『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「黒子のバスケ」事件は「日本人」「非日本人」というワクぐみの動揺を示している(簡略版)。

「日本人」という概念は、だれもが頭の中にもっているが、完全な定義は不可能な、奇妙な概念である。
まず一ついえるのは、それが(想像上の)血統主義とイコールには決してならない、ということである。ここから、非常に奇妙な結論が出てくる。たとえば、血統上確実な日本人の男性と血統上確実な日本人の女性から生まれた人物が、人生のある時点で、「血統上確実な日本人」で完全になくなってしまうかもしれないことは十分ありうる、ということである。
これは理論的な話であり、たしか経験的にはほとんど見られないが、まったくないわけではない。
皇軍慰安所の女たち」(1993年、川田文子、筑摩書房)には四人の被害当事者女性が登場するのだが、第二章目にある女性が登場する。インターネット上では、この女性についての情報がほとんどないようなのだが、簡単にいうと、日本人なのか沖縄人なのか朝鮮人なのか、本人もその時その時でちがうことを言っており、また、川田氏らをふくめて周りの朝鮮人や沖縄人の支援者も、この人物の民族所属を確定させることができなかった、というとても奇妙な人物なのである。話すと長くなるので詳細はぜひとも本書を読んでほしいが、戦争犯罪というカテゴリをはなれて考えると、事実は小説より奇なりというしかない事例なのである。少なくとも、残留日本兵の事例で似たようなものを私は知らない。
さて、ここで「黒子のバスケ脅迫事件」(2012年~2013年)の加害者・渡邊博史氏について書きたい。「渡辺博史」という表記もあるようだが、出版した書籍の表記にしたがって、「渡邊博史」とする。
私が知るかぎり、反歴史修正主義の間ではあまり話題にならなかったが、この事件は、「日本人」というワクぐみがゆらいでいることを示している事件だと考えていいと思われる。少なくとも、十分検討に値する。渡邊博史氏(本人に失礼にならないように、氏づけをする)の手記「生ける屍の結末――「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相」(2014年、創出版)と、篠田博之氏の公開記事を読めば、渡邊氏は非常に自他にたいする判断力が高く興味深い人物であることがわかる。
この手記および記事によると、彼は自分の立場を一度ならず「在日日本人」と呼んでいることが判明している。念のために書くが、渡邊氏は手記にいくつか独自の造語をつかっており、「在日日本人」はその一つではある。差別反対運動の理論を熟読したというわけでもないようだ。もしそうだったら、どこかではっきり書いているはずである。しかし、渡邊氏は「差別」というものの核心部分についての洞察をえており、それを文章化する力量がある。

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

認識を新たに自分の人生を改めて振り返ってみて、自分の事件とは何だったのかを改めて考え直しました。そして得た結論は、

「『浮遊霊』だった自分が『生霊』と化して、この世に仇をなした」

です。これが事件を自分なりに端的に表現した言葉です。さらに動機は、

「『黒子のバスケ』の作者氏によって、自分の存在を維持するための設定を壊されたから」

まず「社会的存在」と「生ける屍」について説明を致します。

日本人のほとんど全ての普通の人たちは、自分が存在することを疑ったことはないと思います。また自分がこの世に存在することが許されるのかどうかを本気で悩んだこともないと思います。

人間がなぜ自分の存在を認識できるのかというと、他者が存在するからです。自分の存在を疑わないのは他者とのつながりの中で自分が規定されているからです。家庭では父として、夫として、息子として、兄として、弟として。親族の集まりでは祖父として、孫として、叔父として、甥として、従兄弟として。学校では生徒として、同級生として、部活の部員として。勤務先では上司として、同僚として、部下として。地域ではその地域の住民として。その規定のパターンは無限です。

もし普通に生きていた男性がいきなり両親から「お前は私たちの本当の子供ではない。そしてお前は日本人ではない」と告白され、次に兄から「お前は血のつながった弟ではない」と告白され、次の妻から「あなたの妻は本当は死んでいる。私は途中から妻になりすましていた別人」と告白され、次に息子から「僕はパパの本当の子供じゃない。血のつながったパパは別にいる」と告白され、次の会社の上司から電話で「お前はクビ。今日限りで○○株式会社の社員ではない」と通告され、次に出身大学の学長から電話で「お前の卒業を取り消して除籍とする。お前は○○大学のOBではない」と通告され、次に住んでいる街の自治体の首長から電話で「今すぐ○○市から出て行け。お前を○○市の市民とは認めない」と通告されたらどうなるでしょうか?おそらく自分の全てが崩壊するかのような大パニックに陥ると思います。人間に自分の存在を常に確信させているのは他者とのつながりです。社会と接続でき、自分の存在を疑うことなく確信できている人間が「社会的存在」です。日本人のほとんど全ての普通の人たちは「社会的存在」です。

人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか?端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。(略)

ちなみに、彼は同性愛者であり韓国人アイドルのEXO(私は知らなかったが、かなり有名らしい。写真を見るかぎり、なかなか見ない美形青年である)のファンである。最終陳述でこのことをはっきり発言している。日本の裁判所で韓国語を叫んだのは、大日本帝国創始以来、おそらく10人もいないだろう。

被告は胸に「EXO」と書かれた黒いTシャツを着用しており、意見陳述の最後に「ベッキョン!サランヘヨ!」と叫んだのだが、傍聴席にいた誰も意味を理解できないようだった。

「ベッキョン!サランヘヨ!」は「백현!사랑해요!」、直訳すれば「ペッキョン!愛してる!」になる。私も昔まちがえていたことがあるが、「サランヘヨ」は「さよなら」ではない(「안녕」などになる)。おそらく、韓国ドラマでおぼえたのだろう。

まだまだ書ききれないことが多いのだが、とりあえずここで終わることにする。
今年の明治維新150周年祭のもりさがり(特に大河ドラマ西郷どん」)、もりさがりつづけるオリンピック事業、「日本スゴイ」をとりあげる番組で「1970年大阪万博」、特に「太陽の塔」をほとんど無視している事実、朴裕河事件で文学研究と歴史研究が正反対の結論を出したこと、高木仁三郎氏の(特に最晩年の)著作の無視、内閣府明治製菓の共同研究のデータねつ造、ほかにもあげきれないぐらいたくさんあるが、これらをすべて考えると、二つの驚くべ結論がみちびきだせる。
「「(想像上の血統において真正な)日本人」はいるが、「日本民族」はすでにほろんだ。「民族文化」がなくなってしまったから」
日本民族は復活するかもしれないが、今後50年、2070年までみて、それは限りなく難しいことがわかる。日本文化とよばれるもののうごきを予想すれば、だれがみても大凶だとわかるから」

私個人としては、岡本太郎氏にならって、せめて「日本”列島”民族」としての復活をしてほしい。だが、かなり難しいだろう。

参考
永山則夫 封印された鑑定記録 堀川惠子 - 本と奇妙な煙

石川の人生の分岐点となった、ある非行少女

怒りっぽく、爆発的な興奮があり、ガラスを叩き割ったり、ドアを蹴破る。性格は未熟で自己中心的、平気で嘘をつき、やけになりやすいという特徴もあり、職員からも「この子は矯正教育の対象にはならないから早く精神病院に送ったほうがいい」という諦めの声があがるほど見放されていた。
 石川は土居ゼミで学んだことを実践することにした。ただひたすらにA子の話を「聴く」ことから始めたのである。
 面接は毎回一時間と決まっていた。A子は最初、他人の悪口を言っては泣きわめき、面接の部屋は怒号に包まれるばかりだった。ところが、石川がひたすら聴く作業に徹してから二ヶ月くらいすると、A子の興奮は次第に影をひそめた。そのうち、彼女は石川との面接時間を楽しみにするようになり、自分自身のこと、両親のことを少しずつ打ち明け始めた。時には甘えるような態度もとるようになり、周囲の職員を驚かせた。
 そして石川が、少女の人格が発進していく可能性を楽観し始めた頃、二度目の試練が起きる。(略)
[石川が仕事で面接に遅刻]
するとA子は、「今日はもう石川に診てもらえない」という不安にかられ、興奮して暴れだした。職員から知らせを受けて慌てて駆けつけると、A子は「今まで男に裏切られてきたから、先生にも裏切られたのかと思った」とすぐに落ち着きを取り戻した。ところが、面接が終わろうとすると再び興奮し、怒りを拡大させ、初めて石川への憤懣を爆発させた。A子の心には、石川に対する独占欲で他の少女患者に対する嫉妬が渦巻き、怒りと同時にドロドロとした甘えが絡みあっているように見えた。
 石川が懸命に対応すればするほどに激しく興奮し、ついには、自分がかけていた眼鏡を放り投げた。その眼鏡は彼女にとって特別なものだった。視力の悪い彼女に石川が貸し与えたもので、石川の分身であるかのようにとても大事にしていた。彼女は自らの手でそれを壊してしまったのである。A子はますます絶望的な混乱を示し、三時間以上にわたって泣きわめき、ついには向精神薬を大量に注射して鎮静させる事態になった。
 石川は他の教官らから厳しく突き上げられた。「先生が甘やかしすぎるからだ、もっと厳しい治療方針にすべきだ」と批判にさらされた。(略)
[院長のとりなしで、治療は続行]
 石川は、A子は面接時間では話し足りないのだと判断し、日記を活用することにした。大学ノートを二冊用意し、A子が書いてきた一冊を石川が読んでコメントし、次回に交換するという方法である。
 するとA子は、大学ノート一冊を一週間で使い切ってしまうほどの分量で書き始め、コミュニケーションは一気に深まった。自分の思いを文字にすることで興奮することも暴れたりすることも減っていった。「行動化」が「言語化」に変わったのである。
(略)
 そして、A子への治療を通して確信したという。非行というものの多くは、親の仕打ちに、これ以上、我慢できなくなった子どもが止むに止まれず行動で示すことなのだと。

