『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「死の家の記録」P241―288(1回目の校正完了)

いて行って、労役の間じゅう、どこか近いところで餌をあさっているのだった。その組が仕事を終わって、帰途につくが早いか、彼らもおみこしを持ちあげた。要塞では、鵞鳥が囚人といっしょに労役に行く、といううわさがぱっとひろまった。『へえ、囚人が鵞鳥をつれて行くなんて!』と出会った人々はいったものである。『だが、いったいどうしてそんなふうに教え込んだんだろう?』『さあ、これは鵞鳥のえさ代だ』とつけ加えて、施しの金をくれるものもあった。しかし、彼らがこれほど忠義だてをしていたにもかかわらず、いつか精進落ちのときに、みんな殺して食ってしまった。
 そのかわり、山羊のヴァシカは、もし特別な事情さえ持ちあがらなかったら、けっして殺したりなどしなかったはずである。これもやはりどこから来たのか、だれがつれて来たのか知らないが、とつぜん真っ白なかわいい小山羊が、獄内に現われたのである。幾日かの間に、わたしたちはみんなこの小山羊をかわいがるようになり、それが、一同の慰めどころか、喜びにさえなってしまった。それを飼うのに、うまい口実さえ見つけた。つまり、監獄には厩舎があるのだから、したがって、山羊でも飼わなければならない、というのであった。そのくせ、彼は厩舎には住まないで、はじめは炊事場を、のちには監獄ぜんたいをすみかとするようになった。それはじつに優美な、しかも世にも珍しい悪戯っ子であった。呼ぶとすぐ駆け出して来て、床几やテーブルのうえに跳びあがり、囚人たちを相手に押しっくらなどし、いつも陽気で愛嬌があった。ある日の夕方、もうこの山羊にかなりな角が生えて来たころ、ほかの囚人たちにまじって、監房の入り口階段に腰かけていたババイというレズギン人が、山羊と押しっくらをしてやれという気を起こした。彼らは長いこと額で押し合っていたが、――これは囚人が山羊を相手にする遊びの中で、いちばんお気に入りのたのしみになっていた、――不意にヴァシカが、入り口階段のいちばん上の段にとびあがって、ババイがちょっと横を向いた隙に、いきなり後脚で立ち上がり、前脚を縮めて、力任せにババイのうしろ頭を突いたので、レズギン人はころころと階段から転げ落ち、なみいる人々をうちょうてんになるほど喜ばした。当のババイが、だれよりもいちばん面白がったものである。ひと口にいえば、みんなヴァシカを無性にかわいがったのである。やがて、ヴァシカが大きくなったとき、一同あつまって大まじめに相談した結果、彼に対して例の手術を行なった。それには仲間の獣医連がりっぱな腕を持っていたのである。『これなら、もう山羊くさい匂いはしなくなるだろう』と囚人たちはいった。それからというもの、ヴァシカはおそろしく肥りだした。のみならず、みんながまるで殺して食うのが目的であるように、むやみに餌をやるのであった。あげくのはてに、彼は長い角を生やした、なみはずれてまるまると肥った、見事な大山羊になりすました。歩くのにも、ゆらゆらとからだを左右に揺すっているのであった。彼もやはり、わたしたちといっしょに、労役に出かけるならわしとなり、囚人たちを喜ばせ、行き交う人を楽しませていた。監獄の山羊のヴァシカといったら、知らないものがなかった。ときおり、たとえば、河岸などで仕事をしているときには、囚人たちはしなやかな柳の枝を折り取り、そのうえに土塁からなにかの葉っぱや花を摘んで来て、それでヴァシカを飾り立ててやった。角には枝や花を巻きつけ、からだには花房を吊るすのである。こうして、ヴァシカは全身を華やかに飾り立てた姿で、いつも囚人たちの先頭に立って帰って行く。すると、囚人たちはその後に従いながら、通りすがりの人々に対して得意顔なのであった。この山羊を見て楽しもうとする気持ちが、だんだん昂じていって、ついには仲間のあるものが、まるで子供のように、『ヴァシカの角を金色に塗ってやったら?』という考えを起こしたくらいである。しかし、それはただそういってみただけで、実行はしなかった。もっともわたしは、イサイ・フォミッチの次には仲間でもいちばんのめっき師とされているアキーム・アキームイチに、ほんとうに山羊の角にめっきすることができるのだろうか、とたずねたのを覚えている。彼はまず山羊を注意ぶかく眺め、まじめにじっと考えた後、それはできもするだろうが、『永もちはしないだろう、それに、なんの役にも立たないこったから』と答えた。それで話はおじゃんになった。こうして、ヴァシカはいつまでも監獄内に暮らしていき、最後は喘息かなんかで死んでいったはずなのであるが、ある日のこと、例のごとく苺やかに飾り立てられて、囚人の先頭に立って労役から帰って来る途中、馬車でどこかへ行く要塞参謀に、ぱったり出会ってしまった。『待て!』と彼はがなり出した。『だれの山羊だ?』それから説明を聞くと、『なに! 監獄で山羊を飼っているんだと、しかもおれの許しも受けずに! 下士官!』下士が飛んで来た。すると、さっそくこの山羊を殺してしまえという命令がくだった。皮を剥いで市場で売り払い、売り上げの金は国庫保管の囚人積立金に加え、肉は囚人たちの菜汁用にしろ、とのことであった。監獄でいろいろ話し合って、かわいそうだ、などといったけれども、しかし命令にそむく元気はなかった。ヴァシカは例の下水溜めのわきで殺された。肉は囚人の一人が共同金の中に一ルーブリ五十コペイカ入れて、全部そっくり買い取った。この金でわたしたちは丸パンを買い込み、山羊の肉を買い取った男はそれを焼肉にして、仲間のものに切り売りした。肉はじっさいずぬけてうまかった。
 わたしたちの監獄内には、しばらくのあいだ一羽の鷲も棲んでいた。韃靼《カラグーシイ》鷲といって、曠野に棲むあまり大きくないたちのものであった。だれかしら、手傷を負って弱り果てたこの鷲を、監獄へ持って来たのである。たちまち監獄じゅうのものが、まわりを取り囲んだ。鷲は飛ぶことができなかった。右の翼はだらりと垂れて、地面を引きずり、片足は蝶番がはずれていたのである。忘れもしない、鷲は野次馬の群れを見まわしながら、猛然とあたりを睥睨していた。そして、この命は安くは売らぬぞといわんばかりに、鉤のように曲がった嘴を大きくあけるのであった。みんながさんざん見あきて、散りはじめたとき、鷲は跛をひきひき、丈夫なほうの翼で羽ばたきしながら、監獄の中でもいちばん遠いはずれまで逃げて行った。そして、杙にぴったり身を寄せて、片隅に隠れてしまった。そこで彼はみ月ばかり暮らしたが、ついぞ一度も、その片隅から出て来ようとしなかった。はじめのうちは、みんなよくのぞきに行って、犬をけしかけたりなどした。シャーリックは猛然と飛びかかって行ったが、あまり近く寄るのは怖かったらしい、それがひどく囚人たちを興がらせた。『違ったもんだ!』と彼らはいった。『なかなか降参しねえや!』その後、シャーリックもずいぶんこの鳥をいじめるようになった。恐怖心が去ってしまうと、彼はけしかけられるたびに、相子の痛いところに要領よく咬みつき出したのである。鷲は懸命に嘴で防戦して、自分の片隅に引っ込むと、さながら傷ついた王様のように、傲然と凄い目つきで、見物に来た野次馬連を見まわすのであった。が、しまいにはみんなそれにもあきてしまった。人々は彼をうっちゃらかしにして、忘れてしまった。とはいうものの、毎朝、彼のそばにひと切れの新鮮な肉と、かけ丼に入れた水が見受けられた。だれかが彼のめんどうを見てやったものと見える。彼ははじめ食べようとせず、二、三日の間は飲まず食わずでいた。とうとう、しまいに餌につくようになったが、人の手から取ったり、人の見ているところで食べたりするようなことは、けっしてなかった。わたしはたまたまある時、遠くのほうから彼を観察したことがある。だれも人影が見当たらず、自分一人きりだと思うと、彼はときおり思いきって隠れ家を出、杙に沿って十二歩ばかりひょこひょこ歩くと、もとのところへ引っ返し、それからまた出て行くというふうで、ちょうど運動でもしているような具合である。わたしの姿が目に入ると、いきなり跛を引いたり、とびあがったりしながら一生懸命に自分の隠れ家へ急いで行った。そして、首を高くそらし、嘴をかっと開いて、全身の羽を逆立てながら、すぐさま戦闘準備をしたものである。いかに優しくしてやっても、わたしは彼の気を柔らげることができなかった。咬みついたり暴れたりして、わたしのやる牛肉を取ろうとせず、わたしがそばに立っている間じゅう、意地悪げな刺すような眼ざしで、じいっとわたしをにらんでいるのであった。彼はだれひとり信頼しようとせず、だれひとりとも妥協しようとしないで、独り淋しく、毒々しい気持ちで死を待ち設けていたのである。そのうち、ついに囚人たちは彼のことを思い起こしたようなふうであった。み月ばかりというもの、だれも彼のことを心配してやるものもなければ、口にのぼらすものもなかったくせに、とつぜんみんなの心に同情心が起こったような具合であった。鷲を逃がしてやらなければならぬ、といい出したのである。『どうせ、くたばるもんなら、監獄の外で死なしてやろうよ』とあるものがいった。
『そりゃ知れたことよ、自由に慣れた気の荒い鳥だもん、牢屋に馴染ませるこたあできねえよ』と別の連中が相槌を打った。
「つまり、こいつあおれたちとはわけが違うんだなあ」とだれかがつけ足した。
「ちぇっ、ばかこけ。こいつは鳥だし、おれたちは人間じゃねえか、はばかりながら」
「鷲はな、兄弟、森の王様なんだぜ……」とスクラートフがいいかけたが、今度はだれも彼の言葉に耳を貸さなかった。
 一度、昼の食事が終わって、仕事開始の太鼓が鳴ったとき、わたしたちは鷲をつれ出した。やけに暴れ出したので、手で嘴をしっかと押えて、監獄の外へ出た。やがて土塁のところまで来た。この組にいた十二人ばかりのものは、好奇の念をいだきながら、鷲がどこへ飛んで行くか見定めようとした。不思議にも、みんな自分がいくらかずつ自由を授けられでもしたように、なにやら満足のていであった。
「ほんとに、なんて畜生だ、こっちは親切にしてやるのに、やつはいつも咬みついてばかりいやがって!」と鷲をかかえていた男は、この意地悪な鳥を、ほとんど愛情のこもった目つきで眺めながらいった。
「放してやれよ、ミキートカ!」
「こいつにゃ、なにも手のかかるめんどうなことをしてやるこたあいりゃしねえ。こいつは自由がほしいのよ、正真正銘の自由がよ」
 鷲は土塁の上から曠野へ放たれた。それは、晩秋の曇った、寒い日のことであった。風は裸の曠野に、ひゅうひゅうと音を立て、枯れておどろに縺《もつ》れた黄色い野の草を、ざわざわと鳴らしていた。鷲は傷ついた翼を振り立てながら、どこでもいいからすこしも早く、人間のそばを立ち去ろうとでもするように、まっすぐにどんどん駆け出した。囚人たちはさももの珍しげに、草の中に見え隠れする鷲の頭を見送っていた。
「ちぇっ、あの野郎め!」と一人がもの思わしげに口を切った。
「あとを振り向こうともしやがらねえ!」ともう一人がつけ加えた。「一度も振り向かねえぜ、兄弟、一生懸命にすたこら駆け出してやがら!」
「おまえはなにかい、お礼をいいに引っ返して来るとでも思ったのか」と第三の男。
「無理もねえや。自由になるんだからな、自由の匂いがしたんだよ」
「身まま気ままってやつだな、つまり」
「もう二度とお目にかかれねえんだなあ、兄弟……」
「なにをいつまで立っているんだ? 進めっ!」と警護兵がどなった。で、一同は黙々と仕事場へ向かって歩き出した。

[#3字下げ]7 抗議[#「7 抗議」は中見出し]

 この章を始めるに当たって、故アレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフの記録の刊行者は、読者諸君に次の報告をなすことを義務と心得るものである。
死の家の記録』第一章に、ある貴族出の父親殺しについて、数言が費やされている。なかんずく、囚人がときとして自分の犯した罪悪を語るのに、いかに無感覚な態度をとることができるかという、ひとつの例として引き合いに出されたのである。それからなお、この父親殺しは法廷で犯罪を自白しなかったが、その身の上を詳しく知っている人々の話から察するところ、事実はあまりにも明瞭であって、その犯罪を信じないわけにはいかないくらいである、とこうも書かれていた。これらの人々が、『記録』の筆者に語ったところによると、犯人はまったく放埒な品行の男で、借金で首がまわらないために、遺産が目当てで現在の父親を殺したとのことである。また同様、この父親殺しが以前勤務していた町の人々も、異口同音に、この事件を寸分の違いなくうわさしていたものである。この点については、『記録』の刊行者はじゅうぶんに信頼すべき情報を握っている。最後に『記録』の中には、この父親殺しが、獄内でいつもこのうえない上機嫌で、いたって陽気な気分でいるが、これはけっして低能ではないけれど、きわめて軽はずみな、分別のない、出たらめな人間なので、『記録』の筆者は、この男がとくに残忍な傾向を持っているとは、かつて考えたことがない、というようなことも書いてあった。しかも、それに続けて、「もちろん、わたしはこの犯罪を信じなかった」という言葉がつけ加えられている。
 数日前、『死の家の記録』の刊行者はシベリヤから報知に接したが、この犯人はまったく冤罪《えんざい》であって、十年間いたずらに懲役の苦痛をなめたわけである。彼の無実は裁判の結果、公式に発表されたそうである。真の犯人が発見されて自白したため、不幸な男はすでに釈放されたという。刊行者はこの報道の正確なことを、夢にも疑うわけにいかない……。
 これ以上、何ひとつつけ加える必要はあるまい。この事実の中に含まれた深刻な悲劇性や、こんな恐ろしい罪名をきせられて、むなしく滅びた青春などということについて、あまり多くの言葉を用いることも無用であろう。事実はあまりにも明白であり、それ自身、人の心を打つ力を持っている。
 われわれはまた次のようなことも考える。こういう事実が可能であるとすれば、その可能性それ自身が死の家の特質を示し、描写を充実させるために、なおひとつ新しい鮮明な挿絵を加えるものであろう。
 さて、さきを続けよう。

 前にもすでに述べたとおり、わたしはとうとう、監獄における自分の境遇に慣れることができた。しかし、この『とうとう』はきわめて苦しく悩ましい経路をたどり、あまりにも遅々として到達したものである。ほんとうのところをいうと、このためには、ほとんど一年の日時がわたしには必要だったので、しかも、それはわたしの生涯において、最も苦しい一年なのであった。それがゆえにこそ、この一年はそっくり完全に、わたしの記憶にたたみ込まれたのである。わたしはこの一年を一刻一刻、順を追って記憶しているようにさえ思われる。ほかの囚人たちも、この生活には慣れることができなかった、ということも話しておいた。忘れもしない、この最初の一年間に、わたしはしばしば心の中で、『いったい彼らはどうなのか? 平気でいるのだろうか?』と考えたものである。この疑問がひどくわたしの気にかかった。これも前に述べたことだが、すべての囚人たちは、ここをわが家のように感じないで、まるで旅籠屋《はたごや》か、行軍の途中か、どこかの宿場にでもいるような気持ちだった。終身刑で送られて来た連中でさえ、妙に落ちつきがなく、そわそわしたり、郷愁を感じたりするのであった。そして、彼らの一人二人がかならず心の中で、ほとんど実現できそうもないことを、なにやら空想しているのだ。口にこそ出さないけれども、ありありと見え透いているこの絶えざる不安、ときとしてわれともなしに口に洩らす空想が、不思議なほど性急で熱烈なこと、その空想がしばしば譫言《うわごと》じみるほど現実性のないこと、しかもなにより驚くべきことには、それが一見したところ、きわめて実際的な人の心にさえ宿っていること、――こういったいっさいのものが、この場所に異常な外見と性格を与えているので、こういったところが、この場所の最も特異な点をなすものではないか、とさえ思われるほどである。なぜか最初の一瞥からして、監獄のそとヘ一歩出たら、こういうことはないと感じられた。ここにいるのはみんな空想家ばかりで、それがただちに目に映じるのであった。この感じは病的であった。というのは、そうした空想癖が、囚人の大多数になんとなく陰気で、気むずかしげな、妙に不健康な外貌を与えていたからである。大部分のものは黙りがちで、憎しみに近いほど意地悪で、自分の希望を表面にあらわすことを好まなかった。単純率直というようなものは侮蔑されていた。その希望が現実に遠ければ遠いだけ、そして当の空想家がその非現実性をはっきり感ずれば感ずるだけ、彼はいよいよ執拗に純な気持ちで、それを心の奥に秘め、容易に思いきってしまおうとしない。もしかしたら、なかには内心ひそかに、それを恥じていたものもあるかもしれない。ロシヤ人の性格には、なかなか堅実なしっかりしたところもあり、まず第一番に、自分を嘲笑するという反省的なところがあるのだ……おそらく、こうして始終、自己不満を秘めているがために、これらの人人が日常相接する場合にこらえ性がなくて、なかなか融和しにくく、おたがい同士、冷笑し合っているのかもしれない。で、たとえば、こういった仲間でも、比較的単純でせっかちなのが、なにかの拍子に急に飛び出して、みんなが肚にしまっていることを、口に出してしゃべり散らし、空想や希望を並べ立てたりしようものなら、はたのものはさっそくこの男をたしなめて、黙らせたあげく、笑いぐさにしてしまうのである。しかし、だれよりもむきになって、こうした出しゃばりものを取っちめる手合いこそ、かえって自分の取っちめた男以上に、まま、空想や希望に深入りしているのではあるまいか、わたしはこんなふうに思われてならない。前にもいっておいたが、ここは概して、単純な人のいい連中を、いちばんやくざなばかもののように見なして、軽蔑の態度をとっていた。だれもかもが極端に気むずかしくて、自尊心が強かったので、自尊心を持たぬ善良な人間を軽蔑するまでに立ちいたったのである。こういう単純で人のいいおしゃべりを別として、そのほかの連中、つまり、口数の少ない連中は、善良なのと意地悪と、陰気なのと朗らかなのと、こう二種類にかっきり分かれていた。陰気で意地悪なのは、比較にならぬほど多かった。もしたまたま彼らの中に生まれつきのおしゃべりがいるとすれば、それはきっと小うるさい金棒引きか、落ちつきのないやっかみやであった。彼らも、自分自身の腹の中や自分の秘密は、だれにも見せようとしないくせに、他人のこととなると、なんでもかでも知りたがった。しかし、それはあまりはやらないことで、一般に認められていなかった。善良な連中は、――これはきわめて少数であったが、――おとなしく、黙々とおのれの希望を心にひめていたが、もちろん険訊な連中にくらべるとはるかに楽天的で、自分の希望を信ずる傾向が強かった。とはいえ、監獄の中にはなおそのうえに、すっかり絶望しきった連中という部類があったように思われる。たとえば、スタロドゥボフ村から来ている老人などがそれであった。が、いずれにしても、そういうのはごく少数であった。老人は一見したところ、落ちついているようであったが(彼のことはもう前に話しておいた)、二、三の徴候から推して、彼の精神状態は恐ろしいものであった、とわたしは考える。もっとも、彼には自分なりの救いがあり、抜け道があった、それは祈祷と殉教の観念である。わたしが前に語った、聖書を読み耽って気の狂った囚人、――例の煉瓦を持って少佐に襲いかかった囚人なども、おそらく、最後の希望にすら見捨てられてしまった絶望組の一人だったろう。しかし、まったく希望なしに生きていくことは不可能なので、彼はすき好んで人工的な殉教を考え出し、そこに抜け道を発見したわけである。彼自身も、少佐に襲いかかったのは、なにも恨みがあったからではなく、ただ苦痛を身に負いたいからであると言明した。そのとき、彼の内部にいかなる心理的過程が生じたか。思いなかばに過ぎるものがあろう! いかなる人といえども、なんらかの目的と、その目的を達しようとする意欲がなかったなら、しょせん生きていけるものではない。目的と希望を失ったら、人は往々にして、懊悩《おうのう》のあまりモンスターと化してしまう……わたしたち一同の目的は自由であった、監獄を出ることであった。
