹り居り、且つ戦場にあって尽すべきを尽さずして俘虜となった故を以て、本人に対し死刑を判決されましたが、管理委員に於て本人に自決を勧告し、秘かに憲兵(看護兼務)をして拳銃を渡さしめ、遂に自殺せしめた由、後に委員、憲兵隊司令部員××中佐より之れを聞知しました。又俘虜の大部分は戦傷により人事不正に陥り、俘虜となったものが大部分であったと聞きました。然るに当時軍内外の思潮は俘虜になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました。因って判決処理が過当であったことは勿論、非人道的なる方法(例えば自決を強要する如き)が秘密に行はれたことも想像に難くありません(前記中隊長の事例もその一例であります)私は管理委員として俘虜に対する非法取扱の責任を負う次第であります。
(一三)一九三九年一二月初旬、冬季工作に関し私は警務部長として各隊に対し左の如く指示しました。
「1.抗・聯第三路軍西北指揮部××××司令は、九・一八記念日を期し、訥河県城を夜襲し、又北黒線を襲い秋季討伐により粉砕せられ、訥河地区より北安地区に分散せり。東辺道地区に於ては、対民宣撫工作益ゝ熾んなり、熱河省に共産第八路軍二五〇〇名出現、本季五回国境を突破せられた。第二路軍は湯原根拠地より三江省都市に中国人四五名を派遣し、諸施設、民心動向調査、官民離間策を企図する情報あり。

秋季工作の結果は同工作開始時全満抗日游撃隊員 四一四〇名
 同工作終期は 三三〇〇名
 抗日聯軍第一路軍は工作開始時    二〇五〇名
 同工作終期は  一四〇〇名
となり相当数の消滅結果を獲たり。
2.右情況に鑑み、游撃殊に抗日聯軍の幹部を索めて之れを検挙すること。之れがため各地とも特別捜査 班を組織して工作を実行す。
 東辺道冬季工作を益と果敢に続行す。聯軍内に誘降工作を行うこと。」

(一四)一九四〇年二月初旬、私は爾後の治安工作につき各隊に対し左記要旨の指示をなしました。
「1.南満党抗・聯第一路軍楊靖宇将軍の部隊は、約二〇〇名をもって一月末濛江県に移動せり。北満党は徳都嫩江県境山中にあり。
 一九三九年末、蒋政権の指令による中国冬季攻勢行動は警戒を厳にするを要する。特に共産青年救国 会の選抜工作員の入満情報あり。
2. 右対策として第一路軍の爾後の情況を偵知し、討伐軍に報すると共に、楊司令を濛江県に封鎖し、包囲圈を逐次圧縮して消滅する如く方策を講ずること。
3. 中共、国民両党の入満情報は右に止まらず、特に天津駐屯車の情報に之れに関するもの多し。よって承徳錦州両憲兵隊は本情報に対する警戒を実施すると共に、資料を入手し報告すること。」
 冬季工作の結果は濛江県に第一路軍楊靖宇軍を包囲中、同軍は逐次金川輝南方面に移動し、曹亜範軍と合流を策しつゝありました。冬季損耗兵力は約一〇〇に達しました。東辺道野副討伐隊は予め楊軍の南下を察知し、通化方面「討伐部隊」の配置を行い、第一路軍を東辺道中区に「捕捉」する態勢をとり、春季工作に入りました。
 一九四〇年七月末迄(私の警務部長在任間)、抗日聯軍各游撃隊共漸次弱性に向いつゝありましたが、第一、第三路軍の活動は依然勇敢無比にて日偽満軍警を反撃して居りました。私はこの遊撃抗日作戦をあくまで鴒 満治安維持の癌であるとし、之れを徹底的に「消滅」する企図の下に対策を構じました。第一路軍総指揮楊 靖宇将軍は一九四〇年三月遂に灌江地区に於て偽満警察により戦死を遂げました。
 私は一九三九年三月、警務部長着任以来、終始人民鎮圧の手段を更新し、繰り返し実行し、侵略軍の走狗として武力的圧迫を行い、大罪を犯しました。茲に東北に於ける過去犯した帝国主義的罪行を反省しまして、謹て認罪致す次第であります。
(一五)一九四〇年二月、東安憲兵隊、東寧憲兵分隊孫呉憲兵分隊を新設し、夫々隊務を開始致しました。之れ等の国境憲兵隊新設の目的は、関東軍の対ソ作戦凖備に関聯し、関東憲兵隊の国境配備を強化するにありました。この新設隊の業務開始によりまして、防諜方面に於ては軍の陣地構築、兵力の移動、兵営建設、軍用道 路の建修等に対する抗日地下工作員の「防制、発見、視察、検挙工作」を強化し、又治安工作に於ては国境線に通ずる鉄道、陸路の警戒掩護、国境地帯、隣接地区治安攪乱工作員等の検挙、其他国境地帯法実施の徹 底を計る等、国防並に治安上に大なる「効顕」をなしました。反面に、抗日地下工作員、游撃隊を始め一般人民に対し一層過烈厳酷なる鎮圧を執行し、著しき迫害を齎しました。私は警務部長としてこの新設隊設置の企画業務に参画し、新設隊の業務開始以来、其人民 鎮圧対策につき画策指揮に当りました。
(一六)一九四〇年五月一日、関東憲兵隊司令部に於て憲兵隊長会議が開催されました。当年関東憲兵隊の服務方針は、関東軍の対ソ作戦凖備に即応する治安工作を完遂し、防諜工作を徹底するにありまた。私は警務部長として、右方針に基く対策として左の如く指示しました。
「1. 治安工作  治安工作は客年秋季より実施せる思想対策により、抗日游撃勢力を著しく弱化せしめたるも、未だ之れを殲滅する能はず、乗辺道北満海乗地区、並に北安  地区に於ける残存活動を見るにつき、各隊は引続き決定的討伐検挙工作を展開して、少なくとも年内には治安確保の本を築き、以て後顧の憂なき関東軍をして対ソ作戦凖備に専念し得るよう努力実行を望む。
 昨夏ノモンハン事件の国内治安に及ぼせる影響は甚大なり。特に民心の動揺、対日信頼感の転落、共・国党の抗日全民統一戦線工作進展情勢、共産党 尖鋭分子の入満による党再建工作企図等、思想対策上の重要事項に対し従来の体験と教訓とに基き任務完遂に努力を傾注せんことを要望する。
2. 防諜工作  関乗軍の対ソ作戦凖備に伴い、ソ聯関係情報蒐集工作は愈ゝ活溌化せるに対し、各隊は更に創意的方策を以て有効適切なる対策を採取することを望む。之れに関し、国境憲兵隊は、日本軍陣地に対する防諜、掩護、国境地帯法の取締徹底を期すること。国境国内各憲兵隊とも、軍の移動、特種演習等に対する警戒掩護、軍人軍属の自発的防諜観念の啓発(情報工作員のみならず、周囲の人皆連絡員なるの着意を持たしむること。)等につき工作実行をなすこと。」
 等を指示しました。
 当時、私は、自己の任務遂行上唯一途に軍の方針意図に基き之れを忠実に尊重実現せん為にのみ身を委ね心を投じて盲目的に職権を振少廻し警察務を執行致しました。中国人民に対し其愛国思想、民族意識、人民的自覚、日本帝国主義に対する憎しみ、人命の尊重、生活権の擁護、人間性、人道性等々凡ての問題を無視して唯日本の為とのみ考え、日本に害ある人民は一人でも多く検挙し、一人でも多く屠殺することを以て自己職分を完遂する如く考え、職務を執りました。従って計画し実行した対策は、全くファシスト的暴圧政策、反人民的弾圧政策に外なりません。結果数へ難き滔天の罪行を重ねましたことを反省し、衷心から陳謝致す次第であります。
(一七)(一八)[略]
(一九)一九三九年三月一日より一九四〇年七月三一日に亘る警務部長在職間私の対策策画指示に基き各隊、偽鉄道警護隊協同の抗日地下工作員発見処理状況は概ね左の如くであります。
「1. 秘標対策により発見せる者  発見数 約一五〇名 厳重処分 約二〇名 偽鉄道  警護隊渡 約五〇名
2. 検問検索により発見せる者  発見数 約八〇名 厳・処 約一〇名 偽鉄・警渡  約二〇名
3. 無電関係地下抗日工作員  発見数 五名
4. 其他抗日地下工作員 厳・処 約二〇名  発見抗日地下工作員 計二三五名 厳重処分 約五〇名
  備考。
1. 処分を記しあらざる者は、視察続行、或は逆用中のものであります。
2. 一九三九年五月下旬、ノモンハン事件発生直後、視察中の工作員(殆んど中国人)約一〇〇名を厳重処分に附しました。」
 以上私は警務部長として各憲兵隊、偽鉄道警護隊を指揮して軍事防諜を理由として多数の抗日地下工作中国人を「探索・検挙・逆用」等種々の対策処理を実行せしめ、甚しきに至っては約百五十名の愛国烈士を「厳重処分」として「屠殺」せしめました。私は当時は当然の職務行為として何等の反省も為さず、尊き人命を奪い、多数人民を暗黒の淵に投じ誠に言語に絶する沿天の罪行を犯しました。茲に衷心より認罪する次第であります。

 「南支那派遣憲兵隊長」当時[略]
支那派遣軍総司令部軍事顧問部」勤務当時[略]
満洲憲兵訓練処長当時[略]
以上供述したる私の犯したる罪行に対する認識[略]

『忘却のための「和解」』(2016年、鄭栄桓、世織書房)への発展的コメントーー公娼制度と「法の抜け穴」としての植民地の存在

http://seorishobo.com/%E5%88%8A%E8%A1%8C%E6%9B%B8%E7%B1%8D/2016-2/%E5%BF%98%E5%8D%B4%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%92%8C%E8%A7%A3%E3%80%8D/

目次


1 『帝国の慰安婦』、何が問題か

2 日本軍「慰安婦」制度と日本の責任

3 歪められた被害者たちの「声」

4 日韓会談と根拠なき「補償・賠償」論

5 河野談話・国民基金と植民地支配責任

6 終わりに=忘却のための「和解」に抗して







 該当書を今日、再度読んだ。鄭栄桓氏(以下、鄭氏)の徹底的な批判には本当に頭がさがるうえに、朴裕河氏(以下、朴氏)にすりよる日本の知識人の情けなさには本当に腹が立つ。
 しかし、鄭氏の批判は、実は、「現在公開名乗り出している被害当事者」を”正当に”守るという前提を持つ論理構成になっており、重大な不足分がある。少なくとも、鄭氏が真正面から論じていない領域がある。
 それは、いまだ名乗り出られない条件下にある「台湾人・朝鮮人・日本人「公娼」(50音順)の経歴のある被害当事者」である。念のために注意しておくが、筆者は鄭氏(のみ)を批判しているのではなく、鄭氏の目的である植民地支配責任の追及を徹底させ、日本の知識人の問題点をさらに追及することである。すべてを鄭氏にひきうけさせるのはまったく不当なため、筆者が大枠ながら追及をひきうけようと考える。
 さて、筆者の目的を追求するため、以下の四点で、「公娼制度」における日本政府と昭和天皇国際法上の責任を検討してみる。