第3回 すべてのものと対等であるTARO。 - 岡本太郎のくらし- ほぼ日刊イトイ新聞

私(担当:ほぼ日の菅野)は、2003年に
岡本太郎さんのコンテンツの連載を担当しました。
そこからずっと勝手ながら、
太郎さんを身近に思ってきました。
今回、「生活のたのしみ展」で
扱わせていただくことになった「椅子」について
改めて考えたとき、
岡本太郎さんは、なんに対しても
徹底して対等だったのではないかと気づきました。

平野
そうそう、そうですよ。

──
親子の関係も早いうちからそうだったし、
偉い人たちに対する態度も、
子どもの絵に対する態度もそうだし、
ペットもわけへだてなく、カラスだったし‥‥。

平野
偉人、権力者、幼児、年寄り、カラス‥‥、
みんないっしょです(笑)。

──岡本敏子(前館長)さんもよく言っていた
太郎さんが使う「いやしい」という言葉はつまり、
「対等ではない」という意味だったのではないかと
いま私は解釈しています。
どんな人でもものでも、同等で対等。
それが基本姿勢で、貫いていたのではないかと、
やっと昨日気づいて、自分で驚きました。

平野
何が偉いとか、上とか下とかないし、
自分は人間で相手は動物だからとかいうのもないし、
子どもだから適当にあしらおうという気もない。

ナチスドイツが、たとえば「レイプオブワルシャワ」をおこさなかったのはなぜか?

ナチスドイツがヨーロッパ各地を占領したことは有名である。悪名高い「アウシュビッツ」も、ポーランドの「オシフィエンチムAuschwitz(市)」のドイツ語読みである。ちなみに、オシフィエンチムワルシャワよりずっと南、隣国スロバキアと近い。
さて、ナチスドイツはレイプオブ南京のように、「レイプオブワルシャワ」などの大量強姦の戦争犯罪を起こしたという記録はない。ナチスドイツは、パリ・アムステルダムオスロベオグラードなども占領したというのに、である。
なぜだろうか?
私は、レーベンズボルン(生命の泉)があったのが一つの理由では、と考えている。
レーベンズボルンについては、こちらを参考にしてほしい。簡単に言えば、「育児施設の皮をかぶった”優秀なアーリア人血統”製造工場」である。

Lebensborn – Wikipedia

強姦とは、性欲の皮をかぶった支配欲である。嘘だと思うならば、その辺の布団を丸めて人間サイズの大きさにして、「ごっこ遊び」をしてみればいい。決して欲望は満たされないはずだ。
それになぞれば、生殖による”血統”拡大もまた、支配欲そのものである。ナチスドイツが「優秀な”血統”を生産・拡大する」という発想を公式・非公式に強固にもっていたことは、ナチスドイツ下のドイツ人などの性意識を考える重要なピースの一つだと思う。
ただし、歴史的事実をつきあわせるかぎり、ナチズムにおいて「”血統”拡大の強固な欲望」と「占領地での大量強姦」がなかったという事実の関係性は、注意深く検証すべきであろう。レーベンズボルンの設立は1935年(ヒムラーなどが主導)、それから占領地各地に拡大した。ただし、ドイツ国籍の男女間だと子どもは5000人を超えなかった一方、ドイツ国籍男性とノルウェー国籍女性の場合だと8000~12000人の子どもが「育成」されたと記録上わかっている。レーベンズボルは非公式だったようで、ナチスドイツ下のドイツ人はこの施設のことをよく知らなかったようだ。これらを考えると、簡単に直結させることは難しい。
また、収容所での強制売春問題もある。ただし、収容所施設の数に対して、この強制売春施設の数はずいぶん少ないように思われる。私の調査不足かもしれないが。

Lagerbordell – Wikipedia

旧日本陸海軍やユーゴスラビア内戦での事例の分析とくらべると、件数は確かに少ないようにも思われる。これは私の今後の調査課題である。



……私がなぜこの問題について書こうと思ったかというと、一つには天皇制と「日本民族」とされる集団の性質の問題がある。敗戦後の天皇の位置というのは、日本民族とされる集団の、血統上の代表」なのである。ここが元首を大統領とする、大統領制などとの決定的なちがいである。また、ほかの王政でも、「血統上の代表」という自己規定はほとんど行われていないだろう。英国王室を思い出せばいい。
これは私の勝手なでたらめではない。日本国の法律・戸籍法を忠実に解釈すればこう書くしかないのである。詳しくは、遠藤正敬氏の『戸籍と無戸籍ー「日本人」の輪郭』(2017年、人文書院)を参照してほしい。非常に刺激的な本である。
今この本が手元にないのであるが、この本に収録されている興味深いエピソードを紹介したい。
1980年代に、皇族(秋篠宮だったか?)を招いて、日本人の南米移民を記念する大規模な式典をした。このとき、「故郷とのつながりを確認したい。できれば、故郷に一度帰ってみたい。」という一世・二世の要求が多数なされた。この皇族や「日本」の役人たちは、その場では否定的な返事はしなかったが、結局大した対応をすることができなかった、という。二世、というと、血統上まちがいなく日本人(一世)の男女間の子どもも多数いたことだろう。しかし、南米に在住している、というだけで、いわば「端っこの”日本人”」あつかいになってしまったわけである。
私は何も、血統主義を徹底させよ、と言いたいわけではない。ただ、”日本人”とは何か、というのはよくよく考えてみれば、ちっとも明らかではない、ということを言いたいのである。
よく、「敗戦から70年、日本人はまったく変わっていない。天皇崇拝がその証拠(の一つ)だ!」と言われることがある。悪質性については基本的に同意するが、ある意味においては同意できないところがある。現在の天皇制は、というよりも、「日本人という観念」は、もっと危険な変容をしつつある、というのが、私の判断だからだ。
天皇制、というのが意思決定上、根本的な不合理をかかえこんでいるのは有名な話だ。なにしろ、個性をもってはいけない天皇という地位が最終決定をしないといけないのだから、すぐれた(個性的な)意思決定をすることができないのは当たり前である。この点については、『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、山田朗岩波書店)を参考にしてほしい。非常に実証的な
問題なのは、多少軍事のことを知っている極右・親右翼人士は、おそらくこのことを無意識にせよわかっている、ということだ。では、この人たちはどうするのか。「天皇に、徹底的に合理的に考えられるスタッフをつけて、天皇には決済だけさせればいい」と考えるだろう、と私はみている。この「徹底的に合理的に考えられるスタッフ」はどういう存在だろうか。マスコミやインターネットでは、「神軍師!」ともてはやされる存在だろう。私に言わせれば、そんな”存在”は文字通りの怪物、モンスターなのだが。なぜって? この、「合理的に」というのがくせものなのである。論じると長くなるが、簡単に書けば、一つには、「歴史的レベルの予想外な事態に対応しきれる人間を、あらかじめ用意することは、人間には原理的に不可能だ」ということである。これは徹底的な血統操作をしようが教育を含めた徹底した育成環境操作をしようが、絶対に原理的に不可能である。それは、たとえば幕末期に活躍した人々の伝記をみればすぐわかる。むしろ、いくつもの過酷な経験を経て、かつ、何らかの運に偶然にもめぐまれた人たちが歴史の表舞台に浮かび上がっていった、というのが歴史の事実である。この人たちをただ賞賛しろ、というのではない。そういう予測の外にある人々、という事実が大事なのである。
私が1980年代以降の「サブカルチャー」に根本的な不信感をぬぐえない理由の一つには、文化がこの「予想外」の驚きと恐ろしさをしめだしてしまったのではないか、という問題意識がある。近年の「シン・ゴジラ」にしろ「幼女戦記」にしろ、「”合理的なスタッフ”さえいればなんでも解決できる」という、そういう異様な錯覚を、文化側が”夢見ている”のではないか、そんな危険性を私は感じる。



(まとまりのないものになりました。後で原稿を書き直すかもしれません。)

「西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手とせよ」(2018年)の参考文献リスト

     主要参考文献

   西郷隆盛(原則として刊行年順)
『大西郷全集』第一~三巻(平凡社、一九二六~二七年)
 *本書以前に刊行されたものに比べ、収載された書簡や詩文の量がはるかに多く、西郷研究を大きく進展させた史料集である。
渡辺盛衛編『大西郷書翰大成』第一~五巻(平凡社、一九四〇~四一年)
西郷隆盛全集』第一~六巻(大和書房、一九七六~八〇年)
 *島津久光に対する西郷の批判が記されていたため封印されていた桂(久武)家所蔵の西郷書簡など新史料が含まれている。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』(一八九四年。のち至言社によって一九七六年覆刻)
頭山満翁講評・小谷保太郎編『大西郷遺訓』(政教社、一九二五年)雑賀博愛『大西郷全伝』第一巻(大西郷全伝刊行会、一九三七年)
石神今太編『南洲翁逸話』(鹿児島県教育会、一九三七年)
 *西郷に直に接した町村在住の故老からの聞き取り調査を纏めたものである。西郷に関する興味深いエピソードを多く含む。
田中惣五郎『西郷隆盛人物叢書)』(吉川弘文館、一九五八年。一九八五年新版)
圭室諦成『西郷隆盛』(岩波書店〔新書〕、一九六〇年)
野中敬吾編『西郷隆盛関係文献解題目録稿-~西郷隆盛観の変遷を追って』(私家版。一九七〇年。一九七八年改訂増補。一九七九年、一九八一年、一九八五年、一九八九年)
 *主として明治十年以降に出版もしくは発表された西郷に関する文献を収録し、解説をほどこしたものである。西郷のことを知るうえで大変便利である。
井上清西郷隆盛(上・下)』(中央公論社〔新書〕、一九七〇年)
坂元盛秋『西郷隆盛福沢諭吉の証言』(新人物往来社、一九七一年)
南日本新聞社編『西郷隆盛伝――終わりなき命』(新人物往来社、一九七八年)
上田滋『西郷隆盛の悲劇』(中央公論社、一九八三年)
落合弘樹『西郷隆盛と士族』(吉川弘文館、二〇〇五年)
猪飼隆明『西郷隆盛「南洲翁遺訓」』(角川学芸出版、二〇〇七年)
高大勝『西郷隆盛と〈束アジアの共生》』(社会評論社、二〇一〇年)
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局――体調不良問題から見た薩長同盟征韓論政変』(ミネルヴア書房、二〇一一年)
松浦玲『勝海舟西郷隆盛』(岩波書店〔新書〕、二〇一一年)
落合弘樹『西南戦争西郷隆盛』(吉川弘文館、二〇一三年)
川道麟太郎『西郷「征韓論」の真相―歴史家の虚構をただす』(勉誠出版、二〇一四年)