 とはいうものの、わたしは今わが監獄の住人たちを種類わけしようと努めてはいるものの、はたしてそんなことができるだろうか? 現実は抽象的思索のあらゆる結論、――光明精緻をきわめた結論にくらべても、無限に多種多様であって、あまり精確な大別を試みることは許されない。現実はこまかく分裂しようとする傾向を有している。自己独特の生活はわたしたちにもやはりあったのだ。たとえしがないものにせよ、とにかく規則で定められたものでなく、自分自身の内部生活があったのだ。
 しかし、前にもいくぶん述べたとおり、わたしは監獄生活のはじめごろ、この生活の内面的な深みに穿入することができなかった、というより、むしろそのすべを知らなかったのである。で、その生活の外面的な現われが、いい知れずわたしを苦しめ悩ました。わたしはどうかすると、自分と同じこれらの受難者を、頭から憎み始めたほどである。わたしは、彼らがなんといっても仲間同士の間がらで、たがいに理解し合っているのを、羨ましくさえ感じた。そのくせ、じつのところは、彼らもわたしと同様に、笞と棒の力で作りあげられたこの同輩関係、――強制的に組織された組合関係に、胸の悪くなるほどあきあきして、めいめいが腹の底では、みんなから顔を反けて、どこかわきのほうを眺めていたのである。もう一度くり返していうが、むらむらっとなった瞬間に、わたしの心を襲ったこの羨望は、ちゃんとした根拠を持っていたのである。まったくのところ、貴族とか教養人とかいう人人も、徒刑場や監獄で受ける苦痛は、一般に百姓たちと変わりはないというものがあるけれども、それはだんぜん間違っている。こういった説があるのはわたしも承知している。かつて耳にしたこともあるし、最近なにかで読んだこともある。こうした思想の根底は正しいものであり、人道的なものといわなければならない。だれしもすべて、人間という点において変わりはない。が、思想そのものは、あまりにも抽象的である、そこには、きわめて多くの実際的条件が見のがされているが、それは現実そのものについて見るよりほかには、理解のしようのないものである。わたしがこんなことをいうのは、貴族や教養人が普通民よりも繊細に、かつ痛切に感じるからであるとか、より以上発達しているからとか。そんな理由によるものではない。人間の魂とその発達を、なにかの標準によって測ることは困難である。教養そのものですら、この場合の尺度にはならない。わたしはだれよりも真っ先に、最も教養の低い虐げられた階級の中にも、これら受難者の間にも、精神的にきわめて繊細な発達をとげた実例を認めたことを、天下に表明するにやぶさかなものでない。監獄の中ではときとすると、数年来知っている人間のことを、心中ひそかに、これは野獣だ、人間ではない、と考えて軽蔑しているが、とつぜんふとある瞬間が訪れて、その人間の魂が無意識の動きによって、表面に曝されることがある。すると、そこに驚くばかり豊かな感情や、まごころや、自他の苫悩に対する明瞭な理解などが見いだされて、人ははじめて目が開いたような思いで、最初の一瞬間は、自分の見たり聞いたりしたことを信じかねるほどである。かと思うと、また反対の場合もあって、教養がときによると、恐るべき野蛮性とシニスムと相両立して、嫌悪の念を感ぜずにいられないことがある。たとえどんなに善良な人でも、またどんな先入観によって妨げられようとも、自分の心の中に寛恕《かんじょ》や弁明の辞を見いだすことはできないだろう。
 わたしはまた習慣、生活様式、食物、その他のものの変化については何もいわない。もちろん、それは社会の上層に属する人間にとっては、百姓の場合よりもずっと苦しいに相違ない。なにぶん、百姓は自由な世界にいるときでも、飢えに苦しむ場合が少ないのに、監獄に入れば、すくなくとも腹いっぱい食うことができるのだ。が、その点については、議論しないことにする。習慣を一変するということは、実際のところ、取るにも足らぬ些々たる事がらとはいえないのであるが、かりに一歩ゆずって、多少なりとも強固な意志を持った人間にとっては、そんなことはそのほかの困難にくらべて、歯牙にもかける価値のないこととしよう。しかし、そこにはまた別種の困難があって、それにくらべれば、前にあげた事がらなどは、ものの数でもなくなり、不潔な監房も、足枷も、貧弱で薄気味の悪い食物も、さして気にならないほどである。どんなにのっぺりしたお上品やでも、柔弱このうえない優男でも、今まで自由の境涯では一度も経験したことがないほど日ねもす額に汗して働いたら、黒パンでも油虫の入った莱汁でも、食べられるようになるものである。それにはまだしも慣れることができる。懲役にやって来た以前ののらくら男をうたったユーモラスな囚人歌に、こんなのがある。


[#ここから2字下げ]
キャベツと水をもらっても
こめかみ鳴らしてがつがつと
[#ここで字下げ終わり]

 いな、そうしたすべてのことよりも、さらに重大なのは、ほかでもない、すべて新しく監獄へ入って来るものは、入獄後、二時間もすると、ほかの囚人たちと同じになり、我が家にいる[#「我が家にいる」に傍点]ような気持ちになって、ほかのだれとも変わりのない、みなと同じ権利を持った囚人組合の一員となりすますことである。彼はすべてのものにとってわかりきった人間であり、自分のほうでも一同のものを理解して、みんなと近づきになり、ほかの囚人たちも、彼を仲間[#「仲間」に傍点]として遇するのだ。ところが、旦那衆[#「旦那衆」に傍点]、貴族となると、話がちがう。貴族はどんなに公明正大で、善良で、聡明であるにもせよ、囚人一同が仲間ぜんたいで彼を憎み、軽蔑する。それが幾年も幾年も続くのだ。彼らは貴族を理解しない、なによりもいけないのは、彼を信用しないことである。貴族は、友だちでもなければ、仲間でもないのだ。よしんば何年もかかって、ようやく侮辱を受けないところまで漕ぎつけたにせよ、やはり彼は内輪の人間ではなく、永久に自分の疎隔された孤独な状態を、悩ましいまでに意識しなければならない。この疎隔はときとすると、囚人たちのがわになんの悪意もなく、ただ無意識に行なわれることがある。自分たちの仲間ではないという、ただそれだけのことなのである。自分に縁のない環境に生活するほど恐ろしいことは、またとあるまい。南露タガンロータからペトロパヴロスタ港([#割り注]カムチャッカ[#割り注終わり])へ移住させられた百姓は、すぐさまそこに自分と同じようなロシヤの百姓を見いだし、たちまち話し合いをつけて仲良しになり、二時間も経ったころには、このうえもなく平和な状態で一軒の家か、あるいはひとつの小屋の中で暮らしはじめるに相違ない。ところが、旦那衆となるとそうはいかない。彼らは底知れぬ深淵によって、一般民衆と押し隔てられているのだが、それは旦那衆[#「旦那衆」に傍点]が突如として外部状況のために、正真正銘、以前の権利を失って、自分自身一般民衆となったときに、はじめて完全に[#「完全に」に傍点]認められるのである。さもないかぎり、たとえ一生涯、民衆と交じわったとしても、たとえば、勤務上一定の条件に制限された行政的な形式で、四十年間も毎日民衆に接したところで、また恩恵者とか、あるいは民衆の父といったような意味で、ざっくばらんな友誼的関係を保っていたところで、――真の本質というものはけっしてわかりっこない。すべては単なる幻覚であって、それ以上の何ものでもない。わたしのこの説を読む人は、すべて一人の例外もなく、それは誇張だというだろう、わたしにはちゃんとわかっている。しかし、わたしはそれが真実であることを確信している。それは、書物や抽象的理論による確信ではなく、現実に即したものであって、わたしはこの確信を検討するために、じゅうぶんすぎるほどの時日を有していたのである。これがどの程度まで真実であるかは、おそらく後日、万人が認めてくれるであろう。
 数々の事件は、まるでわざとのように、第一歩からわたしの観祭を裏書きして、わたしの神経に病的に働きかけた。わたしはこの最初の夏じゅう、ほとんどまったくの独りぼっちで、獄内をさまよい歩いた。前にも述べたとおり、わたしはひどい精神状態になっていたので、後日、対等のつき合いをするようなことはけっしてなかったけれども、とにかくわたしを愛するようになってくれた人々を囚人たちの中から見分けて、正当に評価することさえできなかったほどである。わたしにも同じ貴族出の仲問はあったが、この仲間づきあいも、わたしの心からぜんぶの重荷を取り去ってはくれなかった。何もかも、見るのもいやなような気持ちだったけれども、さりとてどこへも逃げ出すところはなかった。たとえば、つぎに述べるような事実は、獄内におけるわたしの位置の孤独さと特異性とを、はじめて最も痛切に思い知らせてくれたひとつの場合である。やはりその夏のことであるが、もう八月に近いころ、あるよく晴れた暑い仕事日の正午すぎ、例によって、一同が午後の労役にかかる前にひと休みしていると、とつぜん囚人ぜんぶがいっせいに立ちあがって、獄庭に整列しはじめた。わたしはその瞬間までなにも知らずにいたのである。当時、わたしは自分の内部に沈潜しきっていたので、どうかすると、周囲に起こっていることに、ほとんど気がつかないことがあった。ところが、監獄内の囚人たちは、もうこれで三日も、陰然と動揺を続けていたのである。この動揺は、もうずっと前から始まっていたのかもしれない。というのは、わたしがのちになって、囚人たちの会話のはしばしを思い合わせ、彼らが最近、とくに怒りっぽく不機嫌がちで、かくべつ毒々しい気持ちになっていたことを想起して、これあるかなとうなずいた次第である。わたしはそれか苦しい労役や、退屈な長い夏の日や、われともなしに心に浮かぶ森と自由の憧れや、思うように熟睡のできない短か夜などが、原因しているのだと思った。おそらく、こういったすべてのものが、いまひとつになって爆発したのであろうが、しかしこの爆発の直接の動機は食物であった。もはや数日前から囚人たちは、監房内で声だかに不平を並べ、ことに昼食や夕食の時間に炊事場へ集まったときなど、憤懣の声がかまびすしかった。彼らは炊事係に不満をいだいて、その一人を取りかえてみたほどであるが、たちまち新任の男は追い出され、もとの炊事番が呼び戻された。要するに、だれもかもが、なにか落ちつきのない気持ちになっていたのである。
「おれたちはひでえ働きをしているのに、臓物ばかり食わせやがって」とだれかが炊事場でぶつぶついい出す。
「これがお気に召さなけりゃ、勝手にブラマンジエでもご注文あそばすがいいやな」と別の男が言葉尻を押える。
「臓物入りの菜汁と来たら、兄弟、おれあ大好物だよ」と三人めが引き取る。「だって、うめえじゃねえか」
「じゃ、なにかい、てめえは年じゅう臓物ばかり食わされても、やっぱりうめえっていうのかい?」
「そりゃもう、いまは肉を食わなくちゃならねえ時分だよ」
と四人めがいう、「おれたちは、工場でへとへとになるまで働くんだから、仕事をすまして帰ったら、たらふく食いてえやな。臓物なんて食い物といえるかい!」
「胆でなけりゃ、腸と来やがら」
「そうよ、その腸にしたって同じことさ。胆と腸、まるでばかのひとつ覚えさ。これでもいってえ食い物なのかい? これでもまっとうなやりかただと思うかい?」
「そうよ、ほんとにひでえ餌よ」
「きっと、ふところを肥やしてやがるに相違ねえ」
「そりゃ、てめえなんかの頭じゃわかりっこねえ話だよ」
「じゃ、だれの頭ならわかるってんだい? とにかく、腹はこっちのもんだからな。ひとつみんなが総がかりで、抗議をやらかそうじゃねえか。それなら、ものになるぜ」
「抗議を?」
「そうよ」
「そんな抗議とかなんとかいって、てめえはまたぶんなぐられ足りねえと見えるな、とんまめ!」
「そいつはほんとうだ」と、今まで黙っていた一人の男が、そばからぶつくさいい出した。「せいてはことを仕損じる道理でな、その抗議とやらをやらかして、いったい何をしゃべる。つもりなんだい、それからさきにいってみろよ、この間抜け野郎」
「なあに、ちゃんとしゃべってみせらあ。みんながやるなら、おれもいっしょにいうだけのことをいうよ。なにしろ貧乏人の悲しさでな。おれたちの中にゃ、勝手に好きなものを注文して食ってるものがあるかと思うと、お上の当てがい扶持だけで過ごしているものもあるんだからな」
「ふむ、あきれたやっかみやだ! 人のものにばかり目をきょろつかせやがって」
「人のご馳走を見て、口をぽかんとあけてるよか、せいぜい早起きをして三文のとくをしろ」
「早起きをしろだと! そういうことなら、おれあ自髪になるまで、てめえと談判をしてやるから。てめえなんか、腕組みをしてすわり込んでいたがるところを見ると、つまり金持ちなんだな」
「エロシカはお金持ち、持ってるものは犬と猫っていうからな」
「まったくのところ、兄弟、ぼんやりしててもしようがねえじゃねえか! もうやつらのふざけたざまを、黙って見るのもいい加減にするがいいぜ。おれたちは身の皮を剥がれてるんだ。なにも指をくわえてることはありゃしねえ」
「なんだと? てめえはいったい、噛んで含ませてもらわなけりゃ承知しねえのか! 噛み砕いたものばかり食うのが癖になっていやがるな。だって、ここは懲役場じゃねえか、――だから、つれえのが当たりめえよ!」
「それじゃ、つまり、みんなはたがいに喧嘩をして、おえらがたの腹を肥やせってわけか」
「いかにもそのとおり。あの八方にらみの野郎、すっかり食い肥ってしまやがった。近ごろ、灰色の馬を二頭そろえて買いこんだりしてよ」
「おまけに、酒もおきらいと来てやがるか」
「このあいだもカルタをやってて、獣医と取っ組み合いをしたそうだ」
「夜っぴて勝負をやったんだが、やっこさんは、ものの二時間もやり合ったって話だ。フェージカがそういってたよ」
「だから腸入りの菜汁を食わせやがるんだ」
「ちぇっ、てめえたちもばかの集まりだな! なあに、こちとらの分際で、押しかけて行けるもんか」
「まあ、とにかく、みんなで押しかけてって、やつがどんないいわけをやるか、聞いてみようじゃねえか。どこまでもがんばるんだ」
「いいわけだって! やつはてめえの横ずっぽを食らわして、それでおさらばよ」
「おまけに、裁判所へ突き出されるんだ……」
