『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや04


[1] 人の命を救う衛生兵 06:11
まあ私はいろんなあの、兵隊でも職種がありますよね。弾を撃つほうとか、物を運ぶほうとかですね。で、まあ私は、幸い衛生兵っていう職種に、こう選ばれたんですけどね。まあ、その中でいちばん最初は私たち、こんな小さいときから軍国主義のね、世の中に生まれてきてそういう教育を受けたもんでね、衛生兵って、なんか、自分で思い描いた兵隊とはね、ちょっとこう乖離(かい離)してるじゃないかっていうような、感じにもなりました。で、最初、衛生兵ってのに選ばれたときは、できるなら鉄砲持ってね、華々しく飛び歩くほうの兵隊のほうが兵隊らしいじゃないかなっていうようなことを、まあばかなことを考えた時代だったですけどね。それで、衛生兵に選ばれて、まあ病院の教育を、病院へ入って教育を受けることになったですけどね。そのもう最初の約200、まあ病院の教育兵から、私たち各部隊から選ばれてきた、教育の兵隊が約200人近く、200名近くになったと思うんですけど、それが教育を、石家荘(河北省)の陸軍病院で受けることになりましてね。で、そこへ集合して、その病院で、教育を、衛生兵の教育を受けたんです。で、いちばんまあ印象に残ったのは、最初の印象ってのはですね、そのう、いよいよもって各方面から集められた兵隊が、あしたから教育が始まるっていうとき、病院長のまあ訓示があったわけです。全部が集められてですね。それで教官の紹介、助手の紹介とかそういうものが、この終わって、それで今度は病院長の訓示が行なわれたですけどね、そのときのまああの、こう、病院長の第一声っていうのは、「おまえたちは選ばれて、人の命を救うね、衛生兵という崇高な使命を持った、あれできょう集まったんだ」と。で、「まあ世界、赤十字条約ってのがあって、敵味方の区別なく命を救うという尊い使命に立って、これから残されたわずかな期間だけれども、みっちり勉強して、そして原隊へ帰るように」って、まあ訓示があったわけです。そういうような人の命を救う大切な同じ軍隊でありながらね、まあ、使命を持ったっていうことを初めてそこで、まあ私たちは心の中にしまったわけですけどね。
私たちのこう衛生兵の中に2つあるわけなんです。病院付きとですね、それで隊付きって言って。それで、2つあって、病院付きっていうのは、野戦病院から陸軍病院、中核病院っていう、こういう流れの中で、あれ病院で、まあ本当の病院と同じですよね。勤務してやるのと。それで、僕たちみたいな隊付きっていうのはですね、その学んだことを部隊へ帰って、第一線でですね、その患者を救出したり、それで負傷したとき、治療したりですね、そういうことをやるんですけどね。でもあのう、実際いちばん大変なのは、部隊付きの衛生兵だったです。僕たちみたいなね。てのは、もうドンパチドンパチ戦闘があるとですね、もうほとんど必ずと言うくらい負傷者も戦死者も出るわけなんですけど、その人たちを救出するのは衛生兵しかないわけですからね、どんなに恐ろしくても、危ないと思っても、「衛生兵、前へ」ってね、声がかかるわけなんです。「やられたから助けてくれよ」と。そういう場合にはね、何を置いても、もうそこへ行かなきゃならんですよ。もうそれはほんとに、何て言うすか、もう義務とかそういうことなんかは超越して、いわゆる助けよう、命を助けようという、それしかなかったですね。はっきり言って。
[2] 「仕上げの教育」 05:55
約6か月間の教育期間があったです。4月に、派遣されてですね、それで約6か月間、衛生兵教育をされたわけですけどね。その集大成っていうか、病院で、石家荘の陸軍病院で教育を受けて、いよいよもって教育も終わる、それで原隊へ帰るというそのときですね、まあ、教育の集大成として、そして解剖の実習っていうですか、そういうものを見せられたわけです。