1:すくなくとも1930年代には廃娼運動のもりあがりを通じて、廃娼制度が(事実上の)人身売買制度であり、国際法違反であることを日本政府は確認していた。サイト「Fight For Justice」(以下FFJ)のQ&A・0-3によると、日本「内地」の最初の廃娼建議として1882年の群馬県の事例、二番目も1928年の埼玉県の事例があることが歴史学的に立証されているという。また、FFJのQ&A・0-4によると1934年に日本政府は廃娼を表明しているとある。しかし、日本政府は廃娼のために実効的な指導をしなかったことが歴史学的に立証されている。さらに、見逃してはいけない事例として、亡命した朝鮮人のつくった臨時政府てある上海臨時政府の臨時憲章(1919年4月に制定)に以下のような条項がある。以下、「大韓民国臨時政府をめぐって」(1979年、梶村秀樹)に収録のものを引用する。強調部分は本記事作者による。さがせば台湾人・朝鮮人によってなされた同種の事例がみつかりはずである。

第一条 大韓民国は民主共和制とする
第二条 大韓民国は臨時政府が臨時議政院の決議によってこれを統治する
第三条 大韓民国の人民は、男女・貴賤及び貧富の階級がなく、一切平等である
第四条 大韓民国の人民は、信教・言論・著作・出版・結社・集会・信書・住所移転・身体及び所有の自由を享有する
第五条 大韓民国の人民にして公民資格を有する者は、選挙権・被選挙権を持つ
第六条 大韓民国の人民は、教育・納税及び兵役の義務を持つ
第七条 大韓民国は神の意志に依って建国した精神を世界に発揮し、進んで人類の文化及び平和に貢献するために国際連盟に加入する
第八条 大韓民国は旧皇室を優待する
第九条 生命刑・身体刑及び公娼制を全廃する
第十条 臨時政府は国土恢復後満一年以内に国会を召集する


つまり、国際法違反に対して、実効的な指導をしなかったという責任がある。朴裕河氏は、どうやら、「慰安所」と公娼施設を等号もしくは近似でむすんでいるようだが、もし等号だとしても、公娼施設は人身売買施設であり国際法違反であることは不動なのである。それに、もし少なくとも1930年代に日本政府が廃娼のために実効的な指導をしていたとするならば、「慰安所」の大量設置はなされなかったと考える、十分根拠のある推測がなりたつと朴氏は考えないのだろうか? このことを考えると、日本近代はつくづくひどい「近代」であると思う。
2:植民地であった台湾・朝鮮においても公娼制度は設置された。日本の植民地の最高責任者は、昭和天皇でありその次が総督府総督である。つまり、植民地における公娼制度の法的責任は昭和天皇に直結すると認定できるのである。実はこの指摘は、2000年の女性国際戦犯法廷における、吉見義明証人とパトリシア・セラーズ検事の間の証人尋問にもとづいている。ここで吉見義明氏は安藤利吉第二一軍司令官の上官が昭和天皇以外にありえないことを(虚をつかれたようなところをふくみながら)証言していたが、小林躋造台湾総督についても同じことが当てはまる(「女性国際戦犯法廷の全記録1」P150)。この論理構成を少し進めると、「内地」の公娼制度の国際法違反の責任追及に、まるでドミノだおしのように、たどりつく。このことを考えると、昭和天皇はつくづくひどい人間だと思う
3:FFJのQ&A・4-2によると、日本「内地」と植民地の台湾・朝鮮で、国際条約の適用には、日本政府の決定で違いをつくることができる。そのことから考えると、日本「内地」のみで公娼制度が廃止されたとして、台湾・朝鮮で公娼制度が同時に廃止されるということは(日本政府がつくった)法制度上保障されないのである。わかりやすい例として、日本国籍の「公娼」を例にとる。公娼施設業者が、日本人「公娼」を日本「内地」での性売買に従事させることが法律上不可能になったとして、台湾・朝鮮で性売買に従事させることは可能なのである。つまり、公娼制度からみれば、植民地は、国際法に対する、日本政府が作り出した抜け穴にほかならないのである。この点については、植民地が戦争防止などを目的とした国際法の抜け穴であるという意味の有力な指摘が姜徳相・宋連玉氏などによってなされている。さて、ここで論じたことは「公娼」からみれば、日本軍人との同格性を決定的に否定する根拠である。日本軍人は、日本政府からみてさえ、適法性が「内地」と植民地で変化したりしないからである。国際法上、むしろ植民地下での日本軍人の存在自体が不法性が高い(「韓国併合」の合法/違法論争を参照)。話をもどしてこの「公娼」の同格性の否定の法的根拠をたどっていくと、買い手の性欲処理を国家として必要としながら、「売り手」ではなく買い手の問題を追求せず、「売り手」に対してうわべの名誉すらみとめなかった日本政府の一貫した政策、その国内法上の(国際法上のそれではない)”表現結果”にほかならない。なお、男女間の参政権における差別の論点もあるが、本記事では長くなるので省略する。論証はとても簡単なので、意欲のある読者は論証してみてほしい。
4:植民地の台湾・朝鮮における公娼施設業者とは、日本民衆の植民地主義者そのものにほかならない。むしろ、そして、「慰安所」における非軍人の業者の行動は、植民地主義者のそれと本質的に同じである。いくつかの研究結果から筆者が推測するに、このことは歴史学的にそれほどむずかしくなく立証できる。また、そもそも正しい意味での”文学的意味から”も、公娼制度が植民地主義と同一であるといえる。「それ以外に収入の方法がない」とされた「公娼」が管理され、それでいながら「公娼」より管理者側の業者のほうが(違法に)より多くの利益をまきあげているからである。朴氏は、民衆の植民地主義の本命を批判せずして、いったい植民地主義の何を批判しているのだろうか。朴氏は業者にすべての責任を押しつけようとしているようだが、業者すなわち公娼制度業者の責任の追及からはじめて、「公娼制度の違法性」を正面から徹底的に追及すると、結局日本政府と昭和天皇の責任を認定せざるをえなくなるのである。


 筆者は本記事で、「違法行為に対して最大限の指導を行わない政府もまた違法行為を犯しており、(重大な)処罰に値する」という立場から論理構成をくみたてた。こうしてみると、日本政府の国際法に対する違法状態の踏み倒し行為(公娼制度の継続)にたいして徹底的に追跡する具体的方法が認められなかったことが、さらなる違法状態を生みだしたといえる。
 このようなことはほとんど言わないことにしているのだが、筆者は今、皮肉というにはあまりにも不気味な笑いをこらえることができないでいる。高卒程度の知識と、明確な問題設定さえあればそれほど難しくなく検討・認定できることに、これまで気がつかなかった自分のうかつさ。筆者よりはるかに潜在能力があるはずでありながらこの認定の方向とまったく逆の方向に進み続けている(朴氏を批判できない)日本の知識人の無残さ。
 筆者は、『帝国の慰安婦』と「日韓合意」という”事件”に衝撃をうけてから、それに対して最大限の対抗策をつくらねばと今年四月から作業をはじめ、ドミノだおしのように、『帝国の慰安婦』への「公娼制度もまた、日本政府と昭和天皇の、明白な国際法違反である」という重大な点にたどりついたわけである。ひょっとしたらこの問題圏を専門とする鈴木裕子氏・宋連玉氏・藤永壮氏などは同じ結論に筆者より早く達しているのかもしれないが、筆者個人がほぼ自力でこの結論にたどりつけたのは大変意味のあることであると思う。
 最後に一つだけ、朴氏に言っておきたいことがある。「朴さん、あなた大変なヤブヘビでしたね」


追記1:ここで公娼制度をみてきて、ある問題に言及しておかないといけないと思う。それは、公娼制度と「慰安所」制度がなぜあきらかに等号でむすべないのか、という点である。筆者のみるところ、その理由は結局、軍人とは死ぬかもしれず殺されるかもしれない”戦地”という場所で従事して(させられて)いるからである。「公娼」はたしかに身体や健康上の危険のある場所で従事して(させられて)いるが、少なくとも”戦地”と同じ程度の生命の危険のある場所で従事して(させられて)いるわけではないのである。だからこそ、軍隊側が命令しないといけなくなるのである。

追記2:さる2017年12月16日に宋神道氏が亡くなったという記事がでた。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13281344.html

筆者は、もっと宋神道氏の言葉を紹介することのほうが、多弁をするより、宋氏の遺志に一致していると筆者は考えるので、以下、宋神道氏の言葉を二点紹介する。


*4 その日、宋さんは次のような内容を語った。
「おれは反対だ。そんなだらかえって黙ってやめた方がいいや。見舞い金として払ってもらったからってあとでどのようなこと言われるか。また、白い目で見られるんじゃないの。とにかく国民から金取るよりも政府でやるべきなんだよ。はした金持ってきて見舞い金でがす、なんて言って、誰がもらえるか。白い目で見られても、おれは自分の頭で生きてるんだよ。本当に誠意あるように、金払うにしても、謝罪するにしても、ちゃんとした謝罪をしないと、いい加減なことしたら、おれはとっても受けられないもの。本人が納得いくようにしなければとってもだめだ。そりゃね、日本政府が、本当に予算がないからこれだけしかやりきらないと、謝罪なり、補償なり、これ以上はとても出来ないと、これで勘弁してけろと、今日本の国は景気も悪いし、そっちだこっちだやっていかなければならない立場があると、ちゃんと謝罪して勘弁してけろと言うのであれば、しょうがないよ。ただ、二度と戦争起こさないように、ただこれだけおれがね、気持ちいっぱいなんだ。たかが知れた金もらって、ああそうかなって涙のんでいるよりも、もらわないでハッパかけた方がよっぽどいいよ。」


(底本:「Q&A 朝鮮人慰安婦」と植民地支配」(2015年、日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編、お茶の水書房)のP142)



 まず被害当事者の宋神道さんは、「国民基金を受けとるつもりはないので、説明を受けるつもりもない。日本政府が本当に反省してるのならば、政府にちゃんとした謝罪と補償をしてほしい」との返答を寄せています。また宋さんは7月12日に韓国、インドネシア、フィリピンの被害者とともに「国民基金」を訪れた際、「国民基金」の事務局員が支援者を暴力的に部屋から追い出そうとした件について、「ああいう態度は許せるものではない。あれを見て、あきあき、嫌になった」と、その日の対応に垣間見た「国民基金」への不誠実さに繰り返し怒りをあらわにしています。

「在日の慰安婦裁判を支える会から「国民基金」宛の手紙」(1996年09月11日)

(底本:「資料集 日本軍「慰安婦」問題と「国民基金」(2013年、鈴木裕子、梨の木社)のP318)

 宋神道氏のことを論じた、徐京植氏の「母を辱めるな」(http://www.eonet.ne.jp/~unikorea/031040/38d.html)は、まちがいなく重要論考である。しかし、筆者はある不安を抱いている。ここで、「母」は「孤立した存在」としてのみとらえられていないだろうか、と。本当は、「母」と、それに連なる人々は、歴史における”流れ”と”広がり”をもっているのではないだろうか、と。この人たちのつくりだした”動力”こそ、歴史の最高の部分を作り上げているのではないだろうか。
 この点、以下の引用をして本記事を一度おわらせたい。

梶村秀樹の「未発の契機」――植民地歴史叙述と近代批判――」(車承棋)

