『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや01

[証言記録 兵士たちの戦争]
沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
再生中
05:44
嫌だと思わなかった。嫌だと言ったら、もう免許ももらえないし何もかもだめになりよったさ。それでドクターが2人しか、うち沖縄の人いなくて。みんな内地から来ているからね、厳しかったですよ。全く。これ入隊して兵隊になった場合は、こんなにやるのかねと思うぐらい厳しくされた。
大変だったよ、あんたち今ごろ生まれて幸せだよ。日本の兵隊はね、人を殺すのはわけもなかったんだよ。してね、ひもじいと言ったらね、沖縄の初年兵が「ひもじいから何かないですか」と言ったらね、もうビンタ張ったりね、本当にこんなに、どうして沖縄の兵隊をこんないじめるのと言って、ぶつぶつ言って文句言って、わたしのほうが先に言ってね、「軍医殿呼びますよ」って言ったら、そのときは逃げるわけさ。軍医呼ぶと言ったら。こんなにして沖縄の兵隊は、いじめられて死んでるよ。
やっぱし山部隊(24師団)は山部隊だねって思った。球部隊(32軍直轄部隊)みたいにね、もう兵隊とか初年兵が、沖縄から入っている初年兵がね、威張るのもないし、そしてまた話がとっても美しいのよ、球部隊は。だけど、山部隊というのに回されたときは、わたし、沖縄の軍医が、神病院をつくっていたわけ。そこの長男だからね、もう沖縄の人をすごくかわいがりよったのちょうどそれの担当だったわけ、泊にあるナカモト軍医と言ってね。この人のお父さんは、大きな精よ。困ったときは、だれにも言わない、おれに言えっていうぐらいだったからね。沖縄の看護婦はね、この先生に当たったときは、今まで泣いて暮らしていたのが涙も出なかったよ。ああ、軍医殿ありがとうございました。こういうのもね、覚えました。ありがとうございますと言って、いつも最敬礼をしていたけどね、この軍医が亡くなったというときは、もうわたしたち同級生は、みんな行ける人は行ったはずよ、わたしは行けなかったけど、1人だから。富盛(八重瀬町野戦病院)からね、東風平(分院)に回されたのはわたし1人だったからね、看護婦は。そうだっだけど、あとから2人来て3名。それから二高女生が8名ぐらいいてね、やったけど、すごかったよ。
ただ、わたしたちがよかったというのは、本部から離れてきてるからね、もう田舎さ。中学校と学校が2か所にあるだけで。したらね、ニワトリとかいろんなのが、たくさんいるのよ。こういうのをつぶしてね、つぶしてから持ってきておつゆにしたり、こういうようにして食べただけは、本部にいたときよりはよかったねっていうのが、自分ここに、東風平に回されてから、そういう感想だったけど。
だから、兵隊、衛生兵とか看護婦は本当は何でも食べると思う人だったら、ひもじさなかったよ。だから、こんなのをね、わたし口も悪いし言い方も悪いからね、「軍医殿、こういうのね、1日に1回は、けがした兵隊に配ってあげていいですか」と言ったからね、「バカったれが」って言って立ってきよったからよ、「ああ、いいですよ、殺されても。わたしが殺されたら、もう明日からは、こういう難儀もしないで済むからどうぞ殺してください」って言ったからさ、逃げよったさ、あとは。
Q:いつぐらいから負傷した兵隊が増えてきたなっていうふうに思われましたか。
3月の末ぐらいから。してね、日本の兵隊はね、戦争が、アメリカ軍が攻めてこなくても訓練するのよ。その訓練で、ほとんどの人がけが。戦争、向こうから押し寄せてきたから、けがしたら生きてはない、ほとんど死んでる。死んでるからね、どこに持っていくかといったらね、艦砲で穴があくでしょう、畑が。そこにね、そのままつけたまま入れて、上からまたカズラをかぶせるわけ。こんなにしてきたけど、わたし(戦後)1年もたたんうちにまた行ったのよ。病院。ドクターに頼んで。すいません、わたし、こんなこんなで頼まれていますから東風平まで行ってきますと。行ったけど、あのとき何も探しても探せなかった。したらね、そこの畑の主がね、わたしたち畑ができないんですよって言うから、どうしてですかって言ったらね、鍬(くわ)入れたらね、もう骨しか出てこないって。だから死んだ人を埋めたんでしょうね。埋めるところはいっぱいあったさ。艦砲の穴の跡というのは、あっちにもこっちにもいっぱいあってね。大変ではあったから。