   関連史料(原則として刊行年順)
東京大学史料編纂所所藏『大日本維新史料 稿本』(マイクロ版集成)
「柏村日記」(山口県文書館所蔵毛利家文庫七一 『藩臣日記』)
侯爵細川家編纂所編『改訂 肥後藩国事史料』巻五~七)
鄭永寧編「副島大使適清概略」(一八七三年。のち『明治文化全集』第十一巻外交篇、日本評論社、一九二八年に収録
川口武定『従征日記』上・下巻(一八七八年。のち青潮社によって一九八八年覆刻)
海南鏡水漁人(坂崎斌)編「林有造氏旧夢談」(高山堂、一八九一年。のち『明治文化全集』第二十五巻雑史篇、日本評論社、一九二九年に収録)
佐々友房『戦袍日記』(一八九一年、南江堂。のち青潮社によって一九八六年覆刻)
海江田信義述・西河称編述『維新前後実歴史伝』巻之一~十(一八九二年)
圉城寺清『大隈伯昔日譚』(一八九五年。のち早稲田大学出版部によって一九六九年覆刻)
土持政照述・鮫島宗幸記「西郷隆盛謫居事記」(一八九八年)
柴山川崎三郎『西南戦史』(博文館、一九〇〇年。のち大和学芸図書によって一九七七年覆刻)
宮島誠一郎編「国憲編纂起原」(一九〇五年。のち「明治文化全集」第一巻憲政編、日本評論社、一九二八年に収録)
多田好問編『岩倉公実記』上・下巻(皇后宮職蔵版・宮内省版、一九〇六年。のち書肆洋井によって一九九五年覆刻)
黒龍会本部編纂発行『西南記伝』上・中・下六巻(一九〇八~一一年。のち原書房によって一九六九年覆刻)
桐野利秋征韓論に関する実話」(同右『西南記伝』上巻一に収録)
勝田孫弥『大久保利通伝』中巻(一九一〇年、同文館。のち臨川書店によって一九七〇年覆刻)
末松謙澄『修訂 防長回天史』上・下巻(一九一一年。のち柏書房によって一九六七年覆刻)
前島密市島謙吉編『鴻爪痕』(前島会、一九二〇年)
『観樹将軍回顧録』(政教社、一九二五年)
鳥尾小彌太「述懐論」(『明治文化全集』第二巻正史篇、日本評論社、一九二八年)
「春嶽私記」(太政官編『復古記』第一冊、一九三〇年。のち東京大学出版会によって二〇〇七年覆刻)
樺山資紀日記(「台湾記事」)』(西郷都督樺山総督記念事業出版委員会『西郷都督と槹山総督』 一九三六年)
佐々克堂先生遺稿刊行会編『克堂佐々先生遺稿』(改造社、一九三六年)
『橋本景岳全集』上巻(岩波書店、一九三九年)
春畝公追頌会編『伊藤博文伝』上巻(統正社、一九四〇年)
小笠原壹岐守長行編纂会榻『小笠原壹岐守長行』(一九四三年)
『日本外交文書』第六巻(一九五五年)
アーネスト・サトウ(坂田精一訳)『一外交官の見た明治維新』上巻(岩波書店〔文庫〕、一九六〇年)
立教大学日本史研究会編纂『大久保利通関係文書』第一~五巻(吉川弘文館、一九六五~七一年)
小寺鉄之助編『西南の役薩軍口供書』(吉川弘文館、一九六七年)
公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』中巻(原書房、一九六八年)
勝海舟『亡友帖・清譚と逸話』(原書房、一九六八年)
「氷川清話」(『幕末維新史料叢書』2、人物往来社、一九六八年)
松平慶永『逸事史補』(『幕末維新史料叢書』4、人物往来社、一九六八年)
宮内庁編『明治天皇紀』第一・三巻(吉川弘文館、一九六八・一九六九年)
小河一敏「王政復古 義挙録」(『幕末維新史料叢書』5、新人物往来社、一九六九年)
孝明天皇紀』第五巻(平安神宮、一九六九年)
財団法人日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料』第一巻(東洋経済新報社、一九七一年)
『保古飛呂比――佐佐木高行日記』第五巻(東京大学出版会、一九七四年)
本田修理『越前藩幕末維新公用日記』(福井県郷土誌懇談会、一九七四年)
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料』第一~七巻(鹿児島県、一九七四~八〇年)
 *長らく低迷していた幕末維新期の薩摩藩研究を大きく進展させることになった史料集である。
勝海舟全集刊行会編『幕末日記』(『勝海舟全集1』講談社、一九七六年)
中根雪江先生』(中根雪江先生百年祭事業会、一九七七年)
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 西南戦争』第一~三巻(鹿児島県、一九七八~八〇年)
横田達雄編『寺村左膳道成日記』(一)~(三)(県立青山文庫後援会、一九七八~八〇年)
市来四郎「丁丑擾乱記」(『鹿児島県史料 西南戦争』第一巻、一九七八年)
マウンジー(安岡昭男補註)『薩摩反乱記』(平凡社、一九七九年)
「鹿児島県庁日誌」「鹿児島一件書類」「磯島津家日記」「戦塵録」「丁丑野乗」「典獄日記」
「土佐挙兵計画ノ真相」(『鹿児島県史料 西南戦争』第三巻、一九八〇年)
鹿児島県史料刊行委員会榻『鹿児島県史料集 小松帯刀伝』(鹿児島県立図書館、一九八〇年)
『山内家史料 幕末維新』第六編(山内神社宝物資料館、一九八四年)
桂久武日記』(鹿児島県立図書館『鹿児島県史料集』第一一六集、一九八六年)
大久保利通日記」他(鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 大久保利通史料一』一九八七年)
「登京日記」(『福井市史』資料編5・近世三、一九九〇年)
宮地佐一郎榻『中岡慎太郎全集』(勁草書房、一九九一年)
伴五十嗣郎編『松平春嶽未公刊書簡集』(思文閣出版、一九九一年)
鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 玉里島津家史料』第一~十巻、一九九二~二〇〇一年)
 *幕末維新期の島津久光の動向を分析するうえで不可欠の史料集である。
『中村平左衛門日記』第十巻(北九州市立歴史博物館編集発行、一九九三年)
田村貞雄校注『初代山口県令 中野梧一日記』(マツノ書店、一九九五年)
社団法人尚友倶楽部・山崎有恆編『伊集院兼寛関係文書』(芙蓉書房出版、一九九六年)
『小森承之助日記』第四・五巻(北九州市立歴史博物館編集発行、一九九八~九九年)
並河徳子遺稿『父をかたる』(田中正弘「朝彦親王家臣並河靖之の生涯」『栃木史学』第一五号、二〇〇一年)
喜多平四郎『征西従軍日誌』(講談社〔学術文庫〕、二〇〇一年)
鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書』第二巻(鹿児島県、二〇〇三年)
東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編『勝海舟関係資料 海舟日記(三)』(二〇〇五年)
木戸孝允関係文書』第一~四巻(東京大学出版会、二〇〇五~○九年)
甲斐利雄編『一神官の西南戦争従軍記――熊本隊士安藤經俊「戦争概畧晴雨日誌」』(熊本出版文化会館、二〇〇七年)
家近良樹・飯塚一幸編『杉田定一関係文書史料集』第一巻(大阪経済大学日本経済史研究所、二〇一〇年)
福井県文書館編集・発行『越前松平家家譜 慶永4』(二〇一〇年)
史料叢書『幕末風聞集』(東海大学附属図書館所蔵史料翻刻、二〇一〇年)
伊藤隆他『こんな教科書で学びたい 新しい日本の歴史』(扶桑社・育鵬社、二〇一一年)
佐々木克・藤井譲治・三洋純・谷川穣編『岩倉具視関係史料』上・下巻(思文閣出版、二〇一二年)
朝彦親王日記』第一巻(日本史籍協会叢書、東京大学出版会
岩倉具視関係文書』第五~七巻(同右)
大久保利通文書』第一・二・三・四・七・八巻(同右)
吉川経幹周旋記』第三~五巻(同右)
木戸孝允文書』第三~八巻(同右)
木戸孝允日記』第二・三巻(同右)
『熊本鎮台戦闘日記』第一・二巻(同右)
『再夢紀事・丁卯日記』(同右)
島津久光公実紀』第一上二巻(同右)
『続再夢紀事』第二~六巻(同右)
伊達宗城在京日記』(圜右)
徳川慶喜公伝』史料篇第二巻(同右)
中山忠能日記』第四巻(同右)
「維新前後経歴談」(『維新史料編纂会講演速記録』第一巻、同右)
薩長同盟実歴談」(『坂本龍馬関係文書』第二巻、同右)
「品川彌二郎日記」(『維新日乗算輯』第二巻、同右)
「寺村左膳手記」(『維新日乗算輯』第三巻、同右)

