『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや23

1922年
東京都江東区生まれ
1943年
12月、学徒出陣で入隊
1944年
独立臼砲21大隊としてレイテ島へ
1945年
レイテ島で終戦を迎える
 
12月復員、戦後は大学を卒業し会社員に


[1] 学徒出陣 07:48
[2] 2度のレイテ行 06:11
[3] レイテ島上陸 06:49
[4] 山へ、奥地へ逃げた 04:02
[5] ゲリラ 03:37
[6] 現地住民に捕まった 09:58
[7] 捕虜収容所へ 05:41
[8] 焼け野原の東京へ 05:37
[9] 異郷の山野に唯ひとり 03:52

[1] チャプター1 学徒出陣 再生中07:48
学徒出陣ですからね。22ぐらいのときですね。あれ、もっと早いか。1年行ったんだから。わたしがあれですよ、生まれは大正11年8月でしょう。それで入 隊が、あれは18年か。18年12月の学徒出陣ってのがあったじゃないですか。あれですから。いくつになんのかな、二十歳ぐらいですかね。

Q:学徒出陣で戦争に行くのって、どういうお気持ちなんですか?

そ のころの気持ちって、大体・・・だけどみんな学生もね、一時的には延ばしてもらってるわけですよね、大学の期間だけは。だけどどうせ軍隊行かなきゃいけな いっていうのは、その当時の通念だから、どうせ行かなきゃなんないと思ってましたけどね。ただ、在学中は免除されてたわけ。わたしは商科だから文科系です よね。で、理科系は残ったんだよね。残したんだね。技術者という意味でね。文科系が全部徴集されたわけですよね。だから当然だと思ってたけどね。そのころ のあれでは、みんな全部、軍隊入らなきゃいかんっていうことになってたわけだからね。
ただわたしは、学生の、大学1年のときに肋膜炎という、いわ ゆる今でいう結核かね、肋膜炎になって1年間休んだんですよ。学校をね。1年も休まなくてもよかったんだろうけど、うちのお袋が完全に治したほうがいいっ て、心配だからっていうんで1年間休まされた。それが原因でね、教練を受けなかったわけでしょ、1年間。あのころね、なんといってもね、軍隊っていうか、 軍部のあれが強かったですからね。教練を受けてないもんだからね、幹候(幹部候補生)になれなかった。それが良かったのか悪かったのか、運が悪いって運が 悪いのか。いわゆる学校の配属将校の、そのころみんな学校の配属将校いましたからね。それの要するに教練の実績報告がないとね、なれなかったんですよ。だ から運が悪かったって運が悪いんだけども、まあ生きて帰れたっていうことは、運が良いのかなとは思うけどね。危なかったことは危なかったけども、なんとか 生き残れたっていうのは、運が良いほうかなあ。ただ幹候に受かって、見習士官になって、どうしたか。同じような連中は、なにか内地にあちこち、北海道だと か、あちこちうろうろしてたっていうような話は聞いたから、そのほうが楽だったかもしれないけど。分かりませんね、こういうのは。運だから。

Q:そういうなかで成島さんの部隊は、独立臼砲21大隊ですけど、そもそも臼砲って、あまり聞きなれないんですけど、どういう?

要 するにここに書いてあるんだけど、この資料が少しあれだと思うけど、要するにこういう、なんかばかでかいロケット砲だっていうんですよね。ドイツから輸入 したやつらしいですけどね。だから弾が3つに分かれるぐらい大きいんですよ。その3つが、1つ運ぶのに、4、5人で担いで歩かないとならないぐらい大きい やつだから、それ3つを括(くく)らせたらものすごくでかい。その弾を、独りで飛んでいくんですよね。なんかこうやってひっぱたくと、飛んでいくっていう ようなものらしいですけど、ドイツって書いてありますね。この大岡昇平さんのあれにはね。要するに臼みたいなやつですよだから。砲身なんていうと小さいん だけど、要するに弾が自分で飛んでいくっていうものですよね。

Q:部品が3つに分かれてるんですか?