 このように見れば、彼の「内在的発展」の論理は、「収奪論」の単純なナラティヴ、すなわち日本帝国主義により国土が侵奪された植民地を否定することによって、またそのなかで営まれた民衆の日常的な生を否定し、もっぱら「敵」としての日本との対立を叙述の基本軸とし、植民地の外で独立のために戦ってきた人々の闘争史を中心に置こうとする、いわゆる「亡命者史観」のナラティヴとは区別されなければならない。彼もまた植民地支配に抵抗する民族解放運動から「朝鮮人の作り出した最高のもの」(14)を発見するが、彼が探し、表し、叙述しようとするのは、そのような詩的な瞬間というよりも、むしろ「歴史の底層を脈々と地下水のように流れ続け」(15)ている民衆の散文的な生とそのなかのエネルギーであった。



(注釈:本記事は、09月19日に初投稿、09月20日に追記訂正して再投稿した。まだまだ追及しないといけないことが多いはずなのだが、書きつくせないので一度おわらせないといけない。)
(さらに追記、2017年12月21日、さらにすこし追記訂正。「させられて」が一か所ぬけていた。筆者もまだまだまだまだである。)

※本記事は「s3731127306の資料室」2017年12月19日作成記事を転載したものです。

「従軍慰安婦・内鮮結婚―性の侵略・戦後責任を考える」(1992年、鈴木裕子、未来社)

○目次


I 性侵略・大陸花嫁・従軍慰安婦
1 日本の「近代化」と性侵略(009)
女にとっての日本近代史(009)/公娼制と家制度――女性の自由への抑圧装置(010)/海外膨張・大陸侵略の具に供された女性の“性”(012)/「人民の移住と娼婦の出稼」(012)/台湾・朝鮮にも公娼制をしく(017)/廃娼運動の側の対応(020)
2 「満州」侵略と大陸花嫁(24)
 一九四五年八月の「悲劇」(024)/「満州」支配と大陸花嫁(027)/「満州武装移民」と大陸花嫁(029)/官民競って「花嫁輸出」(032)/「皇国農民道」「皇国婦道」の強調(034)/
3 従軍慰安婦天皇・朝鮮(038)
 「皇軍将兵への贈り物」――天皇従軍慰安婦(038)/従軍慰安婦問題は女の問題の”原点“(045)/朝鮮民族抹殺の意図(047)/「祖国解放」後、朝鮮女性たちは帰れたか(049)
4 天皇の軍隊と従軍慰安婦(051)
 「慰安婦案の創設者」(051)/南京大虐殺と「強姦」(054)/南京大虐殺後、各地に慰安所開設(057)/対ソ戦をにらんで(060)/南方の島々でも(061)/二重の性管理(067)/67

Ⅱ 内鮮結婚
1 「文化政治」と「内觧結婚」(073)
 李王世子垠と梨本宮方子の「内鮮結婚」(073)/「内鮮結婚」の政策的開始(075)
2 皇民化政策と「内觧結婚」(078)
皇民化」政策における「内鮮結婚」(078)/「内鮮一体」の司法的具現(085)/85
3 「内鮮結婚」の破綻(088)
 破綻の象徴――李王家と日本支配層との「結婚」の悲劇的結末(088)/朝鮮女性――日本「同化」に立ちはだかる存在(093)
4 「強制連行」と「内鮮結婚」(101)
「協和事業」の新展開――日本「内地」における「皇民化」の推進(101)/日本「内地」における「内鮮結婚」(105)/おわりに――被害と加害の二重性(110)

Ⅲ 従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか
1 「挺身隊」問題をめぐる最近の韓国女性界の動き(116)
 昭和天皇の死と「挺身隊」問題(116)/盧泰愚大統領来日を前に、韓国女性界動きだす(121)/
2 従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(134)
慰安婦は、民間の業者が連れて歩いたもの」(134)/「営業婦の共有観念を徹底し……」(140)/
3 再論・従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(上)(146)
 未決の戦争・戦後責任(146)/無責任、無誠意の姿勢は、従軍慰安婦問題でも一貫(148)/韓国女性界では、挺身隊問題は、女の「人権」問題との認識が強まっている(159)/
4 再論・従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(中)(162)
 小沢発言の意味するもの(162)/繰り返される官僚たちの無責任答弁(164)/
5 再論・従軍慰安婦に軍と国家は関与しなかったのか(下)(176)
 韓国で元慰安婦の女性が名のりでる(176)/よたび国会答弁から(178)/戦後補償問題の背景(181)/個人の補償請求権は認められている(186)/わたくしたちの手で戦後責任に決着を(189)/
6 従軍慰安婦問題と戦後責任(192)
 「第一の罪」と「第二の罪」(192)/“開戦”五〇周年と戦争・戦後責任(194)/ 上坂冬子曽野綾子両氏の所論批判(195)/195 日本人の「戦後」のあり方が問われている(299)/
7 軍慰安所は「強姦防止」でもうけられた(202)
 軍の関与を明白に示す資料の発見(202)/「強姦防止」が慰安所設置の第一の目的(204)/慰安所の開設から管理、統制にいたるまで深く関与(206)/強姦された中国女性の“無念”を思う(209)
あとがき(214)





○引用


1 日本の「近代化」と性侵略

   女にとっての日本近代史
 日本資本主義の基礎が、生糸・織物・紡績など繊維産業に働く年若い女性労働者によって築かれたことは、今日、周知の事実であろう。彼女らの紡いだ糸や織物が海外に輸出されることで外貨を獲得し、その金で殖産興業のための産業機械や、富国強兵のための武器・軍艦などが輸人さ札、日本。近代化”の土台をつくった。
 そのように“近代化”に犬切な役割を果たした糸姫・織姫たちであったが、それにふさわしい処遇を陂女たちは受けていたであろうか。答は否である。一口に「女工哀史」といわれる労働条件や労働環境、生活状態が彼女らのおかれていた悲惨な境遇を物語っている。端的にいえば、糸姫・織姫たちは、日本資本主義発展のためのいけにえとなったのである。 この一事をもってしても、日本の“近代”は、決して明るいものではなく、ましてや栄光のそれでもない。おどろおどろしい暗うつをその底に潜めていたといえた。

   公娼制度と家制度――女性の自由への抑圧装置

 近代化のいけにえとなったのは糸姫・織姫ばかりでなかった。性的自由を抑圧されていた娼婦たちもまた日本近代化のためのいけにえとされたのであった。 明治政府は、一八七二年一〇月、太政官布告第二九五号をもって、いわゆる「娼妓解放令」を出した。これは俗に「牛馬きりほどき」と呼ばれたが、そのゆえんは、さきの太政官布告を受けて出された司法省の省令第二二号の一節に次のような言言があったからである。

……娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓へ借ス所ノ金銀並二売掛滞金等ハ一切債ルヘカラザル事(『日本婦人問題資料集成 第一巻 人権』ドメス出版、一九七八年、一九五ページ)

 ここにおいて娼妓らは解放されるやにみえたが、政府は、もとより遊廓そのものを廃止する考えは毛頭なかった。ただ、「近代国家」としての体裁をつくろうがために、国際体面上、一片の法令を出しだのにすぎなかったのである。
 かつての遊廓は貸座敷、遊女屋(楼主)は貸座敷業者と名を加え生きのこった。娼妓にたいしては「当人ノ望ミニヨリ遊女芸妓等ノ渡世致シ度キモノハ夫々吟味ノ上可差許次第」(「人身売買厳禁に関する東京府令」一八七二年一〇月、同前書一九六ページ)といった形式上の「自由出願」制をとった。が、これはまさに形の上だけのことで、彼女らは引き続き楼主たちの厳しい管理と搾取下におかれ続けた。江戸時代の遊廓制度は、ここに早くも近代公娼制として復活し、より強固な確立をみた。
 いいかえるなら公娼制度とは、国家公認の買春制度であって、国家は業者らに営業許可の鑑札を与えるかわりに彼らから税金をかすめとったのである。国家と業者は女性の性を収奪する上で、まさに共犯関係に立つたといえた。
 女性を抑圧するシステムにもう一つ、家制度(家父長制)があった。明治政府は、家制度創出にも早くから着手し、大日本帝国憲法(旧憲法。一八八九年公布)、教育勅語(一八九〇年公布)を経て、いわゆる明治民法(一八九八年公布)をもって総仕上げさせた。この家制度(家父長制)と公娼制度は、いわばメダルの表と畏の関係にあって、ともに女性にたいする抑圧・支配の要となった。この二つのシステムは相互に補完しながら女たちを男権支配・権力(天皇制権力)支配の右とに組み敷いていく機能を大いに発揮した。なお、付言すれば、男権支配・権力支配の殼頂点に立っていたのは、国家の「大家父長」とされた天皇であった。



   海外膨張・大陸侵略の具に供された女性の“性”
 「征韓論」(一八七五年)以後、日清(一八九四~九五年)・日露(一九〇四~五年)の両戦争と続く海外膨張・大陸侵略政策のなかで、日本の支配層は、女性の“性”を道具にして、自らの野望を果たそうとした。
 まずは、当時、「海外醜業婦」と呼ばれた、いわゆる「からゆきさん」の存在である。彼女らは貧しい故郷、家をあとにし、異郷で文字通り身を売って、くらしを立て、親元に送金していた。異国にくらす人の通性からいって故郷や家を憶う気持ちはいっそう強かったであろう。されば、祖国が他国と戦争を交えたならば、意識の底に眠っていたであろう「愛国心」にたやすく火がつくことも想像されるところである。楼主どもが、巧みな口舌で彼女らの愛国心をいっそうそそったことも容易に察せられよう。こうして彼女らはすすんで献金するように仕向けられたが、これを日本“娘子軍《じょうしぐん》”の美談として当時の新聞は取り上げ、さかんに書きたて、さらに彼女らの愛国心や忠誠心(天皇・国にたいする)をあおったのである。

   「人民の移住と娼婦の出稼」

 さて、ここに「人民の移住と娼婦の出稼」と題する一片の論説がある。筆者は、慶応義塾の祖、近代日本の代表的啓蒙思想家としても名高い福沢諭吉で、一八九六年一月一八日付の『時事新報』(福沢が主宰)に発表されたものである。
 この年は、当時の清国(眠れる獅子と称されていた。現在の中国)と戦い、勝利した翌年で、福沢もこの年元旦の『時事新報』で、日本の勝利を感激をこめてこう述べている。

 兎に角に外国の土地を併せて日本の版図を拡張するが如きは、古来我国人の思ひ至らざる所なりしに、一昨年の夏、風《ふ》としたる行掛《ゆきがかり》より清国と戦端を開き、交戦|凡《およそ》一年間、海陸ともに大勝利を制して敵を屈伏せしめ、戦勝の名誉を全うして干戈《かんか》を収めたる其結果は、先人の曾て思ひ至らざりし版図の拡張にして、却て自から事の意外に驚くばかりなり[中略]吾々今代の日本国民は何等の幸福ぞ、建国以来未曾有の愉快を懐いて建国以来未曾有の新年に逢ふ。(「明治二十九年一月一日」『時事新報』一八九六年一月一日付、『福沢諭吉全集』第一五巻、岩波書店、一九六一年、三四五ページ)