Q:それはあれですか? どういうふうに最初言われたんですか? いちばん最初は。
いや、あの、もう生体解剖なんていうことは全然教育兵には、知らされなかったですね。で、まあ大体2、3日で教育が終わってですね、それぞれ原隊へ帰るという、もう半ば浮き浮きしたようなね、気持ちで、まあ同じ教育兵はいたわけです。ところが、もう2、3日で帰れるというときになってですね、そして、「仕上げの教育があるから、それだから、第2教場へ集まるように」って、まあ通達っていうか、あれが出たわけなんです。それで、教場が2つあるっていうのはですね、一般的なこう学問を、学問と言うと変だけども、それをね、教わるのは普通の講堂でやるんですね。机がこうあって、200人近いですから、もう名前なんかはね、イマヅとかタカハシとかなんてのは、もう教官も覚えられないので、大体自分の机の前に番号札あるわけです。ま、例えば200人いると、1から200番まであるわけですけどね。それでその教場で、普通の教場で、机に向かってやる、教場と、それで第2教場って言ってですね、あの、手術だとか、包帯だとか、実技ですね、そういう、按摩(あんま)だとか、いろんなこう、実際の実技をやる教場は、またその講堂の机なんかの並ばってる教場とは違ってですね、こういう真ん中に、手術台があるわけなんです。それでその周りをぐるっと丸く取り囲んでですね、何段かのひな壇みたいな椅子があってですね、それでここで、こう自分たちで患者になったり、術者になったりして行なう教育もありましてね、で、包帯とか按摩術とか、副木、骨折のね、副木のつけ方とかってのは、患者に見立てた兵隊をそこへ置いてですね、そいで教官の、あのこう、講義や助手の、動作と一緒に、私たちもまあ、それを学んでいく。ま、それが第2教場だったですけどね。だからそこで生体解剖が行なわれたわけですけどね。
それで、もう教育はぼつぼつ終わって、先ほど言ったように、2、3日で原隊へ帰れるっていうような浮き浮きしたときに、第2教場へ全員集合するようにっていう、まあいわゆる命令が出たのでですね。「なんだ?今んなって」っていうようなね、危惧な念と、ほいで、もう1つは、後で考えれば、それが以心伝心ていうかね、みんなあのこう、教場へ集まったときね、こう普通のざわめきと違うんですね。なんかこう、変な予感ていうかね、空気がね、漂っていました。で、まあ大げさに言うと、みんなで顔を見合わせて、「何だ、今日は。今日は何の講義だ」っていうようなね、まあ、変な気持ちになってたところへ、ドアが、向こうのドアが開いてですね、そして軍医が入ってきたです。それで、手術着を着てるんです。軍医が。それで、今度は助手と、それが入ってきたわけですけど、ところが、まだ二十歳代くらいなね、若い男が目隠しされて、それあの、いわゆる支那服ね、普通の服を着た、捕虜ですよ。言うなれば。それがね、目隠しされて、ほいで後ろ手に縛られてね、ほいで、この助手がドア開けて入ってきたです。そんとき初めて、もう変だな、おかしいなと思ってたけど、「あ、これは」っていうね、予感ていうか、そういうものは、何かこれであるなという気持ちにはなりましたよね。
[3] 執刀が始まった 13:44
それで、そこへこう連れてこられて、ま、そしたら、軍医が「解剖のね、総仕上げのこれから勉強するんで、それで今までの習ったことをね、しっかり思い出して、そして、指名されたらね、元気を出して答えろ」っていうことは、まあ軍医が言ったんですね。で、一緒に連れてきた助手が2名、捕虜と一緒に入ってきたんですけどね。ところがもう、まったく、全員そこへ立ち会った私たち兵隊はですね、もう異様な雰囲気で、まあ、とんでもないことが起きるだっていうことをね、感じましたからね、顔色ももう冴えないし、半ば震えたような気持ちでいたですけど、そしたらそれをもう下士官は見越してね、「おまえたちは震えてるだろうけれども、指名されたら元気を出して答えろ」と。「これがこれまでの教育の、成果だから」ということでですね、まあハッパをかけられたですけど。