 ひと口にいえば、だれもかもが興奮していたのだ。その時分、わたしたちの食べ物はまったくひどかった。それに、あとからあとからと、いろんなことが重なっていった。しかし、おもな原因は一同の悩ましい気分と、たえず秘められていた苦痛である。囚人は本来、口うるさくて、反抗心の強いものであるが、一同が同時に蜂起するとか、あるいは大集団となって立つとかいうことはまれである。その原因は、つねに一致が欠けていることで、それは彼らのおのおのが自分でも感じていた。こういうわけで、わたしたもの間でも、実行より罵詈口論のほうが多かった。とはいえ、今度は彼らの動揺も、から騒ぎに終わらなかった。彼らはすこしずつあちこちに集まって、監房同士で相談したり、悪態をついたり、わが要塞参謀のやり口をいちいち洗い立てて、憤慨したりした。そして、彼の秘密なうしろ暗いことを、残らず探り出すのであった。なかでも、数人のものがとくに興奮していた。すべてこうした場合にも、いつも音頭とりになる発頭人が現われるものである。こういった場合、というのは、つまり、抗議を提出したりするような場合に、音頭とりになるのは、概して非常に図抜けた連中である。それはただ監獄ばかりでなく、あらゆる組合や、団体などに共通の現象である。彼らは特殊なタイプをなしていて、つねにいたるところ相似点を有している。それは、正義を渇望している熱烈な人々であって、きわめて無邪気に正直な態度で、この正義がかならず問違いなく、しかも猶予なしに実現されるものと確信しているのだ。これらの人々は、ほかのものにくらべてばかでないどころか、なかには飛び抜けて頭のいい連中もいるのだが、あまり熱しやすいために巧知を弄したり、こまかい目算を立てたりすることができない。すべてかような場合にあって、たくみに群像を導いて、成功を獲得しうる人物があるとすれば、それはもはや別のタイプに属する生まれながらの指導者であり、民衆の先達であって、わが国にはきわめてまれな典型なのである。ところで、いまわたしの語っている抗議の発頭人や音頭とりは、ほとんどつねにことを失敗に終わらせる連中で、そのために後日、方々の監獄や徒刑場で暮らさなければならぬはめとなるのだ。彼らはその熱しやすい性質のために失敗するのでもあるが。またそのために大衆に勢力を持っているのだ。大衆は結局、喜んで彼らのあとについていくのである。彼らの熱と義憤が一同に働きかけて、ついには最も思いきりの悪い連中でさえ、彼らに合流してしまう。成功に対する彼らの盲目的な確信は、いかに頑固な懐疑派でも、誘惑せずにはおかない。そのくせ、この確信はきわめて脆弱な、子供っぽい基礎しか持っていないので、よそ目から見ると、どうしてあんなもののあとに人がついていくのかと、あきれるほどである。が、なによりもおもな力は、彼らが先頭に立って進んで行くことである、何ものをも恐れずに進んで行くことである。彼らは牡牛のように角を下げて、まっしぐらに突進して行くだけで、多くの場合、なんの知識もなければ、周到な用意もなく、実際的な巧知さえ持ちあわせていない。こういうものを持っていれば、このうえもなく陋劣醜悪な人間でさえも、まんまと成功して目的を達し、水の中から濡れずに出て来るような芸当を演ずることも、珍しくはないのである。ところが、正直な連中はかならず角を折ってしまう。日常の生活では、彼らは癇の強い、気むずかしい、いらいらとこらえしょうのない手合いなのである。そして、最も多くの場合、おそろしく思慮分別に欠けているが、しかしそれがある程度、彼らの力となっているのだ。何よりも困ったことには、彼らはしばしば直接な目的に向かって進むかわりに、わき道へはずれ、肝腎な仕事をそっちのけにして、枝葉のことに力を浪費する。それが彼らの破滅となるのである。しかし、彼らは群集にとっては理解しやすいので、そこに彼らの力があるのだ……しかし、抗議[#「抗議」に傍点]とは何を意味するかについて、なお一言しておく必要がある……………………………
 わたしたちの監獄には、抗議をやったために食らい込んだものが幾人かいた。だれよりもいちばん興奮したのは彼らである。とりわけ、以前軽騎兵隊に勤めていたマルティーノフという男などは、熱しやすくて、落ちつきがなく、疑ぐり深い性質であったが、同時に、潔白な正直者であった。もう一人はヴァシーリイ・アントーノフという男で、人を食ったような目つきをし、高慢ちきな皮肉たっぷりの微笑を浮かべ、一種冷静な態度で腹を立てるというふうであったが、しかし非常にもののわかった人間で、同様に潔白な正直者であった。しかし、一人一人数えあげるわけにはいかない。なにしろ、彼らの数は多かったのだ。なかんずく、ペトロフなどは、しきりにあちこち目まぐるしく動きまわって、人がかたまっていると、いちいちそばへ寄って耳を傾け、自分ではあまり口数をきかなかったけれども、目に見えて興奮している様子であった。一同が列を作りはじめたとき、彼は真っ先に監房から飛び出して行った。
 わたしたちの監獄で、曹長の職務をとっていた下士官が、びっくりしてすぐに駆けつけて来た。囚人たちは列を作り終わると、慇懃な調子で彼に向かって、監獄ぜんたいのものが少佐と面談して、二、三の点についてじきじき頼みたいことがあるから、この旨を取り次いでほしいと頼んだ。下士に続いて、廃兵もぜんぶ出て来て、囚人たちの反対がわに整列した。下士に申し出された請願は、容易ならぬことだったので、彼はぎょっとしてしまった。が、それかといって、即刻少佐に報告せずにおくわけにはいかない。第一、もし囚人たちが一揆を起こしたら、なにかもっと悪い事態をひき起こすかもしれない。監獄の役人たちはだれもかも、囚人のこととなると、なんだか特別に臆病であった。第二には、よしんば何事も起こらずにすみ、みんながすぐさま思い直して解散したにもせよ、それでも下士はさっそくそのことを、のこらず上官に報告する義務があった。彼は真っ青になって、恐ろしさにふるえながら、自分で囚人たちを訊問したり、説諭したりしようともせず、あわてて少佐のもとへおもむいた。もうこうなったら、囚人たちが自分など相手にもしないということを、見て取ったのである。
 わたしはかいもく事情を知らないで、同じように整列しようと外へ出た。わたしがいっさいの顛末を知ったのは、もうあとになってからのことである。そのときには、なにか点検でも始まるのだろうぐらいに考えていた。けれども、点検をやる衛兵の姿が見えないので、わたしは不思議に思って、あたりを見まわし始めた。人々の顔は興奮して、いらいらしていた。なかには、真っ青な顔をしているものさえあった。一同は概して、少佐のでどんなふうに切り出したものかと心がまえをしながら、心配そうに押し黙っていた。多くのものは、ひどくびっくりした様子で、わたしのほうを見たが、そのまま黙ってそっぽを向いてしまった。わたしはそれに気がついた。彼らはあきらかに、わたしまでが同じように抗議を提出しようなどとは、信じていない様子であった。しかし、間もなくわたしの周囲にいたものがほとんど全部、あらためてわたしのほうへ顔をむけた。一同は不審げに、わたしをじろじろ眺めた。
「おめえなんだってここへ来たんだ?」ほかのものより離れて立っていたヴァシーリイ・アントーノフが、大きな声でぞんざいにわたしに問いかけた。彼はこれまで、いつもわたしにあなた言葉を使って、慇懃な態度をとっていたのである。 わたしは依然として、これはいったい何事かと、理解しようと努めると同時に、何か容易ならぬことが始まっているのを早くも察しながら、合点のゆかぬ気持ちで彼を見やった。
「ほんとにおめえなんか、何もここに立ってることなんかありゃしねえ。さっさと監房へ引っ込むがいいやな」と兵隊あがりの若者がいった。これは、今までまるで近づきのなかった、気立てのよい、おとなしい男であった。「こりゃおめえなんかの知ったことじゃねえよ」
「でも、みんな整列しているじゃないか」とわたしは答えた、「わたしは点検だろうと思って」
「ふむ、人なみに出しゃばりやがって!」と一人が叫んだ。
「鉄の嘴《くちばし》をしてやがるくせに」と、もう一人が口を入れた。
「蠅つぶし!」と、さらに一人のものが、言葉に尽くしがたい侮蔑をこめていった。この新しい綽名は、一同の高笑いを呼んだ。
「炊事場でも上客で納まっていやがら」とまただれかがつけ加えた。
「あいつらはどこへ行っても極楽だ。ここは懲役場なんだが、やつらあ丸パンを食ったり、豚の仔を買ったりしてやがるんだからな、え、おめえは注文のご馳走を食ってるんじゃねえか。なんだってこんな所へ出しゃばって来やがったんだ?」
「ここはあんたの出る幕じゃありませんよ」とクリコフが捌《さば》けた様子で、わたしのそばへ近よりながらいった。彼はわたしの手をとって、列の外へ連れ出した。
 そういう彼自身も青い顔をして、黒い目はぎらぎら光り、下唇はきっと食いしばられていた。冷静な気持ちで少佐を待ち受けていられなかったのだ。ついでにいうが、すべてこういったような場合、つまり、クリコフが性根を見せなければならなくなったような場合に、彼の様子を眺めているのが、わたしはたまらなく好きであった。彼はおおいに気取ってはいたけれども、するべきことはちゃんとしてのけた。この男は、おそらく刑場へ曳かれて行く時でも、多少の気取りと伊達者気分を取り落としはしないだろう、といったような気がした。いまや一同が、わたしをおまえよばわりしてののしっている時、彼はあきらかにわざとわたしに対する慇懃さを強調したらしいけれど、同時に彼の言葉は、何かとくべつ高慢に聞こえるほど執拗で、いかなる抗弁をも許さないていのものであった。
「アレクサンドル・ペトローヴィチ、わしらは自分の用があるからここでこうやってるんだが、あんたはここにいたってしようがありませんよ。どこかへ行って待っていなせえ……そら、あんたのお仲間は炊事場に集まってるから、あそこへ行きなさるがいい」
「九番めの杙の下へ行きゃがれ、そこにや踵のねえアンチープカが住んでいらあな!」とだれかが引き取った。
 なるほど、炊事場の窓が細めに上げられて、その中に監房仲間のポーランド人たちがいるのが見分けられた。もっとも、そこにはまだ彼らのほかに、大勢の人がいるように思われた。わたしは度胆を抜かれたような気持ちで、炊事場のほうへ行った。笑声、罵詈雑言、舌打ちの響き(囚人たちの間では口笛のかわりになっている)、これらのものがわたしの背後に響いた。
「お気にさわったと見える?………ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、やーい、やーいだ……」
 わたしは監獄に入って以来、これほどまでに侮辱されたことがなかったので、この時ばかりは、じつに堪えがたい思いであった。しかし、そうした瞬間にぶっつかったのだから仕方がない。炊事場の口で、わたしはT―フスキイに山会った。たいした教養はないが、しっかりした寛大な貴族出の青年で、無性にBを愛していた。囚人たちも彼一人だけは、ほかのものより別扱いにして、いくらか愛情さえ感じていたほどである。彼は勇気があって、男らしく、力も強かった。それがどことなく、彼の一挙一動に現われるのであった。
「どうしたんです、ゴリャンチコフ君」と、彼は声だかにわたしをよびかけた。「こっちへいらっしゃい!」
「いったいあれはどうしたというんです?」
「あの連中は、抗議を提出しようとしているんですよ、きみは知らなかったんですか? もちろん、ものになりゃしませんよ、だれが囚人のいうことなんかほんとうにするもんですか? やがて主謀者の詮議が始まるから、もしわれわれがあの中にまじっていようものなら、暴動の罪は真っ先にわれわれにかかって来るに決まってますよ。そもそもぼくらがここへ送られて来たのはなんのためか、それを思い出してごらんなさい。やつらはただ笞刑ですむけれど、ぼくらは裁判にまわされますよ。少佐はぼくら一同を憎んでいるから、それこそ喜んで、一生うかばれないようにしてしまいますよ。やつはぼくらを自分の弁明の材料にするでしょうよ」
「それに、囚人たちもわれわれにそっくり罪をきせてしまうのさ」とわたしたちが炊事場へ入った時、M―ツキイがこういった。「心配ご無用、情け容赦はありゃしないから!」とT―フスキイが引き取った。
 炊事場には貴族たちのほかまだ大勢、全部で三十人ばかりのものがいた。あるものは臆病なために、あるものは抗議などしてもぜんぜん無駄だと確信しているために、抗議に加わる意志がなくて残ったものばかりである。そこには、勤務と良俗の正しい流れを妨げるこの種の抗議を、生まれながらにして心底から憎んでいる、アキーム・アキームイチもまじっていた。彼は事件の結末を毛頭心配しなかったのみか、むしろ秩序と当局の意志の勝利を、どこまでもじゅうぶん信じきっていたので、無言のまま平然と落ちつき払って、事件の終わるのを待っていた。そこにはイサイ・フォミッチも、ひどく戸まどいしたような形で、しょんぼりとうなだれ、貪るような、しかも臆病げな様子で、わたしたちの話に耳を澄ましながら立っていた。彼はひとかたならぬ不安に駆られているのであった。そこにはまた、平民のポーランド人も、貴族連といっしょになって、残らず集まっていた。それから、いつもいじけて黙りこくっている、気の小さいロシヤ人たちも幾人かいた。彼らはほかの連中といっしょに出て行く勇気がなく、結局どういうことになるかと、わびしい気持ちで待っているのであった。最後に、いつも荒々しい様子をしている気むずかしい囚人も数人いた。これはけっして臆病なのではなく、ただそんなことをしたってつまらない、結局ろくでもないことになるに決まっていると信じきって、意地っぱりで踏みとどまったのである。しかし、わたしの見るところでは、彼らもいまはさすがにばつが悪いらしく、その様子にはしっかりした自信がなかった。彼らは、抗議に関する自分たちの意見があくまで正しいことを理解していたし、またそれは事実に証明されはしたものの、なんといっても、自分たちが組合を見捨てた落伍者であり、仲間を要塞参謀に売り渡したもののように感じられるのであった。そこにはまたヨールキンも見かけられた。例の贋金づくりで入獄し、クリコフから獣医商売の得意を横どりしたシベリヤ生まれの百姓である。スタロドゥポフ村の老人も、やはりそこにいた。炊事番はみんな一人残らず炊事場に残っていたが、それはおそらく、自分たちも当局の一部といった形になっているから、したがって、これに反抗して立つのは筋ちがいである、といったような信念から来たものらしい。「しかし」とわたしは思いきりの悪い様子でMのほうに向きながら、口を切った。「この連中をのけたら、ほとんどぜんぶ出かけて行ったんですからね」
「だが、それがぼくらにとってどうだというんです?」とBがつぶやいた。
「もしわれわれが出て行ったら、あの連中より百倍も危険を犯すことになるんですよ。しかもそんな必要がないじゃありませんか? Je hais ces brigands.(わたしはあの無頼漢どもを憎みます)いったいあなたはただの一分間でも、やつらの抗議が成功すると思いますか? あんなばかげたことに首をつっ込んだら、それこそいい物好きでさあ」
「あんなことをやったって、骨折り損のくたびれ儲けだ」囚人の一人で、頑固な怒りっぽい老人が、横から口を出した。同じくそこに居合わしたアルマーソフも、いそいでそれに相槌を打った。
「笞の五十も食らわされるだけのことで。ほかにどうともなるもんじゃねえ」
「少佐が来たぞ!」とだれかが叫ぶが早いか、一同はさきを争って窓のほうへ飛んで行った。
 眼鏡をかけた少佐は、顔を真っ赤にし、ものすごい剣幕で、気ちがいのように飛んで来た。彼は無言のまま、断乎たる態度で列に近づいた。こういう場合になると、彼はじっさい、勇猛果敢で、動転するようなことがなかった。ただし、ほとんどいつも酒気を帯びているのだ。オレンジ色の縁をとった脂じみた軍帽や、汚れた銀色の肩章までもが、今はなにかしら薄気味わるいものに思われた。彼のうしろからは、書記のジャートロフが従っていたが。これはわたしたちの監獄でも、きわめて重要な役割を働いている男で、事実上、獄内のすべてを支配し、少佐に対してすら勢力を持っていて、なかなか胸に一物のあるほうだったが、悪い人間ではなかった。囚人たちは彼に好意をいだいていた。そのうしろからは、もうあきらかにしたたかお目玉を食ったうえ、まだその十倍もするようなやつをちょうだいするものと覚悟しているらしいわが下士官がついて来た。最後に護衛兵が従っていたが、ようやく三人か四人くらいのもので、それ以上ではなかった。もう少佐を迎えにやった時から、帽子を脱いで待っていたらしい囚人たちは、いまやいっせいに姿勢を正して首を反らした。だれもかれもが足を踏みかえたと思うと、やがて上長官の最初の一撃、というよりは、むしろ最初の怒号を待ち受けながら、その場にじっと静まり返った。
 その怒号は猶予なしに響き渡った。もうふた言めから、少佐はありったけの声でどなり出した。それどころか、今度は妙な金切り声さえ交じっていたほどである。もうすっかりかんかんに腹を立てたのである。彼が列の前をあちこち走ったり、跳びかかったり、訊問したりしている様子が、わたしたちの窓から手に取るように見えた。もっとも、彼の質問も囚人たちの答えも、場所が遠いために聞き分けられなかった。ただ彼が金切り声でつぎのようにわめくのを聞いたばかりである。
「謀反人めら!………笞刑だ!………発頭人ども! きさまが発頭人だろう! きさまが発頭人だろう!」と彼はだれかに飛びかかった。
 答えは聞こえなかった。けれども、一分ばかり経った時、一人の囚人が列を離れて、衛兵所のほうへ行くのが見えた。さらにもう一分たつと、あとからもう一人、続いてまた一人ひっぱられて行った。
「みんな裁判にかけてやる! いまに見ておれ! だれだ、炊事場にいるのは?」彼はあけ放した窓の中にわたしたちの姿を認めると、黄色い声を搾って叫んだ。「みんなここへ引っぱり出せ! すぐここへ追い立てて来い!」
 書記のジャートロフが、わたしたちを迎えに炊事場へ来た。炊事場の連中は彼にむかって、自分たちは抗議など唱えはしないのだといった。彼はさっそく引っ返して少佐に報告した。
「なに、抗議を唱えん!」と彼はさもうれしそうに、二オクターブ低い声でこういった。「どっちにしても同じことだ、みんなここへつれて来い!」
 わたしたちは出て行った、わたしはなんだか、出て行くのが恥ずかしいような気がした。また実際に、みんな頭を垂れて歩いたものである。
「ああ、プロコーフィエフ! ヨールキンもいるな。ああ、おまえか、アルマーソフ……ここへ、ここへ来て、ひとかたまりになれ」と少佐は妙にせきこんだような、しかしもの柔らかな声で、わたしたちを優しく見まわしながらいった。「M-ツキイ、おまえもそこにいたのか……これからすっかり書き上げるんだ。ジャートロフ! さっそくみんなの名前を書き上げろ、満足しているものと、不満なやつらとを別々に、みんな残らず書き上げて、書類をおれのところへ持って来い。おれはきさまたちをみんな……裁判にかけてやる! いまに見ておれ、悪党めら!」
 書類というひと言が効果を奏した。
「わっしどもは満足なんで!」と、不意に不平組の中から一人の声がして、気むずかしげな調子でこう叫んだが、なんだか妙に煮えきらない感じであった。
「ふむ、満足だと! だれが満足なんだ! 満足している者は前に出ろ」
「満足でがす、満足でがす!」と、また幾人かの声が加わった、「満足だと! それじゃ、きさまたちは煽動されたんだな? してみると、発頭人があったんだ、謀反人があったんだろう? それなら、なおやつらの罪が重いわけだ?………」
「あ、これはいったいなんてことだろう!」というだれかの声が群集の中に聞こえた。