 露骨な領土拡張主義・膨張主義であることは一読して明らかであろう。この膨張主義とまさに見合った形で「人民の移住と娼婦の出稼」は書かれる。






あとがき

 「従軍慰安婦」問題は、今、新たな段階に入った、との感がわたくしにはする。旧軍関係者や研究者などには周知の事実であった「従軍慰安婦」の軍関与にたいし、日本政府がようやくそれを認め、公式に謝罪を表明したからである(一九九二年一月二百)。従来の姿勢からすれば、一歩前進であろう。
 が、実態・真相究明に向けての政府の取り組みは依然として消極的で、また、補償についても、「司法の判断も待って」と、“慎重”な構えをくずしていないのはなぜだろうか。 元「慰安婦」にされた女性たちの年齢と、現在の境遇、のこされている歳月を思うと、これは。悠長”を通りこして、“非情”ともいうべき措置である。もし、宮沢首相が本当に「胸がつまる思い」で、心底から「おわびと反省の気持ち」(一九九二年一月一六~一八日の首相訪韓時の謝罪のことば)をもっているなら、今すぐにでも国会に真相究明のための委員会をもうけ、すみやかに補償特別立法の成立を図るべきである。これがせめてもの人間の誠意というものではあるまいか。
 もし政府や国会がぐずぐずしていて、果断な措置を怠るなら、ことはまことに重大になる。政府間のみならず、日韓(朝)間の民衆意識に埋めがたい、決定的な溝を生じさせることになるからだ。
 わたくしたち日本人は、朝鮮民衆にたいし、植民地支配という「第一の罪」をおかした。そればかりでなく、戦後四六年間ものあいた、「第一の罪」を認めることさえ抑圧してきた(「第二の罪」)。そして、今や、罪を認めておきながら、為すべきことを為さない、「不作為の作為」ともいうべき「第三の罪」をもおかしかねない位置に立だされているのである。 日本国政府と日本国民衆は、外からみれば同一である。政府の怠慢は、即、国民の怠慢とみられるのは理の必然である。ならばこそ、わたくしたちは政府を督励して、植民地支配と戦争責任そして戦後責任を十分に果たすよう要求していくのが「主権者」としてのスジであろう。
 「従軍慰安婦」問題は、「慰安婦」にさせられた女性のうち、八割以上(推定)が、植民地下の朝鮮女性であった(台湾人女性や、その他日本軍が占領したアジア太平洋地域の女性たちをも「慰安婦」にさせた事実も銘記すべきであろう)ことから、すぐれて民族的な問題であることは、本書のなかで再三、述べた通りである。
 他方、この問題は、女性の人権の基本である性的自由を考えるうえでゆるがせにできない問題でもある。本書でくわしく述べたように、そもそも「従軍慰安婦」制度は、旧日本軍(「皇軍」)の将兵たちによる、中国大陸での相次ぐ強姦事件に際し、もうけられたものである。「強姦予防」「性病予防」そして兵土たちの「反乱防止」には女の性をあてがえばよい、という発想なのだ。ここには当然のことながら、女の性への尊厳は一かけらもなかった。
 だが、「従軍慰安婦問題」は、単に過去の過ぎ去った問題なのだろうか。
 また、戦時中の異常な状況下でやむを得なかった、という声が女性のなかにさえある、という。たとえば、こうである。「慰安婦制度は戦争という異常な情況下で風俗面での弊害を最小限に留めるためにとられたギリギリの選択であって必要悪だったと思います」(新井佐知子「従軍慰安婦問題に思う」『現代コリア』一九九二年一月号、なお、新井氏は、同様の趣旨のことを「だれも書かなかった『従軍慰安婦問題』の核心部分」『週刊時事』一九九二年二月一日号、でも述べている)と。
 「従軍慰安婦」を必要悪とする論者にわたくしは問いたい。もし、あなたが女で、たまたま日本植民地下の朝鮮半島に生まれ、「慰安婦」にさせられたとしたら、あなたは、それをも「必要悪」だとして甘んじて受けるのだろうか。もし、あなたが男で、あなたの妻や妹や娘さんが、“人狩り”的に見知らぬ戦場へ連れていかれ、兵土たちの「慰みもの」になったとしたら、それをも仕方がない、必要悪だと思って、あきらめるのだろうか。
 一九九二年二月一七、一八日の両日、『産経新聞』一面のコラム「産経抄」は、全国紙としての「見識」を疑わせる一文を堂々とかかげた。やや長くなるが引用する。

……例のキャンペーンは宮沢訪韓をねらいすましてわきおこり、「国は臭いものにフタをしてきた」という批判や非難を声高に浴びせた。その通り、慰安婦問題(女性がではない)は臭いもの、おぞましいもの、恥ずべきものにほかならない▼しかし逆説的にいえば、臭いものだからフタをしたのは当然なのである。あの問題は戦争遂行時の国家の下半身というべきものであって、喜々として白日にさらす性質のものではない。本来、含羞をもって恥じらいつつ、声をひそめて語るべきものだからである▼臭いものは茶の間や新聞や教室にひろげるのはふさわしくなく、それを鬼の首でもとったかのように生徒の学習材にする教師は一体どんな神経をしているのか、不思議でたまらない。国家の下半身、つまり。軍隊と性”の処理はどこの国でも頭の痛い難題だった▼〔中略〕▼よその国の軍隊や兵士はみな品行正しく、日本だけがおぞましい恥部をひきずっていたと教えるのは歴史をゆがめている。また、従軍慰安婦の多くは日本人だったのであり、韓国女性がすべて強制連行されたかのような報道も事実を伝えていない。〔略〕敗戦直後、横須賀市日の出町の一画に「アミューズメント・ハウス」という名の施設が誕生した。進駐した米軍専用の慰安所であり、数十人の日本人女性がそこで米兵を“慰安”した▼それは米軍側の要求でもあり、日本側の発想でもあった。彼女たちはいわゆる一般子女の“性の防波堤”として自己犠牲を強いられたものだったのか、それともドルを目当ての“商売”としての側面が強かったのか。今となっては正確なことはわからない▼しかし、それら慰安女性たちが人権侵害や人道の名の下に補償や謝罪を要求したという話は寡聞にして知らない。ただ基地ヨコスカに限らず、日本の至るところに進駐軍相手の“夜の女”がたちまち激増した現実をみれば、そうきれいごとは言えないだろう▼十九世紀初頭、ナポレオンのフランス軍はスペインをはじめとする遠衽先で略奪と暴行と虐殺の限りを尽くした。両角良彦氏の『反ナポレオン考』(朝日選書)によると、転戦する軍隊のあとを売笑婦とイカサマとばく師が追いかけ、そして一個中隊につき六人の女性の“従軍”が認められた▼当時それは各国に共通したことであって、「いくら道学者流の批判を加えても、彼女らこそが勇名高いナポレオン軍団を陰で支えたという事実は隠せない」。彼女たちの数奇で薄幸な、あるいはしたたかな人生の中に戦場の現実があった▼こう書いたからといって、戦争を賛美したり、日本軍の行為を是認したりするものでは断じてない。恥ずべく、おぞましかったのは何も日本だけなのではない。国家の下半身と人間の歴史はそういうものだった、といいたいのである。

 「一体どんな神経をしているのか、不思議でたまらない」のは、むしろこちらの方である。
 「産経抄」氏は、何だかんだと、理屈をつけて「迷説」を正当化・合理化されているようにみえるが、つまるところ、“軍隊”に“性”はつきもので日本だけが批判されるいわれはない、ということにつきている。男性なるものは、すべて、性的衝動にがられる動物でやむを得ない、といったことを吐露しているようなものである。が、こうした思いこみ(「男性神話」)は、そうでない男性にたいして失礼なのではあるまいか。
 また、占領下の「アミューズメント・ハウス」について触れている点も、事実誤認がもとになっている。本書でも触れたように(四三~四五ページ)、当時、日本政府は、率先して占領軍のための「慰安政策」をとったのである。
 「産経抄」氏は、「慰安婦」(「娼婦」、「売春婦」)にたいしても根強い偏見と差別の持ち主であるようにわたくしには思われる。わたくしは、たとえ、みずから身を売った「娼婦」であったにしても、男権社会=家父長制社会にあっては、ひとしく犠牲者である、と考える。このことは、本書のなかで再三にわたって述べたので、ぜい言を要さないであろう。

 さて、本書は左に記す初出誌に掲載された拙稿をもとに、若干の修正・削除をおこない、注釈部分(*で記した)を大幅に加えてまとめたものである。
 Iは、「1」が『社会主義』一九九二年一月号(原題は「海外膨張策と“性”侵奪」)、「2」が同三月号(原題通り。以下、初出時とタイトルが同一である場合は略)、「3」が『未来』一九九一年一月号、「4」が『社会主義』一九九二年二月号にそれぞれ掲載されたものである。
 Ⅱは、「内鮮結婚」(上・中・下)として『未来』 一九九一年二月号・四月号および一九九二年一月号にそれぞれ掲載されたものである。
 Ⅲは、「1」が『未来』一九九〇年八月号(原題は「『挺身隊』(朝鮮人従軍慰安婦)問題をめぐる最近の韓国女性界の動き(紹介)」)、「2」「3」「4」「5」「6」「7」は、同一九九〇年一〇月号、一九九一年九月号、一〇月号、一一月号および一九九二年二月号、三月号にそれぞれ掲載されたものである。
 『未来』掲載中に読者の方々から寄せられたあたたかお励ましには率直にいって力づけられた。
 李順愛氏、山口明子氏、山下英愛氏、吉見義明氏、伊東秀子氏には、翻訳や資料の提供等でご厚意を受けた。あらためで謝意を表したい。また、わたくしの属する「天皇制・おんな塾」「グループ・性と天皇制を考える」のメンバーにも感謝したい。 おわりに『未来』掲載中から、一書にまとめあげるまでの間、細かいご配慮をいただいた編集部の石田百合さんに深謝する。

一九九二年二月二一日
鈴木裕子



※本記事は「s3731127306の資料室」2017年08月09日作成記事を転載したものです。

「フェミニズムと戦争:婦人運動家の戦争協力」(1997年、鈴木裕子、マルジュ社)

○目次

はじめに   003

序章 総動員体制と婦人団体   11

第1章 中央協力会議女性代表にみる「翼賛」  023
  1 女性と中央協力会議   025
  2 「女性代表」一覧   033
  3 “早の根”女性翼賛のにない手――大日本婦人会背景の女性代表   040

 第2章 高良とみ羽仁説子の場合   045
  1 “興亜の母”の論理と「翼賛」高良とみ   047
  2 「生活刷新」から「生活新体制」への道――羽仁説子   076

第3章 戦時下における婦人運動家の「協力」と「翼賛」  095
  1 参加→解放への「死角」――市川房枝   101
2 「協力の論理」の極限――山高しげり   136
  3 「花ある職場へ」の陥穽――奥むめお   162

第4章 戦時下「女子勤労」と”性“政策   187
  1 国民皆働と「女子徴用」問題   190
  2 戦時女子教育における「勤労」と「母性」   198
  3 「女子勤労」と“性”をめぐって   203
  おわりに   211