正直、自分の気持ちの上では、「ぜひ、その指名がね、自分には向かないように」ってね、祈ってたのはそこに立ち会った、立ち会わせた兵隊のあらかたの気持ちだったと思いますね。それでそれはもう、助手も見越してね、「おまえたちは震えてるだろうけれども、このためにね、俺たちの仲間が幾人殺されたか分からないということを思えば、しっかり勉強の成果をあれするようにね、勇気を出して答えろ」、まあそれを言われたのが、ずっと心に残ってました。ほいで、いよいよもって、まあその捕虜が手術台へくくりつけられるわけですけどね、まあ私たちのこう気持ちでは、こう暴れるだろうとか、抵抗するだろうとか、泣きわめくだろうとかね、そんなようには思っていたですけどね、でも最初入ってきたとき、そのあれが始まる前にですね、ま、最後のたばこだという、意味合いだと思うですけども、連れてきた下士官が、たばこへ火をつけてですね、自分がちょっと吸ったやつを捕虜にくわえさして、「これが最後のたばこだから、たばこ吸うように」って、出したんですけどね、捕虜の口へくわえさせようとしたらば、その兵隊に向か、下士官に向かってですね、唾(つば)と一緒にね、そのたばこをパッって、吹きつけたんです。それで皆、そんときは、ハッというような雰囲気だったですね、みんな。青くなったです。それでもう、その捕虜は観念して、そして、脇に2人いたのが上へ上げらしてですね、手術台へ上げらしてあれしようとしたらば、こう、払いのけるようにして、もう目隠しされているですからね、その脇のこう、手術台を手探りで、自分でね、観念して、それで上って、あれしたです。それで、まあ上って観念していたのを、助手がこうバンドで両足と両手を締めて、それでもう執刀が始まったです。
Q:それは、どっから執刀が、は、最初。
それで、いちばん最初はですね、支那服、まあいわゆるズボンをはいてるですからね、ズボンをずっと切り裂いて、そして、執刀を始めるんですけど、その前にね、麻酔するんです。で、今はもう高度な麻酔ですけどね、今の医学では。そのころだと、もうほんとに、初期的な麻酔っていいますか、網目にこう、金をこう組み合わせたのを顔へ乗っけ、ここへ乗っけてですね、それへガーゼをかけて、そして、ガス剤のクロロホルムって、麻酔だと思ったです。それをこうバーッとかけるとですね、凍ったようになって。で、そのガスを、呼吸と一緒に吸い込むとですね、相当の、当初、覚醒って、まあこう、それを、吸い込んで脳へ作用するまでに、こう、暴れるんですね。こう弓なりになったり、こう、これをあれしたりしてね。それで、その覚醒期を過ぎると、まあ麻酔が効いてきて、もうぐたっとなっちゃうんですね。すると初めてまあ麻酔が効いてきたからということで執刀が始まったですけどね。さっき言ったように、このズボンをずっと切り裂いて、そして、上着もほとんど取っちゃってですね、それで足の先から、執刀が始まったんです。それで、まあ説明が、「ここが、尺骨だ」とか、「ここがこういう関節だ」とかってね、まあ初歩的なそういう説明から、大腿部へ入って、それであの、内臓へ入ると、そうするともう、腸だとか、まあいわゆるこれが肛門へ続いてるね、直腸だとか、それでこれが結腸とか、十二指腸、これが小腸、大腸とかっていうような、まあ、内臓を外へ出してね、説明するですけど。ま、大体そのころになるともう、上の空でね、見てることは見てなきゃ怒られるし、ぶっ飛ばされるのでしょうがない、慎重にこう見てるんですけどね。もうほんとに心の中はもう、表現できないです。あの、こう、残酷っていうか、初めてのね、そういう場面へぶつかってね、まああんな思いは初めてしたです