部品って、弾がね。 弾が3つぐらいに分かれるんですよ。その1つを担ぐだけでも4人ぐらいの。だからばかでかい弾ですよね。だから飛んでいくのも、そんなに飛ばないんじゃな いですか。かえって戻ってきちゃうんじゃないのと思うぐらいの。自分たちも被爆しちゃうんじゃないかなって、思うような感じもしますけどね。百何十メー ターとか言ってましたね、飛ぶのが。そんなようなあれですね。そのころの最新式かどうか知らないけど。

Q:破壊力はあったんですか?

いや、撃ってないから分からない。どのくらい破壊力があったのか。全然撃ってないですから。全部海の藻くずになっちゃった。


[2] チャプター2 2度のレイテ行 06:11
マニラへ着いて、19年の夏ですか。8月にマニラ行って、カバナツ湾っていうとこ行って。要するにそのころは、ルソン島でね、決戦するつもりで行ったん じゃないですか。陸軍はね。だけどアメリカがですね、急きょレイテ来たんですよね。あそこを兵站地にするべく。フィリピン落とすためにはね。それで慌てて つぎ込んでるみたいですね、レイテ。それですぐレイテ。サイパン落ちた後ですけどね。すぐレイテへ行けということで。それで初めに、いつでしたかね、1回 レイテへ向けて、それ(臼砲)積んで、兵器積んで出たんですよ。船団組んで。そしたらね、座礁しちゃったの。南ルソンの沖合いで座礁しちゃってね、それで 兵器が、そこで駄目になっちゃった。藻屑になっちゃった。みんな。僕なんかはね、非常に早いあれで助けられてっていうか・・海軍のね、あれに、艦艇に助け られて、マニラへ早く帰れたほうですけどね。残ったのは途中でね、やっぱり制空権なかったですからね、ほとんど、みんなはボカチン(爆撃)食っちゃったん です。それで、船が。それでみんな海に投げ出されて、それで24時間ぐらいかな、泳いで。で助かった人は、マニラへ帰ってきました、あとで。僕らマニアへ 先に戻ってた。
それで要するにマニラで、いわゆるなんにも兵器もなんにもないですからね、要するにゴロゴロしてたっていうかな、マニラにしばらく いて。そうしたらまたね、ロケット砲っていうのが、またこれもドイツだと思うんだけど、もっとね、弾は小さいんですけどね。砲身は、大砲はね、大砲ってい うか、あれは滑り台みたいなもんですよ。やはり自分で飛んでくんですよ。お尻をたたくと、弾が。そのロケット砲を、山下大将ですからね、あのころ、入手し たらしくて、それ持ってまた行けっていうことになったんです。レイテ。
それで2回目に、全員じゃなかったんだけど、わたしたちの第2中隊だけじゃ なかったかと思うけど、再びレイテへ行けということで行って、行ったんだけど、初めはオルモックへ行く予定だったらしいですけどね。わたしもよく分かんな いだけど、そのへんのね、主な上層部のね、あれはね。だけど、どうもオルモックはね、米軍にね、占領されてて、とても行けなかったわけですよ。

Q:今思えば、それこそ1回海で壊滅しかけた兵隊さんたちを、またレイテに送り込むって、どう思います?

そ れはもう。だってね、僕ら一銭五厘ですよ。馬よりも下なんだ、扱いが。だから南へ、船団でマニラへ行くときもね、香椎丸って大阪商船だったと思うんだけ ど、香椎丸って貨物船に乗せられて行ったわけだけども、一畳に13人ぐらい詰め込むんだよ。だからね、とても中入ってらんない。みんな甲板に出て立ってる ぐらいなんですよ。だけど、馬はちゃんと乗ってた。だから馬より下なんだよ。馬はそりゃあ、やっぱり、そのころいくらか知らないけど、値段はあったで しょ。何万円か知らないけど。人間一銭五厘だから。人間の価値ってなかったわけだよ。一銭五厘で連れてこられて。そのころ郵便が一銭五厘だから。赤紙、一 銭五厘で徴集すれば、それででしょ。そういうもんだったんだよね。今考えると皆さん随分おかしいと思うかもしれないけど、そういう体制だったんだね。