終章 「加害」と「被害」の倒錯   215

旧版あとがき   223
新版あとがき   226




○引用

旧版あとがき
 日の丸、君が代靖国、そしていよいよ「皇国史観」の教科書までが登場しようとしている。
 四一年前、莫大な犠牲を払って、やっと手にした「平和」と「民主主義」が、いま、まさに葬り去られようとしている。それに代わって、かつて。軍国日本しちが、またぞろ顔をそろえ、復権を図っている。
 戦争を直接、知っている戦前・戦中派ならずとも、不気味さを覚える今日このごろの状況である。
 日本の女たちは、かつて戦争のとき、いや応なく「銃後の女たち」にしたてられ、協力させられてきた。
 一見、平和に現在を生きるわたくしたちに、果たして、この「銃後の女たち」は、無縁であろうか。
 わたくしたちは、いま、ふたたび、「銃後の女たち」にしたてられようとしているのではなかろうか。
 銃後の女として、ふたたび戦争に協力させられないために、わたくしたちはいまこそ歴史に学ぶときか、と思う。
 女性であるわたくしには、「女性と戦争」のテーマは切実である。だが、このテーマは大きい。本書では、取り敢えず、婦人運動家や婦人指導者の「戦争協力」に絞って論述したが、多面的なアプローチが必要であろう。
 わたくしたちの祖母や母たち、いうならば庶民の女たちが、銃後の女として、戦争体制にどう組みこまれ、かかわっていったのか、をもあわせてみなくては、ほんとうのところはよくわからないであろう。これからの課題としたい。
 本書は、一九八二年五月に日本評論社より刊行された、鹿野政直・由井正臣両氏編にかかる『近代日本の統合と抵抗』第四巻の一篇に収められた拙稿「戦争と女性――女性の『戦争協力』を考える――」をもとに、大幅な加筆をほどこして成ったものである。「はじめに」でも述べたように、自らの戦争体験の加害者性を語ることは少ない。戦争の加害者性を研究の対象とすることも少ない。わたくしが専攻する女性史の分野でも同様である。本書が、こうした状況に、なにがしかの一石を投じることができたら幸いである。
 それにしても、およそ一〇年間にわたって、『銃後史ノート』を発行し、昨年休刊した加納実紀代氏らの「女たちの現在を問う会」の仕事には、随分、触発され、励まされてきた。加納氏らの仕事がなかったら、本書は、たぶん生まれなかった、と思う。
 終わりに、本書の出版にあたっては、マルジュ社編集部の西亨氏に大変おせわになった。深く感謝する次第である。

鈴木裕子
   一九八六年七月



新版あとがき
 本書『フェミニズムと戦争』が上梓されてからはや一一年を迎えようとしています。本書の品切れ状態を機に、この度、マルジュ社の桜井俊紀氏から新版刊行のお申し出を受けました。わたくしはこのお申し出をお受けするとともに、新たに第4章「戦時下『女子勤労』と“性”政策」の一章を加えさせていただきました。なお、この第4章は、一九九五年一月、吉川弘文館から刊行された由井正臣氏編の『太平洋戦争』に収録されたものです(原題は、「戦時下の女性――『女子勤労』と“性”」。本書新版に収めるに際し、一部重複部分を削除いたしました。本書への収録を許された吉川弘文館および編者の由井正臣氏には心から感謝する次第です。

 さて、旧版刊行後、この一〇年余の間におこった変化はまことに大きいものがあります。ベルリンの壁崩壊に始まる東西冷戦体制の終えん、社会主義国家の倒壊……と世界はかつてない激変に見舞われました。その一方で相変わらず世界の各地で「局地」的戦争・紛争(もっともその地の住民にとっては「局地」どころではありませんが)が続き、武力紛争下での女性への組織的暴力もやみません。
日本においても大きな変化がありますが、ここではそのいちいちを示すことはできません。ただ、日本の戦争犯罪・戦争責任問題で決して見のがすことのできないのは、いわゆる「従軍慰安婦」問題の浮上でした。半世紀の沈黙を破って、当の被害女性が名乗り出て、告発と証言をおこなった意義ははかりしれないほど大きかったと思います。自らの尊厳と人間回復を願ってたちあがった彼女たちのたたかいについて、わたくしは、二〇世紀世界女性人権史の最後を飾るものと書いたことがありますが、いまもますますその感を強めています。
慰安婦」問題をはじめとしたこの間の戦後賠償運動は、さかのぼって日本の戦争犯罪・戦争責任問題にたいしても市民や若い世代のなかに真剣に取り組ませる姿勢や動きをもたらしているように思えます。これはまことに歓迎すべきことで、研究者も大いに学ぶ必要があることでしょう。
 わたくしたちは、日本がアジアの民衆にたいしておこなった侵略や植民地支配の実相・実態を正確に知り、主体的な戦争反省の力量を高めていくことが大切であることをわたくしは確信するものです。そのためには女性や民衆の戦争への協力・加担の歴史的事実について正視しなければならないでしょうし、戦争責任にたいしてもまっすぐに向きあわねばならないと思います。
 もとより戦争指導者たちと、わたくしたち女性・民衆の戦争への責任の度合いはまったく異なります。敗戦直後に支配層から出されたいわゆる「一億総懺悔」論は、天皇はじめ戦争指導者たちの責任の所在をいんぺいするためのきわめて欺瞞的なものでした。
 わたくしたち市民が主体的な戦争反省をするということは、たとえば、「慰安婦」問題の国家責任・法的責任を避けるために設けられた「女性のためのアジア平和国民基金」(略称・「国民基金」または「アジア女性基金」。一九九五年七月発足)やそれに与する一部知識人が強調している「政府と国民が協力してつぐない」をすることでは決してありません。これは要するに現代版「一億総懺悔」論にほかなりません。国家犯罪たる本質をかくし、責任の所在をあいまいにするものです。わたくしたち市民が主体的な戦争反省をおこなうということは、市民として主権者として、国家責任を負う政府にたいし、戦争犯罪への法的責任を履行させることと分かちがたく結びついているのではないでしょうか。
 さて、旧版刊行後一〇年ほど経過してから何人かの方々から、この本『フェミニズムと戦争』を中心としてご批判を頂戴しました。その一、二を左に示したいと思います。一つは女性史研究者の米田佐代子氏からのものです。
「鈴木氏が『この本〔『フェミニズムと戦争』――引用者汪〕を彼女ら(婦人運動家たち)に対する「告発」のつもりで書いたのではない』と明言しているにもかかわらず『戦時中彼女たちはこのように戦争に協力し、冀賛体制にのみこまれた。この誤りを二度とくり返さないようにしよう』という『教訓』を引き出すという方法になることは避け難く、『告発型』になるのは当然であろう。鈴木氏はそのことを率直に認めるべきであろう」「『告発型』の議論が、ややもすると戦争体験者を『見せしめ』的に扱うことになる点を指摘し」(米田佐代子「平塚らいてうの『戦争責任』論序説」『歴史評論』第五五二号〈一九九六年四月〉)云々と。
 いま一つは、女性学・社会学研究者の上野千鶴子氏からのものです。
「『国家』の限界と『天皇制』の悪は、歴史によって事後的にのみ宣告されたもので、そのただなかに生きている個人がその『歴史的限界』を乗りこえられなかった、とするのは歴史家としての不当な『断罪』ではないだろうか。鈴木の女性史が数々のすぐれた問題提起に満ちており、女性史に対して重要な貢献をしたことを認めつつも、しばしば『告発』史観と呼ばれるのは、このいわば歴史の真空地帯に足場をおくような超越的な判断基準のせいにほかならない」(上野千鶴子「『国民国家』と『ジェンダー』」『現代思想』一九九六年一〇月号)と。
 ここではお二人の批判にたいし、反論するいとまはありませんが、ただわたくしは、「告発型」とも「告発」史観とも思っておりませんし、この本を「告発」目的のために書いたのでもありません。読者がこの本を丹念に読んでいただけるなら、そのことはたぶん首肯されるでしょう。
 しかし、あえて「告発」という言葉にこだわるなら、わたくしはこの本を書きながら、アジアの戦争犠牲者や被害者からの「告発」を背中にひしひしと感じたものです。
 さらにいうなら「告発」するということは、たぶん「告発」されるという覚悟なくしてはできるものではありえないはずです。
 思わず長々しい「あとがき」となりました。読者の方々からのご叱正を切にのぞんでいます。
   一九九七年六月九日
鈴木裕子


※本記事は「s3731127306の資料室」2017年08月07日作成記事を転載したものです。

「戦争責任とジェンダー:「自由主義史観」と日本軍「慰安婦」問題」(1997年、鈴木裕子、未来社)

○目次

戦争責任とジェンダー

序章 性と侵略―『福岡日日新聞』『門司新報』にみる「からゆき像」 007

第1章 「自由主義史観」批判               039
  「慰安婦」の「強制」とは何か 041
  今、耳傾けて記憶に刻むとき――「従軍慰安婦」削除派のトリック 054
  「自由主義史観」は時代遅れの男権主義である 064
  セカンド・レイプにほかならない 067
  歴史の歪曲「慰安婦」攻撃を許さない 076

第2章 日本軍「慰安婦」問題の現在           083
  責任者処罰と「慰安婦」問題 085
  「慰安婦」問題と戦後賠償運動  102
  「慰安婦」問題と戦後日本社会 115
  「慰安婦」問題と国際連帯 141
  国連・クマラスワミ報告書(「戦時の軍事的性奴隷問題に関する報告書」)の意義 169
  日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題は「国民基金」では終わらない 177
  日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題の新段階と反「慰安婦」キャンペーン 189

終章 戦争責任とジェンダー――「国民基金」を主に     233
 あとがき 246
 初出一覧(巻末)




○引用

   あとがき
 本書は、日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題について、わたくしが一九九四年ころから折にふれて書きとめたものを中心にまとめたものです。同じく未来社から上梓されている『従軍慰安婦・内鮮結婚』(一九九二年三月刊行)、『「従軍慰安婦」問題と性暴力』(一九九三年一〇月刊行)に引き続きお読みいただくことで、一九九〇年から今日にいたる日本軍性奴隷制問題の経過をたどっていただけることになるかと思います。
 この問題に向きあうことで、わたくしは多くのことを学ばせてもらったように思います。韓国や台湾の女性運動の力強さに触れ、国際的な女性連帯運動にも多少のかかわりがもてたことも貴重な体験でした。
 とはいえ、いまだこの問題は未解決のうちにあります。それゆえ本書も文字通り中間報告にほかなりません。日本軍性奴隷制・性暴力被害者の尊厳・名誉回復に向けてのより新たなたたかいが始まっています。新しいたたかいに向かっての、これまでの歩みの検証に本書が少しでもお役に立てれば願ってもないことです。
 一書にまとめるに際し、誤記や誤植などは直しましたが、基本的に発表時の文章をそのままのこしました。このため、あまりに顕著な重複部分は削除いたしましたが、文脈上、必要と思われる重複はそのままとしてあります。読者の方々には煩瑣に思われるかもしれませんが、ご諒解願えればと存じます。
 最後になりましたが、最初に発表する機会を与えていただいたうえ、こころよく掲載を許された関係者各位に感謝いたします。また、未来社編集部の石田百合さんには今回もたいそうご厄介をおかけしました。あわせて深謝する次第です。