もうまともに兵隊がね、学術のためにもね、勉強のためになんても、なんて言ってね、見てる兵隊いなかったです。はっきり言って、もう下を向いたりね、ほいで青ざめてね、もう自分自身もそうだし、周りの兵隊、仲間見てもね、もうほんとに、何て言うかな、形容できないような状態で見ていました。それでその心臓を取り出して、「これがそうだ、心臓だよ」って言って、こう軍医の手の上でこう動いてるんですけど。それで、大動脈をね、こう、「これが大動脈」、これが、「大静脈っていうのはこれが」って説明しながら、静脈を切ると。それでまあ心臓が動かなくなるし、まあ人生終わりで死んだわけなんですね。それで今度はその心臓を裂いて、「これが右心室、これが左心室」とかって、説明をされたですけどね。さっき言うように、もうまともにそれを意識へとめて勉強しようなんて、とても状態ではなかったです。もうそれで大体、その、いわゆる捕虜の命は終わって、それであと脳の、脳骸を外してね、もうあの、頭骨を、そして脳の説明したり何かさせたですけども、あとはもうほんとに覚えていないくらい大きな、まあ、ショックだったですね。
ここがねえ、真ん中のあの手術台がこう、あるんですね。これが手術台で、ほして、こっちにあのう、入り口がこうあって、そうするともうこう、こっちにドアがこうあるんだけど、あとはここへね、ひな壇で3段ぐらい、こう通路になるですけどね。それでこれが手術台で、それでこれがあの、こう木の椅子でですね、こうひな壇式になってるですよ。ここが、低くてね、ほいで、1段上がって、1段上がってっちゅうようなこうなっているんです。ほいで、4段ぐらいじゃなかったかな。こういうようになって、それでこう見下ろすようになってる、あのう、実技の講堂です。それで普通の講堂っていうのは、こう、学校の講堂みたいでね、机があって、それで椅子があるのは同じですけど、それは平らなとこで、演台がいちばん前にあるっていうの、そういうようなあれになってたです。
ほいで、この手術台へ、結局上って、ほいで、このバンドで締められて、ほいで、あれが始まったです。
Q:これ今津さんはどこで目撃した・・・。
私はね、はっきりした記憶ないですけれどね、前からね、2つぐらい目だったっていうことは大体覚えてるんですよ。
だから、まあ大きい講堂ですから、これはこんなちょっとあれだけど、こういう椅子もこうずっと並ばってるですけどね。例えば僕がここにいて、そして、まあ恐ろしいということを感じていて、隣のやつの顔を見たり、ほいで、こう、・・・雰囲気なんてのはよく分かるわけですからね。ほんとにこの悲壮なこう、何と言うかな、雰囲気と、それで青ざめてもう、ほんとならこういう場にいたくないっていうようなね、気持ちっていうか、そういう雰囲気だったですよ。
[4] 心の傷 04:15
それで結局、その解剖が終わって、それで、普通ならば、まあきちっとね、縫合したりきれいにしてあれするでしょうけども、一応はそれは、また元へ内臓を収めて、そしてあっちこっちを縫い合わして、そしてあれしたですよ。それで、「もうこれで終わりだから、だから、おまえたち誰か指名されたら出てきて、で、包帯の勉強をしろ」と。「包帯してやれよ」ということが教官に言われたですけどね、指名されても誰も出て行ける勇気のある人間はいなかったし、そして、そういうことはもう教官も、こう百も承知でね、「おまえたちはもうそんなことはできっこないだから、いい。じゃ、助手でやるから」と言って助手が簡単な、まあ包帯っていってもですね、それを隠す程度にあれして、それで荼毘(だび)に、まあしたです。それでまあ、その解剖の実習を終わったですけども、まあ、そんときの率直な気持ちっていうのは、いくら戦争で敵って言っても、直接自分に危害を加えようとするならですね、戦争でなくても何でも、その人間に対して敵愾心とか、そういうものも起きるでしょうけど、そうでない。捕虜といっても自分たちが直接かかわった者でない人間を、そうやって人体を切り刻んでですね、それで終わったっていうことは、もうほんとに大きな心の痛手ですねー。そのとき立ち会った百何十人、200名近い兵隊のですね、後ずうっと心の傷になって残ってたと思いますよ。