[3] チャプター3 レイテ島上陸 06:49
だからもうオルモックはね、占領されてたんですよね。それでしょうがないから、サンシードロ(サン・イシドロ)とか、という漁港だよね。そこへかく座(浅 瀬に乗り上げること)してね、上陸することになったんです。急にね。そこでも、だから全然制空権ないから、かく座して1時間も経たないうちに、どんどん米 軍のね、攻撃受けて、空襲受けて。それで僕は運が良いから、良かったんだなあ。上陸用舟艇もね、自分が持ってるものしかないわけですよね。上陸をするの に。急いで上陸、回収したんだけど、朝方だったけどね。僕ら何番手ぐらいかな。上陸用舟艇乗って基地までね、運んだんですけど。みんなが、工兵がね。
そ のときから機銃掃射受けて。みんな危なかったんだけど、結構機銃掃射ってのも、下のほうにくると幅があるんだね。弾と弾と間は、割合にね。随分小船ってい うか、舟艇の周りに弾落ちましたけど当たらなかったんだ。当たった人もいたかもしれませんけどね。みんな頭隠して、突っ込んで頭隠してたけど、背中は丸出 しだからね。撃たれれば死んじゃうだろうけど。結構それでもね、助かったんだね。
それで上陸と同時に、とにかく泥の中に顔突っ込んで。それから物 陰、岩陰とか隠れたりして。朝から晩までとにかくね、米軍の飛行機がね、ひっきりなしに機銃掃射していくわけですよ。上陸したら。それと同時に船のほうは ね、みんな攻撃受けて、上陸舟艇も途中でなんかね、運べなくなってきてるみたいだったね。どのくらい上がったかね。あのときね。そのときに、関東軍の一部 も行ってたんだよ。それも一緒に若干上がったんだよね。何人ぐらい最後に上がったのかね、よく分からないですけど、とにかくね、夜暗くなるまで、とにかく 何回も何回も空襲。制空権ないから、日本の飛行機は全然飛んでこないですよ。向こうのなすがまま。ドンドンドンドン機銃掃射受けられたですよね。
夜 になるまで、とにかくしょうがないからじーっとね、隠れてるしょうがないですけどね。長かったですね、その1日は。朝からですから、夜暗くなるまで。船の ほうは火災起きて、爆撃くって。それで重油も流れ出してくるからね、火の海になっちゃうんですよ。湾はね。だからね、途中から潜りこんで、飛び込んだ人も いたかどうか知らないけど、岸まで。だって顔上げれば火だから、潜ったままで岸まで泳がない限り、助からなかったんじゃないかと思いますけどね。とにかく 夜まで長かったですね。その1日は。
それで夜になって、やっと空襲終わってから這い出してみんな。それで何人残ったのかなあ、あれ。大分岸辺で は、なんか負傷者もいたみたいでしたけどね。そんなの構まっていられないみたいね。とにかく奥地へ逃げ込もうということで。だからそのときから、なんにも ないんですよ、兵器もなにも。敗残兵ですよ、要するに。上陸したときから。全部兵器ないんですから。
その日がまた、その夜がまたね、あれはだねえ、雨が降ってねえ。たまたま雨が降っててね、道がとにかく泥沼でさあ。

夜、 雨の中ね。橋が泥沼でね、歩くのもね、疲れちゃっててね、もうどうでもいいやと。ここで寝たいっていう。人間って、そうだね、ああなると。もう置いてって くれと。ここで死にたい。寝たほうがいいっていう感覚だね。だけど要するに、たたき起こされて、歩かされて、やっとこさっとこ行ったんだけどね。あれはえ らかった(大変だった)思い出ありますね。