     一九九七年八月一日
                                        鈴木裕子


初出一覧(初出時とタイトルが異なっているものがあります。)
序章性と侵略
  性と侵略――『福岡日日新聞』『門司新報』にみる「からゆき像」(『福岡県史近代研究編各論(二)』福岡県、1996年3月、所収)
第1章 「自由主義史観」批判
  「慰安婦」の強制とは何か(『日教組教育新聞』1997年4月29日・5月13・20・27日・6月4日号
  今、耳傾けて記憶に刻むとき――「従軍慰安婦」削除派のトリック(『ヒューマンライツ』1997年6月号)
  「自由主義史観」は時代遅れの男権主義である(『図書新聞』1997年5月31日号)
  セカンド・レイプにほかならない(『世界』1997年3月号)
  歴史の歪曲「慰安婦」攻撃を許さない(『週刊金曜日』1997年1月31日号
第2章 日本軍「慰安婦」問題の現在
  責任者処罰と「慰安婦」問題『フェミニズムと朝鮮』明石書店、1994年9月、所収)
  「慰安婦」問題と戦後賠償運動(『統一評論』1995年2月号)
  「慰安婦」問題と戦後日本社会(『未来』1995年8・9・10・12月号)
  「慰安婦」問題と国際連帯(『未来』1996年3・4・5月号)
  国運・クマラスワミ報告書(「戦時の軍事的性奴隷問題に関する報告書」)の意義(『部落解放』1996年7月号)
  日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題は「国民基金」では終わらない(『社会主義』1996年12月号)
  日本軍「慰安婦」(性奴隷制)問題の新段階と反「慰安婦」キャンペーン(『未来』1997年2・3・6・7月号)
終章 戦争責任とジェンダー
  戦争責任とジェンダー――「国民基金」を主に(1997年7月稿)



※本記事は「s3731127306の資料室」2017年08月07日作成記事を転載したものです。

「個の確立」について

(都合上[書評]タグをつけました)

 きのうは憲法記念日であった。それにちなんで、すこし文章を書きたいと思う。このブログは基本的に資料紹介を目的としているため、書くのはあまり気が進まないのだが、今から書きたいと思うことは、ほかのたくさんのすぐれたブログ主が気がついていないことらしいので、ここに書くことにした。


[1]”日本人”

 日本国憲法以降の日本社会で、戦後民主主義のために必要不可欠とされてきた事の一つに、「個の確立」がある。これは筆者なりにまとめると、「なにものにもたよらず、自分で考え自分で判断しなさい。その責任は自分でとりなさい」というものである。こうやって見ると、文句のつけようがないように見える。もっとも政治文化の言葉というのは、そのようなものであることが多い。さてここで、「植民地主義の精算/未精算」というモノサシをあててみると、「”旧宗主国所属の日本人”としての”自分”」というものは何を意味するだろうか? 「いつなんとき”植民者の思考”にはまりこむかもしれない、あるいはもうはまりこんでいるかもしれない」という危険性は、まさしく”今現在”のものである。この”危険”を十分に理解しないで「自分で考え~」とは、きわめて危険なことである。特に、日本人が朝鮮半島との関係について考えるときに。もしかしたら、「植民地支配の精算」と「自立した個人の確立」が対立すると思考してしまうという大変な転倒の危険性すらある。
 筆者はここで朴裕河氏の「帝国の慰安婦」をめぐる一連のできごとが思い出される。ここで筆者は、あの問題だらけの本の賛同者が”植民者そのもの”だ、とまでは断言しない。言葉は過不足なく正確に使わなければならない。しかし、あの奇妙な一連のできごとが、”宗主国――被植民地”の関係が現在まで温存されていることとわかちがたい関係にあることは疑いない。
 さてこのあたりで、”日本人”側の問題は、おいておこう。これについていつの日か、今だ再評価を待つ朝鮮史家・梶村秀樹氏と関係づけてきちんと論じたい。ここで注目したいのは、”朝鮮人”側のことである。

[2]姜徳景《カン・ドッキョン

 3カ月ほど前、「“記憶”と生きる」(2015年、土井敏邦、大月書店)を読んだ。「責任者を処罰せよ」「奪われた純潔」などの絵を描いた元「慰安婦」の姜徳景氏の伝記である。この本を読んで、以前から筆者の考えていた推測をはっきり裏づけられたと思った。姜徳景氏は1992年に名乗り出て、戦後補償をめぐる活動に参加をして(注1)日本政府の反応を見た”後に”、絵画教室で絵の練習を受けて「責任者を処罰せよ」「奪われた純潔」などの一連の絵を描いたのである。決してあの一連の絵は1992年の名乗り出直後に描いたのでもなく、まして1992年以前に描いたわけでもない。
 姜徳景氏は、1996年09月04日に橋本龍太郎首相に対して「国民基金反対」の意思を示す手紙を送っている。「国民基金」の何が問題なのか、明快に指摘している。それにしても、「また、勝利することを信じて疑いません。」とは、実に驚くべき言葉ではないか。筆者は、この一文に驚かない人間は、根本的に鈍感だと思う。

「資料集 日本軍「慰安婦」問題と「国民基金」」(2013年、鈴木裕子編・解説、梨の木舎)P321


 日本政府が現在推進している「国民基金」は、元日本軍「慰安婦」の私たちをお金で惑わそうとするものです。歴史の真実をお金で売りとばそうとする行為です。
 過去、日本のあなたたちが犯した犯罪は、夢にも忘れることのできないひどいものです。けれども日本は日本軍「慰安婦」問題を初めとするあらゆる問題に謝罪と真相究明をしないまま、正当な賠償もせずに幕を引こうとしています。
 再度、日本政府の責任ある首相に要求いたします。かつての受難の歴史を回復することができるように、国際法に基づいた謝罪と賠償をし、私たちの名誉回復をはかることを求めます。すでに、韓国の私たちハルモニは日本に対して、民間募金を一円も受けないと拒絶しました。こうした状況にもかかわらず、なおかつ脅迫的に「国民基金」を強行するならば、日本は再び私たちの人権を蹂躙することになるのであり、国際社会で道徳的な責任を免れることはできないでしょう。
 私たちは死ぬまでこの問題に対して闘いつづけるつもりです。また、勝利することを信じて疑いません。日本がこれ以上、恥をさらさないうちに謝罪と賠償を行うことを要求します。

美徳景 一九九六年九月四日



[3]金学順《キム・ハクスン》

 上記資料集の次のページには、金学順氏の同日同宛先づの手紙がある。下にあるように、金学順氏は1991年08月14日に公開の場で証言をした元「慰安婦」である。

P322

 一九九六年九月四日日本国総理・橋本龍太郎貴下

 私は金学順と申します。一九九一年八月一四日に初めて証言し、日本政府が隠しとおしてきた「慰安婦」問題の歴史的な扉を開けてからもう五年も経ちました。誇らしいことなどひとつもない私自身の過去を明らかに名のりましたのは、いくらかのお金をもらうためではありません。
 私には死に水を取ってくれる身内も既におらず、死に装束も用意し入るべき墓も準備してあります。こんな私に何のお金が必要だというのでしょう。
 ところが、日本は「国民基金」を集めるほどの誠意を見せたのだからもう終わりにしてもいいだろう、何をさらに物欲しげに要求しているのか、といわんばかりの最近の日本側の態度には、私は憤りを押さえることができません。
 私か望むのは、日本政府の謝罪と国家的な賠償です。いくばくかのお金で解決することができると考えておられるのなら、それは間違いです。
 三六年の間植民地とされた苦痛に加えて、「慰安婦」生活の苦悩をいったいどのようにはらしたらいいとおっしゃるのでしょう。胸が痛くてたまりません。韓国人を無視しないで下さい。韓国のハルモニ、ハラボジに当時の行いの許しを乞うべきではないでしょうか

金学順 一九九六年九月四日



 
 筆者が調べた限り、金学順氏の伝記本はまだ日本語で存在しないようである。仕方ないので新聞の過去の記事などをあさってみると、金学順氏は注意すべき発言・行動をしている。

朝日新聞1995年10月18日 「募金ポスターに写真無断使用」 韓国の元従軍慰安婦自治労に回収要求 [金学順さん]
朝日新聞1997年12月16日 金学順さん死去、従軍慰安婦の体験、実名証言 「要旨:38度線上の川岸で、38度線北側にのこっている母親に呼びかけ」(注2)
・「平成11年07月08日 国旗及び国歌に関する法律案に関する公聴会 上杉聰公述人より」

(中略)
  それを見た瞬間、五〇年間の私の人生を目茶苦茶にした日本にたいする思いが一気にこみ上げてきて、胸をしめつけるような感じがしました。軍人たちがどこへ行っても日の丸を掲げて、「天皇陛下万歳」と言いました。日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中が腐ってしまうほど嫌な思いがする体験をしてきたのです。そのことがよみがえり、いまでも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。



 金学順氏が名乗り出た理由の一つに、「業者が勝手に連れ歩いた」などと政府高官が国会答弁したことに激怒したことが挙げられる。このことの重要性が未だに日本社会ではきちんと認識されていない。筆者はそれを考えるだに鈍感な連中に対して怒りが収まらないでいる。
 さて、金学順氏らが東京地裁におこした訴訟の1991年12月06日という日付は、ある人物の49日だった。金学順氏は、この人物に弔慰金を送っている。

[4]裵奉奇《ペ・ポンギ》

 筆者が知る限り、裵奉奇氏は被害当事者として世界ではじめて自身の証言をした日本軍元「慰安婦」である。「証言をする必要にせまられた」といったほうが正しい。1975年、強制送還の危険が生じ、沖縄県入国管理事務所に自身が沖縄に来ることになった経緯を代筆してもらった嘆願書を提出し、特別永住資格を得た。朝鮮新報に1977年04月23日に報道され、この日付は「慰安婦」問題関係者にとって一種特別な日とされる。

「[ルポ]韓国社会が忘れた最初の慰安婦証言者…その名はペ・ポンギ」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21570.html

 筆者は、元「慰安婦」自身の生活と認識の変化を追跡する必要があると考えている。その視点からみて、上の記事にはいくつか注目すべき点がある。

 当時(筆者注:1975年)、ペさんは韓国語をすでに忘れていた。そのようなペさんが日本語でキム氏夫妻にたびたびした話は「友軍が負けたのが悔しいさ」という話だった。キム・ヒョンオクさんは「おばあさんの立場では、日本軍が勝ってこそ(慰安婦である)自身も暮らせたのでそのように考えたようだ」と話した。ペさんは日本軍が負けて世の中が変わったということは知っていたが、それが“祖国の解放”を意味したということは理解できなかったし、朝鮮戦争で祖国が南北に分断されたという事実も知らずにいた。さらに「私が貧しかったから」、「それが私の運命だ」として、自分に起きた不幸を全て自分のせいにしていた。


  当時(筆者注:1970年代後半とそれ以降)キム氏は、チームスピリット訓練に反対する嘉手納基地前反対集会にしばしば連帯演説に行った。 キム・ヒョンオクさんは「おばあさんが『旦那さんはどこへ行ったか』と訊けば『反対集会に行った』、『それは何をするのか』と言えば『それはそんなこんなだ』と説明をしたりした」と話した。


 1989年1月のことだった。テレビでヒロヒト天皇が亡くなったというニュースを見たペさんが突然、「なぜ謝罪もせずに死んだのか」と言った。 ペさんがそのような話をするとは夢にも思わなかったキム・ヒョンオクさんは、ペさんに「天皇が具体的に何をしてくれたら良いと思うか」と尋ねた。 すると、ペさんは「謝罪をして欲しかった」と話した。


 (筆者注:1988年)ペさんに「私たちが旅費を出すから故郷に一度行ってみないか」と提案した。 ペさんは「そうだな、行きたいけど、一度行かなくては」と言いながらも確答はできなかった。そのうちにペさんはわあわあと泣き出してしまった。


 最後の引用文に関して一点指摘しておきたい。裵奉奇氏が帰国しなかった理由について、上記ハンギョレ記事が書いていないことがある。筆者は裵奉奇氏が故郷に一度も帰らなかったことを川田文子氏の著作で読んだことがあり、その理由は性暴力被害者が内面化しているスティグマが原因で故郷に帰れなかったのだと考えていた。そのような理由で中国などに残留した、もしくは家族のもとに帰らなかった元「慰安婦」が何人もいるということを知っているからなのだが、今年に入って別のことを調べていて、実はもう一つ、理由があったということを筆者は知った。

「【2017年4.23アクション】公開シンポジウム「日本軍「慰安婦」問題と朝鮮半島の分断~不可視化される被害者を見つめて~」」
http://dareiki.org/2017/02/13/wk20170423action/

 ここで掲示されているチラシの中に、裵奉奇氏の写真と共に次の解説文がある。おそらく、裵奉奇氏の生活支援をしていたキム・スソプ氏かキム・ヒョンオク氏、もしくは川田文子氏の証言にもとづくものだろう。ひょっとしたら録音記録があるのかもしれない。

「(故郷に)行きたいけど、行けないさぁ。だって向こうにも米軍基地があるじゃない」と涙する裵奉奇さん。1988年」


 筆者はこの一文を読んだとき、背筋にざぁっと冷たいものが走ったことを思い出す。筆者は、韓国の米軍基地事情についてざっとしか知識がない。しかしこの発言は、「米軍が韓国を支配している」という、韓国の米軍基地の本質を突いていないだろうか?