それで、「最後の会食」って、まあみんなで一緒にご飯を食べて、そしていよいよ原隊へ帰るっつう形の中で、この、講堂へ全部集められてですね、それで最後の会食、お昼だったですけども、うどんだとかですね、そして、まあいろんなものが出てる。私たちは普段(ふだん)なんかあんまり口にしたことはないですけど、お汁粉とね、そして羊羹(ようかん)が1本ずつ、たばこ1個かな、それで自分のこう指定された席にこう、置いてあってですね、それでそこでご飯食べて、それでいよいよもって原隊へ帰るわけですけどね、その直後だったですから、誰もご飯を食べるのがなかったです。それで見ればもうみんな手をつけずにね、でもう、もう、喉から出る、手が出るほど欲しいたばこと羊羹だけはね、みんな持ち帰ったですけどね。うどんだとか、お汁粉だとか、ご飯なんてものは、ほとんどの人が手をつけなかったです。そういうようなことを覚えてます。
[5] 今でも理解できない 05:41
いよいよもって教育をするという、そのとき集められた兵隊が、その病院長の訓示でね、「おれたちは衛生兵として、人の命を救うね、崇高な任務を持って、これから教育を受けるんで、励んでもらう」っていうことをですね、言われたのと、そしてその教育のいちばん集大成としてね、生きた人間を切りさばいたってね、そのね、落差の大きさにはね、もう考えようがないですね。ほんとに。だって、そういう「人の命を救うんだ、衛生兵というものは、病院というものは、敵味方の差、区別なくね、あれするんだ」と言って、その殿堂でですよ、生きた人間をね、切りさばくっていうのはね、まあ、その人たちから言わせれば、それが教育だしね。あれ、医学へ貢献してくる、くれるというようなね、そういう理屈はつけたかもしれませんけど、そんなことで私たちが納得するようなあれにはなかったですね。
まああのう、普通私たちがそれまで教育を受けてきた。まあ、先ほど言いましたように、10教科あるわけですけどね、もう薬物から、もうあの、こう、まあ広いって言っちゃおかしいけど、按摩術からね、そんなようなことまで全部教わるわけですけれど、まあその中の解剖学ってのは、まあ重要な部分ですよ。いちばん私たちが基礎的に衛生兵教育を受ける場合には、疾病(しっぺい)、病気とですね、それで外傷、まあこの2つが柱で、それでやるんですけれども、その柱の中の大きな部分は、解剖がね、人体構造、外傷とか、そういうものへもう直接結びついてるですからね。重要な部分なことはもう間違いないから、それは、相当重点的に私のたちの教育には入ってました。
模型はあるんですよ。この、ほんとに人間のね、こういう、格好して、それである人間が頭のてっぺんを、こう、何か支えるようになって、そして外はもう血管のね、こう図面があるとか。それでこれを外すと、そうするとここの位置に心臓がある。それで肺がある。それとお腹のあれをポンと取るとですね、そうすると、胃、肝臓、腎臓、心臓、そういう臓器はですね、みんな模型としてあるわけですから。だからそれで充分、私たちは勉強してきたわけです。構造や模型を使ってね。
Q:あと、こういう生体解剖を目の前で目撃したっていうお話は、いつぐらいからこう、人にこう、話すようになったりしたんですか?
はい。5~6年前です。てのは、もう、ちょっと立場、違うかもしれませんけどね。それまではね、もう家族にも誰にも話したことはなかったですよ。はっきり言って。
世の中の動きを黙って見す・・・、見ていることが正しいかどうかって自問したことがありますよ。それで、そういうことを考えたときに、もうやっぱり表へ出してね、それで、二度と戦争が起こしちゃいけないというような自分の信念からだけで、とどめておくことが正しいかどうかちゅう自問をしたときね、どう思われようが、あんな好々爺(こうこうや)みたいなおじいさんがそんなことへ立ち会ったのかなと思われてもいいじゃないかという思いの中からね、それはこうしゃべるように、しゃべるっていうか、最初本、本ていうか、文書を出したことあるんですよ。そしたらそれがまあ図らずも、しゃべる元になっちゃったですけどね。