「だれだ、今わめいたのはだれだ、どいつだ?」と、少佐は声のしたほうへ飛んで行さながら、咆哮した。「ありゃきさまだろう、ラストルグーエフ、きさまがわめいたんだろう? 衛兵所ゆきだ!」
 むくんだような顔をした、背の高い、ラストルグーエフという若者が列を離れて、のろのろと衛兵所のほうへ歩き出した、叫び声を発したのはまったく人違いだったけれど、指名されたので抗弁しようともしなかったのである。
「あまり食い過ぎてみんな気が変になるんだ!」と少佐は彼のうしろからわめいた。「ちょっ、そのでぶでぶした面はなんだ、三日間……いまにおれがきさまたちを残らず詮議してやる! 満足なものは前へ出ろ!」
「満足でがす、少佐殿!」と幾十人かの声が陰欝にひびいた。そのほかのものは、強情に押し黙っていた。しかし、少佐にとってはそこが思う壺であった。あきらかに、彼自身としても、事件をすこしも早く片づけてしまう、しかも穏便に片づけてしまうほうが有利だったらしい。
「ははあ、それじゃ、もうみんな[#「みんな」に傍点]満足なんだな!」と彼はせきこみながらいった。「おれにはちゃんとわかっていたんだ……知っていたんだ。これはつまり発頭人の仕業だ! あいつらの中には、明瞭に発頭人がいるんだ!」と彼はジャートロフのほうへ向きながら言葉を続けた。「こいつは詳しく詮議しなくちゃならん。だが、今は……労役の時間だ。太鼓を鳴らせ!」
 彼は組分けの時に、自身したしく立ち会った。囚人たちはすくなくとも、少佐の目の前から一刻も早く去って行けるのに満足しながら、黙々として沈みがちに、それぞれの仕事場に別れて行った。しかし、組割りがすむと、少佐はさっそく衛兵所へおもむいて、『発頭人』どもの処分をしたが、あまり苛酷にはしなかった。むしろせかせかしていたくらいである。あとで聞いた話によると、その中の一人がゆるしを乞うと、彼はすぐにゆるしてやったとのことである。あきらかに、少佐は気持ちが落ちつかなかったらしく、おじけづいていたかもしれないほどであった。抗議はいずれにしてもくすぐったい問題である。実際のところ、囚人の訴えは抗議などと呼ばれるべきものではなかった。なぜなら、最高当局にあてたのではなく、じきじき少佐に提出されたものだからである。が、なんといっても具合の悪い、面白からぬことであった。とくにみんな一人残らず起ったということが気になった。そういうわけで、是が非でも事件をもみ涓してしまわなければならなかった。『発頭人ども』は間もなく放免された。そして、食物もさっそくその翌日からよくなったが、しかし永つづきはしなかった。当座、数日の間、少佐はいつもより頻繁に監獄へやって来て、やたらに不始末を発見した。わが下士官は、驚きのあまり、いまだにわれに返ることができないとでもいったように、心配そうなとほうに暮れた様子をして歩きまわった。囚人たちはというと、彼らはその後も長い間、気持ちを落ちつかせることができなかったけれど、もう前のように興奮せず、暗黙の内に不安を覚え、なんとなく荒胆をひしがれたようなふうであった。なかにはすっかり情気きったものもあった。かと思うと、あまり口数はきかなかったけれども、今度の事件を不平がましくとやかくいうものもあった。多くのものは、さながらあの抗議に対して、自分で自分を罰しようとするかのように、妙に毒々しく口に出して自嘲していた。
「おい、どうだ、兄弟、いいばかを見たじゃねえか!」と一人がこんなことをいう。
「人を呪わば穴二つだ!」ともう一人がつけ加える。
「猫の首っ玉に鈴をぶら下げる鼠は、どこにいるんでえ?」と第三のものがいう。
「おれっちは、樫の棒をくらわされなけりゃ腑に落ちねえんだ、わかりきった話よ。まあ、みんながぶちのめされなかったのが、まだしものほうよ」
「てめえこれからあ、ものごとをすこしでもよけい知るようにして、おしゃべりのほうを控えめにしろや、そのほうが安心だなあ!」とだれやらが毒々しげに注意する。
「おい、てめえはなんだってお説教なんかしやがるんでえ、先生なのけえ?」
「知れたことよ、物の道理を教えてやってるんじゃねえか」
「いってえ、てめえは何様なんだ、生意気にしゃしゃり出やがって?」
「なに、おれはまだ今のところ人間だい、ところが、てめえは何ものだ?」
「犬のかじりくさしだい、それがてめえなのよ」
「てめえこそそうじゃねえか」
「おい、おい、もうたくさんだよ! 何を騒いでるんだ!」と四方から、口論で夢中になっている二人をどなりつける。 その晩、というのは、抗議のあった当日のことだが、わたしは労役から帰って来ると、監房の裏手でペトロフに出会った。彼はもうわたしをさがしていたのである。わたしのそばへ寄ると、彼はなにかしらふた言み言、曖昧な感嘆詞めいたことをつぶやいたが、すぐ放心したように黙ってしまって、機械的にわたしと並んで歩き出した。きょうの出来事ぜんたいが、いまだにわたしの心に悩ましいほどつかえていた。わたしは、ペトロフが多少なにか説明してくれそうな気がした。
「どうだろう、ペトロフ」とわたしは彼にたずねた。「きみたちの仲間は、わたしたちに腹を立てちゃいないかね?」
「だれが腹を立てるんで?」と彼は急にわれにかえったように問い返した。
「囚人たちがわたしたちにさ……貴族出の連中にさ」
「なんだってあんたがたに腹を立てることがあるんですね?」
「まあ、なにさ、わたしたちが抗議に出て行かなかったことでさ」
「だって、あんたがたがなんのために抗議をやらかすわけがあるんですね?」と、彼はわたしの気持ちを呑み込もうと努める様子で、こうたずねた。「だって、あんたがたは自分のものを食ってるんじゃがせんか?」
「ああ、何をいうんだね? そんなことをいえば、きみたちのほうにだって、自分のものを食ってる連中があるじゃないか、それでもやっぱりいっしょに出て行ったからね。だから、わたしたちも出て行かなくちゃならなかったんだ……仲間の義理として」
「でも……でも、あんたがたがどうしてわっしたちの仲間なんですかい?」と彼はけげんそうにたずねた。
 わたしは急いで彼の顔を見た。彼はまったくわたしの言葉がわからなかった。わたしが何を追及しているかを、まるで理解しなかったのである。そのかわり、わたしのほうは、一瞬にして彼を完全に理解してしまった。すでに久しい以前からわたしの心中にうごめいて、わたしを悩まし続けていたひとつの想念が、今はじめて残りなく闡明された。わたしはこれまではっきり推測のできなかったことを、忽然として悟った。わたしは、たとえ自分がどんな恐ろしい囚人であろうと、正真正銘の無期徒刑囚であろうと、特別監の囚徒であろうと、けっして彼らの仲間に入れられることはないのだ、ということを悟ったのである。しかし、とくにこの瞬間、わたしの記憶に残ったのは、ペトロフの表情であった。「あんたがたがどうしてわっしたちの仲間なんですかい?」といった彼の質問の中には、じつに自然そのままの素朴さが、――いかにも単純な不審の調子が響いていたのである。この言葉の中に何かの皮肉、憎悪、嘲笑といったようなものがこもってはいないだろうか、とわたしは考えてみた。が、そんなものはすこしもない、ただ仲間でないというだけのことで、それきりなのである。おまえはおまえの道を行け、おれたちはおれたちの道を行く、おまえにはおまえの仕事があるだろうし、おれたちにはおれたちの仕事がある、というわけなのだ。
 はたせるかなそのとおりで、わたしは抗議事件のあとで、みんなが無遠慮にわたしたちをいじめ散らして、生きている空もないようにするだろうと思っていたが、それはとんでもない話であった。わたしたちは露いささか非難がましい言葉も聞かなければ、爪の垢ほどの当てこすりも耳にしなかったし、かくべつみなの憎しみが増したということもなかった。ただ今までと同じように、おりにふれて痛めつけるだけのことであった。もっとも、抗議の仲間に加わるのをいやがって炊事場に残った連中に対しても、また、何ひとつ不足はないと真っ先に叫んだ連中に対しても、彼らはいっこうに腹を立てなかった。のみならず、このことを口にするものさえなかった。この最後の点がとくにわたしは会得できなかった。

[#3字下げ]8 仲間[#「8 仲間」は中見出し]

 わたしが自分の仲間、すなわち「貴族」たちのほうへ、より多く引きつけられたのはもちろんである。はじめの間はことにそうであった。しかし、わたしたちの監獄にいたロシヤ人の旧貴族三人(アキーム・アキームイチと、間諜のA―フと父親殺しとされていた男)のうちで、わたしが知り合いになって口をききあったのは、アキーム・アキームイチ一人だけであった。正直なところをいえば、わたしがアキーム・アキームイチに近づいたのは、淋しさに堪えかねて、自暴自棄の気持ちになった時とか、彼よりほかには話し相手にするものがない時に限られていた。わたしは前の章で、監獄の中の人人をいくつかの範疇に分類しようと試みたが、今アキーム・アキームイチのことを思い浮かべたら、なお一種類くわえることができるように思う。もっとも、この部類を構成するのは彼一人なのである。それは完全に無関心な囚人の部類である。完全に無関心なもの、つまり、自由の世界であろうと懲役場であろうと、どこで生活するのも同じことだというようなのは、もちろん、わたしたちのあいだにだれもいなかったし、またいるべきはずもないが、アキーム・アキームイチはどうやら例外だったらしい。彼はまるで一生涯、監獄の中で暮らすつもりででもあるかのように、ひと世帯ととのえていたほどである。彼の周囲にあるものは、蒲団や枕や道具類をはじめとして、何から何までがっちりと、堅固に、永久的に配置されていた。一時の仮り住居といったようなものは、影すらも見当たらなかった。彼はまだ長い年月を監獄で過ごさなければならなかったには違いないが、出獄などということを、かつて一度でも考えたことがあるかどうか。しかし、たとえ彼が現実と妥協したにしても、もちろん、それは心からではなく、ただ規律に対する服従から来ているに過ぎないが、彼にとってはどちらでも同じことだった。彼は善良な人間で、わたしの入獄当初などは、いろいろ助言したり、めんどうを見たりして、力になってくれたほどである。ところが、申しわけないことながら、彼はときとして自分では無意識に、譬えようもない憂愁の念を吹き送って、それでなくてさえ悩ましいわたしの心を、やるせもないところまで追いつめてしまう。はじめのうちはそれがとくにはなはだしかった。しかも、わたしは気分がくさくさするので、彼に話しかけたのである。よしんば癇癪《かんしゃく》まぎれの、無愛想な、意地の悪い言葉であろうとも、とにかく、何か生きた言葉が聞きたくてたまらないのだから、わたしたちは二人いっしょに運命を毒づきでもすれば気が紛れるのだが。彼は黙りこくって提灯を張っているか、さもなくば、何年に検閲があったとか、だれが師団長だったとか、その名と、父袮はなんといったとか、検閲の結果に満足したかどうかだの、散兵に対する信号がどんなふうに変更されたかだの、そんなことを話し出すのであった。しかも、しじゅうなだらかな、謹厳な調子で、水が一滴一滴したたり落ちるような話しかたなのである。彼はコーカサスで何かの戦闘に参加して、帯剣用の「聖アンナ」勲章を授与される光栄に浴した次第を物語った時ですら、ほとんどいささかの感動の色をも見せなかったほどである。ただ声がその瞬間なにかなみはずれて重々しく、もったいらしくなっただけである。彼は「聖アンナ」という言葉を発する時、一種神秘めかしい感じがするくらい声を低めたが、そのあとで三分間ほど、とくにむっつりともったいらしい様子になった……この最初の一年間というもの、わたしはなぜとも知らず、アキーム・アキームイチにほとんど憎悪の念を感じ、寝板の上で彼と頭と頭を突き合わせて寝るようなまわり合わせになった運命を、無言のうちに呪うような、愚かな瞬間がよくあった(それはいつも妙に突如としてやって来た)。たいてい一時間も経つと、わたしはそうした自分を自分で叱責したものである。しかし、それは最初の一年間だけであった。その後、わたしは心中ひそかにアキーム・アキームイチと妥協して、以前の愚かな気持ちをにわれながら恥ずかしく思った。ただし、表面的には、わたしは彼と一度も、争いなどしなかったように記憶している。
 これら三人のロシヤ人のほか、わたしの在監中には、なお八人の外国人がいた。そのうちのあるものとはかなり近しくて、満足をすら覚えたほどであるが、全部のものとつき合ったわけではない。彼らの中でも優秀な人々は、どうしたものか病的で、排他的で、絶対に妥協心というものがなかった。中の二人とは、その後、話もしないようになった。教養のあるのはただ三人きり、B―キイと、M―キイと、J―キイ老人であった。老人は前にどこかの大学で数学の教授をしていたとかで、親切ないい人間だったけれど、たいへんな変わり者で、教養があるにもかかわらず、どうやらきわめて頭が悪いらしかった。M―キイとB―キイとは、まるで人間が別であった。M―キイとは、はじめからすぐ意気投合した。わたしは一度も彼と喧嘩をしたことがなく、つねに尊敬はしていたけれども、好きになるとか、愛着をいだくとかいうことは、ついにできなかった。それはじつに猜疑心の深い、世に拗ねた男であったが、自己を抑制する能力は驚くべきものであった。つまりあまりにも大きなこの自制力が、わたしの気に入らなかった点なのである。この男はけっしてだれの前でも、自分の魂をそっくり開いて見せることはないだろう、となぜかそんな気持ちがするのであった。とはいうものの、それはわたしの考え違いかも知れない。彼は強い性格の持ち主で、このうえもなく高潔な人物であった。人に対する時の、世にも珍しい、幾分ジェスイットじみるくらいな要領のよさと用心ぶかさが、深く内部にひめた懐疑癖を物語っていた。と同時に、彼の魂は、ほかならぬこの二重性のために悩み苦しんでいるのであった。それは懐疑癖と、自己独特の信念や希望に対する根ざし深い、何ものによっても揺るがすことのできない信仰との相剋である。そのくせ、処世にかけては要刎がいいにもかかわらず、彼はB―キイとその親友T―スキイと不惧戴天の敵同士であった。B―キイは病身な、いくらか肺病のけのある男で、神経質でいらいらしやすいところはあったけれども、じつはごく善良な、寛大とさえいえるほどの人物であった。その癇癖がときによると、途轍もない片意地となり、わがままとなることがあった。わたしにはこの性質が我慢できなかったので、のちにはB―キイと交遊を絶ってしまったが、そのかわり、彼を愛する念は片時も失せなかった。M―キイとは、ついぞいい争わなかったかわりに、一度も彼を愛したことはない。B―キイと別れてから、わたしはさっそくT―スキイとも手を切らなければならなくなった。これはわたしが前の章で抗議事情の話をするときに一言して置いた青年である、それはわたしとして非常に残念だった。T―スキイは教養こそなかったものの、親切で男らしくて、ひと口にいえば、すばらしい若人だったのである。そのわけはほかでもない、彼はB―キイを心底から敬愛して、神様のように崇めていたので、ちょっとでもB―キイと仲たがえした人々を、ただちに自分の敵と見なさんばかりの勢いだったからである。彼はたしかこのB―キイのためにM―キイとも具合が悪くなって、永いこと我慢していたけれど、結局、袂を分かってしまった。もっとも、彼らは皆どれもこれも精神的な病人で、癇癪のつよい、いらいらしやすい、疑ぐり深い連中であった。それも無理からぬ話で、彼らはつらかったのである。わたしたちよりもずっとつらかったのである。彼らは故郷を遠く離れて来ているのだ。その中には、十年、十二年という長い刑期で送られて来ているものもあったが、おもな原因は、彼らが周囲のいっさいの人を、根深い偏見をもって眺めていたことである。彼らは囚人たちの野獣性のみを認めて、何ひとついいところ、人間らしいところを見分けることができなかった。いな、見分けようとさえしなかったのである。それもまたもっとも千万な話であって、彼らは境遇と運命の力によって、そういう不幸な観点に立たされてしまったのである。監獄の中で、悒悶《ゆうもん》の情が彼らを窒息させたのは、明々白々である。チュルケス人、ダッタン人、イサイ・フォミッチなどに対しては、彼らも優しく愛想がよかったけれど、その他の囚人は、さもいやらしそうに避けるようにしていた、ただスタロドウボフの旧教徙だけは、彼らの深い尊敬をかちえたのである。しかし、ここに注意すべきは、わたしの在監中の始終を通じて、囚人たちがだれ一人として、生まれとか、信仰とか、ものの考えかたとかいう点で、彼らポーランド人たちに非難がましいことをいわなかった事実である。わが国の平民階級では、外国人、とくにドイツ人に対して、こういう態度をとるのが見受けられるが、しかしそれとてもきわめてまれである。もっとも、ドイツ人のことはただ笑うだけなので、元来、ドイツ人というものはロシヤの民衆にとって、何かひどく滑稽なものに見えるのである。ところが、わがポーランド人に対しては、囚人たちはむしろ尊敬の態度さえとり、かえってわたしたちに対するよりはるかに丁重で、彼らにはまるで手出しをしなかった。ところが、彼らのほうではけっしてそれを認めようとせず、考えてみようとさえしなかったらしい。わたしはT―スキイのことを話し出した。彼らが最初の流刑地から、わたしたちの要塞へ転送される時、健康も体格も弱いB―キイが、最初の宿場から次の宿場までの、ほとんどなかばくらいの辺から疲れて来たので、道中ずっと大部分、彼を背負って来たというのは、この男のことなのである。彼らは以前U―ゴルスクヘ流刑になっていた。彼らの話によると、住み心地がよかった、つまり、わたしたちの要塞よりも、ずっとよかったとのことである。しかし、彼らがほかの町にいるよその流刑囚たちと文通を始めたので、――もっとも、それはまったく罪のない内容のものであったが、そのために、彼らは三人ともわたしたちの要塞へ移された。わが最高長官が監視するのに手近なところへ置いたほうがいい、ということになったのである。彼らの第三の仲間はJ―キイであった。この連中が来るまで、M―キイはここの監獄で、たった独りぼっちだったのである。さぞかし、彼は流刑の第一年を欝々と悶え暮らしたことであろう!