[5]「個の確立」
 長々と3人の元朝鮮人「慰安婦」の証言を記録に基づいて紹介してきた。結論として、筆者がいだいている、”ある考え”を書こう。

 この人たちこそ、もろもろの”せめぎあい”の中で「個の確立」をなしとげようとしているのではないか? 言いかえると、”この世の真の姿”が見えるようになってきているのではないだろうか? (注3)
 念のためにつけくわえておくが、この「個の確立」はなにも「朝鮮人被害者」に限らない。むしろ「被害者と加害者の関係」においてこの”現象”が観察されると、筆者は考える。原典はたしか「「慰安婦」問題の本質」(2015年、藤目ゆき、白澤社)だったと思うが、フィリピンにおいて最初に名乗り出たマリア・ロサ・ヘンソン氏は名乗り出当時「日本がPKO自衛隊を出すというので名乗り出た」「沖縄で米軍に性暴力を受けた少女は”私たち”だ(名乗りで直後に沖縄県でそういう事件があったことに対して)」という意味の発言をしている。

[6]ふたたび”日本人”
 では”日本人”はどうすればいいのか。ここで自販機でジュースを買うような答えはだせないが、補足として簡単に書くことにする。
 筆者個人は、上の3人の発言を信頼できる記録に基づいて追跡した。そして考えた末にその”真実性”を肯定した。この人たちの発言のほとんどは明快かつ理が通っているからである。その延長線上で日本社会を見渡すと、日本社会のありようが奇怪に思われて仕方がなくなったのである。筆者には、これこそ筆者自身の「個の確立」過程の初期段階なのではないかと思われてしかたがない。
 もう一点、日本軍「慰安婦」制度研究をリードした日本人研究者の林博史氏に関して。林氏は「沖縄戦と民衆」(2001年、林博史、大月書店)の中で「米軍捕虜になろうとした沖縄県民を見逃したりした”親切な日本兵”とは、”日本政府の意思に逆らった日本兵”である」という意味のことを書いている。それを戦後社会に延長してみれば、「憲法9条を”本当に”守っているのは、日本政府の意志(注4)に逆らい続けた日本人である」ということになるのではないか? さらにつけくわえるなら、林氏は「日本軍「慰安婦」問題の核心」(2015年、林博史、花伝社)のなかで「補論 「和解」をめぐって」という章をわざわざもうけ9ページにわたって、「帝国の慰安婦」とその賛同者を批判しているという事実がある。林氏は現在、「科学研究費助成事業 日本軍「慰安婦」制度と米軍の性売買政策・性暴力の比較研究」の研究代表者をつとめている。元「慰安婦」の聞き取り証言(注5)をあたっている人間にとって、もっと正確に言えば具体的な証言に基づいて日本軍「慰安所」の実態解明を進めている人間にとって(注6)、あのような本など本来は論ずるに値しないものだったはずである。
 要するに、”具体的にかつ原則に忠実に”というのを最後まで手放してはいけないということである。

                                                                                                                                                              • -

 あるいは、こう結論していいのかもしれない。
「戦後、日本政府と日本人の大部分は日本国憲法を徹底的に守ろうとしなかった、だから、「従軍慰安婦」たちをはじめとするアジアの戦争被害者が長いあいだ放置された。つまり、大勢の被害者当人は日本国憲法から放置されてきた。それは、”日本人”が個の確立ができなかったこととわかちがたい関係にある。そして、2017年現在、日本政府に日本国憲法を文字通り守らせようと一番たたかっているのは、元「従軍慰安婦」たち・そしてそれに連なる人たちである(注7)。この人たちこそ、「個の確立」をなしとげようとしている人たちである。”それに連なる人”たちには、”戦争を知らない子どもたち”も参加することが現実に可能である、それどころか必要ですらある」

 上で筆者は「結論していいかもしれない」と書いている。しかし、近いうちに「結論していい」と筆者が書けるようになるかもしれない。


注1:ほとんど指摘されていないが、姜徳景氏らは1994年02月07日に東京地検に「告発状」を提出したが結局、不受理になっている。筆者の推測では、「責任者を処罰せよ」が描かれたのは1994年02月07日以降のはずである。
注2:金学順氏自身は吉林省生まれ平壌育ち。生まれの父親は早死し、金学順氏14歳の時に母親が再婚、このときの「父親」がいろいろ言われている当の「養父」である。17歳のとき「慰安婦」にされ、最初の被害から約4カ月後に、日本軍の御用商人らしき朝鮮人男性にたのみこんで「慰安所」から脱走、その後母親などの親族とは会えないままだと証言している。
注3:特に、日本政府・日本社会の”真の姿”が、である。
注4:「本音」といったほうが正しいだろう。法律の実務を少し学んだ人ならば、法の実際上の運用と法のもともとの目的にそった運営はかけはなれていることが多いことを知っているはずである。
注5:おそらく全部合わせて100時間以上はあると推定される。
注6:というより、それ以外にどのようなやりかたがあるというのか?
注7:日本人以外が、日本政府に日本国憲法を守らせようとして何が悪い? そんなことをしてはいけないと、当の憲法のどこに書いてある? 内政干渉? 「戦争をする/しない」が外交問題にならないなどという思考こそ鈍感きわまるものである。


※本記事は「s3731127306の資料室」2017年07月01日作成記事を転載したものです。

「関釜裁判ニュース」より戦争被害当事者の活動年表

以下、元「慰安婦」および、元挺身隊隊員当人の活動を年表化した。これからどしどし更新する予定である。





1993年04月17日:河順女氏・朴頭理氏・朴SO氏の3人、福岡入り。追記:同年04月06日、被告の日本政府、東京地裁への移送を申し立てる。

1993年04月17日:朴SO氏、担当教師だった杉山トミ氏と福岡空港にて再会。

1993年07月20日:金ハルモニ(本名不明)、死去。
1993年09月06日:第1回口頭弁論、河順女氏・朴頭理氏・柳SO氏・朴SO氏、原告の意見陳述。このとき、朴頭理氏が突然「慰安婦」時代のことを話しはじめる。

1993年12月12日:第2回口頭弁論のため朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏とその支援者、来日。
1993年12月13日:第2回口頭弁論、朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏、原告の意見陳述。この5人は第二次訴訟原告。
1993年12月14日:朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏、自治労福岡県本部女性部大会にてアピール
1993年12月14日:朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・鄭水蓮氏・李順徳氏、離日。

1994年03月13日:原告(人数・本名不明)ら来日
1994年03月14日:第三回口頭弁論、朴SU氏・李YO氏・姜YO氏・李順徳氏にて意見陳述(鄭水蓮氏は足の病気のため来日できず)。「原告滞在記」によると、姜YO氏は「一生懸命意見陳述の練習をしていた」とある。

1994年05月25日:元「慰安婦」15人(挺対協に所属)、羽田総理に面談を申し込むも拒否される。警備員に押し返され、全治一ヶ月のケガをした人もいる。同年06月03日:日本政府に対し抗議声明を発表
1994年06月07日~06月08日:被害者多数(氏名不明)、国会前で座り込み
1994年06月25日:梁錦徳氏、第四回口頭弁論にて陳述

1994年08月17日~08月19日:李順徳氏、弁護士との打ち合わせのために来日。その時に「見舞金構想」のことを聞き、激怒する。
 以下、李順徳氏の発言を引用。

「おらは乞食ではないよ。あっちこっちから集めた同情の金は要らない。国がちゃんとおらの前に来てあやまって、金を出せばよろこんでもらうよ。早くして欲しい。死んでからでは遅いよ」

1994年08月19日:李順徳氏、支援団体とともに「見舞金構想」を批判
1994年09月04日:李順徳氏、支援団体とともに村山談話への福岡市内抗議デモ
1994年09月05日:第6回口頭弁論、李順徳氏、意見陳述。

1994年11月28日:第7回口頭弁論、河順女氏、陳述書(同年11月04日付)を提出。

1995年02月27日~03月01日:金順徳氏、代表として第3回日本軍慰安婦問題アジア連帯会議に出席。詩人の石川逸子氏、国民基金反対を主張。

1995年05月12日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、来福。
1995年05月14日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、大名カテドラルにて証言集会。
1995年05月15日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、第9回口頭弁論終了後、下関市内を約1時間デモ更新。

1995年06月18日:「日本軍『慰安婦』へのごまかしの「民間基金」に反対する六・一八集会」、鈴木裕子氏らの講演など。
1995年07月22日:朴頭理氏、担当の山本弁護士と会って裁判の打ち合わせ。このとき、「民間基金」に反対意見を示す。

1995年08月13日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、支援者とともに、富山不二越工場の敷地内に入り現地調査(お盆でガードが甘かったらしいとのこと)

1995年10月22日:朴頭理氏、来日。
1995年10月23日:第11回口頭弁論において朴頭理氏に本人尋問。

1996年01月27日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏、来福。
1996年01月29日:第12回口頭弁論にて朴SO氏・柳T氏・朴SU氏が参加(傍聴のみらしい)。のちの裁判報告集会で朴SU氏は「朗々と軍歌を歌」って怒りを発散させたという(韓国では日本の軍歌は歌えないらしい)。

1996年03月20日上杉聡氏の講演のなかで、「1992年08月、国連人権小委員会にて黄錦周氏が証言した」ことに言及される。
1996年03月28日:第3回アジア女性連帯会議にて各国被害者の証言(氏名不明)

1996年05月08日、李貴粉氏、釜山の日本総領事に血判つきの抗議文「橋本日本国総理におくる抗議文」を手渡す。
1996年05月22日、第14回口頭弁論において、朴SO氏・柳T氏・朴SU氏の三人の本人尋問。

 1996年07月23日~07月25日:梁錦徳氏、日本滞在。このとき富山不二越裁判の敗訴の知らせを受け、「みるみる元気をなくす」とのこと。
1996年07月20日:ブルシラ・バルトニコ氏、被害事実を証言。