[2]
チャプター2
底をついた医薬品
07:21
あのときはね、治療するというよりはね、診て、これは治るかもしれないと思ったら、一応は軍医に報告する。で、軍医に報告してね、軍医がね、材料が大変でしょう、ガーゼとか脱脂綿とか、もうアルコールとかマーキュロとか、もうこういうのが大変だったからね。あるしかないさ、あるだけしかないし。この人ひとりにもぜいたくに使えないような本当に大事なものだったわけ。で、3月の末になったらね、日本に上陸したと、沖縄に上陸したっていったときはね、もうでたらめだった。生きるなら生きなさい、死ぬなら死んでいいよ、というのが衛生兵の言葉だったからね。「わたしはあんたちに負けないで言うよ。沖縄の人間はね、戦争にこうして携わってね、死んでいくのにね、いいよ、死んだらいつでもいいよって、こういう物の言い方しないでね。御飯もあったらね、冷たくてもいい、熱くてもいいからね、少しずつ弁当箱に、弁当箱じゃない、あれ何ていうの、兵隊が持つこれに入れてあげてください」と。
兵隊がけがしてきたら、けがしていたらガーゼもないといけないし、包帯もないといけないし、つける薬もないといけないさ。ないんだもの。詰所ってあるけどわたしたちが使うのは、もうある程度、まだ上陸しない前に、もうほとんど切れちゃったわけ。
そして上陸する前に、こういうのはたくさんとってきておけばよかったのにって言ったらね、その置いてある場所がね、戦争が、もし普天間から来るとしたら、その普天間と与那原との間に山積みにしてね、あっちにも山積み、こっちにも山積みにして。だからガーゼとか、そういうのがないわけ。だからといって、わたしたち自分が着けている洋服を最初はね、ああ、着けてる洋服ぐらいは何でもないさ、1、2枚着ていたらいいよと言って、切ってやっていたけどね、
Q:助けられそうにない人が来たら、どうするんですか。
穴に。もう弾撃たれたところはね、畑、全部穴になっていたわけ。4、5名ぐらい入れるぐらいの穴なんかなったのよ。そこに、もう手と足をつかまれてね、こんなして捨ててきたんだよ、わたしは。
中に、壕の中に。2段になってるあれがあったからね。だけど、ほとんど治らないで、中に入れて1週間もしないうちに・・わたしはあれもできないからプルス(脈拍)測ってね、それで目開けてみて、「あっ、まだ生きているね」と思ったらそのまま。だめと思ったらね、衛生兵を呼んで、だれだれがだめだから、あんたたち処分しなさいとしか言えないわけ。
結局、足が両方だめだとかね、頭をけがしているとかっていったら壕に連れていって治療したって、その治療するガーゼとかお薬がこれだけ減ると今度わたしが困るわけ。わたしは、だからね、本当にもうあれよ、犬になって・・山部隊に来た衛生兵は、生きてる人がいたらわたしの沙汰知っているはずよ、今ごろ。あの看護婦がいたけど、鬼ばばーだったねとかね、いろいろ言ってると思うよ。だけど、何か生きて帰った人って、そんなにいないようなことを言っていたからね。
Q:じゃ、治りそうにない重症の患者は、もう余り治療はしないんですか。
しなかった。だって、材料がないんだもの。もうあるのは、マーキュロとかね、ヨードチンキぐらい。
雨がひどかったのよ。あのときは、沖縄は。ものすごい雨だったのよ。それで、このぐらい壕があったら・・あっ、壕があったらじゃない、寝るところがあったらね、こっち側、右側のほうに寝て、このぐらいよ、空いてるのよ。それで、この寝るところ以外5センチぐらい低くなっているわけさ。そこ何ですかって言ったらね、みんなが流すところよと言うわけ。
Q:何をですか。