   研究書・一般書(著者名順)
青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、二〇〇〇年)
青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、二〇〇六年)
青山忠正『日本近世の歴史6 明治維新』(吉川弘文館、二〇一二年)
家近良樹『幕末の朝廷――若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社〔叢書〕、二〇〇七年)
家近良樹『江戸幕府崩壊――孝明天皇と「一会桑七(講談社〔学術文庫〕、二〇一四年)
家近良樹『徳川慶喜人物叢書)』(吉川弘文館、二〇一四年)
家近良樹『ある豪農一家の近代』(講談社(選書メチ已、二〇一五年)
猪飼隆明『西南戦争――戦争の大義と動員される民衆』(吉川弘文館、二〇〇八年)
伊藤之雄明治天皇』(ミネルヴア書房、二〇〇六年)
犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』(吉川弘文館、一九八七年)
珪h勲『王政復古』(中央公論社〔新書〕、一九九一年)
鵜飼政志明治維新の国際舞台』(有志舎、二〇一四年)
人久保利謙編『岩倉使節の研究』(宗高査房、一九七六年)
小川原正道『西南戦争――西郷隆盛と日本最後の内戦』(中央公論新社〔新書〕、二〇〇七年)
萩原延寿『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄一三-西南戦争』(朝日新聞社、二〇〇一年)
奥谷松治「品川弥二郎伝」(高陽書院、一九四〇年。のちマツノ書店によって二〇一四年覆刻)
刑部芳則「明治国家の服制と華族」(吉川弘文館、二〇一二年)
落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、二〇〇一年)
笠原英彦『明治留守政府』(慶應義塾大学出版会、二〇一〇年)
加治木常樹『薩南血涙史』(一九一二年。のち青潮社から一九八八年に覆刻)
勝田政治『内務省と明治国家形成』(吉川弘文館、二〇〇二年)
勝田政治『〈政事家〉大久保利通――近代日本の設計者』(講談社〔選書メチエ〕、二〇〇三年)
紙屋敦之『東アジアのなかの琉球薩摩藩』(校倉書房、二〇一三年)
芳即正『島津斉彬人物叢書)』(吉川弘文館、一九九三年)
芳即正『坂本龍馬薩長同盟』(高城書房、一九九八年)
芳即正『島津久光明治維新――久光はなぜ討幕を決意したのか』(新人物往来社、二〇〇二年)
 *島津久光を本格的に取り上げた最初の著作である。以後、本書に刺激され、久光に関する著作や論文が相次いで発表されることになった。
姜範錫『征韓論政変(明治六年の権力闘争)』(サイマル出版会、一九九〇年)
京都市編『京都の歴史』第七巻(京都市史編纂所、一九七九年)
久住真也『長州戦争と徳川将軍』(岩田書院、二〇〇五年)
後藤正義『西南戦争警視隊戦記』(サンケイ新聞データシステム編集制作、一九八七年。のちマツノ書店によって二〇一六年覆刻)
雑賀博愛『杉田鶉山翁』(鶉山会、一九二八年)
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、二〇〇四年)
佐々木寛司『明治維新史論へのアプローチ――史学史・歴史理論の視点から』(有志舎、二〇一五年)
佐藤誡郎『幕末維新の民衆世界』(岩波書店〔新書〕、一九九四年)
佐藤隆一『幕末期の老中と情報――水野忠精による風聞探索活動を中心に』(思文閣出版、二〇一四年)
篠田達明『偉人たちのカルテ――病気が変えた日本の歴史』(朝日新聞出版〔文庫〕、二〇一三年)
菅良樹『近世京都・大坂の幕府支配機構――所司代・城代・定番・町奉行』(清文堂出版、二〇一四年)
鈴木暎一『藤田東湖人物叢書)』(吉川弘文館、二〇〇五年)
関口すみ子『御一新とジェンダーーー荻生徂徠から教育勅語まで』(東京大学出版会、二〇〇五年)
高木不二『日本近世社会と明治維新』(有志舎、二〇〇九年)
高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、二〇〇七年)
高村直助『小松帯刀人物叢書)』(吉川弘文館、二〇一二年)
高村直助『永井尚志』(ミネルヴア書房、二〇一五年)
田中彰明治維新観の研究』(北海道大学図書刊行会、一九八七年)
知野文哉『『坂本龍馬』の誕生――船中八策と坂崎紫瀾』(人文書院、二〇一三年)
辻ミチ子『和宮』(ミネルヴア書房、二〇〇八年)
津田茂麿『明治聖上と臣高行』(原書房、一九七〇年)
堤啓次郎『地方統治体制の形成と士族反乱』(九州大学出版会、二〇一〇年)
友田昌宏『戊辰雪冤――米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」』(講談社〔現代新書〕、二〇〇九年)
友田昌宏『未完の国家機構――宮島誠一郎と近代日本』(岩田書院、二〇一一年)
中村武生『池田屋事件の研究』(講談社〔現代新書〕、二〇一一年)
奈良勝司『明治維新と世界認識体系――幕末の徳川政権 信義と征夷のあいだ』(有志舎、二〇一〇年)
布引敏雄長州藩部落解放史研究』(三一書房、一九八〇年)
畑尚子『幕末の大奥――天璋院薩摩藩』(岩波書店〔新書〕、二〇〇七年)
林吉彦『薩摩の教育と財政並軍備』(鹿児島市役所、一九三九年。のち第一書房によって一九八二年覆刻)
原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店、一九六八年)
原口虎雄『幕末の薩摩』(中央公論社〔新書〕、一九六六年)
坂野潤治宮地正人編『日本近代史における転換期の研究』(山川出版社、一九八五年)
藤野保『近世国家解体過程の研究――幕藩制と明治維新』後編(吉川弘文館、二〇〇六年)
保谷徹『戊辰戦争』(吉川弘文館、二〇〇七年)
牧原憲夫『明治七年の大論争――建白書から見た近代国家と民衆』(日本経済評論社、一九九〇年)
升昧準之輔『日本政党史論』第一巻(東京大学出版会、一九六五年)
升昧準之輔『日本政治史――幕末維新、明治国家の成立』(東京大学出版会、一九八八年)
町田明弘『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社〔選書メチエ〕、二〇〇九年)
町田明弘『幕末文久期の国家政略と薩摩藩――島津久光と皇政回復』(岩田書院、二〇一〇年)
町田明弘『グローバル幕末史――幕末日本人は世界をどう見ていたか』(草思社、二〇一五年)
松浦玲『明治の海舟とアジア』(岩波書店、一九八七年)
松尾正人『木戸孝允』(吉川弘文館、二〇〇七年)
丸山幹治『副島種臣伯』(大日社、一九三六年。のち、みすず書房によって一九八七年覆刻)
三谷博『愛国・革命・民主――日本史から世界を考える』(筑摩書房〔選書〕、二〇一三年)
三宅紹宣『幕長戦争』(吉川弘文館、二〇一三年)
宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』(岩波書店、一九九九年)
毛利敏彦『明治六年政変の研究』(有斐閣、一九七八年)
毛利敏彦『明治六年政変』(中央公論社〔新書〕、一九七九年)
 *両書の刊行をきっかけに明治六年政変の研究が格段に深められたという点で、画期的な位置を占める。
山内昌之『歴史の作法――人間・社会・国家』(文藝春秋〔新書〕、二〇〇三年)