1996年08月14日:フィリピン人元「慰安婦」4人に「国民基金」一時金支給。マリア・ロサ・ヘンソン氏、「お金もさることながら首相の手紙に満足しています」「もう疲れた」と話す。
1996年08月12日:李貴粉氏、支援者らとともに「国民基金」事務所に抗議。和田春樹氏、ここで「クマラスワミ韓国は国連で採択されませんでした」「韓国の国会議員たちが『国連勧告に従え』と言っているのは間違った認識です」などと発言。支援者らはこの発言を日本政府の本音と認識。支援者の金文淑氏、抗議声明を読み上げる。このとき、多賀業務第一部長が「そんなことは言っていない、ウソですよ」などと抗議声明を頭から否定してかかる発言。李貴粉氏、「国民基金」関係者らが会見を打ち切ろうとしたとき、怒りを爆発させ、多賀業務第一部長を「胸ぐらをみ」抗議した。台湾の被害者の黄秋月氏とともに詰め寄った。
 以下、引用

 「ふてぶていしい態度だった多賀業務第一部長もついには顔が引きつり、蒼白となって、「すみませんでした。すみませんでした。と頭を下げるのみでした。一方の和田事務局長は、貴粉さんの糾弾が始まるや、そそくさと資料を片付けて同僚を見捨てて出ていってしまいました。」

1996年09月30日~10月04日:李貴粉氏・柳T氏・朴SU氏・李YO氏・河順女氏・李金珠氏・梁錦徳氏・朴H氏・李順徳氏・朴SO氏・、日本の支援者三人と会う。
1996年10月23日:第16回口頭弁論にて李YO氏・姜YO氏氏の本人尋問。
1996年10月26日:文玉珠氏、死去。文氏は1992年03月に証言集会にて証言。それが「関釜裁判を支援する会」につながる。

1996年12月08日~12月10日:姜徳景氏、「日本の侵略展・佐賀」にて唐津・佐賀・西有田で証言。
1996年12月11日:姜徳景氏、続いて戸畑にて証言。
1997年01月29日:河順女氏、第17回口頭弁論に出席する予定だったが健康上の都合から出廷不可能に。その後三者協議
1997年02月02日:姜徳景氏、死去。「国民基金拒否」「わたしのすべてを歴史に残しておくれ」と遺言。

1997年04月28日:杉山とみ氏(朴SO氏の恩師)の第18回口頭弁論にて証人尋問。

1997年06月08日:李貴粉氏、「教科書からははずせんバイ!」集会において健康上の都合から出席できずメッセージをおくる。

1997年09月29日:李順徳氏・朴SO氏、支援者とともに来福。交流会。
1997年09月29日:李順徳氏・朴SO氏、第20回口頭弁論にて最終陳述。

1997年11月16日:金学順氏、死去。「金学順氏の橋本首相への手紙」が「ニュース」23号に収録

1998年04月26日:朴頭理氏・梁順徳氏・李順徳氏・朴SO氏ら7人の原告、支援者と共に来福。
1998年04月27日:関釜裁判の下関地裁判決。原告も下関地裁前で待つ。

1998年04月15日~04月17日:ソウルにてアジア連帯会議、「国民基金」の実質的失敗と「女性国際戦犯法廷」の開催を確認
1998年05月01日:元挺身隊の原告7人、控訴。

1998年07月20日:候巧蓮氏、福岡市あいれふにて被害証言。
1998年09月20日:朴SO氏・柳T氏・朴SU氏・李YO氏・姜YO氏、釜山にて日本からきた支援者と交流。国民学校時代に覚えた日本語で話すことと朝鮮語で話すことはちがう。朝鮮語で話すほうが本音に近いと支援者は感じたようだ。
1998年09月21日:李貴粉氏、来韓した日本の支援者と会う。国民基金反対の意思を示す。また、鄭水蓮氏・河順女氏と会う。

1999年01月08日:朴SO氏、裁判前に日本政府と裁判官あてに「声明」

1999年02月22日:朴頭理氏・朴SO氏・柳T氏、来福。交流会。
1999年02月23日:朴頭理氏・朴SO氏・柳T氏、「関釜裁判」の控訴審第一回口頭弁論にて意見陳述。

1999年05月20日:朴SU氏・李YO氏、来福。交流会。
1999年05月21日:朴SU氏・李YO氏、第二回口頭弁論にて意見陳述。
1999年05月11日:候巧蓮氏、死去。
[李容洙氏と朴SU氏の話]

1999年07月23日:梁錦徳氏、李容洙氏(支援者として)と支援者と共に来福。交流会。
1999年07月24日:梁錦徳氏、第3回口頭弁論にて意見陳述。

1999年11月11日:金景錫氏、来福、交流。
1999年11月25日:柳T氏、朴SO氏、来福。交流会。
1999年11月26日:柳T氏、第4回口頭弁論で意見陳述。
1999年11月28日:柳T氏、会員にキムチづくりの指導をする。
1999年12月10日~12月12日:レスター・テニー氏、「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」にて証言。
[レスター・テニー氏が証言しているときに、右翼の街宣車が会場前で騒いだ。実行委員によると「右翼が会場につっこんできたとしても警察としては責任が取れないというので、もしそうなった場合は自主退去してください」とのこと。]
1999年12月11日~12月12日:金子安次氏(中国帰還者連絡会会員の元戦犯)、「戦時・性暴力 過去――現在どう立ち向かうか~一九九九年国際シンポジウム」にて自身の性暴力加害証言。

2000年01月17日~01月21日:朴頭理氏・李順徳氏・朴SO氏・朴SU氏・梁錦徳氏、精神科医の桑山紀彦医師のPTSD診断をうける。

2000年02月24日:李YO氏・姜YO氏、来福。交流会。
2000年02月25日:李YO氏・姜YO氏、第5回口頭弁論にて意見陳述。
2000年02月26日:李YO氏・姜YO氏、交流会。

2000年05月05日:河順女氏、死去。
2000年05月19日:李順徳氏、来福。交流会。
2000年05月19日:李順徳氏、第6回口頭弁論にて意見陳述。

2000年08月20日:朴頭理氏・李順徳氏・朴SO氏・姜YO氏、尹貞玉氏と共に来福。交流会。
2000年08月21日~08月22日:朴頭理氏・李順徳氏・朴SO氏・姜YO氏、第7回口頭弁論にて本人尋問。尹貞玉氏、本人尋問。[(裁判長驚いた様子)、他の被害者の様子などを証言]

2000年11月09日:梁錦徳氏、来福。交流会。
2000年11月10日:梁錦徳氏、第9回口頭弁論で意見陳述。

2000年12月12日:女性国際戦犯法廷、「天皇有罪」をふくむ判決。あくまで「性暴力を知りうる立場でありながら放置した責任」であり「性暴力を行わせた責任」として有罪。それすら番組改編事件で圧力がかかった。
2001年02月10日~02月13日:姜YO氏・柳T氏・鄭水蓮氏・朴SU氏・朴頭理氏・朴SO氏・李順徳氏・梁錦徳氏、来韓した日本側支援者と交流。金J氏(河順女氏の甥)らと河順女氏の墓参り。高裁判決へのメッセージ。

[36号]

2001年03月28日:原告7人(朴頭理氏・梁錦徳氏・柳T氏、朴SO氏、朴SU氏ら)が福岡入り
2001年03月29日:広島高裁判決、「一審被告(国側)の本件控訴に基づき、原判決主文第一項を取り消す」、原告7名、激しい怒りをもって抗議。「裁判官、出てきなさい」と発言。
2001年03月31日:原告7人

[37号]
(2000年07月:「不二越強制連行未払賃金訴訟」にて和解成立、挺身隊員6人徴用工1人の計7人がひとりあたり未払金約300万円を受け取る)

2001年06月11日、李容洙氏、支援者とともに福岡教育委員会にて抗議の申し入れ
2001年07月16日~07月19日:支援者、朴SO氏・金景錫氏・朴SU氏・柳T氏・姜YO氏・李YO氏
2001年09月06日:趙潤梅氏、楊秀蓮氏(南二僕氏の養女)、第三回尋問

[38号]
2001年10月10日:金景錫氏、来福
2001年10月28日:朴SO氏ら、東京都にある不二越東京本社にて交渉を申し込むが門前払いを受ける。
2001年10月30日:張T氏・金J氏・羅T氏・朴SO氏・朴J氏ら、富山県不二越本社にて交渉を申し込むが、警備主任が「当社の従業員であったかどうか確認できないから入れることができない」などといってこれも門前払いをする。原告ら、激しく抗議する。これに対し不二越側は高齢の申込者を実力行使で排除しようとした。

[39号]
2001年08月18日:鄭水蓮氏、死去
2001年12月27日:朴SO氏・柳T氏ら、釜山不二越工場に交渉を申し込む。

[40号]
2002年07月29日~08月02日:朴SU氏・成S氏・梁錦徳氏・李順徳氏・朴SO氏・羅H氏・金J氏支援者と交流
2002年09月06日:朴小得氏ら9人、ソウルの不二越営業所に抗議行動

[41号]

2003年02月:李J氏・朴SO氏、不二越株主総会に出席。不二越側は原告らの発言を猛烈に阻

止しようとした。
2003年03月25日:最高裁判決、実質的に門前払であった。原告らはこの判決を知らされて激

怒した。
2003年03月28日:金J氏・羅H氏・成S氏、来日。
2003年03月31日:李B氏・李J氏・全O氏・安H氏・崔F氏、来日
2003年04月01日:第二次不二越訴訟がはじまる。

[42号]
2003年06月14日:支援者らが来韓、朴SO氏・梁錦徳氏・姜YO氏・朴SU氏・李順徳氏・柳T氏・

李YO氏ら原告と合う。
2003年07月19日:第二次不二越訴訟第1回口頭弁論。金K氏が意見陳述。

[43号]

2003年10月01日:朴SO氏・金J氏・羅F氏・成S氏ら、不二越ソウル支社に申し入れ。
2003年11月07日:第二次不二越訴訟第2回口頭弁論にて、柳T氏・朴SU氏が意見陳述。意見陳

述の前にビラまき。

[44号]
2004年01月19日:朴SO氏ら、不二越三星電子が提携することに抗議する。
2004年02月20日:李B氏、不二越株主総会にて発言。
2004年03月17日:第二次不二越訴訟第3回口頭弁論にて、李J氏、意見陳述。

[45号]
2004年05月01日~05月05日:柳T氏・朴SU氏・姜YO氏・李YO氏・李金珠氏・梁錦徳氏・成るS

氏・朴頭理氏・金景錫氏・朴SO氏・金J氏・羅H氏・李順徳氏、支援者と会う
2004年05月20日~05月22日:郭貴勲氏・李相玉氏・姜根福氏・アモニタ・バラヤディア氏、

国際連帯協議会ソウル大会にて証言





2017年04月15日:使用「ニュース」No.01、06、16、17、
2017年04月16日:使用「ニュース」No.02、03、04、05、07、08、09、10、11、12、13、14、15、18
2017年04月22日:使用「ニュース」No.19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35
2017年07月31日:使用「ニュース」No.36、37、38、39、40
2017年08月01日:使用「ニュース」No.41、42、43、44、45


※本記事は「s3731127306の資料室」2017年06月11日作成記事を転載したものです。