[4] チャプター4 山へ、奥地へ逃げた 04:02
そこでね、何日いたんだろうなあ。あそこへしばらく。しばらくったって、そんなに長くはないんだろうけど、1週間もいたのかなあ。その間、米軍がビラ撒い てくんですよ。それで投降しなさいというビラを盛んに撒いてました。だけどいうこときかないから、結局アメリカ軍がね、サンイシドロ湾岸からね、掃討に上 がってきたわけですよね。我々を  いつまでも置いとけないだろうって。それで奥地へ逃げ込むということになって、そこ引き払って奥地へ奥地へと歩いた。 そのときね、じゃあどこへ行くつもりで歩いたのかね、わたしには分からないけど、おそらく今言ったオルモックに上がってる友軍がいたわけでしょ。まだ戦っ てたかどうか知らないけど。確か、それに合流しようと思ったんじゃないかと思いますけどね。とにかくそっちのほうへ、とにかく行こうということだったらし いですね。
でもそのときにはね、あまり、いわゆる独立大隊とかなんとかって、そんな形式になってないね。なんか烏合の衆みたいな感じ。残った連中 がね。誰か、だけど指揮したんだろうね。周り集まった連中が、全部一緒になって行ったんだろうと思うんだけど、1日歩いて、どんどん歩いて。どこ行くつも りだったわたしもよく分かんないけど、とにかく1日中歩いて、夜草むらへ隠れて。しかしね、それでも結構何百人かいたんでしょう、あれね。夜歩いていれば ね、足音だけでもね、結構。とにかく静かなとこなんだからね、わかっちゃうわけよね。みんなゲリラ多くてね、あのレイテってところは。で、ゲリラに付け狙 われたんですよ。
それで一晩寝て、朝方にゲリラに襲われてね。こっちはほら、ほとんど兵器たるものないでしょう。何丁か小銃があったのかな。機関 銃が1丁か2丁あったのかな。もうとにかく向こう迫撃砲持ってるしね。とにかくそこでね、バラバラになっちゃった。みんな逃げろ逃げろっていうんでね、バ ラバラに、あちこち、バラバラになっちゃった。だからそのときから分散しちゃったんだね。


[5] チャプター5 ゲリラ 03:37
とにかくこちらには何もないんだからね、抵抗のしようがないわね。逃げるしかないわけだから。ゲリラの装備も大したことなかったかもしれませんけどね。せ いぜい迫撃砲ぐらいで。だけどこっちが何もない。竹やりじゃあね、話にならないんで。だからそれから散り散りになって、それで朝襲撃くったんだよね。それ からみんないて、それでどうしたのかなあ。それぞれある程度オルモック方面、なんかそれぞれ、そうか、途中でバラバラになったのを、一応はまとめる連絡が あってまとめて、オルモック方面歩いていったんだよね、きっとね。
それで夜まで歩いて、逃げて歩いて。そして夜、なんていうんだろあれ、ここはよ く、それがよく分かんないなあ。山の、アメリカ軍の陣地があったとこなんだね。そこでアメリカ軍から攻撃を受けたんですよ。そこまでは、若干グループをな していたんだろうけど、そのときからバラバラになっちゃった。それで僕なんかはね、とにかく弾がどんどん飛んでくるし、迫撃砲は飛んでるくるから、しょう がないから、なんかあそこの溝みたいな、水が少し流れてたから小川なのかな。ちょっと深いね、あれがあって、みんなそこへ、みんなじゃなくて僕なんかは逃 げ込んだら、そこに逃げていたのが4、5人いましたね。隠れてた。避難してて。
そこでね、夜までね、ずーっと。いわゆる隠れて。そこをどんどん迫 撃砲っていうんですかね、弾がシューシューシュウシュウ飛んでましたけどね。そこへ落ちりゃ一発でやられるとこだけど、そんなに広い幅の溝じゃないから ね。なかなかそこへ飛び込んではこなかったからいいんだろうけど、弾の音がしょっちゅう頭の上に飛んでましたけどね。夜までそれで。そこで隠れていたと。