   論文他
青山忠正「薩長盟約の成立とその背景」(『歴史学研究』第五五七号、一九八六年)
青山忠正「龍馬と薩長盟約」(佛教大学歴史学部編『歴史学への招待』世界思想社、二〇一六年所収)
飛鳥井雅道「皇族の政治的登場――青蓮院宮活躍の背景」(佐々木克編『それぞれの明治維新吉川弘文館、二〇〇〇年所収)
家近良樹「島津久光の政治構想について――武力倒幕を決断したか否か」(明治維新史学会編『幕末維新の政治と人物』有志舎、二〇一六年所収)
市村哲二「企画展『玉里島津家資料から見る島津久光と幕末維新』展示資料に関する調査報告」(『黎明館調査研究報告』第二九集、二〇一七年)
伊牟田比呂多「西郷下野に伴い辞職した警察官、明治中・後期に警察トップへ復活の背景」(『敬天愛人』第三十一号、二〇一三年)
刑部芳則廃藩置県後の島津久光と麝香間祗侯」(『日本歴史』第七一八号、二〇〇八年)
刑部芳則「宮中勤番制度と華族――近習・小番の再編」(『大倉山論集』第五七輯、財団法人大倉精神文化研究所、二〇一一年)
柏原宏紀「内治派政権考」(『日本歴史』第七八五号、二〇一三年)
芳即正「薩摩藩薩長盟約の実行」(明治維新史学会編『明治維新の新視角――薩摩からの発信』高城書房、二〇〇一年所収)
芳即正「篤姫とその時代」(芳即正編『天璋院篤姫のすべて』新人物往来社、二〇〇七年)
久保正明「明治六年政変後の島津久光派」(『日本史研究』第六一一号、二〇一三年)
栗原伸一郎「米沢藩士宮島誠一郎『戊辰日記』に関する一考察――広沢兵助(真臣)との密談をめぐる諸史料」(『歴史』第九十八輯、二〇〇二年)
栗原伸一郎「米沢藩の諸藩連携構想と[奥羽越]列藩同盟」(『歴史』第一〇七輯、二〇〇六年)
古賀勝次郎「伊地知正治と立憲構想――安井息軒との関連で」(早稲田大学日本地域文化研究所編『薩摩の歴史と文化』行人社、二〇一三年所収)  佐々木克大久保利通囲碁の逸話」(前掲『明治維新の新視角』所収)
笹部昌利「薩摩藩島津家と近衛家の相互的『私』の関わり――文久二年島津久光『上京』を素材に」(『日本歴史』第六五七号、二〇〇三年)
鮫島吉廣「薩摩の焼酎と食文化」(前掲『薩摩の歴史と文化』所収)
清水善仁「文久二年閏八月の島津久光帰国と朝廷」(『明治維新史研究』第五号、二〇〇九年)
仙波ひとみ「幕末における議奏の政治的浮上について――所司代酒井と議奏『三卿』」(『文化史学』第五十七号、二〇〇一年)
仙波ひとみ「幕末における関白―『両役』と天皇――安政五年『外夷一件』をめぐる『朝議』を中心に」(『日本史研究』第四七三号、二〇〇二年)
平良聡弘「旧紀州藩明治維新観――『南紀徳川史』を中心に」(『和歌山県立文書館 紀要』第一七号、二〇一五年)
高木不二「慶応期薩摩藩における経済・外交路線と国家構想」(前掲『明治維新の新視角』所収)
高久嶺之介「書評『西郷隆盛と幕末維新の政局』」(『経済史研究』第こ(号、二〇一二年)
高橋秀直廃藩置県における権力と社会――開化への競合』(山本四郎編『近代日本の政党と官僚』東京創元社、一九九一年)
高橋秀直征韓論政変と朝鮮政策」(『史林』第七五巻第二号、一九九二年)
高橋秀直「廃藩政府論――クーデターから使節団へ」(『日本史研究』第三五六号、一九九二年)
高橋秀直征韓論政変の政治過程」(『史林』第七六巻第五号、一九九三年)
高橋秀直二都物語――首都大坂と離宮都市京都」(『京都市政史編さん通信』第一九号、二〇〇四年)
高橋裕文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」(家近良樹編『もうひとつの明治維新――幕末史の再検討』有志舎、二〇〇六年)
田村貞雄「『征韓論』政変の史料批判――毛利敏彦説批判」(『歴史学研究』第六一号、一九九一年)
田村貞雄「棡野利秋談話〔一名『桐陰仙譚』について〕」(日本大学国際関係学部国際関係研究所『国際関係研究』第二六巻一号、二〇〇五年)
田村省三「島津斉彬の集成館事業――薩摩藩の近代化とその背景」(前掲『薩摩の歴史と文化』所収)
辻ミチ子「近衛家老女・村岡-女の幕末社会史」(前掲『それぞれの明治維新』所収)
寺尾美保「晩年の篤姫」(前掲『天球院篤姫のすべて』所収)
遠山茂樹「有司専制の成立」(遠山茂樹・堀江栄一編『自由民権期の研究』第一巻、有斐閣、一九五九年)
徳永和喜「将軍家と島津家との婚姻」(前掲『天埠院篤姫のすべて』所収)
中元崇智「『土佐派』の『明治維新観』形成と『自由党史』――西郷隆盛江藤新平像の形成過程を中心に」(『明治維新史研究』第六号、二〇〇九年)
原口清「参預考」(『原口清著作集1 幕末中央政局の動向』岩田書院、二〇〇七年所収)
原口清「孝明天皇の死因について」(『原口清著作集2 王政復古への道』(同右)
原口清「廃藩置県政治過程の一考察」(『原口清著作集4 日本近代国家の成立』(同右、一一〇〇八年)
原田良子・新出高久「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」(『敬天愛人』第三四号、二〇一六年)
坂野潤治「明治政権の確立」(大久保利謙他編『日本歴史大系』4、山川出版社、一九八七年)
広瀬靖子「西南戦争雑抄」上・下(『日本歴史』第二六一・二六三号、一九七〇年)
福田賢治「薩摩と明治維新」(前掲『薩摩の歴史と文化』所収)
藤井貞文「解題」(『維新史料編纂会講演速記録』二、東京大学出版会、一九七七年)
真栄平房昭「異国船の琉球来航と薩摩藩―一九世紀の東アジア国際関係と地域」(明治維新史学会編『講座 明治維新1』有志舎、二〇一〇年所収)
町田明弘「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』第八号。二〇一六年)
真辺将之「青年期の板垣退助大隈重信――政治姿勢の変化と持続」(『日本歴史』第七七六号、二〇一三年)
三谷博「維新における『変化』をどう『鳥瞰』するか―『複雑系』研究をヒントとして」(前掲『明治維新の新視角』所収)
宮地正人「中津川国学者薩長同盟――薩長盟約新史料の紹介を糸口として」(中山道歴史資料保存会『街道の歴史と文化』第五号、二〇〇三年)

「西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手とせよ」(2018年、家近良樹、ミネルヴァ書房)

目次

はしがき
序章 西郷とはいかなる人物か(001)
 1 日本史上でも有数の人気者(001)
     圧倒的な人気  敬天愛人
 2 西郷隆盛という個性(002)
     落差の大きい人生  立派な風貌  謹言・実直・生真面目  激しい好悪の情  西郷固有の特性  死の壁を乗り越える
 3 本書の執筆で留意すること(007)

第一章 誕生から青年時に至るまで(011)
 1 誕生(011)
     下加治屋町に誕生  貧窮を極めた生活
 2 鹿児島(薩摩藩)の置かれた特殊性(013)
     英雄誕生の三条件  琉球を通じて海外と繋がる
 3 少年時(015)
     傷害事件とその影響  郷中教育
 4 青年時(017)
     農村の実情を知る  陽明学  佐藤一斎  禅との関わり  お由羅騒動  赤山靭負の死

第二章 将軍継嗣運動に関わる(027)
 1 肉親の相次ぐ死と島津斉彬との出会い(027)
     肉親の相次ぐ死  隆盛最初の妻  庭方役を拝命  初めての江戸行  藤田東湖に心酔  東湖と西郷の共通点
 2 斉彬の信頼獲得(032)
     暗殺計画を立案  斬奸の対象  西郷の涙  斉彬との濃厚な面談  ネットワークの形成  斉彬の教え
 3 将軍継嗣問題(037)
     ペリー来航後の政治状況  斉彬の立場  内訌の調停  西郷本来の業務  ミイラ取りがミイラになる  篤姫が将軍の正室となった背景  嫁入り道具の選定にあたる
 4 橋本左内との運命的な出会い(043)
     再度江戸へ  敵と味方を峻別  燕趙悲歌の士  西郷の美質  大奥工作  中川宮の村岡矩子評  孝明天皇の不承諾  朝幕関係の悪化  帰国の途へ

第三章 二度の流島生活(053)
 1 大獄発生直前の政治状況(053)
     形勢一変  斉彬の急死  斉彬と久光の関係  斉彬の「御遺志」
 2 殉死の決意と挙兵計画(056)
     一橋派諸侯の蟄居・謹慎  戊午の密勅  密勅の返納  殉死を決意  西郷のプラン  荒唐包稽な挙兵計画  斉彬の継嗣問題  かなりの有名人となっていた西郷
 3 錦江湾での投身と第一次流島時代(062)
     月照  西郷の月照への思い  慈愛と知恵  藩論の転換  入水と蘇生  後悔の念に苛まれる  脱藩突出策の中止を求める  上から目線  大島での生活が始まる  苛政への怒り  孤独と体調不良  弱音と愚痴  相撲と狩猟  愛加那との結婚  生活臭  強い復権願望  脱藩突出策の中止と「諭告書」  ストレス太りと自暴自棄気味な精神  井伊暗殺を喜ぶ  西郷の見通した今後の日本  菊次郎の誕生
 4 一時的帰藩(077)
   帰藩を許された理由  久光の率兵上洛問題  延期を提言  西郷の問責  久光を痛烈に批判  地ゴロ発言  下関ついで大坂へ  大久保利通の直話
 5 再度の流島へ(087)
     尋常ではなかった久光の怒り  徳之島へ  沖永良部への再度の流島  生への執着  心境の変化をきたした背景  座敷牢への生活  人材から人物レベルへ  西郷の反省の弁  川口雪篷との出会い  「西郷先生」の感化力  人生哲学の確立  西郷の農民観  西郷崇拝熱  子供への想い  生麦事件  薩英戦争と西郷  文久政変と薩摩藩

第四章 流島生活の終焉と中央政局への再登場(103)
 1 再度の召還(103)
     西郷の赦免を求める動き  妻子との対面
 2 京都へ(105)
     軍賦役に就任  スピード出世  久光に対する慎重な姿勢  「演技派」として再登場  参預会議の成立  参預会議の解体  西郷の暗い見通し  長崎丸事件  西郷の奇策  久光の帰国  薩摩藩に対する嫌疑  朝廷上層部への接近  対長州問題  池田屋事件  長州藩会津藩孤立策  西郷らの対応  方針転換  負傷・落馬  初めての戦闘体験
 3 第一次長州戦争と西郷隆盛(121)
     長州藩が「朝敵」となる  大久保に対し再度先行することになった西郷  側役に昇進  開国へのチャンス到来  将軍の進発を強く求める  なぜ家茂の進発を求めたか  対長州強硬論  勝海舟と会う  褒賞問題の発生  越権問題  帰国が先送りされる  自らの判断を優先  長州藩処分問題  征長総督が徳川慶勝に決定  西郷が征長を急いだ理由  征長軍の事実上の参謀に就任  西郷が起用された理由  岩国行と特有の対応  三家老の首実検  素早い対応  独特の問題解決法  下関行  高杉晋忤らの挙兵  第一次長州戦争終結  感(謝)状の授与  一会桑三者と幕府首脳の不同意  不同意の理由  深刻な対立状況の発生
 4 再度の上洛と薩摩藩の出兵拒否(141)
     帰郷  再度京都へ  再婚  幕命停止工作  幕命拒絶  大番頭に昇進  将軍上洛問題  上洛から進発へ  一会桑三者の斡旋  西郷の猛反発  諸藩が長州再征に反対した理由
 5 藩政改革と西郷(150)
     留学生のイギリスへの派遣  藩際交易  兵制改革
 6 西郷の再上洛と長州再征をめぐる動き(152)
     再上洛とすっぽかし事件  西郷の言い分  西郷がすっぽかした理由  西郷不在中の京坂地域の政治状況  天皇・朝廷上層部の一会桑への依存  江戸幕閣と会津藩との関係修復  長州再征を阻止する活動に取り組む  処分に至る手順が決定  長州側の拒絶  再征への流れが固まる  江戸藩邸の減員問題
 7 条約勅許(162)
     四力国艦隊の兵庫渡来  二老中の官位剥奪  将軍の辞表提出  辞表撤回と勅許奏請  条約勅許  勅許の歴史的意義  大久保の勇猛な阻止活動  正論  叡断で長州再征が決定  西郷の伝言  慶喜に対する底知れぬ恐れの念