 このJ―キイは、前にもう話したことのある、年じゅう神様にお祈りばかりしている例の老人である。ここにいる政治犯人はみんな若い人ばかりで、なかにはきわめて年少のものさえいた。ただJ―キイばかりは、もう五十の上を越していた。それはもちろん、正直な人間ではあったけれども、多少変人であった。仲間のB―キイとT―スキイは、彼のことを強情なわからずやだといってきらい抜き、話もしなかった。彼らがその点どれだけ正当だったか、わたしは知らない。すべて人々が自分の自由意志でなく、強制的にひとかたまりに集められている場所の常として、監獄の中では自由な匪界より以上に、争い合ったり憎み合ったりすることが多い、さまざまな事情がそれを助長させるのである。とはいうものの、J―キイは事実かなり頭の鈍い人間で、おそらく不愉快な男といっていいくらいだったかもしれない。そのほかの仲間の連中も、みんな彼とは折り合いが悪かった。わたしは彼と一度も喧嘩をしたことはなかったけれど、かくべつ親しくもしなかった。自分の専門の数学は、彼もどうやらわきまえているらしかった。忘れもしない、彼はブロークンなロシヤ語で、自分の考案したというある特殊な天文学のシステムを、わたしに説明しようとして、しじゅう一生懸命に骨折っていたものである。話によると、彼はいつかそれを発衣したことがあるが、学界ではただ一笑に付したばかりだったそうである。わたしの見たところでは、彼は頭が少々どうかしていたような気がする。彼は毎日、朝から晩まで、ひざまずいて神に祈念し、それによって、監獄ぜんたいから尊敬を受けていたが、その尊敬は死ぬまで失われなかった。彼は重病で入院したあげく、わたしの目の前で死んでいったのである。もっとも、彼が囚人ぜんたいから尊敬されるようになったのは、監獄ヘ一歩ふみ込むと早々、わが少佐とひと騒動もち上げてからである。U―ゴルスクからここの要塞へ来るまでの道中、一度も剃刀を当ててもらわなかったので、彼らは鬚ぼうぼうになっていた。で、いきなり要塞参謀の前へつれて来られた時、少佐はこうした規則違反を見て、烈火のように怒り出した。もっとも、それはけっして彼ら自身の罪ではなかったのである。
「やつらはいったいなんというざまをしとるのか!」と彼はどなり始めた。「これは浮浪人だ、強盗だ!」
 J―キイは当時まだロシヤ語がよくわからなかったので、おまえたちは何者だ、浮浪人か強盗かときかれたのだと勘違いをして、
「わたしたちは浮浪人ではありません、国事犯人です」と答えた。
「なーんだとオ! きさまはへらず口をたたくのか、へらず口を!」と少佐はわめき立てた。「衛兵所ゆきだ! 笞を百食らわせてやれ、いますぐ、一刻も猶予するな!」
 老人は刑を受けた。彼は唯々として答の下に身を横たえ、われとわが腕を噛みしめて、叫び声ひとり、呻き声ひとつ立てるでもなく、身動きもせずに刑罰を受けおわった。B―キイとT―スキイは、その間にもう監獄の中へ入った。その門際には、早くもM―キイが彼らを待ち設けていて、それまで一度も会ったことがないにもかかわらず、いきなり彼らにとびかかって、その首を抱きしめた。少佐のやり口をみて興奮した彼らは、J―キイのことを残らず彼に話して聞かせた。わたしは、M―キイがわたしにその話をしたことを、今だに覚えている。
「ぼくは前後を忘れてしまいましたよ」と彼はいった。「自分でも自分がどうなったかわからないほどで、全身悪寒でわなわなふるえていましたよ。ぼくはJ―キイを門のところで待っていました。彼は衛兵所で刑を受けて、そこからまっすぐに帰って来るはずだったんです。そのうちに、とつぜんくぐりが開いて、真っ青な顔をしたJ―キイが、紫色になった唇をふるわせながら、だれの顔も見ないで、貴族が笞刑を受けたと聞いて庭に集まった囚人たちの間を通り抜け、監房の中に入ると、まっすぐに自分の場所へ行って、ひと言も口をきかずに、ひざまずいて神に祈り始めたのです。囚人たちはそれに打たれて、感動さえしたくらいです、ぼくはこの老人を見ると」とM―キイは語るのであった。「故郷に妻子を残して来たこの白髪の老人が、恥ずべき刑を受けて、ひざまずいて祈っている姿を見ると、ぼくはいきなり監房の裏丁へとび出して、まる二時間ばかりというもの、まるで前後のわきまえもないような有様でした。もうすっかり気が立ってしまったんですな……」
 囚人たちはそれ以来、ひどくJ―キイを尊敬しはじめ、いつも慇懃な態度をとっていた。彼が笞か受けながら叫び声を立てなかったということが、とくに彼らの気に入ったのである。
 とはいえ、ほんとうのことはすべて洩れなくいっておかなければならない。この一例によって、貴族出の流刑囚がシベリヤの当局から受けている待遇を、とやかく判断するのは大きな間違いである。その流刑囚がロシヤ人であろうと、ポーランド人であろうと変わりはない、この例は、運わるくむちゃくちゃな人間にぶっつかる場合もある、ということを物語るに過ぎないのだ。もし、このむちゃくちゃな人間がどこかの独立した長官であり、しかもとくに流刑囚のだれかがその男にきらわれたとすれば、その流刑囚の運命ははなはだ不安なものとなって来る。しかし、多くの長官たちの態度や気分を左右するシベリヤの最高長官が、貴族の流刑囚に対して非常に付价ひいきがあるばかりでなく、ときによると、平民出の一般囚徒とくらべて、万事大目に見ようとする傾向さえあることは、認めないわけにいかない。その理由は明々白々である。第一、これらの上長官は自身貴族であるし、第二には、以前貴放出のある囚人が、おとなしく笞の下に身を横たえないで刑史に飛びかかり、そのために恐ろしい騒ぎをひき起こしたからである。第三には、これがわたしにはおもな原因と思われるのだが、ずっと以前かれこれ三十五年([#割り注]一八二五年十二月十四日に勃発したいわゆる「十二月党」事件の関係者を指す[#割り注終わり])も昔に、とつぜん流刑貴族の大集団が一度にシベリヤにやって来たことがある。これらの流刑囚たちは、三十年間によく身を処して、シベリヤ全体に名声をうたわれたために、当局はわたしたちの時代になっても、昔ながらの伝統的慣習にしたがって、知らずしらず、ある種の貴族出の犯人を、他の一般流刑者とは別の目で眺めるようになったのである。最高長官に続いて、部下の長官たちまでが、同じような目で眺める癖がついてしまった。それはもちろん、上のほうからそうした見解や調子を借りて来て、それに服従したものにほかならぬ。もっとも、これらの下級長官は鈍物が多く、上長官の処置を内心非難して、白己流のやりかたを邪魔されないで通していければ、それでおおいに満足しているというふうであった。しかし、そう何もかも自分勝手にはやらしてもらえない。わたしがこう考えるには確かな根拠があるのだ。ほかでもない、わたしの所属していた第二類の懲役、すなわち軍長官の監督を受け、要塞に監禁されている囚人の部類は、他の二つの種類、――つまり、第三類(丁場)および第一類(鉱山)よりも、比較にならぬほど苦しかったのである。それは単に貴族にとってのみならず、すべての囚人にとって苦しかったのである。というのは、この類にあっては、監督官と組織全体が軍隊式なので、ロシヤ内地における懲治隊と酷似していたからである。軍長官は普通のよりもさらに厳格で、規律は窮屈だし、いつも鎖に繋がれて、いつも護衛つきで、いつも錠を下ろされている。ところが、他の二類ではそれがさまではなはだしくないのである。すくなくとも、わたしたちの仲間の囚人はみんなそういっていた。しかも、彼らの中には、この道にかけて相当のものしりがいたのだ。法律では第一類が最重刑となっているけれども、彼らはすべて、もし許されるなら、喜んでこのほうへ変わったに相違ない。彼らはしばしばそれを空想していたほどである。ところが、ロシヤ本国の懲治隊のことについては、そこにいたことのある仲間の連中は、みんなさも恐ろしそうに話し合って、各要塞に配置された懲治隊ほどつらい所は、ロシヤじゅうにまたとない、そこの生活にくらべれば、シベリヤは天国だ、と断言するのであった。したがって、ここの監獄のように取り扱いが厳重で、軍人を長官に戴き、総督をすぐ口のさきに控え、しかも局外者ではあるが半官的な地位にある人たちの目から、個人的憎悪や勤務上の嫉妬心のために、しかじかの不心得な長官が、しかじかの種類の囚徒に手ごころをしている、などと密告されるおそれのあるところで(そういう例もちょいちょいあったのだ)、――そういうところでさえ、貴族出の囚人に対しては、一般囚人に対するよりも、幾分ちがった目で見られているとすれば、わたしはあえていうが、第一類や第三類の貴族出は、はるかに寛大な取り扱いを受けていたに相違ない。したがって、わたしは自分のいたところを基として、シベリヤぜんたいのことを判断できると思う。この点に関し、第一類や第三類の流刑囚たちの口からわたしの耳に入ったうわさや物語は、すべてわたしの結論を裏書きしているのだ。じじつ、ここの監獄にいたにわたしたち貴族出の囚人に対して、当局はより注意ぶかい細心な態度をとっていた。しかし、労役や待遇などの点では、わたしたちもいっさい手加減などはしてもらっていなかった。みなと同じ労役、同じ足枷、同じ錠前、――ひと口にいえば、何もかもが普通の囚人なみだったのである。また、手ごころを加えるなどということは不可能であった。わたしはよく知っているが、この町ではまださして遠くないがすでに大昔の感あるこの当時[#「まださして遠くないがすでに大昔の感あるこの当時」に傍点]、密告者や陰謀家がうようよいて、たがいに陥し穴を掘り合っていたので、当局も自然、密告を恐れたわけである。まったくその時分には、ある種の囚人に対して手加減が加えられている、といったような密告以上に恐ろしいものはなかったのである。こうして、だれもがびくびくものでいたので、わたしたちは普通の囚人とひとしなみに暮らしていたが、体刑に関しては、多少の例外が存していた。もっとも、わたしたちでも、もしそれだけのことをしたら、つまり、何か規則に反したことをしたような場合には、ごく無造作に笞うたれたに相違ない。それは勤務上の義務と平等、――体刑に対する平等観の要求するところであった。けれども、ただなんということなしに、むやみに軽はずみな態度で、わたしたちを笞刑に処するようなことは、さすがになかった。ところが、普通の囚人に対しては、この種の軽はずみな処分が行なわれるのはもちろんであって、ことに長官が下級の将校だったり、おりさえあれば権力を振りまわして威光を見せたがるような人間だったら、なおさらのことである。
 わたしたちにとっては周知の事実であるが、要塞司令官はJ―キイ老人の事件を耳にすると、非常に少佐の化打ちを憤慨して、こののちは暴力を慎しむようにと警告したものである。これはみんながわたしに話して聞かせたことである。なおそのほか、今まで少佐を信用して、事務の実行者としても、ある種の才能の所有者としても、彼に幾分の愛顧を与えていた総督ですら、この事件を聞いて、やはり彼に譴責《けんせき》を食わしたということは、わたしたちもちゃんと知っていた。わが要塞参謀も、これはよく胸にたたんでおいた。たとえば、彼はA―フの告げ口によってM―キイを憎んでいたので、なんとかして彼を取っちめてやろうと思っていたが、いろいろ口実を求めたり、つけ狙ったりしたにもかかわらず、どうしても彼を笞刑にすることはできなかった。J―キイの事件は間もなく町じゅうに知れわたったが、輿論は少佐に反対であった。多くのものは彼に苦いことをいい、なかにはいやなことを仕向けるものさえあった。わたしはいま、要塞参謀にはじめて会った時のことを思い出す。わたしたち、というのはわたしと、もう一人、わたしといっしょに徒刑にやられた貴族出の囚人は、もうトボリスクあたりから、この男の不愉快な性格をいろいろ話して聞かされて、脅しつけられたものである。このとき二十五年の刑期で古くから来ていた貴族用の囚人たちは、深い同情をもってわたしたちを迎えてくれ、わたしたちが移送囚収容所に入っている間じゅう、未来の長官についてなにくれと注意を与え、わたしたちを彼の迫害から護るために、知人を通してできるだけのことをする、と約束してくれた。なるほど、その当時ロシヤからやって来て、父のもとに滞在していた総督の三人の令嬢が、彼らから手紙を受け取って、わたしたちのために父将軍に口をきいてくれたことは事実である。しかし、総督とても何をすることができよう。ただ少佐に、いくらか手加減をするようにといっただけのことである。午後二時すぎたころ、わたしたち、つまりわたしと仲間の男は、この町へ到着し、護送兵につれられて、まっすぐにわが主権者のもとへ出頭した。わたしたちは彼を待ち受けながら、控え室に立っていた。その間に、早くも監獄下士のところへ使いが出された。下士がやって来ると同時に、要塞参謀も入って来た。にきびだらけの、どす赤い、意地悪そうな彼の顔は、わたしたちになんともいえぬ憂欝な印象を与えた。まるで毒々しい蜘蛛が、自分の巣に引っかかった哀れな蠅を目がけて、飛び出したかのよう。
「きさまの名はなんというか?」と彼はわたしの仲間に問いかけた。そのいいかたが早口で、引っちぎったような鋭い調子であった。あきらかに、彼はわたしたちに強い印象を与えようと思ったものらしい。
「これこれというものです」
「きさまは?」と彼はわたしのほうへふりむいて、その眼鏡をわたしの顔に据えるようにしながら続けた。
「これこれであります」
下士官! すぐにこの二人を監獄へつれて行け、衛兵所で頭を剃るんだ、猶予なく、民籍監式に、頭を半分だけ、足枷はあすにもさっそくつけかえるんだぞ。これはいったいなんという外套か? どこでもらって来たのか?」わたしたちがトボリスクで支給された、背中に黄色い丸のある灰色のだぶだぶした外套(わたしたちはそれを着たまま、恐れ多くも少佐殿のご前にまかり出たのである)に目をつけて、彼は出しぬけにこうたずねた。「これは新しい型だ! これはきっと何か新しい型に相違ない……また考案していると見える………ペテルブルグから出てるんだ……」と彼はわたしたちをかわるがわる、あちらへ向かせたり、こちらへ向かせたりしながらいった。「何も持っておらんな?」と彼は不意にわたしたちを護送している憲兵に問いかけた。
「私物の衣類を持っております、少佐殿」と憲兵はたちまち直立不動の姿勢をとり、妙に身ぶるいさえしながら答えた。だれも彼のことを知り、彼のうわさを聞いていたのだ。みんなが彼を怖がっていたのだ。
「ぜんぶ取り上げるんだ! 肌着類だけ渡してやれ。だが、白いのに限る。色物は、もしあったら、没収してしまえ。そのほかのものはぜんぶ競売にするんだ。金は収人の部へ記入して置け。囚人は私物など持つべきでない」と彼はおごそかにわたしたちを見つめて、言葉を続けた。――いいか、品行を慎しむんだぞ! とかくのうわさがおれの耳に入らんようにしろ! さもないと……たーいーけーいたぞ。ちょっとでも違反があったら――む、笞をくらわすから!………」
 こんな取り扱いに慣れていなかったわたしは、その晩よっぴて、ほとんど病人のような有様でいた。もっとも、この印象は、獄内で目撃したことによって、さらに強められたのである。しかし、わたしの入獄についてはもう前に物語っておいた。
 いまも述べたとおり、わたしたちはほかの囚人たちとくらべて、べつになんの手加減も加えてもらえず、労役を軽くしてもらうなどということもいっさいなかった。当局のほうで、そんなことをあえてなしえなかったのである。とはいえ、たった一度それに対する試みがなされた。わたしとB―キイとが三か月の間、書記として工兵隊へかよったのである。しかし、それはごく内緒でやったことであって、工兵隊長の計らいであった。つまり、しかるべき筋の人はおそらくみんな知っていたことだろうが、そ知らぬ顔をしていたのである。それはG―コフが長官の時代であった。G―コフ中佐はまるで天から降ったもののごとくにやって来て、ほんのわずかなあいだわたしたもの上位に立っていた。――わたしの記憶に誤りがなければ、せいぜい半年か、あるいはそれより短かかったくらいである。そして囚人一同になみなみならぬ印象を残して、ロシヤヘ去ってしまった。囚人たちは彼を愛していたというよりも、むしろ神のように崇めていた。もしそんな言葉をここに用いることができれば、である。彼がどんなふうにやったのか、わたしにはわからないけれど、彼は着任そうそう、囚人たちの心を征服してしまったのである。『おやじだ、ほんとうにおやじだ! あれなら親身の父親もいらねえくらいだ』彼が工兵隊の長官を勤めていた間じゅう、囚人たちはたえずこういっていた。彼は恐ろしい飲み助だったらしい。小がらで、さも自信ありげな、不敵な目つきをしていた。が、同時に囚人たちに対しては優しく、感傷的といっていいほどで、まったく文字どおりに父親のような愛情をそそいでいた。なぜ彼がそれほどまでに囚人たちを愛したかは、わたしにも説明ができないけれど、彼は囚人を見かけると、優しい快活な言葉をかけたり、笑ったり、冗談をいったりせずにはいられないのであった。しかも、何より感心なことには、そこに長官らしい態度が、露ほどもなかった。つまり、位置の相違を示す純上官的なお愛想ぶりがすこしもなかった。それこそ正頁正銘の仲間であり、内輪の人間であった。しかし、彼がこういう本能的なデモクラチズムを示したにもかかわらず、囚人たちは彼に対して敬意を欠くとか、なれなれしさに過ぎるとかいうようなことはなかった。実際はむしろその反対であった。ただこの長官に出会った時、囚人の顏はさっと喜びに輝き、中佐が自分のそばへ近よって来るさまを、帽子を脱いだまま、にこにこしながら回心に見つめるのであった。もし中佐から言葉をかけられると、まるで一ルーブリももらったような気持ちになる。世間にはままこうした人望家がいるものである。彼は男らしい様子をして、歩きぶりもまっすぐで、颯爽としていた、『鷲だ!』と囚人たちは彼のことを、よくそういったものである。もちろん、彼は囚人たちの運命を軽減することはできなかった。彼が扱っていたのは、土木工事の方面ばかりで、それは他の長官の時でも一定の規則にしたがって、つねに変わりなく実施されていたのである。ただ偶然、作業場で囚人の一団に出会った時など、もう作業が終わっていると見てとったら、いつまでも、無駄に引きとめておかないで、太鼓の鳴らないうちに帰してやる、まあ、それくらいのものであった。しかし、囚人たちにとっては、彼の信頼にみちた態度や、細かいことにこせこせ神経を使わず、いらいらせず、むやみに上官風を吹かして人を侮辱したような形式主義に全然とらわれない、そういう点が気に入ったのである。