[6] チャプター6 現地住民に捕まった 09:58
そこで今度は夜になって、なんかね、伝令がどこかから来たんだよね。逃げ隠れていた人たちに、「集まれ」っていうようなあれがあったみたいね。それもよく わたし分かんないけど。だからみんなそっちへ集まっていったんだけど、夜ね、真っ暗でしょう。電気1つあるわけじゃないし。あの日はお月さんも出てたのか なあ。とにくかね、一寸先は見えないのよ。だから2、3人で歩いててもね、ちょっと遅れたりするともう分かんない。どっち行っちゃってんのか、行ってたの か、人がね。声を出すわけにいかないしさあ。1人になっちゃったの。結局。それでね、そのときは、ほんとにもうダメだなと思ったけどね。だってオルモック に、友軍がどっちにいるのか。オルモックたって、一体どっちの方なのか、自分では分かんないわけよ。どっち歩いていったらいいのか、よく分からないわけ ね。だからもうしょうがないから諦めたね。そのときは。
それで、とにかくなんかしらんけどくたびれて、物は食べてないし、おなか空いてるあれはな いんだけど、水だけ飲みたい。のどが渇いてるぐらいで。とにかく寝ちゃおうってね、草むらの中で寝ちゃったんだよ。草をやって、もうどうでもいいやと。そ れで朝方まで寝ちゃったんだね。よく見つからなかったけどね。それで朝になったらなんかね、遠くの方でね、土民の声が聞こえてて。それでそこに隠れてて、 草むらの中で寝て。隠れてて。夜まで待ったんだな。それで、そしたらとにかくね、水が飲みたくてね。おなか空くというより、空いてるということより、全然 おなかのことはあれじゃない。ひもじかったとか、そういうのはなかったけどね。食べたいなんてあれは。元気もなかったんだね。ただ水が飲みたい。水どっか ないかなあと思って。それでしょうがないから探しに、夜暗い、水探しに。  
そしたら住民の連中に見つかってね、それで住民の連中に縛り上げられ ちゃった。それで一晩ね、住民のなんかしらんけど変な牢屋(ろうや)、牢屋じゃないけど、動物のあれかもしんないけど、檻(おり)みたいなのあんだね。そ こで一晩寝かされた。翌日ゲリラがやってきたんだよね、その土民のところに。それで、ゴチャゴチャ話していたようだったけども。こっちはお化けみたいな格 好で、飲まず食わずだからね、あれだったけど。
どうもね、分かんないんだけど、ゲリラも全部アメリカ軍に付いてたからね。さといから、日本軍は ね、やられてるっていうの分かると、すぐアメリカの方に付いちゃうわけだから、ゲリラって。アメリカ軍から、やっぱりあれじゃないのかなあ、捕虜捕まえた ら・・日本軍がいるらしいから、このへんはね。だから来たら、褒美やるから連れてこいって、言ってたんじゃないか。これは想像だから分かんない。じゃない かなあ。それでアメリカ軍に引き渡された。

要するに這(は)い出して水を求めていたら、なんかワイワイワイワイ言って住民が集まってきた んで、これはあれだと思って、また草むらの中に飛び込んでいたら、周りから火を点けて、あぶり出しにかかってきたわけですからね。それでもうしょうがな い。出ていくよりしょうがない。だって体力も、2、3日なんにも食べてないし、水もないしね。歩くのも容易じゃない状態でしたからね。這(は)い出したと ころをたたかれて、縛り上げられちゃったってことですよね。

Q:でもゲリラなら分かるんですけど、民間人の人がなんでそこまで、日本軍に対してしたんですかね。

だ からね、そのへんね、フィリピンってところはね、対日感情が悪いんだね。悪かったんだね。今は知らないけど。とにかくね、日本軍が行くとね、みんなね、兵 糧は、みんな現地調達しちゃうんですよ。後で僕はね、分かったけど。アメリカ軍はね、みんな自国から持ってくるんだもん。全部、食糧。それで余ったのみん なくれてやる。逆だよね、だから取り上げるのと。だから恨んでるよね。物価は上がるし、軍票どんどん切ってるから、ものすごく上がったでしょう。だから恨 まれるよね。大東亜なんとかっていう文句だけじゃあ、現実にね、ひどくなるとやっぱり恨まれるよね。だから協力してくれないんだよね。住民っていうのは ね。みんなアメリカ軍に付いちゃった。
これはね、フィリピン独特かもしれないんだけど、ジャワとかね、ああいうとこにいた人たちは、なんか後で聞 いたんだけど、住民が協力的だったらしいね。かくまってくれたり。だからね、随分向こうで、帰らないで向こうで暮らしちゃった人いるんでしょ。ジャワとか どっかあっちの方の。フィリピンはそういかないんだよね。逆に恨まれてて。

Q:成島さん自身が当時、民間人の日本軍に対する敵意みたいなものを、感じたことはありますか?