第五章 新たな段階へ――打倒一会桑をめざす(171)
 1 状況打開策を模索(171)
     新方針  妥協に終始した訊問  冷静な現状分析  西郷の計算  討幕(一会桑)願望  挙兵論と距離を置く形勢観望論  久光と西郷の将来構想が同じか否か  福井藩士の久光擁護  挙兵論に不同意だった久光
 2 薩長盟約と西郷(180)
     特別視される盟約  木戸上洛に至る経緯  木戸の後年の回想  有名なエピソード  在京薩藩指導部の考え  長州処分令の内容  なぜ木戸に処分令の受け入れを勧めたのか  深い絶望  不可思議な点  異様さに満ちた書簡  手柄を必要とした木戸  言質をとる必要があった  木戸書簡の巨大な影響  六ヵ条の内容  一会桑三者との戦い  長州再征の可能性は低いと判断  久光の指令とそれへの服従  リップサービス
 3 離京(鹿児島への帰国)(197)
     長州藩士を手厚く処遇  長州への出兵を拒否  西郷が呼び戻された理由  パークス一行の鹿児島訪問  「英国策論」  西郷とパークスの応答  大目付役を辞退  深刻となった体調不良  西郷不在中の中央政局  想定外の政治状況が突如出現  久光らへの上洛要請
 4 再び京都へ(209)
     小松・西郷・大久保三者の京都集合  形勢を観望  原市之進と小松帯刀  三条実美らの帰洛問題  幽閉公卿の赦免と解兵令  小松尽力の成果  新たな方策を採用  西郷の印象が薄い理由  慶喜への将軍宣下と天皇の急死
 5 国元に帰る(218
     在京薩藩指導部の新たな選択  西郷が帰国するに至った背景  帰鹿後の西郷の動向  久光の上洛が決定

第六章 旧体制の打倒を実現(223)
 1 島津久光の再上洛(223)
     久光上洛  「薩の奸計」  幕府単独での兵庫開港勅許要請  薩摩サイドの猛反発
 2 徳川慶喜島津久光(薩摩側)の対立(226
     小松発言と原の「当惑」  四侯の京都集合  パークスの敦賀行問題  議奏武家伝奏の解職  徳川慶喜の激怒  大久保への批判  西郷と小松・大久保との違い  大久保の強引な手法  対立点  慶喜の内幕話  堂上への「説得」要請  四侯問の意見の相違    同時奏聞案
 3 兵庫開港勅許と在京薩摩藩邸内での決議(237)
     二件同時勅許  慶喜との関係の極度の悪化  長州藩とともに「挙事」  久光と長州藩士との会見  疑問点  「三都一時(に)事を挙げ候策略」  策略の内実と注目点  薩土盟約の締結  「渡りに船」と飛びつく  久光は承認したのか否か  薩土盟約の破棄  虚偽発言の可能性  久光の深刻な体調不良  計画を告げた相手  近藤勇の発言
 4 薩摩藩内における挙兵反対論の高まり(253)
     西郷を弾劾  道島某の得た情報  奈良原の西郷刺殺発言  挙兵反対論が高まった背景
 5 島津久光の帰国とその後の政治状況(256)
     土佐藩兵の上洛を待ち望む  久光に帰国を勧める    挙兵を考えていなかった久光  挙兵に向けての動き  挙兵を急いだ理由  久光の帰国  薩長芸三藩の出兵協定  出兵反対論が渦巻く  武力倒幕を明確に否定した久光  京都藩邸内での深刻な対立  建白書提出に同意  八方塞がりの状況  討幕の密勅  密勅を携えて帰国
 6 政権返上(大政奉還)とその影響(272)
     政権返上  先見性に富む決断  常識人と無常識人   慶喜に対する極度の恐怖心  小松との関係に変化が生じる  小松の興味深い発言  三人揃えて帰国  政権返上を歓迎した久光  忠義の上洛が決定をみた諸々の理由  西郷の従軍を拒んだ久光  小松の上洛断念
 7 王政復古クーデター(282)
     藩主一行の鹿児島出発  予期しえぬ事態  クーデター計画の作成  慶喜への根深い不信感  新政権からの慶喜排除  摂関家の朝廷支配を否定  会・桑両藩の排除  対会桑戦を想定  戦闘を望んだか否か  武力発動に伴う効果を重視  西郷の計算  クーデター計画を事前に知らされた慶喜
 8 クーデター後の政治状況(294)
     クーデター決行  参与となる  予想が外れる  慶喜一行の下坂  慶喜に有利な状況の到来  新政府の財源問題  納地問題  王政復古政府内で孤立  西郷らの敗北  苛立つ  大久保・西郷への痛烈な批判  江戸薩摩藩邸焼き打ち事件  西郷にとって計算外の出来事
 9 鳥羽伏見戦争の勃発(304)
     討薩の動き  対徳川戦の決意が固まる  戦闘開始  西郷の大悦び  陣頭指揮をとる  歴史的大勝利  公議政体派の凋落  喜びの爆発

第七章 明治初年の西郷隆盛(311)
 1 戊辰戦争と西郷(311)
     西郷の存在と名前が一気に全国区に  東征大総督府参謀に就任  独特の死生観  慶喜の追討問題  厳酷な処分にこだわる  武人としての希望  薩摩藩に反発する声  反薩摩の動き  孤立を深めつつあった薩摩藩  対応に苦慮した西郷  脱走ついで江戸総攻撃へ  戦い(維新)の精神  江戸総攻撃の中止  勝海舟との面談  柔らかな対応  駿府、京都、駿府へ  江戸城に乗り込む  ある種の「いやらしさ」  有名なエピソード  再び京都へ  江戸へ戻る  上野戦争  勝利の立役者  詳細な指示  神経のこまやかさ  忠義の出征を止める  藩主に随行しての帰藩  鮮明となった体調不良  柏崎ついで新潟へ  米沢を経由して庄内へ  すこぶる寛大な措置  西郷に対する敬愛の念  美談の影響  次弟吉二郎の戦死
 2 帰郷(337)
     帰鹿と参政職への就任  凱旋兵士の改革要求  蝦夷(北海道)へ  中央政府入りしなかった理由  島津久光との関係  下級士族優遇策  西郷に対する猛反発  道の前には誰もが平等  体調のさらなる悪化  下血  強列なストレス源  加齢による免疫力の低下  菊次郎を引き取る  参政辞任  大久保の鹿児島への派遣  西郷の上京が求められた背景  山口に赴く  西郷の神経を傷つける  位階を辞退  大参事職に就任  苦衷を洩らす  西郷の緊張感
 3 中央政府入り(356)
     贋札問題  福岡に赴く  激列な政府批判  久光・西郷への強い期待  大久保の目論見  岩倉勅使の鹿児島派遣  西郷が要望した改革案の骨子  注目点  政府入りを承諾  急進的集権化を決定  木戸とともに参議に就任  断然廃藩に同意  なぜ同意したのか  廃藩の立役者  激しい憎悪を浴びる  久光の激怒  西郷に対する「詰問」状  天皇の臨幸を希望  西郷の苦しみと本音  西郷の憂慮  久光党の動向に神経を尖らせる  久光の県令志願と西郷の批判  ストレスに満ちた年末年始  怒りを鎮められなかった西郷
 4 留守政府時(376)
     岩倉使節団の派遣  不可解な点  割りを食った西郷  西郷が舵取り役を引き受けた理由  留守政府時の改革  リーダーシップが認められるか否か  福沢諭吉の高い評価  国会解説を支持  天皇教育と宮中改革  独自の人材活用論  当初は平穏であった政治状況  雲行きが怪しくなる  大蔵省問題  近衛兵をめぐるトラブル  悪夢の再現  弱音を吐く  反西郷グループ  鹿児島への気の重い帰国  相変わらず独立国  謝罪状の提出  鹿児島に長く留まった理由  激しい胸の痛み  ようやく帰京  深い絶望感  辞意を表明  陸軍大将兼参議