おしっこ流すところ。そうしたらね、雨は降るでしょう。もう戦争のときはずっと雨みたいだったよ、沖縄。で、雨が降るもんだからね、流れていかないわけ。溜まるわけよ。で、その溜まった水は、入院している兵隊が飲んでいるわけ。だけど、沖縄の兵隊だったら方言で、これ、こんなだから飲まないでっても言えるけど、兵隊というのはみんな内地から来てるさね。内地から来てる人に方言を言ったってわからんしね。
Q:その水は、どういう水なんですか。やっぱり汚いんですか。
汚い水。雨が降ったら雨とおしっこが混ざった水。臭いもするぐらい。
Q:そううものを兵隊が飲んでいたんですか。
うん、のど渇くからさ。ものすごいのどが渇くから飲んでいた。して、洋服も軍服ももう着の身着のままでしょう。この階級もわからないぐらいになっていたからね、わたしたちもあんまり、もう言うあれができなかったさ。悲しむだけだね、お互いにって言ってね、そういう感じでやっていたから。
「お母さんが来てないね」ていうのとね、「看護婦さん、助けてー」というのとね、「ひもじい、ひもじい、ひもじい」とか「水飲みたい」とかね。だから、もうお水もくみに行けないでしょう、雨ばっかり降ってる。わたしは、軍医にも何も言わずにリンゲルを・・今リンゲルというのは、これ注射やってるでしょう、大きい瓶に入ったの。あれをね、2本ぐらい水筒に、じゃなくて何ていうね、弁当箱に入れてね、飲ませよったけどよ。1人でたくさん飲むと、しらぱっくらいしてすぐたらばーん、「あんた1人の物じゃないよ、のど渇くからといって入れてきたからね、みんなほとんどの人が当たるようにやって」って言って。壕がね、三つあったわけ。で、二つは二高女生が見ているけど、わたしは一つ見て、もう一つはもう軍医とか看護婦とかが寝たり起きたりするところだったわけよ。
Q:その東風平の病院壕では、1日何人ぐらいの人がやっぱり亡くなっていたんですか。
それは数え切れないよ。三つの壕でしょう。ひとつ。四つある壕から三つは、兵隊が入院しているところ。一つは、職員が入院しているところ。ああ、職員が寝たり起きたりして御飯食べるところだったからね。
[3]
チャプター3
負傷兵があふれた総攻撃のあと
02:43
うん、これはね、5月の4日はね、わたしは東風平の壕にいたけどね、みんな外に出ていたよ。何かわからんけど、歩ける人は。「何見てるんですか?」と言ったからね、「日本の飛行機が飛んでくる」っていうからね、その飛行機を見ようと思ってという言い方だったがね。確かにね、2回か3回ぐらい日本の、夜になってから日本の飛行機が来たのはわかるのよ。飛んでるのは。だけど、だれも「こうだよ」って教える人はいないさ。しかもまた、けがしている人たちだから、見たいのは見たいはずだがね。それとね、「わたしのお母さん呼んでくれたらいいのに」っていう、日本から来た兵隊はよ。これがとってもかわいそうだったな。こんなにしてね、「戦争起こしたのはだれかね、軍医殿」って言って叱られてた、わたし、いつも。
Q:その5月4日の総攻撃のあとは、患者さんが増えましたか。
すごかったですよ。もう生きているのか死んでるのかわからんぐらいでね。もし来たらね、プルスつかめるのが普通さね、医者とか看護婦だったら。だけど、わたしが一緒だった軍医というのはね、頭触ってね熱くないと思ったらよ、「壕に捨てなさい」だったのよ。軍医殿、わたしはおしゃべりだから、だれにこんな話しするかわからんけどね、「ことも切れてないのにね、息してるのによ、壕に捨てなさいっていうのは、どういうことですか?」と。「もし、これが逆に軍医殿だった場合は、軍医殿、“はい”って言って入りますか?」って言ったわけ。「おまえの勝手か。こっちはおれが親分だぞ」と言うわけ。「それは知っていますよ」と言って反抗したけどね、その後、わたしも元気なかったさ。5月の20何日かね、日本の飛行機が飛んできて、みんな泣いて見ていたのよ。外で、夕方だから。だけど、わたし本当にあれは日本の飛行機だったかなって、いまだにね、時々思い出したりして、1人で笑ったりしてるさ、こんなもんだったよ。
[4]
チャプター4
兄の戦死
02:42
それでね、そこに石部隊の大尉と中尉と少尉が入院したわけ。で、わたしがあんまりおしゃべりするもんだからね、「上門さん(譜久山さんの旧称)」って呼ぶわけ。「はい、どうしたんですか?」って言ったからね、「僕の隊にも上門って東京から沖縄に親の面会に来たらね、そのまま入隊した兵隊がいるけど知っていますか、親戚ですか?」って言うから、「わたしの兄です」と言ったわけ。