もしかりに彼が千ルーブリ落としたとすれば、囚人仲間で一、二を争う折り紙つきの泥棒でも、その金を見つけたら、そのまま彼のところに届けたに相違ない。さよう、わたしはそれか確信する。この鷲のごとく長官が、例の憎まれ者の少佐と真剣になって争ったと闘いた時、囚人たちはどんなに深い関心をいだいたことだろう。それは、彼の着任後ひと月も経たない時であった。わが少佐は、かつて彼の同僚であった。二人は長い別離ののち親友として再会したので、さっそくいっしょに飲んだり騒いだりし始めた。ところが、急にその友情が決裂してしまった。二人は喧嘩をしてG―コフは少佐にとって不倶戴天の仇となり終わった。それのみか、二人はつかみ合いの喧嘩までしたといううわさもあったが、少佐ならそれくらいはありそうなことである。彼はよくつかみ合いの喧嘩をしたものである。この話を聞いた時、囚人たちの喜びは限りないほどであった。『八方にらみなんか、あの人といっしょにやっていけるもんかい! あの人は鷲だが、あの野郎ときたら………』と、そこにはたいてい、紙上に公表を憚るような言葉がつけ加えられるのであった。二人のうちどちらがぶんなぐったかという問題に、わたしたちはひどく興味を持ったものである。もしこの喧嘩のうわさが事実無根であったら(これも同樣にありそうなことだ)、囚人たちはさぞかしいまいましがっただろうと思われる。『いや、そりゃもうきっと、中佐が勝ったに決まってらあ』と彼らはいった。『あの人は柄こそ小せえが、胆っ玉はふてえや。あの野郎なんか、寝台の下へ逃げ込んだっていうじゃねえか』けれども、やがてG―コフも行ってしまったので、囚人たらはまたもや悄気こんでしまった。もっとも、ここへ来る工兵隊長は、みんないい人たった。わたしの在監中にも、三人か四人くらい更迭したのである。『それにしても、あんな人はまたと二人ありゃしねえ』と囚人たちはいった。『あれは鷲だった、おれたちの味方になる鷲だった』さて、このG―コフが、わたしたち貴族出の者を非常にかわいがってくれて、しまいにはときおりB―キイとわたしとに事務の仕事をさしたのである。彼の出発後は、これがさらに正規の形を取るようになった。工兵将校の問には、わたしたちに深い同情を寄せてくれる人々がいた(なかでも一人などは特別であった)。わたしたちはせっせとかよって、書類の浄書をしているうちに、筆跡までが上達して来たほどであるが、突如として最高長官から、わたしたちを即刻以前の労役に戻せ、という命令が来た。だれかがもうさっそく密告したのである! しかし、それも結局わるくなかった。事務所の仕事には、二人ともすっかりあきあきしていたからである! それから、わたしとB―キイとは二年ばかりというもの、ほとんど離れることなしに、同じ労役にかよったが、しかし作業場行きが最も多かった。わたしたちはよくしゃべり合った。自分の希望や信念を語り合ったものである、彼はじつにいい人間だった。が、その信念はときとすると、ひどく風変わりで、まるで桁はずれなのであった。ある種のきわめて聡明な人々には、ときとしてまったく逆説的な観念が固定して離れないことがしばしばある。しかし、その観念のためにおびただしい生活の苦痛を味わい、それを獲得するのにきわめて高い値いを払ったところから、それをもぎ離すのは非常な痛みを伴なって、ほとんど不可能なくらいである。B―キイはちょっとでも反対されると、それをさも痛そうに受けて、皮肉な調子でわたしに答えたものである。もっとも、多くの点では、彼のほうがわたしより正しかったのかもしれない。しかし、ついにわたしたちは袂をわかった。それはわたしにとって、はなはだつらいことであった。わたしたちはあまりに多くのものをたがいに分かち合ったのである。
 ところで、一方M―キイはどうしたものか、一年一年と沈みがちになり、陰欝になっていった。憂愁が彼をとらえたのである。以前、わたしの入獄当時は、彼もずっと人づきがよく、なんといっても、彼の魂が外面に露出されることがはるかに多く、かつ頻繁であった。わたしがここへ入って来た時には、彼はすでに徒刑生活の三年めを迎えていた。はじめ、彼はこの二年間に娑婆に起こった多くのこと、――監獄に閉じこめられているためにまるで知らずにいた事物に興味を持って、わたしに根掘り葉掘りたずねたり、傾聴したり、興奮したりしたものである。しかし、しまいにはこれらすべてのことが、年にとともに彼の心の中で妙に凝集するようになって来た。炭火がだんだん灰をかぶって来たのである。憎悪の念が次第に成長していった。『〔Je hai:s ces brigands.〕』(わたしはあの無頼漢どもを憎みます)と、彼はさも憎々しげに囚人たちを眺めながら、わたしに向かってよくくり返したものである。わたしはもはや彼らを認識するようになっていたので、彼らのために擁護論を試みたが、いかなる論証も彼に対しては効果がなかった。彼はわたしのいうことがわからなかったのである。とはいえ、ときには放心したような様子で、同意を表することもあったが、翌日になるとまたしても、『〔Je hai:s ces brigands.〕』をくり返すのであった。ついでながら、わたしと彼とはよくフランス語で話したが、そのために作業の監視をしていたドラニーシニコフという工兵が、なんと考えたのか知らないけれど、わたしたちのことを看護手と綽名したものである。M―キイが元気づくのは、母親のことを思い出した時ばかりである。『母は年寄りなんです、病身なんです』と彼はわたしにいった。『母はわたしをこの世の何ものにもまして愛している。それなのにわたしはここにいて、母が生きているかどうかさえも知らないんですからね。わたしが笞を持った兵隊の列の間を歩かされたことを知っただけでも、母にとってはもうたくさんなくらいです……」M―キイは貴族でなかったので、流刑に処せられる前に笞刑を受けたのである。このことを思い出すたびに、彼は歯を食いしばって、わきのほうを見るようにつとめた。ずっとのちになると、ただ一人で歩きまわることが次第に頻繁になった。ある時。午前十一時過ぎに、彼は司令官の許へ出頭を命ぜられた。司令官は浮き浮きした笑顔で出て来た。
「どうだ、M―キイ、おまえはきょうなにか夢を見なかったかな?」と彼は問いかけた。
『ぼくは思わずぴくりとしましたよ』とM―キイは、わたしたらのところへ帰ってから、様子を語って聞かせた、「まるで心臓でも突き刺されたような気持ちでしたよ」
「母から手紙が来た夢を見ました」と彼は答えた。
「もっといいことだ、もっといいことだ!」と司令官はいい返した。「おまえは自由の身になったのだぞ! おまえの母親が請願してな……その請願が聴許されたのだ、ここに母親の手紙がある。そして、これが赦免状だ。これからすぐに出獄するがいい」
 彼は意外な報知のため、いまだにわれに返ることができず、真っ青な顔をして、わたしたちのところへ帰って来た。わたしたちはお祝いをいった。彼はわなわなとふるえる、やや冷たくなった手で、わたしたちに握手した。多くの囚人たちも彼に祝いを述べ、その幸福を喜んだ。
 彼は移民として出獄し、わたしたちの町に住むことになった。間もなく職が与えられた。はじめのうち、彼はたびたびわたしたちの監獄へやって来て、できるだけいろいろのニュースをわたしたちに伝えてくれた。彼は主として、政治問題に深い興味を寄せていた。
 あとの四人、つまりM―キイとT―スキイとB―キイとJ―キイとを除いた中で、二人はまだごく若い短期の流刑囚で、教養は低いけれども、正直で、単純で気持ちのまっすぐな人たちであった。第三のA―チュコフスキイはあまりに頭が単純すぎて、かくべつこれというところもなかったが、第四のB―ムはもう相当の年輩で、わたしたち一同にすこぶる不愉快な印象を与えた。この男がどうしてこの種の犯人の仲間に入ったのかわたしは知らない。また彼自身もそれを否定していた。それは、一コペイカ、二コペイカの金をごまかして、身上を太らした小店商人の習慣と規準を持った、粗野で浅薄な町人根性の男であった。彼はまるで教養がなく、自分の職業以外なにものにも興味を持たなかった。彼はペンキ屋だったが、図抜けてりっぱな腕を持った、たいしたぺンキ屋なのであった。当局もすぐに彼の才能をみとめた。やがて町じゅうの者が、壁や天井を塗るためにB―ムを要求するようになった。二年の間に、彼はほとんどすべての官舎を見事に塗り上げた。官舎に住まっている人々は、自分で彼に礼をしたので、彼はかなりな暮らしをしていた。しかし、何よりなのは、仲間のものも彼といっしょに、仕事にさし向けられたことである。いつも彼といっしょに仕事に出かけていた連中のなかで、二人のものが彼にこの商売を教えてもらって、ことに一人のT―ジュフスキイなどは、彼に劣らぬ子ぎわを見せるようになった。やはり官舎に住まっていたわが要塞参謀も、同様にB―ムをよんで、家じゅうの壁と天井の模様を描かした。その時にはB―ムも大|童《わらわ》になった。総督官邸でも、これほど見事には仕上げられなかった。それは木造の平家建てで、かなり古ぼけた家だったから、外から見たところではおそろしく貧弱だったが、中はまるで宮殿よろしくに塗り上げられたので、少佐はうちょうてんになってしまった……彼は揉み手をしながら、今度こそどうしても結婚しなけりゃならん、と言いいいしたものである。『こういう家に住まったら、結婚しないわけにいかんよ』と彼は大まじめで付けたした、彼はますますB―ムに目をかけ、彼のおかげで、いっしょに働いているほかの連中までも、お覚えがめでたくなった。仕事はまるひと月も続いた。このひと月の間に、少佐はわたしたち一同に対する意見をがらりと変えて、みんなに保護の態度をとり始めた。あげくのはてには、ある日不意に、J―キイを監獄から自宅へ呼び寄せた。
「J―キイ」と彼はいった。「おれはおまえを侮辱した。つまらんことでおまえを笞刑にした。自分でもそれがわかっておる。おれは後悔しとるんだ。おまえはこれがわかるかね? おれが、おれが、おれが[#「おれが、おれが」に傍点]、後悔しとるんだよ!」
 J―キイはよくわかりますと答えた
「おれが[#「おれが」に傍点]、おまえの長官であるおれが[#「おれが」に傍点]おまえに謝罪するためにわざわざ呼んだんだが。それがおまえにはわかるかね?それを感じるかね? おまえなんかおれにくらべたらそもそもなんだろう? 虫けらじゃないか? いや、虫けらにも劣る囚人なんだ! おれは神様([#割り注]わたしの入獄当時には文字どおりにこの表現が用いられていた、それは単に少佐ばかりでなく、主として下士から特進した下っ端の長官に多かった。―原注[#割り注終わり])のお慈悲によって少佐になっているんだぞ、少佐に! それがおまえにわかるか?」
 J―キイは、それもわかりますと答えた。
「さあ、それじゃこれでおまえと仲直りをしよう。だが、これをほんとうに感じるかね、じゅうぶん、完全に感じるかね? おまえはそれを理解し、痛感する能力があるかね? まあ、よく考えてみてくれ、おれは、おれはなにしろ少佐なんだからな……」云々、云々。
 J―キイは自分でこのひと幕を残らずわたしに話して聞かせた。してみると、この飲んだくれでわからずやのでたらめな男にも、人間らしい感情はあったものと見える。彼の持っている観念や発達の程度を考慮にいれると、これなどはほとんど寛大な行為とさえいうことができるほどである。もっとも、酒の勢いということも、おおいにあずかって力あったのかもしれない。
 彼の空想はついに実現されなかった。住居の造作がすんだ時、彼はもうすっかりその気になっていたにもかかわらず、結婚しないで終わった。結婚のかわりに彼は裁判に付せられ、退官願いを出すように命ぜられたのである。そうなると、過去の罪まで引っぱり出された。以前、彼はこの町でたしか市長をしていたように記憶するが……こんな打撃が不意に彼の頭上に落ちかかったのである。監獄ではこの知らせを聞いて、こおどりしてよろこんだ。それはまさに祝祭であり、凱旋式であった! 少佐は年とった裏長屋の女房のようにおいおい泣いて、涙にかきくれたとのことで、ある。しかし、いかんともしようがなかった。彼は退官して、灰色馬の二頭揃いも売り払い、その後、所有品をぜんぶ手離して、すっかり微禄してしまった。わたしたちはあとで、くたびれた文官服を着、徽章つきの帽子をかぶった彼の姿をおりおり見かけた。彼は意地悪そうな目つきで囚人たちを睨めつけた。しかし、その魔力は彼が軍服を脱ぎ捨てると同時に、跡かたもなく消え失せた。軍服を着けていると、彼は雷であり、神であった。フロック姿になるが早いか、彼は忽然として完全な無となってしまい、下男くさい感じがして来た。こうした人間にとって、制服がいかに多くの意義を有するかは、驚嘆に値いするほどである。

[#3字下げ]9 逃亡[#「9 逃亡」は中見出し]

 わが要塞参謀の更迭後まもなく、わたしたちの監獄には根本的な改革が行なわれた。懲役が廃止されて、そのかわりに、ロシヤ本国の懲治隊を基とした陸軍直属の懲治隊が設置された。それはすなわち、第二類の流刑囚はもはやこの監獄へ来ない、ということを意味するのであった。それ以来、この監獄はただ軍関係の囚人のみを収容するようになった。したがって、彼らは一般兵士と同様に、権利を剥奪されていない軍人であり、ただ刑罰を受けて短期間(いらばん長くても六年間)入獄するまでのことであって、監獄を出ると、また以前と同じように、一兵卒として原隊に入営するのであった。しかし、再度の罪を犯して監獄へ戻って来たものは、昔どおり二十年の刑期に処せられるのだ。もっとも、わたしたちの監獄には、この改革が行なわれる前にも、軍籍囚の監房があったけれど、彼らがわたしたちと同居していたのは、ほかに場所がなかったからに過ぎない。ところが、今度は監獄ぜんたいがこの軍籍囚ばかりになったのである。以前の囚人たち、いっさいの権利を剥奪されて、額に烙印を捺され、頭を半分剃られた一般囚人が、それぞれ刑期の満ちるまで獄内に残ったのは、いうまでもない話である。しかし、新しいのは入って来ず、残ったものもだんだんと刑期を勤め上げて出て行くので、十年も経ったら、この監獄には一人の懲役囚もいなくなるはずであった。特別監もやはり残して置かれたので、シベリヤに極刑懲役場が開かれるまで、依然として、ときどき陸軍関係の重罪犯人が送られて来た。といったわけで、わたしたちの生活は実質的には依然として変わりがなかったのである。同じ待遇、同じ労役、ほとんど同じ秩序、ただ当局が一変して、組織が複雑になっただけである。中隊長として佐官が一人任命され、なおそのほかに尉官が四人できて、これが交代に監獄の当直をすることになった。廃兵の制度も廃止されて、そのかわりに十一名の下士と、一名の食糧係下士が置かれた。囚人たちは十人ずつの組に分けられて、囚人自身の中から上等兵が――もちろん名儀だけではあるが、選抜されることになった。アキーム・アキームイチがたちまち上等兵になったのはいうまでもない。この新しい制度による監獄ぜんたいは、その役員や囚人をぜんぶひっくるめて、上長官たる要塞司令官の管轄下に置かれた。それが変化のいっさいであった。もちろん、囚人たちははじめおおいに興奮して、評定をしたり、あて推量をしたり、新任の役人たちの穿鑿をしたりなどしたが、せんじつめたところ、何もかも元のとおりだとわかると、すぐさま安心して、わたしたちの生活は昔のままに流れていった、が、何より重大なのは、一同が前の少佐のご難を免れたことである。だれもかれもがほっと息をついて、元気になったようなあんばいだった。これまでのおどおどした様子は消えて、今ではだれかれの区別なく、何か困ることがあったら、長官に具申することができる、たとえ正しい者が罪人のかわりに罰せられることがあっても、それはほんの間違いであって、故意にされるのではない、ということをちゃんと承知していた。今までの廃兵が下士に代わったにもかかわらず、酒は以前と同じ要領と方法で販売が続けられた。これらの下士はおおむねもののわかった、分別のある、おのれの地位をわきまえている人たちであった。もっとも、なかにははじめ空威張りの傾向を見せたものもあるが、それはもちろん無経験のせいであって、囚人を兵隊なみに扱おうと思ったからである。しかし、これらの連中もじきに合点がいくようになった。あまりいつまでも合点のいかない連中には、囚人たちが自分でほんとうのところを思い知らせてやった。ときにはかなり激烈な衝突が起こることもあった。たとえば、囚人たちが下士を誘惑して、酒を飲ませたあとで報告するのだが、もちろん彼ら一流のやりかたで、あれは自分たちといっしょに酒を飲んだから、したがって……云々というわけである。とどのつまり、下士たちも、牛の腸が持ち込まれて酒が売り買いされているのを、平然として見のがす、というより、むしろつとめて見ないようになった。それどころか、彼らは以前の廃兵同様、市場へ使いに行って、囚人たちのために丸パン、牛肉、などといったようなもの、つまり、手を出してもたいして危なくないものを、買って来るようになった。だから、いったいなんのために、いっさいを改革して、懲治隊などというものをつくったか、わたしにはとんと合点がいかないのである。これはわたしの監獄生活の後年に起こったことであった。が、わたしはなお二年の間、この新秩序のもとに暮らさなければならなかった……