敵 意ってまで・・だったら僕はそのときにね、殺されてたと思うんだよ。住民に。だから縛り上げたことは上げたけど、危害は加えなかったからね。なんのため だったか知らないけど、ゲリラに渡そうということだったのかもしれないね。そういう話になってたんじゃないですか。その辺のね、連中は。特になんか悪いこ としたやつは、殺しちゃうだろうけど、そうじゃないのは何かね、アメリカ軍に引き渡すようなことになってたみたいね。


[7] チャプター7 捕虜収容所へ 05:41
対岸まで歩かされてね、それで上陸用舟艇かなんかに、アメリカ軍に乗せられたんだけど、もうそのときは、どっかでやられるなと思ってたよ。生きるとは思っ てなかったもんね。どっかで殺されるんだろうなあという感じだったね。それから船でカリガラか、カリガラっていうの、一番てっぺんの北のところにカリガラ というのがあった。そこに一晩ね、置かれたんだけど。よく分かんなかったんだよね。どこで何されるのか分からない。全然分からん。
そしたら翌日、 カリガラからタクロバンへ行って。そしたらね、野戦病院に連れてかれてさ、テントのね。そこでみんな裸にされて、全部もうすごいからね、着る物もシラミだ らけじゃないけども、みんな全部焼いちゃうんだよ。裸に、真っ裸にして。それで、キャンバスの一人用のベッドがあるじゃない。折りたたみの、よくある。そ れと蚊帳とかね、みんな毛布とか。真っ裸で毛布一枚、蚊帳何枚。そして、特別、治療っていうほどの治療はないんだけど、缶詰に入ったなんか。でもあれなん かもあってたね、丸いの。何だっけ、お前の好きな。あれなんかもあがってたよ。だから食糧はいくらか、病人向きだったのかどうか知らないけど。そこで1か 月ぐらいいたのかな。死んでいくのは、そこでね、弱って死んでいくやつは、死んでいくんだろう。体力のあるのは、そこで回復してね。
それで今度はタクロバンにスタッケードって捕虜収容所。日本人だけの。そこがあるんですよ、スタッケードが。そこへ入れてね、入って。そうするとそこに、みんな班を組んでね、日本の連中が捕虜生活してるわけ。そこへ入れられるわけなんだよ。

Q:日本の兵隊さんて、いわゆる戦陣訓を習ってるじゃないですか。自決しようとか、そういう気持ちは起こらなかったですか?

起こらなかったね。

Q:なんでですか?

そんなの知らない。とにかく、ただ生きようかなと思っただけで。生きようかなと思ったのか、生きるつもりもなかったけどね。何も無理して自分で殺さなくても、どうせ死ぬんだろうと思ってたけど。諦めてはいたけどね。なんにもそういう、理屈とかそういうのはないよね。

Q:でも捕虜収容所に入ったときに、どのくらいの人がそこにいたんですか?

500人ぐらいいたんじゃない。

Q:多いですね。

500人もいなかったかなあ。大分いたよ。あの周辺から集まったの。大体、あの周辺から全部集めてタクロバンに来たんだけど。ミンドロとかあちこちからもね、来てたらしいけど、大体500人って聞いたけどね。

大 分いたねえ。驚いたよ、だから行ったとき。どっから集まってきたのかね。みんなね、集められて。それでその中は、ちゃんと日本だけで管理するわけだよ。ま あ大体、軍籍でちょっと上の人たちやね、准尉、あのころはあんまり偉い人いなかったみたいだけど、班長務めたりしてね。


[8] チャプター8 焼け野原の東京へ 05:37
僕なんか、要するにもう軍もないし、軍とかそういうあれもないわけだから、それは、帰れば殺されるとかっていう事はないわけだし、やっぱり帰りたいなと 思ったよね。自分の家があるのかどうか分かんなかったからね、あれだけど。でも捕虜の時にね、『ライフ』って雑誌があるじゃない。あれにね、両国国技館を 中心に空中写真写ってたんだよ。それ見たときにね、全部焼け原でしょ。こりゃ家ないなと思ったね。思ったけどね、こう言って帰ったの。幸運に残ってたんだ よね。この次にやられるとこだったって話だけど。ちょうど亀戸までやられてたんだよね。あれね、空襲ね。運が良かったのかもしれない。

Q:自分の家が無事焼けないで残っていて、帰ってきて。

いや帰ってきて、知らないよ、それは。着いてからね。分かんなかったんだよ。電報打ったんだよ。そうしたら迎えに来てくれたんだよ。それで分かったんだ。当然ないと思ってたけどね。

Q:誰が迎えにきてくれたんですか?