で、わたしの兄のこと聞くからね、「東京で大学も出て警視庁で働いている人がいるけど知っていますか?」って言うわけ。「はい、わたしの兄ですが」って言ったらね、「元気ですか?」って言ったらね、「いえ、4、5日前に亡くなりました」と。あんなにね、兄とわたしはもう本当にこんなに兄弟仲よくできるかねと思うぐらいだったんだがね、この大尉と中尉の前でね、もう一滴の涙も出ない。したら、この軍医がね、大尉がわたしに向かってね、「上門さん、あんたはお兄さんより強いです」って言うわけ。「こういうところで働いている人が弱かったらどうしますか、大尉殿」と言ったからね。「それもあるけどね、あんたのお兄さんはね、とっても気の毒だったよ」と言うわけ。沖縄で住んでないのにね、東京から来たんだから普通の男だったら、ああ、あれだけお金も使ってわたし学校も出た、こんなこんなにしてやってきた、父にも申しわけないからね、わたしは入隊はしないよって言ったらね、そのまま帰ればよかったのに。「帰りなさい」って言ったって、それを大尉じゃなくて中尉が言ったって、「だけどいいです」と。「何のために沖縄に帰ってきたかわからないですよ、僕は」って言ったって。「だけど、沖縄の人間だからね、沖縄を守ります」と言ったって。して、わたしはね、何年何月何日の何時ごろあんたのお兄さんは戦死したよと言ってもね、わたしも涙一滴も落ちないんだが。そしたらね、「ああ、あんたち兄弟2人とも気の強い兄弟ですね」って言われたけどね。「この戦争で気が弱かったら生き残りできませんよ」と言ったのに、生きて帰ってきたときはね、この兄の大尉のことが浮かんできてさ、2、3日眠れなかったよ。
[5]
チャプター5
重傷者の「処置」
03:27
わたし注射打つときにね、沖縄の人の方言でさ、これ栄養剤だからね、これ飲んで、これ注射打ってあげたらね、あんたが静かに眠れるからと言って。したらみんな喜ぶのよ。それが何も言わないで打つとね、死ぬる注射打って歩くでしょうって言う。看護婦がね、そう言ったっていうからね、やっぱり兵隊たちは、こうだよ、ああだよと言わなくてもわかるんだねってって話はしたけど。惨めだったよ、とにかく。もう戦争のことはね、もういいさーと思うぐらい惨めだった。
Q:ハルさんは、その打ったら死ぬ注射を何人ぐらいの人に打ちましたか。
3名ぐらいに。たくさんに打てなかった。だけど、こんなのを打ったときはね、わたしは東に向かってさ、わたしの父親を張り合いとしているからね。父上、わたしは、これはわたしが希望して打つんじゃなくてね、軍医からの命令で本人が希望したときに打つ注射をね、今やっていますけど、みんなね、物静かにあの世に行かすようにお願いしますと言って、わたし田舎の父によ、手合わせてからしか注射も打たなかったさ。
(病院)解散の前のけがしている、あんまり声が大きくてね、この人たちの希望する注射液がなかったら打ちなさいだったわけ、軍医から。で、このやつ打ってはね、1本打ったら「軍医殿、何という、患者さんの名前もわたしよく知らないけど打ちましたから、これは確かに軍医殿の命令ですよね」って言ったら、「ばかたれ。おまえもいつ死ぬかわからん、おれもいつ死ぬかわからんのに、こんなのまでいちいち報告せんでいい」、こんな感じだったけどね。
Q:どういうときに、その注射を使うんですか。
どういうときって、患者が希望するとき。あるいは希望しなくても、暴れるとか、御飯がなかったら苦しいでしょう。御飯もくれないから死んだほうがいいと言ったら、軍医の許しを受けて。くそうるさい人がいると、ほかの患者が眠れんからね、やっていいですという指示が出たら、「何月何日、軍医殿に報告。こういう指示が出ましたから注射やります」といって、わたしは必ず書いてから打ちよったさ。もし、これが、これが勝手過ぎて打つとね、何かあったときには責任持てないんだよ、看護婦では。
Q:打つと、打つときは相手の人は、もしその希望じゃない場合は?
