『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

3つの原爆関連データベースで、「東大橋」で検索した結果

新井俊一郎氏の証言で重要な場面の一つに、「東大橋」が出てくる。

被爆地    当日午後、東大橋から入市し、爆心から二キロ以内の段原大畑町・比治山下を歩いて出
       汐町の自宅へ帰る。翌日、爆心より一・四キロの東千田町の学校へ行く)

その東大橋の真ん中で私たちは、憲兵の一団に出くわします。全身火膨れで逃げ惑う人たちと違って汚れもなく、ピカピカの軍服に「憲兵」の腕章をつけ、誰一人、広島に入れるものか、と仁王立ちでした。私たちは、たちまち捕まりました。「中学生が、今ごろいったい何をしているのだ」と怒鳴りつけられ、その激しい剣幕に私たちは立ちすくむしかありませんでした。

すぐ脇で、自転車を押し肩から写真機を下げた男の人が、憲兵と喧嘩腰で言い争っていました。彼は「広島に入れろ」と押し問答していました。写真機を持ち、そんな勇気があるのは新聞記者だけだ、と思いました。しかし憲兵は数人の一団です。凄まじい怒号が聞こえたと思った瞬間、その人は自転車もろとも、橋の下を流れる猿猴川に投げ込まれていました。そののち彼がどうなったのか知るすべもありませんが、とても恐ろしく感じました。

やっと許されたので、橋の上を広島の町に向かおうとしたとき、幼い姉妹が現れたのです。小学校低学年くらいのお姉ちゃんが小さな女の子の手を引いて、群衆の中からよろよろと歩み出て来たのです。二人とも顔は大やけどのため風船のように腫れ上がり、それでも目と口の部分が少し窪んでいて、何か言っている声が、かすかに聞こえるように思えました。霞の中から湧き上がるように現われた二人は、ゆっくりと私の右横をすり抜けて行きました。お姉ちゃんが妹に小さな声で「しっかりね、しっかりねっ」と繰り返し励ましているように私には思えました。現われたときと同じように二人はまた、群衆の波に飲み込まれ消えていきました。万が一にも、あの二人は生きてはいないでしようね。でも何とか生きていて欲しい。決して忘れられない場面です。

時刻はもう、午後三時か四時近くなっていたでしょう。比治山の向こう側は煙と炎が燃え盛り、空にはキラキラと細かい紙切れが舞っていました。

無念の思いを届けたい 新井新一郎さんに聞く - 遺言「ノー・モア・ヒロシマ」-未来のために残したい記憶-


以下の3つのデータベースでしらべたが、新井俊一郎氏の証言に出てくる「新聞記者」または「姉妹」と同一人物を確認できなかった。

(893人の証言を登録)
国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク

(画像資料が多いようだ)
広島平和記念資料館 平和データベース

(「被爆者(広島)」19人、「被爆者(長崎)」8人、「 在米被爆者」5人、「被爆兵士」12人の証言を登録)
NHK 戦争証言アーカイブス


……ここで、証言に出てくる人物と同一人物を確認できなかったことも大事なのだが、もう一つ、非常に大事なことは、「ひろしまタイムライン」制作班の監督役2人(上松圭、平尾梨佳)もスタッフも、検索することを思いつかなかったらしい、ということである。3つのデータベースの検索にかかった時間はだいたい5-6分。時間がかかりすぎるということは絶対にない。ということは、制作班全員が思いつかなかった、ということである。わたしは、言い尽くせないほど恐ろしいことだと感じる。