第八章 明治六年の政変(403)
 1 征韓論が登場するに至る背景(403)
     謎の最たるもの  明治五年段階説と新説  対馬藩士の征韓論  王政復古を通告  再度征韓論を提唱した木戸  樺太問題の浮上  朝鮮問題をめぐる政府内の動き  台湾問題の発生  いまだ征韓論とは縁遠かった西郷  副島外務喞の渡清  渡清中の副島外務喞の活動
 2 西郷の朝鮮使節志願(414)
     突然の朝鮮使節志願  使節を志願した動機  なぜ突然なされたか  主要な論点  ロシアの存在  大隈重信の証言  戦死願望
 3 朝鮮使節を志願した理由(背景)(421)
     板垣にまず協力を求めた理由  三条に使節就任の希望を伝える  閣議で初めて自分の考えを主張  切羽詰まった依頼  死に急ぐかのような姿  注目すべき点
 4 西郷の派遣を「内決」(429)
     早急な決定  異常なほどのはしゃぎぶり  数十度の下痢  木戸孝允の異論  準備を全くしなかった西郷
 5 事態の停滞と西郷の異常な精神状態(434)
     黒田清隆の建議  建議に賛同  進展しなくなった事態  尋常ではない精神状態  至急解決を要したのは樺太問題  内なる敵  「諸君」の正体  独走
 6 事態の急展開と政変の発生(441)
     急展開  大久保の参議就任  自殺をほのめかす  三条・西郷両者の認識の相違  三条の姑息な提案  十月十四日の閣議  大久保の反対意見  副島外務卿に対する批判  西郷本来の戦略論  十月十五日の閣議  西郷の即時派遣を決定  大久保の辞意表明  三条実美の錯乱  「一の秘策」  勝敗が決す  西郷らの辞表提出と受理  西郷の不可思議な対応
 7 政変の影響(456)
     新しい政治状況の到来  より独立国の様相を呈するようになった鹿児島

第九章 西南戦争(459)
 1 帰郷と鹿児島での平穏な日々(459)
     大久保との別れの言葉  湯治と狩猟  私学校等の設置  私学校の教育方針  吉野開墾社  体調の回復  農業に全力で取り組む
 2 西郷の動静への注目(467)
     探索書  面会希望者の鹿児島入り
 3 西郷の再出仕を求める動き(470)
     各方面からの復職の要望  木戸・板垣両人の政界復帰  大山県令からの協力要請
 4 西郷と中央政局の動向(474)
     佐賀の乱  台湾への問罪使派遣を決定  方針転換と長州派の猛反発  相矛盾する情報  出兵を強行した西郷従道の将来構想  大久保の渡清と西郷の予想  大久保に対して連敗  江華島事件を批判
 5 戦争前の西郷の動向(482)
     安逸でかつ幸せな気分  島津久光の東京での言動  久光サイドからの接近の動き  熊本神風連の乱秋月の乱萩の乱  士族反乱の発生を面白がる  「天下驚くべきの事」とは何か
 6 戦争の発生と自滅(490)
     西郷の暗殺計画  暗殺計画が実在したのか否か  弾薬庫襲撃事件  挙兵に決定  暗殺計画を事実だと受け止めたらしい西郷  西郷軍の鹿児島出発  甘かった見通し  大義名分を欠いた挙兵  戦略ミス  政府がとった対応策  大久保の非情なまでの冷徹さ  西郷の陸軍大将職と官位を剥奪  熊本城をめぐる攻防  田原坂での激闘  軍略家としての西郷の能力  西郷軍にとって不利となった戦局  西郷の処罰をめぐる噂話  脱出  西郷の微笑  鹿児島への帰還  死に急ぐ様子を見せなかった西郷  西郷の死  西郷軍が敗北した理由  戦争の及ぼした影響  西郷家の人々のその後

終章 死後の神格化、そして「西郷さん」誕生(523)
     死後も抜群の影響力を保持  復権  海舟談話の影響  『南洲翁遺訓』         西郷の神格化  愛され親しまれる西郷へ

主要参考文献(533)
あとがき(547)
西郷隆盛年譜(553)
事項索引
人名索引
        


図版写真一覧

肥後直熊筆「西郷隆盛像」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)………カバー写真
佐藤均筆「西郷隆盛像」(尚古集成館蔵)………口絵1頁
鳥羽伏見の戦い戦災図」(京都市歴史資料館蔵)………口絵2頁
結城素明筆「江戸開城談判」(明治神宮聖徳記念絵画館蔵)………口絵2頁
楊洲周延筆「鹿児島戦争記 熊本城攻城計画」(花岡山群議図)(鹿児島県立図書館蔵)………口絵3頁
西郷札」(鹿児島県歴史資料センター黎明館藏)………口絵3頁
西郷隆盛筆「敬天愛人」(西郷南洲顕彰館蔵)………口絵4頁
高村光雲作「西郷隆盛像」(東京都台東区上野公園)(時事通信フォト)………口絵4頁

関係略系図………xx
関係地図………xxi
勝海舟国立国会図書館蔵)………003
島津久光国立国会図書館蔵)………005
大久保利通国立国会図書館蔵)………009
西郷隆盛生家跡(鹿児島市加治屋町)(時事通信フォト提供)………012
鶴丸城(鹿児島城)跡(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………021
島津斉彬(尚古集成館蔵)………022
天埠院(篤姫)(尚古集成館蔵)………042
島津忠義(尚古集成館蔵)……061
大山綱良(『鹿児島県史 第三巻』より)……061
小松帯刀国立国会図書館蔵)……078
西郷隆盛謫居地(鹿児島県大島郡和泊町)(和泊町教育委員会提供)………091
一橋(徳川)慶喜茨城県立歴史館蔵)………109
松平容保国立国会図書館蔵)……117
蛤御門(京都市上京区烏丸通下長者町下ル)………120
坂本龍馬国立国会図書館蔵)………125
薩摩藩邸跡(京都市上京区烏丸通今出川上ル)………144
木戸孝允桂小五郎)(国立国会図書館蔵)………153
ハリー・パークス………199
伊地知正治国立国会図書館蔵)………283
岩倉具視国立国会図書館蔵)………286
西郷南洲勝海舟会見之地(東京都港区芝)………321
江戸城(東京都千代田区千代田)………323
大隈重信国立国会図書館蔵)………350
西郷従道国立国会図書館蔵)………359
三条実美国立国会図書館蔵)………375
福沢諭吉国立国会図書館蔵)………381
後藤象二郎国立国会図書館蔵)………398
江藤新平国立国会図書館蔵)………398
板垣退助(個人蔵、高知市立自由民権記念館提供)………398
副島種臣国立国会図書館蔵)………412
私学校跡(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………462
大山巌国立国会図書館蔵)………471
熊本城(能本市中央区本丸)(能本市提供)………503
田原坂(能本市北区植木町豊岡)(時事通信フォト提供)………504
西郷隆盛洞窟(鹿児島市城山町)(鹿児島市提供)………510
西郷隆盛終焉の地(鹿児島市城山町)(時事通信フォト提供)………513
南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)(鹿児島市提供)………530

   はしがき

 ここ十数年の間に、幕末維新史上にその名を大きく留めた二人の人物についての本を出した。徳川慶喜西郷隆盛である。しかも、一冊にとどまらず数冊におよんだ。自ら手を挙げて、どうしても書きたいと希望したわけでは必ずしもない。しかし、こういう結果となった。縁としか言い様がない。 両人を図らずも取り上げて分かったことがある。国民の間での人気度の激しい差である。断然人気があるのは西郷の方だ。というか、有り体に書けば、日本史上、西郷ほど広範な層の日本人に深く愛された歴史上の人物はいないのではないかとすら思わされるレベルの人気である。
 「広範な層」と「深く」というのがキーワードとなる。ところが反面、これが西郷隆盛という人物を理解するうえで落とし穴となる。西郷には、一見しただけでは広範な層の人々、つまり誰にでも理解できるような気持ちにさせられるところがある。世間に浸透しているイメージでは、英雄でかつ親しまれるキャラクターの持ち主だろう。
 だが、これほど一定の枠組みを設け、その中に押し込めようとしても、収まりきらない人物もいない。必ず、どこかの部分かはみ出るようなところがある。それが西郷という人物の大きな特色である。もっとも、それだからこそ、西郷のことをより深く知りたいという気持ちにさせられるのかもしれない。
 また、西郷が残したとされる数々の言葉には、魅力が詰まっている。これは彼が繊細な感性の持ち主だったとともに、たくさんの苦難を経験し、それを乗り越えてきた人物だったからこそ発せられたものであった。そして、そこに多くの人々が西郷に心を奪われる最も大きな要因がある。
 さらに、いま一つあえて付け加えると、西郷ファンの特徴は大真面目だということである。およそ、西郷の信奉者ほど、この国の行く末や日本人の在り方について憂慮し、なんとかしなければと思っている人たちはいないのではなかろうか。そして、西郷独特の生き方や彼の発したとされる平易で味わい淺い言葉には、そうした生真面目な人たちを強く惹き付け、のめり込ませるものがある。
 ただし、それは変幻自在なものを多分に含んでおり、そのぶん謎が多いということになる。本書は、こうした実は容易に捉えがたい(理解しがたい)西郷の人物像とその行動の意図を、彼の全生涯を振り返ることで少しでも明らかにしようと試みるものである。