 この生活のぜんぶを、わたしが獄中で送った歳月のぜんぶを、残らず書きしるしたものだろうか? そんな必要はないと思う。この数年間に起こったこと、わたしの目撃したこと、体験したことを、順を追っていちいち書いていったら、もちろん、これまで書いたより三倍も、四倍もの章を重ねることができるであろう。しかし、そうした記述は自然の数として、ついにはあまりにも単調なものとなるだろう。すべての出来事は、あまりにも同一の調子に塗り上げられるのを免れまい。ことに読者が以上の各章によって、第二類の懲役生活について、多少なりとも、はっきりした概念を得られたとすれば、なおさらである。わたしはここの監獄と、自分がこの数か年のあいだに体験したことを、一目瞭然と、鮮明な画面の中に表現したかったのであるが、はたしてその日的が到達されたかどうか、わたしにはわからない。またそれはある意味からいって、わたしの判断すべきことではないのだ。のみならず、わたし自身からして、この当時を回想していると、ときとして憂愁のとりことなる。さきのほうになると、妙に記憶が薄れているような形である。第一、わたしにしても、何から何まで思い起こせるかどうかはおぼつかない。多くの事がらは完全に忘れてしまったに相違ない。わたしはそれを確信する。たとえば、本質的にいうと、たがいに酷似し合ったこれらの年月が、やるせないほどだらだらと過ぎていったことを、わたしは今でも覚えている。これらの長い退屈な日々が単調をきわめていて、さながら雨後の水が一滴一滴、坦根からしたたり落ちるがごとくであったのを覚えている。ただ、復活、更新、新生活に対する熱烈な翹望のみが、わたしをささえて、期待と願望をいだき続けさせたことも記憶している。かくして、ついにわたしはおのれを支えとおした。わたしは待ちこがれながら、一日一日と数えていった。その日数がまだ千から残っていたにもかかわらず、楽しい気持ちで一日ずつ消していき、その日を送り葬っては、つぎの一日がやって来ると、もはや残りは千日でなく、九百九十九日だと考えて喜んだものである。幾百人という仲間があるにもかかわらず、わたしは恐ろしい孤独の中に置かれていたが、ついにはこの孤独を愛するようになったことも覚えている。精神的にひとりぼっちのわたしは、自分の過去をぜんぶ点検して、何から何まで、いかなる微細なことをものがさず吟味し、自分の過去に思いを潜め、一人でおのれ自身を厳しく容赦なしに批判した。ときとしては、この孤独がなかったら、こうした自己批判も、過去の生活に対する厳しい検討も、成り立たなかったのだと思って、かかる孤独をわたしに送ってくれた運命を祝福したくらいである。そのようなとき、わたしの心臓はどんなに輝かしい希望にみちて、おどり始めたことか! わたしは考えた、わたしは決意した、以前あったような過失や堕落は、もはやわたしの未来の生活にはくり返されないのだと、わたしはみずから誓ったものである。わたしは、将来ぜんたいにわたる行動計画をたてて、だんぜんそれを踏みはずすまいと心に決めた。しかも、それをことごとく実行して見せる、実行することができるという盲目的な信仰が、わたしの内部に生まれ出たのだ……わたしは自由を待ちこがれた。一刻も早く来るようにと呼び招いた。もう一度新しい闘争でおのれ自身をためしてみたかったのである。どうかすると、じりじりするようなもどかしさに捉えられることがあった……しかし、いまさらあの当時の気持ちを思い起こすのは、わたしにとって苦痛である。もちろん、それはわたし一人だけに関したことである……けれども、わたしがこんなことを甞き出したのは、だれでもこれを理解してくれるだろうという気がしたからである。なぜなら、だれにもせよ、力の張りきった働き盛りの年に、ある期間、監獄へ入るようなことになったら、きっとこれと同じ気持ちを体験するに相違ないからである。
 しかし、こんなことを書いたからとてなんになろう!……それよりも、あまり唐突に尻切れとんぼにしてしまわないために、もうひとつ何か物語ることにしよう。
 ここでふと頭に浮かんだことだが、いったい懲役から逃げ出すということはだれにもできないのか、この数年間にわたしたちの仲間でだれも逃亡したものはないのか、とこんな質問を提出する人が、あるいはあるかもしれない。前にも書いておいたとおり、監獄で二、三年も過ごした囚人は、早くもこの年月を大事に考えるようになり、これならいっそめんどうな危ない真似をしないで、残りの年数を勤め上げ、結局、天下晴れて出獄して、居住流刑になったほうがいい、とこんなふうな打算を知らずしらずするようになるものである。しかし、こうした打算が生まれるのは、短い刑期で送られて来た囚人の頭の中だけである。長期囚になると冒険をやりかねないのだ……けれど、わたしたちの監獄では、どうしたものか、そういうことがなかった。すっかりいじけ込んでしまったからか、監視が軍隊式でとくべつ厳重であったためか、ここの町の位置が多くの点て不便だったせいか(なにしろ曠野の中で見通しなのである)、――そこはなんともいえない。わたしの考えでは、こういったいっさいの原因が、それぞれ影響していたことであろう。まったく、わたしたちの監獄から逃げ出すのは、いささか厄介であった。にもかかわらず、わたしの在監当時たった一度、この種の事件が起こった。二人の囚人、しかも最も重い犯人がその冒険をあえてしたのである……
 少佐の更迭後、A―フ(例の獄内で少佐の間諜を勤めていた男)は、うしろ楯を失って、まったくのひとりぼっちになってしまった。彼はまだきわめて若い男であったが、年とともに性根が据わって、しっかりして来た。概して、彼は大胆不敵な男であり、なかなか分別にもたけていた。もし彼を自由にしてやったら、またぞろスパイをやって、相変わらず、いろいろな潜り的方法で、金儲けをしたに相違ないだろうが、しかしもう今度は、前のように無分別な、ばかげたことをやって網にかかり、自分のばかの報いに徒刑場へ送られるようなへまはしなかったろう。彼は監獄の中でも、旅券の贋造さえすこしは習得したものである。もっとも、たしかにそうとは断言しない。わたしは仲間の囚人たちから、そういう話を聞いたのである。うわさによると、彼はまだ要塞参謀の台所へ出入りしているころから、その種の仕事をして、むろん、相当のみいりがあったとのことである。ひと口にいえば、彼は自分の運命を変えるためなら、どんなことでもやってのける人間らしかった。わたしはある程度まで、彼の心をうかがい知る機会があったのだ。彼のシニスムは、憤慨せずにいられないほどのずうずうしさに達し、冷酷無比の嘲笑にまでなりきって、抑えきれない嫌悪を呼び起こさずにはいなかった。わたしの見るところでは、もし彼が一杯のウォートカを飲みたくてたまらなくなり、しかもそのウォートカがだれかを殺さなければ手に入らないとしたら、彼はかならず人殺しをやったに相違ない。ただし、それを内証にそっと仕遂げることができて、だれにも知られずにすむ場合に限るのだ。監獄で彼は打算ということを覚えたのである。そこで、特別監にいる囚人のクリコフが、こうした男に目をつけたのである。
 わたしはすでにクリコフのことを話しておいた。彼はもう若い年でもなかったが、情熱の烈しい、ねばりづよい生活力を持った強者で、種々さまざまなことにかけて、人なみはずれた才能を有していた。彼の内部には力が溢れていたので、したがって生活がしたかった。この種の人間はずっと晩年になるまでも、依然として生きることを欲するものである。で、わたしが、なぜこの監獄では逃亡するものがないのだろうと不思議がるとすれば、もちろん、第一番にクリコフが逃げないのを不思議がるに相違ない。しかし、クリコフは決行したのである。彼ら二人のうち、はたしてどちらがより多く相手に働きかけたのか、A―フがタリコフを動かしたのか、クリコフがA―フに影響を投げかけたのか? それはわたしも知らないけれど、二人とも負けず劣らすのいい相棒で、こういう仕事をやるには、たがいに恰好な人間だったのである。彼らは親しい間がらになった。わたしの想像するところでは、クリコフはA―フが旅券を贋造するのを当てこんでいたらしい。A―フは貴族出で、もとは相当な社会に属していた、――この点は、これからやろうという冒険に、一種風変わりな味をつけてくれるはずであった。ただどうにかして、ロシヤ内地へたどりつきさえすればいいのだ、彼らがどんなふうに話し合いをつけたか、どんな希望をいだいていたか、それはだれにもわからないが、とにかく彼らの目算は、ありふれたシベリヤの放浪者の常軌を脱していたことだけは確かと思われる。クリコフは生まれながらの役者で、人生において多種多様な役割を選ぶことができ、多くの事物に期待をかけることができた、すくなくとも、いろいろ変わった経験をすることはできたはずである。こういう人間が、監獄生活に圧迫を感じるのは当然である。で、彼らは逃亡の申し合わせをしたのであった。
 しかし、警護兵なしに逃げることはできなかった。警護兵もこっちのほうへ抱き込まなければならない。要塞付きの大隊のひとつに、一人のポーランド人が勤務していた。もう中年ではあるが、精力の張りきっているような、きりっとして男らしい、まじめな人物で、いずれにしても、いますこしいい運にありついてもよさそうな男であった。若い時、兵隊に取られて、シベリヤへ来たばかりのころ、烈しい郷愁に駆られて、逃亡を企てた。が、すぐにつかまって処罰され、二年ばかり懲治隊へ入れられた。やがて原隊へ戻って来たとき、彼は腹を入れ変えて、一生懸命、勤務に励み出した。その精励ぶりを認められて、上等兵に昇進した。彼は名誉心のさかんな、自負心の強い、自分で自分の値打ちを知っている男であった。したがって、おのれの価値を承知している人間らしい態度をとり、そういう口のききかたをした。わたしはその年、幾度かこの男を警護兵たちの間に見受けたことがある。ポーランド人たちからも、この男のことは何かと聞いていた。わたしの見たところでは、彼の内部に追い込められた以前の憂愁が、深く秘めた不断の憎悪に変じたもののように思われた。この男ならどんな思いきったことでもやってのけられた。で、クリコフが彼を仲間に選んだ眼力は、たいしたものなのである。彼の姓はコルレルといった。彼らは申し合わせて日を決めた。それは、六月のことで、暑い日の続いているころだった。この町の気候はかなりむらのないほうで、夏はいつもかんかん照りの暑い陽気が続くので、そこが放浪者にとってはあつらえ向きなのであった。もちろん、彼らはいきなり、要塞から逃げ出すわけにはいかなかった。町ぜんたいが、四方うち開けた小高いところにあったのである。周囲にはかなり遠いところまで森がなかった。第一、普通人の服装に変えなければならないが、それにはまず、タリコフが古くから巣をかまえている町はずれまで入り込まなければならぬ。町はずれに住む彼らの友だちが、この秘密に参与していたかどうかは、わたしも知らない。その後、裁判のときにも、その点はじゅうぶん明瞭にされなかったが、おそらく参与していたものと想像される。この年、町はずれの一隅に、ヴァンカ・タンカと綽名を呼ばれる若い阿娜《あだ》者が、活動を開始したばかりであった。当時、早くも人々に後年恐るべしと舌を巻かせたが、はたしてその予想は、ある程度まで事実となって現われたのである。この女はまた別名を「火《アゴーニ》」とも呼ばれていた。どうやら彼女も、この事件に多少の関係はあったらしい。クリコフはもうまる一年、この女に入れ上げていたのである。さて、わが猛者《もさ》たちはその朝、組分けに出ると、うまく細工をして、暖炉職人で漆喰屋のシルキンという囚人といっしょに、もうだいぶ前から兵隊が野営に行ってがら空きになっている大隊の兵営へ、壁塗りにさし向けてもらうことにした。A―フとクリコフは土運びとして、彼といっしょに出かけたのである。コルレルはその警護兵になりすましたが、三人の囚人には警護が二人つかなければならなかったので、コルレルは古参の上等兵であるところから、上官は警護見習いの意味で、若い新兵を喜んで彼につけてやった。長年のあいだ勤務を続けて、ことにここ数年の成績のよかった、聡明で、しっかりした、打算的な人間であるコルレルが、わが脱走者たちと行動を共にしよう決心したのだから、彼らはこの男にたいした勢力を持っていたわけであり、彼もまた彼らをひどく信用したものではある。
 彼らは兵営へ到着した。朝の六時ごろだった。彼らのほかにはだれ一人いなかった。一時間ばかり仕事をすると、クリコフとA―フはシルキンに向かって、これからちょっと作業場へ行って来ると申し出た。それは第一に、だれそれに会う用があるし、第二には足りない道具があるから、それをついでに取って来る、というのであった。シルキンに対しては、よほど巧者に立ちまわらなければならなかった、つまり、できるだけ自然にやる必要があった。彼はモスクワっ子である。暖炉屋を職としているモスクワの町人出で、狡猾な、要領のいい、利口な、口数の少ない男だった。見かけはひ弱そうなやせっぽちであった。本来ならば、彼は一生モスクワふうに、チョッキと部屋着を着て暮らしていられる身の上だったのだが、運命はそれをどんでん返しにしてしまった。長い放浪の後、彼は永久にこの地の特別監、すなわち最も恐るべき軍籍囚の部類へ入れられてしまったのである。いったい何をしてこんな身の上になり果てたのか、わたしは知らない。が、とくに不満らしいそぶりなど見せたことは、かつて一度もない。いつも変わらず殊勝にふるまっていた。ただときどきぐでんぐでんに酔っぱらうことがあったけれど、そんな時でも取り乱すようなことはなかった。彼はもちろん、秘密に参加してはいなかったが、しかし、彼の眼光は鋭かった。クリコフが彼に目くばせして、もうきのうから作業場にかくしてある酒を取りに行くのだ、というこころを知らせたのはもちろんである。これがシルキンを動かしたのである。彼はなんの疑いもさし挟まず二人に別れて、新兵といっしょにあとに居残った。クリコフとA―フと、コルレルは町はずれをさして出かけた。
 三十分たった。が、出かけて行った連中は帰って来なかった。そのうちにシルキンはふと心づいて、考え込んだ。彼は海に千年、山に千年というたちの人間だった。いろいろ思い返してみると、クリコフはなにかしら特別の気分になっていたようだし、A―フは二度も彼に耳打ちした様子だった、すくなくとも、クリコフがA―フに二度ばかり目くばせしたのは確かである。それは自分でちゃんとにらんでおいた。――こういったようなことを、彼は今思い起こしたのである。コルレルのそぶりにもなにか妙なところがあった。すくなくとも、彼らといっしょに出かけるとき、新兵に留守の間の心得を説教して聞かせたが、これはなんとなく不自然に感じられる。いずれにもせよ、コルレルらしくない。要するに、それからそれへと思い出せば思い出すほど、シルキンはうさんくさい気がして来るのであった。そうこうしているうちに、時は過ぎていったが、彼らは帰って来なかった。シルキンの不安は極度にまで達した。彼はこの事件で自分がどんな危険な立場に身を置いているかを悟った。当局の嫌疑が自分のほうへかかって来るおそれが、じゅうぶんにあるのだ。はじめから狎《な》れ合って、事情を知りながら仲間のものを逃がしてやった、とこんなふうに考えられるおそれがある。もしクリコフとA―フの失踪に関する報告を猶予したら、その嫌疑はますます濃厚になるに相違ない。もはやぐずぐずしているべき時ではない。そのとき彼はふと思い起こした、近ごろクリコフとA―フがなんだかとくべつ親しくして、よくひそひそ話をしたり、一同の目を避けるように、しょっちゅう監房の裏手へ行っていた。もうその時分から二人のことを臭いと思ったっけ……とこんなことも思い起こした。彼は探るような目つきで警護兵を眺めた。新兵は銃に凭れて欠伸をしながら、いかにも罪のない様子で鼻くその掃除をしていた。シルキンはこんなやつに自分の考えを打ちあける価値はないと決めて、ただ自分のあとについて工兵の作業場まで来るように、といったばかりである。彼らが来たかどうかを、作業場で聞かなければならなかった。けれど、そこではだれも彼らを見たものがないとの答えであった。シルキンの迷いはたちまちどこかへけし飛んでしまった。『よしんばやつらが一杯飲んで、騒ぎたさに町はずれへ行ったにもしろ(それはクリコフがときおりやることだからごとシルキンは考えた。『それにしても、やっぱりそんなはずはない。それならおれにちゃんとそういったはずだ。何もおれに隠し立てするようなことじゃないからな』シルキンは仕事をおっぼり出して、兵営へも寄らないで、まっすぐに監獄へおもむいた。
 彼が曹長の前に出頭して、ことの仔細を報告したのは、もうほとんど九時ごろであった。曹長はびっくり仰天して、はじめは信じようとしないくらいであった。またシルキンも、それらすべてのことを単に推測として、疑いとして申し立てたのはいうまでもない。曹長はいきなり少佐のところへ飛んで行った。少佐はさっそく、要塞司令官のもとへ駆けつけた。十五分ののちには、早くもいっさいの必要な手配が講ぜられた。当の総督にも報告された。なにぶん重大犯人なので、取り逃がしたら、ペテルブルグからひどい譴責を受けるおそれがあったからである。真偽のほどは定かでないが、とにかくA―フは国事犯人の一人と数えられているのであった。クリコフは『特別監』の囚人であるから、したがって極重犯人であり、おまけに軍籍囚なのである。いままで『特別監』の囚人が逃亡したなどということは、まだためしがなかったのである。なおそのほか、『特別監』の囚人には、警護兵を二人ずつ付けるのが本来の規程で、すくなくとも、各自に一人ずつ付けなければならなかったのだ、ということも思い起こされた。この規程が守られていなかったわけである。要するに、面白からぬ事態が持ちあがろうとしているのだ。近在のあらゆる村々、あらゆる字々《あざあざ》へ急使が飛ばされて、逃亡者のできたことを布告し、いたるところに人相書を残させた。追跡捕縛のために、コサックが派遣された。そして、隣郡はおろか、隣県にまで通告状が発せられた……ひと口にいえば、大恐慌だったのである。
 その間に、わが監獄内では別な種類の動揺が始まった。囚人たちは労役を終えて帰って来るが早いか、たちまち事情を知ってしまった。ニュースは瞬くうちに一同の間にひろまった。だれもかれもが一種異様な喜びを隠しながら、そのニュースを伝えた。だれもかれもが、何となく胸をときめかせたのである……この出来事が監獄の単調な生活を破って、蟻塚を掘り崩したような騒ぎを引き起こしたことは別としても、逃走そのもの、――しかも、こうした逃走のしぶりが、すべての人の久しく忘れていた心の琴線をかきならして、共鳴音を呼びさまし、何かしら、希望、冒険、おのれの運命を一変する可能性、とでもいったようなものが、人々の心中に動き始めたのである。『ほかのやつらは逃げ出したじゃないか、おれたちだって何も……』こう考えると、彼らはすべて気負い立って来る思いで、挑むような目つきで人を見るのであった。すくなくとも、一同のものが急になんだか傲慢になって、下士などに対しても、高みから見下ろすような態度をとり出した。要塞参謀がさっそく監獄へ飛んで来たのは、いうまでもない。司令官すらもやって来た。囚人たちは腰が強くなって、大胆な、いくぶん軽蔑さえこもった目つきで長官を迎えた。黙々とした、厳しい、もったいぶったその様子は、『われわれだって、物ごとをちゃんとやるだけの腕はあるんだからな』とでもいいたげであった。もちろん、わたしたちの監房では、役人がいっせいにやって来るということを、すぐさま察してしまった。それに、かならず捜索があることも見抜いたので、何もかも手まわしよく隠してしまった。彼らはこうした場合、役人たちの知恵がいつも後手になることを、承知していたのである。はたせるかなそのとおりで、大変な騒ぎがおっぱじまった。何から何まで引っかきまわしてさがしたが、もちろん、何ひとつ見つからなかった。囚人たちを午後の労役へ出す時には、警護兵の数が増された。夕方になると、衛兵たちがのべつ監獄をのぞきに来て、いつもより余分に点呼を行なったが、その時いつもより二度もよけいに数を読み違えた。そのおかげで、またぞろ騒ぎが始まった。というのは、一同が庭へ追い出されて、また点呼のやり直しをしたのである。そのあとで、さらに一度、監房別の点呼があった……要するに、いろいろとめんどうなことだらけだったのである。