お袋がだ。

Q:お母さんの顔見たとき、どんな気持ちでした?

そ りゃあどんなっていってね。うちの義理の兄貴だな、来たの兄貴だったかなあ、来たの。お袋は来なかったのかなあ、迎えに来たのは。それでうち帰ってさあ、 ほんと畳の上大の字になって寝たとき、やれやれと思ったね。それからすぐ銭湯行ってさあ。生きた心地したね。あのときは。よく帰ってきたなあ。自分でも信 じられない。

Q:無事に帰ってきたときに、複雑な気持ちはありませんでしたか?

どういった?複雑というと。

Q:まず1つは、これ伺いたいんですけども、捕虜になって帰ってきたっていうのは、負い目があるものなんですか?

ないっていったら嘘になるのかもしれないけど、帰ってきてから、なんら隣近所じゃないけど、遠慮しなかったね。そんな、あれはなかったよ。もう、そのころでもね、敗戦の後ね。そういうのは感じなかったな。

Q:それこそ何万人も亡くなっている戦場で、数少ない生還者として帰ってくる。それはどういう気持ちになるもんなんですか?

ど ういう気持ち…運というしか言いようがないなあっていう気がするね。死んでおかしくなかったんだからね。あの時は。あそこで。当然死ぬはずだったよね。な んでああいうふうになってきたのか、自分でもよく分かんないんだよ。流れるままに行ってたら、生きてたって言うか、なんて言うか。そういうふうな流れだか らね。流れっていうか、自然にそうなってきちゃったんだからね。なんで生きて拾われたんだかなんて、よく分からない。自分でも。運としか。実際問題とし て。運が良かったっていえば、運が良かったんだなっていう。なんか運が悪いんだか良いんだかね、自分でもよく分かんないんだよね。ああいうとこ行ったこと 自体、運が悪いんだよ、ほんとはね。運悪いのに、運良く残れたという、これもまた運だなあ。


[9] チャプター9 異郷の山野に唯ひとり 03:52
話してみても分かんないんだよ。事実。それ言ったってね、分かんないよ。じゃああの1人になったときの気持ちがね、伝えられるかっていったらね、伝えらんないよね。何て言うのかなあ、もう諦めだからね。死ぬ生きるじゃないんだもんね。
ほんとに実際ね、みじめな思いっていうか、したのは、やっぱりそれにあった人じゃないと分からないんじゃないの。伝えることはいいけどね、警告することもいいだろうけども、それを分かってくれってのは、無理だろう。それは。ああいう、何て言うのかなあ・・・。
怖 いっていうあれもあったのかなあ。1人になって、たった1人になって、敵中1人になったってとき、想像できる?ほんとに、何て言うのかなねえ。それでしか も目的がなんにもないでしょ。自分どこ行っていいのかも分かんない。誰にも会わない。途方にくれちゃうって、くれちゃうんだよね。そういうのって考えられ ないでしょ。いくら言ったって。どういう気持ちかって言われても、ちょっと説明できないよね。真っ暗の中で、1人で、別れて。どうなんだろうねえ。分かる かね。分かんないだろうなあ。とにかく周りにさあ、みんなこういうふうにね、日本人、仲間がいるというなかに暮らしている人が、突然、ああいう、敵中って は敵中かもしらんけど、とにかく山の中1人で置かれて、どうなんだろうねえ。そういうとき。

寂しいけどさ、しょうがないでしょう。それは 無理だろう、それ、そんな分かるったって。と思うけどね。なってみなきゃ分かんないよ。そりゃあ。どう説明していいのか分かんないけど。なんか例えようが ありゃいいだろうけどねえ。ただ要するに、天涯自分1人ってことだよね。真っ暗闇の中で1人。なんにもいない。それで命の保証はないと。ただ今生きてるっ てだけだよね。