ああ、大変ですよ、暴れて。希望である人はね、何も言わない。でもね、「わたしの母によろしく言っておってね」と言った。だけど知らないけど、「はい、お母さんも泣くかもしれないね、あんたがいなくなったら」って言ったらね、もう本当に男泣きしよったよ、わーわー泣いて。
[6]
チャプター6
病院解散
03:23
Q:何で解散したんですか。
何でって、こっちも今晩か明日には包囲されるから、ここで死ぬよりは、あんたち行くところがあったら行っていいですと言いよったって。わたしは、そんなのもう聞かないでね、わたし自由にしますからねって、部隊長に言って。
Q:どこに下がれとか。
いやいや、もうこんなのはなかった。
Q:自由にしなさいっていう。
うん、「自由に隠れていいですよ」だった。
Q:ただ、そこ病院には、患者さんがたくさんいるんですよね。
うん、そういうところはね、患者を先に衛生兵と先に出してあるわけ。だからいるのは、看護婦と軍医たちと、それだけだったわけよ。
Q:じゃ、まず患者さんを移動させて、最後にハルさんたちが解散したんですか。
うん、そう。そうだけどわたしは、解散はここの軍医では聞かなかったわけ。前の軍医で聞いてるから、何回もさよならさよなら言うよりもね、1時間でも早く逃げたほうがいいよって、その沖縄のおばさんたちが言うからね。その沖縄のおばさんたちというのは、その部隊の御飯炊いてあげたりしていた人たちだから、この辺のことはよくわかるから、このおばさんたちの言うことを聞いていたら、「さよならね、おばさん」って言って下りてきたら、1人座っているおばさんがいるわけよ。だけど、こんなに太っている人が座っているさって思ったらね、捕まえられるときに、お金だったみたい。
Q:その東風平分院にいた兵士たちは、けがしていた兵士たちはどう・・・
もうそのまま。そして衛生兵がね、気のきいてる衛生兵が、フンドシみたいな白い布にね、「ここにはたくさんのけがした兵隊がいますからね、助けてください」って書いて、竿に縫って立てたわけ。そしたらね、石部隊の大尉と中尉がよ、それをちょっとこう寝ていて見えたんでしょうね、「ありがとうございます、上門さん」って言うわけ。わたしの兄のことで話したから上門さんになったわけ。「ああ、そうですか、軍医殿。助かってね、またここの島で幾らかいないと歩けないはずだから、そのとき会いましょうね」と言って別れたわけ、それっきり。
「殺してしまえ」はなかったけどね、「行きたい人は歩かせて逃げさせなさいよ」は聞いた。だけど、殺してしまえと言ったら、もう解散する何日か前に石部隊の大物が入っているでしょう。ああいう言葉は使わなかったと思う。やっぱり大分違いよったよ、石部隊の大物と山部隊とか、まあ球部隊もそういうのたくさんいたよという話は聞いたけど。
[7]
チャプター7
逃避行
05:33
もうここにはおれないから、朝早くね、起きて行くか、夜で行くかしようといったときに、そこの那覇の、あれは何先生だったかな、その先生の男の子と女の子が2人来たのよ。したら、「上門さん、大変申しわけないけど、わたしの子ども2人来てるからね、お母さんがやられたと言って、この2人来てるから連れていってちょうだい」って言うからね、連れていきますけど、「先生、わたしもどこでやられるかわからんけどいいですか」と言ったから、「いい」と。わたしもね、これからまたカネキ大尉と一緒に出ていくから、どこで殺されるかわからん、やられるかわからんけど、「とにかく生きれるだけは連れていってください。お願いします」と言ったからね、わたしたちがずっと暮らしていた壕から出てね、100メートルも歩いてないのによ、女の子がばたっと倒れるわけ。そしたら、もう弾当たって死んでるわけよ。それからね、100メートルも歩かないんだけど、この男の子が死んだ。で、わたしはね、リュックサックを背中に背負って、自分の着ていた洋服を洗いもしない、汚れたまま入れて持ってたわけ。したら、その2番目の子が死んでね、歩こうとしたら、わたしこのリュックサック弾に当たってね、燃えちゃったわけ。
Q:ハルさんは、病院壕、東風平を出たあとは、何か所ぐらい回ったんですか。
何か所といってもね、アメリカ兵が来るといったら豚小屋に逃げたりね、牛小屋に逃げたりしたからわからんよ、何か所か。
Q:1人で逃げていたんですか。
ううん。那覇の方のおばちゃんという人と。
Q:2人で?