 しかし、囚人たちは、どこを風が吹くかというような顔をしていた。だれもかれもきわめて超然たる態度をとって、いつもこうした場合の例にもれず、その晩はずっとひと晩じゅう、なみはずれて行儀よくしていた。『どうだい、これじゃ因縁のつけようがあるまい』といったわけである。もちろんのこと、当局のほうでは、『監獄の中に逃亡の共謀人が残っていないだろうか?』と考えたので、囚人たらに目をつけ、彼らの話に注意するように、という指令を発したのである。けれども囚人たちのほうでは、ただせせら笑って、『いったいこれが共謀人をあとに残して行くような仕事かい!』『こういう仕事はこっそり内証にやるもんじゃねえか、それよりほかにしようがあるもんかい』『それに、クリコフにしたってA―フにしたって、こんな仕事をやらかすのに、しっぽをつかまえられるような人間かい? うまい具合に細工がやってあるんで、縫いめも継ぎめもわかりっこねえや。なにしろ、海千山千の連中だもん、閉めきった戸口だって抜けて行かあな!』ひと口にいえば、クリコフとA―フは男を上げて、たいした人気だった。みなはこの二人を誇りのように感じた。彼らの功業は、懲役場の遠い子孫にまで伝わって、監獄はなくなっても、その名は亡びないだろうと感じたのである。
「あざやかな腕だなあ!」と、ある連中はいった。
「今まではここからあ逃げ出せねえものと思っていたところが、りっぱに逃げたじゃねえか!………」とまた別の連中がつけ加えた。
「逃げたさ!」と第三のものが、なにやら見識ぶって、あたりを見まわしながら、しゃしゃり出た。「だが、逃げたなあ、いってえだれだと思う!………てめえなんかといっしょにゃならねえよ」
 これがほかの時だったら、こんなことをいわれた囚人は、すぐさま挑戦に応じて、自分の名誉を擁護したはずである。が今はおとなしく沈黙を守るのであった。「まったくのところ、だれもかれもがクリコフやA―フと同じってわけにゃいかない。まずはじめに自分の性根を見せるがいい……』
「だが、兄弟、いったいおれたちはこれでほんとうに生きてるんだろうか?」と炊事場の窓ぎわにつつましく腰かけていた第四の囚人が、片頬に掌を当てて、意地も張りもなさそうに聞こえるけれど、底に自己満足の情を隠しているような声で、歌でもうたうように、やや節をつけながら沈黙を破った。「いったいおれたちはここで何をしてるんだろう? 生きてるたって、人間らしい生きかたをしちゃいねえし、死んでるようだといっても、死人じゃなし。やれやれ!」
「世の中のこたあ靴と違うから、おいそれと脱ぐわけにいきゃしねえよ。何がやれやれだ?」
「だって、クリコフなんかあのとおり……」とのぼせやすい連中の一人で、まだ嘴の黄色い若造が、割り込んで来た。
「クリコフ!」と、もう一人の男がばかにしたように、嘴の黄色い若造を尻目にかけながら、すかさずその言葉尻を押えた。「クリコフ!」
 それはつまりクリコフみたいな人間がそうざらにいるか? という意味なのである。
「だがA―フだって、おめえ。やり手だぜ、そりゃあたいしたやり手だぜ!」
「それどころか! あいつはクリコフでさえ指の先であしらうような男だよ。上にや上があるもんさ!」
「ところで、やつらあ今ごろ、どれくれえ遠くへ逃げてるかなあ、知りてえもんだなあ、兄弟……」
 それからすぐに一同の話は、二人がもう遠くまで逃げのびたろうか? どの方角へ向かって行ったろうか? どっちへ行くのが一番いいか? どの村が近いか? などという問題に移って行った。すると、その付近の地理に詳しい連中が現われた。人々は好奇心を燃え立たせながら、耳を傾けた。また近在の村々の住民たちのこともうわさをして、その結論は、どうも頼りにならない連中だということになった。町に近いと、人間がみなすれている! 脱獄囚を人目に見るようなことをしないで、ふんづかまえて突き出すに相違ない。
「この辺の百姓と来たら、兄弟、たちのよくねえやつらだからな。いやはや、すげえ連中ばかりだ!」
「性根のすわってねえ百姓どもだよ!」
「シベリヤの百姓は業つくばりばかりだから、やつらの手に落ちたら殺されちまうぜ」
「そりゃそうだが、こちとらだって……」
「当たり前のことよ、とにかくそうなったら、どっちがやっつけるか、やっつけられるかだ。こちとらだって、ひと筋繩じゃいかねえ連中ばかりだからな」
「まあ、おれたちがくたばりせえしなけりや、うわさが耳に入るだろうよ」
「じゃ、おめえはどう思ってたんだ? つかまると思ってたのかい?」
「おれあこんりんざいつかまらねえと思うな!」ともう一人ののぼせやすい男が、拳固でテーブルをどしんとたたいてから引き取った。
「ふむ! まあなにしろ、その場のなりゆき次第よ」
「ところがな、兄弟、おれあこう思うんだ」とスクラートフが口を入れた。「もしおれが浮浪人になったら、こんりんざいふんづかまるこってねえよ!」
「てめえがかよ!」
 どっと笑い声が起こる。ほかの連中は聞きたくもない、という顔つきをする。が、スクラートフはもう調子に乗ってしまって、
「こんりんざいつかまるこっちゃねえ?」と勢いこんでいった。「おれはな、兄弟、よく腹ん中で考えちや、自分で自分に感心してるんだが、おれあどんなふちゃな隙間からでも抜け出して、つかまったりなんかしねえって気がするよ」
「なあに、そのうちに腹ぺこになって、百姓家ヘパンもらいに行くだろうよ」
 一座は声をそろえてどっと笑った。「パンもらいにって? 何ぬかしゃあがるんだ!」
「ふん、てめえ、なんだってよけいな頬桁をたたきやがるんだ? てめえは叔父貴のヴァーシャとぐるになって、牛呪いを殺した([#割り注]ある百姓かあるいは女房かが、家畜をたおす呪文を村じゅうへ放ったという疑いから、人殺しがおこったことを指すのである。わたしたちの間にもそういう殺人犯がいた―原注[#割り注終わり])もんだから、それでこんなとこへやって来やがったんじゃねえか」
 一同の哄笑はさらに高くなった、まじめな連中は、ますます憤慨に堪えないような顔つきをする。
「へん、うそつけ!」とスクラートフは叫ぶ。「ありゃミキートカが出たらめこきやがったんで、それもおれのことじゃねえ、ヴァーシカのことなんだ。そいつにおれは巻き添えくっただけよ、おれはモスクワっ子で、小せえ時分から宿なしでたたき込んだもんさ。その時分、寺の伴僧が読み書きを教えてくれたのはいいが、よく俺の耳を引っぱりゃがって、『神よ、汝の大いなる恵みによりてわれを憐れみたまえ』とかなんとかってやつを何度も何度もいわせたんだよ……そこで、おれあそのあとから『汝のみ恵みによりわれを警察へ導きたまえ』なんて唱えてやったっけ……まあこんなふうにふせえ餓鬼の時分からやり出したわけよ」
 一同はまたもやどっと笑い崩れた。しかし、そこがスクラートフの思う壺だった。彼は道化た真似をしないではいられない男なのであった。が、間もなく人々は彼をうっちゃって、ふたたびまじめな話を始めた。意見を吐くのは、おもに老人やその道の通人であった。若い者やおとなしい連中は、首をさし伸べて、彼らの顏を見ながら、その話を問いているだけで喜んでいた。炊事場は大変な人だかりであった。もちろん、そこには下士たちはいなかった。彼らの前では、こうみながみなまでしゃべってしまうはずがない。かくべつ喜んでいる連中のなかで、わたしの目についたのは、マメートカという一人のダッタン人であった。背が低くて、頬骨の出たひどく滑稽な恰好をした男である。彼はほとんどロシヤ語がしゃべれなかったし、ほかのものの話していることも大部分わからなかったが、人なみに群集の中から首を突き出して聞いている。しかもうれしそうに聞いているのだ。
「どうだ、マメーシカ、ヤクシイ?(いいか)」とみんなから除け者にされたスクラートフが、所在なさに彼をかまい始めた。
「ヤクシイ! おお、ヤクシイ!」とマメートカはその滑稽な頭をふって、スクラートフにうなずいて見せながら、みるみる元気づいてつぶやいた。「ヤクシイ!」
「やつらは捕まらしねえな! ヨーク?(そうだろう)」
「ヨーク、ヨーク!(そうだ、そうだ)」とマメートカは、今度はもう両手を振りまわしながら、またしてもしゃべり出した。
「つまり、そっちのいうことは出たらめで、こっちのいいぶんはわかってもらえず、というわけだな、そうだろう!」
「そうだ、そうだ、ヤクシイ!」とマメートカはうなずきながら引き取った。
「いや、まあ、ヤクシイだ!」
 こういって、スクラートフは彼の帽子をぽんとはじいて、目の上までぐっと引き下げると、ややあっけにとられ気味のマメートカをうっちゃらかして、ごくの上機嫌で炊事場を出て行った。
 獄内の厳重な取り締まりと、付近一帯の熱心な追跡捜索は、まる一週間つづいた。どういうふうにしたのか知らないが、囚人たちは当局が監獄外で行なっている策動に関して、正確な情報を手に入れるのであった。はじめの数日間というものは、すべての情報が逃亡囚にとって有利なものばかりだった。いっさい手掛かりがないの一点ばりなのだ。仲間の連中はただせせら笑いしていた。逃亡者の運命を気づかう気持ちなどは、きれいになくなっていた。『何が見つかるものか、だれが捕まるもんかい!』と仲間の連中はさも満足そうにいい合っていた。
「影も形もありゃしねえ、空っぽだあな!」
「へえ、さようなら、脅かしちゃいけねえぜ、じき戻ってめえりやす! だ」
 囚人連中はまた同様に、近在の百姓たちがぜんぶ狩り出されて、森や谷や、すべて怪しそうな場所という場所には、ひとつ残らず非常線を張っていることを承知していた。
「ばかげたこった!」と監獄の連中は嘲笑いながらいったものである。「やつらにゃ、ちゃんと肩を持ってくれる人間があって、今ごろはそいつのところで暮らしてるこったろうよ」
「きっとあるに決まってらあ!」とほかの連中が受けた。「どじを踏むようなやつらじゃありゃしねえ。何から何まで手まわしよく用意しておいたのさ」
 それよりさらに臆測を逞しゅうするものもあって、もしかしたら二人の逃亡者は、今でもまだ町はずれにいるかもしれない、どこかの窖にでも姿を潜めながら、「騒ぎ」が静まって、ほとぼりが冷めるのを待っているくらいのことだろう。半年か一年たったら、いよいよおみこしを上げるだろう……などといい出す始末であった。
 てっとり早くいえば、一同は何かロマンチックな気分にさえなっていたのである。ところが、とつぜん八日ばかりして、足がついたといううわさがぱっとひろまった。この愚にもつかぬうわさが、たちまち軽蔑の態度で否定されたのはいうまでもない。しかし、その日の夕方に、うわさはほんとうだったということが確かめられた。囚人たちは不安を感じ始めた。翌日の朝になると、もう二人は逮捕されて護送中だというので、町じゅう大評判であった。午後にはもっと詳細な事情が知れて来た。ここから七十露里離れた某という村で、縛についたのである。ついに正確な報知を入手した。少佐のところから帰って来た曹長は、夕方までには二人をまっすぐに獄内の衛兵所まで連れて来るはずだとはっきり明言した。もはや疑いを入れる余地はなかった。この報道が囚人たちにどんな印象を与えたかは、たやすく語れるものではない。はじめはみんな腹でも立てたようなふうであったが、やがて悄気こんでしまった。そのうちに、なにかしら冷笑とでもいったような態度が現われて来た。彼らは毒々しく笑い出したが、それは捕まえたほうでなく捕まえられた連中を笑うのであった。はじめは少数のものであったが、のちにはだれもが笑うようになった。ただし、独自の考えを持っていて、冷笑などでまごつかされることのない、若干のまじめな、しっかりした連中だけは例外である。彼らは侮蔑の目をもって軽薄な大衆を眺め、腹に一物ありげに沈黙を守っていた。
 要するに、今までクリコフとA―フを持ち上げていたのと同じ程度に、今度は彼らをけなした。むしろある快感さえ覚えながらけなしたのである。まるで二人のものが、彼ら一同を何かで侮辱でもしたかのようであった、彼らはさらばかにしたような顔つきで、二人の野郎は腹がへって、我慢しきれなくなったものだから、パンを無心に村の百姓のところへ出かけたのだ、といった、これはもう浮浪漢にとって、屈辱のどん底だったのである。もっとも、こうした取り沙汰は事実と違っていた。二人の脱獄囚は、居場所をつきとめられたのである。彼らは森の中に隠れていたが、その森を四方八方から大勢で取り巻かれたので、のがれる方法がないのを見て、彼らはみずから投降したのである。それよりほかには、なんとも仕方がなかったのだ。
 はたしてその夕方、二人のものが手足を縛られ、憲兵に引かれて到着した時、監獄じゅうの囚人は、彼らがどんな目にあうかを見ようとして、ばらばらっと柵のそばへ飛んで行った。が、もちろん、衛兵所のそばに立っている少佐と司令官の馬車のほか何ひとつ目に入らなかった。逃亡者は秘密室へ入れられて、足枷を嵌められ、さっそくそのあくる日、裁判にまわされた。囚人たちの冷笑と侮蔑は、間もなく自然に消えてしまった。それからさらに詳報が入って来たが、投降するよりほかに、なんとも方法のなかったことが知れたので、一同は心から事件の経過を注視するようになった。
「笞の千くらいも食らわされるだろう」とある囚人たちはいった。
「なんの千どころか!」とほかの者が反駁した。「なぐり殺されてしまうよ。A―フは千くれえですむかもしれねえが、やつのほうはなぐり殺されるに決まってらあ、なぜって、兄弟、特別監組だもんな」
 とはいえ、この想像は当たらなかった、A-フはわずか五百の笞刑ですんだ。従来の殊勝な行ないと初犯であるということで、情状酌量になったのである、クリコフはたしか千五百だったと思う。かなり寛大な処罰であった。彼らも物のわかった人間だったので、裁判官の前でも他人を巻き添えにするようなことをせず、自分たちは要塞からまっすぐに逃亡したので、どこへも寄り道などしなかったと明瞭正確に申し立てた。わたしがいちばんかわいそうに思ったのはコルレルであった。彼はいっさいのもの。最後の希望をすら失って、罰もたれよりいちばん重く、たしか笞二千だったと記憶する。そして、一囚人としてどこかへ送られたが、ただしここの監獄ではなかった。A―フは憐れみをかけられて、笞刑に手ごころをしてもらった。それには、医師たちの言葉があずかって力あったのである。しかし彼は虚勢をはって、病院へ入ってからも大きな声で、自分は今度思いきったことをしてしまったのだから、どんなこともやってのける腹ができた、まだこれどころではない、どえらいことをしでかすぞ、などといっていた。クリコフの態度は、いつもと変わらなかった。つまり、どっしりと重みのある気取った様子をしていて、刑を受けて監獄へ帰った時も、まるで一度もここを離れたことはない、というような顔をしていた。しかし、囚人たちの彼を見る目は違っていた、クリコフはいつどこへ行っても、おのれを持するすべを心得ていたにもかかわらず、囚人たちは内心彼を尊敬しなくなったような形で、妙にいけぞんざいな調子で彼に接するようになった。要するに、この逃亡以来、クリコフの名声はすっかり地に落ちたのである。成功なるものは、世人の間でかくも大きな意味を有するのだ。

[#3字下げ]10 出獄[#「10 出獄」は中見出し]

 これらはすべて、わたしの監獄生活の最後の年に起こった出来事である。この最後の一年は、最初の一年とほとんど同じくらい、わたしにとって記憶すべき時期であった。ことに監獄で過ごした最後の月日は格別である。しかし、細かいことをいちいち語る必要はあるまい。ただひとつ覚えているのは、この最後の一年間は、すこしも早く刑期を終わりたいという焦燥の念で、いっぱいだったにもかかわらず、前の数年間にくらべると、楽な気持ちで暮らしていかれたことである。第一、囚人たちの間には、わたしがいい人間であることをついに間違いなく知り抜いてくれた友だちが、もうたくさんできていたからである。彼らの多くはわたしに心服しきって、心からわたしを愛していてくれた。土工兵は、わたしともう一人の仲間を監獄から送り出しながら、あやうく泣き出さんばかりだったし、その後、わたしたちが出獄してからまるひと月というもの、この町のある官有の建物に住んでいた問じゅう、ほとんど毎日のようにわたしたちのところへ寄ってくれた。それもただわたしたちの顔をひと目見るためなのである。もっとも、なかには最後までむずかしい。無愛想な顔をして通したものもある。彼らは、わたしにひと言でも口をきくのがつらいというふうだったが、どういうわけなのか皆目わからない。わたしたちの間には、何かの障壁が立ちふさがっていたような気がする。
 いよいよ最後が近くなると、わたしは懲役生活の今期間とくらべて、一般にはるか多くの特典を与えられるようになった。この町で勤務している軍人の間に、わたしの知人や、昔の学校友達さえいることがわかった。わたしは彼らと旧交を暖めた。彼らを通じて、わたしは今までよりよけいに金を持つこともでき、故郷へ手紙を書くこともできたのみならず、本を手に入れることさえできた。わたしが一冊の本も読まなくなってから、もはや数年になる。で、最初に監獄で読んだ書物がわたしにあたえたあの異様な、同時に胸をわくわくさせるような印象を伝えることは、ほとんど不可能である。忘れもしない、わたしは暮れがた、監房の戸が閉まると同時に読み出して、東が白むまで終夜読みとおした。それはある一冊の雑誌だった。わたしはまるで、別世界からの消息が飛びこんで来るような思いがした。以前の生活が残りなく、あざやかに明るく目の前に立ち現われた。わたしはいま読んだものから判断して。自分はどれくらいこの生活から遅れているか、自分のいない間に、人々はその世界でどれほど多くの体験を積んだか、いま彼らの心を波立たしているのは何であるか、どんな問題が目下彼らの興味をひいているか? こういうことを想察しようと努めた。わたしは一語をもいたずらに読み過ごさないように、行と行の間にも意味を読み取るようにし、秘密な意味や以前の生活に対する暗示の発見につとめ、かつてわたしがその世界にいたころ人々の心を波立たしたものの痕跡を見いだそうとした。そして、自分が新しい生活に対してどれほど無縁の人間になり、覆水盆に返らぬ立場