うん。
Q:ハルさんは、山城のあたりとか与座のあたりを逃げ回っている間は、沖縄県民の、住民たちの様子っていうのはどうでしたか。たくさんやっぱり死んでましたか。
うん、たくさん死んでいるし、またこうして生きて話、おばさんと話しながら歩くでしょう。わたしは、男はいいですねと言った。死んだのはすごかったよ。もう普天間神宮の前なんかね、何かみたいだったよ。あそこはね、トラックに乗ってしか通ってないけどよ、ものすごかったよ、死んだ人が。
Q:その島尻の様子はどうでしたか。
島尻はね、もうわたしたちが捕まえられて、壕から出てくるときはね、死んだ人というのは見えなかったけどね、木にぶら下がってね、ああ、あっち側は右の手だね、こっち側は左の手だねというのわかるけどね、胴体からなくなったり、足からなくなったりしている人をたくさん見た。だけど、こうして生きている人は会わなかった。だから、ああいう人たちは、恐らくね、こっちの一中生か、一中生みんな入隊したらしいからね、そこの人たちか、あるいは工業高校か、あるいは那覇の二中生じゃなかったかねっていう話はしていたがね。この人たち見ていたら、かわいそうだから、御飯も食べられないから、だから急ごうと言って、わたしはまたそこを拝んだら、自分の一緒だった二高女生のところへ行ってやらんといけないから、行こうねといって別れたりしたけどね。ああ、もう戦争の当時は、本当に何を言っているかわからんような感じだったんですよ。
Q:ハルさんは、その米兵に投降するときっていうのは、怖いなっていう気持ちとか、悔しいなっていう気持ちは、やっぱりありました?
両方あった。怖いなというのと、ここまで生きて延びてきたのにね、どういうふうにされるんかねと思ったら、とっても怖かった。だって、もうあれだのに、どこにどういうふうに連れていかれるかわからんしね。
捕まえられてきたのが普天間の近くの野岳というところにいたわけ。その野岳にね、大きなお家と2階があるわけよ。そこにほとんどお産した人とか、いろんな人が運ばれてくるわけ。それとまた、このお産した後はね、知っている人がいたら、その知っているうちに行くでしょう。して、赤ちゃんを入浴させんといけないし、わたしは県病(県立病院)に出ているときに、婦人科は回っているからね。赤ちゃん浴びせたり、おへその緒を切ったりするのをわからんけど、軍、医者がね、みんな内地の方だったから、上門さん、もう少しいじぐは出してやりなさいよ、おまえは生徒だのにこういうのができると思わなかったさと言われたらうれしいでしょう。こういうふうにして過ごしてきたけどね。
[8]
チャプター8
人々はどのようにして死んでいったのか
02:26
わたしたちは看護婦だからいいほうでね、沖縄の初年兵はね、どんな感じで殺されていったと思う? 見られなかったよ。もうこれで、あご突いたりね、回れ右しなさいっていって、もう背中をバンバンバンバン撃つ衛生兵もいるしね、内地の人だけど。だからわたしは、一時はね、内地に慰霊祭のときに行こうといって、たくさん行っているよ。だけどわたしはね、絶対行かないと。行くんならわたしのお金は持っていってね、入れてちょうだいと。わたしあそこには行きたくないと。兄もね、兄3名とも、こういう感じで殺されたんかねと思ったらね、わたしはもう内地に行ってまで、その拝みたくないって言ったわけ。
Q:ハルさんは、じゃあ、そのやっぱり病院での出来事っていうのが、ずっとハルさんの心にも重くのしかかっていたんですか。
うん、そう。もう夜はよ、あ、痛い痛い痛い痛たーと言って、大声を出してからに、声を出して言いよったって。だから、こっちへ来てからも、結婚して来てからも、やっぱり何か夢見たんだろうっていう言い方しよったけどね。
もう何十年になるから、もう今はね、同級生集まって、模合(定期的にお金を出し合い積み立てる相互扶助会)で集まるけどよ、戦争の話する人もいなくてね。だれはだれと結婚してからまた離婚したさとかね。まただれのだんなは亡くなったよって、こんな話はもう模合のたんびにあれがするけどね、あんまりもうこんなのは考えていないような感じよ。結婚を1回もしない人が何名かいるさ、生き延びた人で。だけど、本当に大変な戦争ではあったよ。こんな狭い沖縄で。
戦争ってこんなだったよと言いたいわけ。だけど大声出しては言えないでしょう。集まってきた人、聞かせてくださいという人には聞かせたい。沖縄戦はこんなふうにして戦って、亡くなった人は、ただは死んでないよって言いたいから、こういう話を聞かせたいさ。