   あとがき

 西郷隆盛の評伝を書くようになるとは、ほんの十年余ほど前までは、まったく想像すらしなかった。それが思いもかけない切っ掛けで、六年前に西郷の動向を軸に幕末維新期の中央政局を俯瞰した専門書を出版することになった。そして、つづいて今回の評伝の刊行となった。そのため、この評伝は、前作の成果を大いに取り入れて、それをさらに発展させた内実のものとなった。ただ、今回、改めて、西郷の誕生から、その死に至るまでの間を記述して、前作での西郷に関する自分の理解が不十分であったと思わされるところが少なくなかった。やはり個人の歴史過程を検討する場合、たとえ一時期をのみ主たる対象とするにしても、全生涯を視野に入れてから分析する必要があるかと考える。
 さらに、今回初めて西郷の評伝に挑戦してみて、いつまでも完成しえないことに困惑させられた。反面、不思議なことに、今回の著作では、私のこれまでの著作に比べ、執筆期間もその分量も、ともに格段に増えたにもかかわらず、苛立ちを覚えることがまったく無かった。しかも、今回は、親族の介護に関わる時間等も含め、執筆をやむなく中断せざるをえないことが多かったにもかかわらず、である。
 これは、一つには、洒落でなく、西郷(サイゴー)の評伝をもって自分の執筆活動の最後(サイゴ)としてもよいかと率直に思えたことに因るのかもしれない。また西郷は、私にとっても、研究者生活の最終段階で対象として格闘するには、充分すぎる相手だと思えたことも、要因としては大きかったかもしれない。だが、あまりにも巨大な存在だったので、稿を終え校正作業に入った今でも、完成したという気持ちには到底なれないでいる。現に加筆したい箇所が何カ所もある。
 したがって、私にとっては、本書は未だ完成ならざる著作ということになる。正直に記せば、一生懸命に闘った(私のこれまでの勉学の成果と、情熱のすべてを注ぎ込んで取り組んだ)ものの、十二ラウンド、試合終了を告げるゴングが鳴り、やむなくリングを降りねばならなかったというのが実際のところである。
 さて、それはおき、いまの私にとって西郷はごく身近な存在となった。その理由の一つに、祖父の存在が挙げられる。私の祖父は、明治十年二月に豊後国(現・大分県)に生を享けた。ということは、西郷がこの年の九月に城山で亡くなっているので、七カ月間ほど同じ九州の地で、同じ空気を吸ったことになる。そして私は、この祖父の七十三歳時の孫で、祖父は私の十歳の時に他界したので、祖父の風貌は辛うじてわが記憶の中にある。
 今回の仕事を始めるにあたって、ふと気になって祖父の生誕日を確かめ、右の時日を知った。その時西郷の存在がひどく身近なものに思えた。祖父を介して、ほんのわずかだが西郷と繋がった気がしたからである。すなわち西郷は、私にとって遠い過去の人間ではなくなった。
 それといま一つ、西郷が身近な存在だと思えたのには、本書中でもしばしば取り上げたように、不器用で、そのぶん、失敗もけっして少なくはなかった人生を歩むなど、わが人生とも重なり合うものがあったからであろう。さらにそのうえ西郷には、どうにもこうにも、理解しがたい行動が随所に見られた本書中にも記したように、なかでも最たるものは、西南戦争勃発後、西郷(薩)軍の敗北が明らかになった時点で、なぜ彼が死ななかったのだろうという疑問である。西郷が早い段階で亡くなっていれば、犠牲者の数が大きく減ったことは間違いない。
 もっとも、長井付(現:宮呂崎県束臼杵郡北川町長坪)に籠居していた時点で一度は自分か死ぬことで爲兵の生命を助けようとしたとの記述も勝田孫弥『西郷隆盛伝』には見られる。しかし、これは城山での西郷の行動とはあい容れない。いずれにせよ、あれほど死に対して恬淡《てんたん》としていた(はずの)西郷が、城山まで部下を引きずり込み、結果として西郷軍兵士のみならず、政府軍兵士をも含め、多数の死傷者を出すことになった。その意図(気持ち)が、私にはよくわからなかった。しかし、それはそれとして、西郷の魅力は、案外こうした不可解さに因るのかもしれない。
 なお、いささかしつこくなるが、本書の執筆中、私の心中で折に触れ、自問自答を繰り返した問題があった。それは、「人が生きるとか、死ぬるとかというのは、どういうことなのだろう」との問答であった。ここ十年ほどの間に、入院や手術を経験した私にとって、老・病・死の問題が、避けて通れない緊急に回答を求められる課題となっていたからである。
 そして、この点に関しては、西郷が歩んだ人生を後追いする中で、ごく自然と納得できるものが見つかった。それは、西郷が、死後、ずっと多くの日本人の心の中で生き続けてきたという事実に、改めて気付かされた結果でもあった。もちろん、西郷の肉体的な死は城山で訪れたが、これほど死後も多くの日本人の胸奥に、しかも活き活きと生き続けた歴史上の人物は他にはいないであろう。人物評価に関しては、なかなか断言しえない私でも、この点は断言できる。
 西郷ほど、生前はおろか、死後も、その独特の人間ぶりに魅せられ、ずっと深く彼のことを愛し、思い続ける多くの日本人を生み出した例は他にはない。つまり彼は、近年ぐっと減ったとはいえ、いまでも多くの日本人の心の中で生き続け、死んではいない。
 そして、人が生きるとか死ぬるとかというのは、究極のところ、これに尽きるのではないかと考えさせられた。反対に、他人の心になんら愛を届けることもなく、ただ自分の利益(エゴ)のためだけに生きた人間は、生前からもはや死んでいると評してもよいのではなかろうか。それに比し、西郷はいまでも生きている。私は、こうした結論に最終的に辿り着いた。
 最後に、少々釈明をしておきたいことがある。本書は、一目見てわかるように、すこぶる分量の多い著作となった。これにはいくつか理由がある。まずその第一に挙げねばならないのは、西郷の生涯をできうる限り正確に描くには、それなりの紙幅(枚数)が必要だったことである。本書を精読していただければわかるように、私は、極力、自分なりには、分量を少なくしようと努めたつもりである。だが、西郷の生涯の密度があまりにも濃く、それが不可能だということを執筆の途中で悟った。そこで脇道にそれず、本道をひたすら歩むように心掛けた。そのため、まったく取り上げることができなくなった問題や、もっと深めたいテーマも若干だが残った。しかし、そうした心積りにもかかわらず、その結果がこの分量となった。
 ついで、その第二は、西郷を立ち上がらせ、躍動感を伴う形で彼の生涯を描くには、西郷の個性・持ち味が凝縮して反映されている彼の書簡をできるだけ活用したいと考えたことによる(ちなみに、西郷の同志でもあり、ライバルともなった大久保利通のことをよく理解するためには、その日記を見なければならないとされている)。そのため、殊の外、行数をとられることになった。
 第三は、せっかくの機会を与えられたので、悔いのない西郷隆盛伝にしたいとの私の思いが強かったことによる・私は、出版にあたって、これまで我を張ったことはないが、今回だけは違った。変に短くして、西郷が持つ固有の人間的香りといったものが漂わない味気ない評伝となることは避けたいとの思いが日々強まった。その結果、編集を担当してもらった田引勝二さんには多大な迷惑をかけることになった・売れ行き(販売)を考えれば、もっと短縮しなければならないことは重々承知していたが、より良い評伝にしたいとの私の思いの方が勝ったため、このような分厚い評伝となったのである。それと田引さんには、とくに校正作業の段階で苦労をかけた。とにかく、自分でも想定外の分量となったので、校正に伴う疲れは生半可なものではなかったことは間違いない。このことは、私には実によくわかった。仕事といえばそれまでだが、つくづく有り難いことだと思う。
 以上、最後は真に取り留めのない釈明および感謝の辞となったが、本書が一人でも多くの歴史好きの方にとって、ほんの少しでも参考になりうるものを含む内容となっていれば、筆者としては、これ以上の悦びはない。このことを末尾に記しておきたい。
  二〇一七年五月吉日
  家近良樹

P073~074

   強い復権願望

(略)こうしたことを受けて西郷は、大久保の書簡中にもあったように、来たる新年の春までには帰藩が赦されるのではとの期待を抱いたようである。
 しかし、この後、これが糠喜びであったことを知ると、一転、きわめて暗い内容の書簡を同志に送りつけることになった。万延元年(一八六〇)二月二十八日付で大久保ら鹿児島の同志四名に宛てた書簡(同前)がそれである。以下、いささか長くなるが、いかにも西郷らしさが横溢している文面なので、左に主要な箇所を抜粋して掲げる。

隠然として此の御恥を義挙を以て、取り返され候御謀略願い奉り候。此の豚(=西郷が自分を卑称したもの)入らざる儀に御座候得共、考えの儘《まま》申し上げ候。…陳《のぶ》れば天下の形勢漸々衰弱の体、実に慨歎《がいかん》の至りに御座候。橋本(=橋本左内)迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候。…願わくは此の一ヶ年の間、豚同様にて罷り在り候故、何卒姿を替《か》え走り出でたく、一日三秋にて御呼び返しの期、相待ち居り候処、益《ますます》報い深く罷り成り、尚々|恨《うら》みを生じ候|時宜《じき》にて、野生罷り登り候で又々|何様《いかよう》の肝癪《かんしゃく》差し起こし候も計《はか》り難く、幸い孤島に流罪中の事故、黙止候様との猶予不断の蜚(=保守派)吟味相付け候わんかと、苦察いたし居り候儀に御座候。(略)。然る処、容易ならざる御直書(=藩主忠義直筆の誠忠組への諭告書)迄の一条、夢々斯《ゆめゆめかく》の如き時宜に及び申す間敷と考え居り候処、何とも有難き御事、只々此の死骨さえ落涙仕り候儀に御座候。畢竟《ひっきょう》、諸君の御精忠御感応と飛揚仕り候次第に御座候。御国家の柱石に相成れとの御文言恐れ入り奉り候御事に御座候。…一野生御呼び返しこれなき儀は何方に拒《こば》まれ候や、残情此の事に御座候。早《はや》捨て切り居り候|命《いのち》、何のため生きながれ(=生きながらえ)候や(下略)


P288~290

   対会桑戦を想定
 さらに、この点との関連で目を引くのは、西郷と大久保の両者が、クーデターを決行することで、会桑両藩(とくに会津藩)が軍事的行動に出る可能性を、かなりの確率で想定(予想)していたことである。(略)
 このことは、クーデター決行直前段階の西郷書簡によって窺われる。西郷は、十二月五日付で郷里の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(『全集』二)において、京都の昨今の情勢を伝えた。(略)
 西郷は、こう記したうえで、さらに「此の上は、十分王政復古の御基本は罷り立ち申すべき勢い」だと書き足した。つまり西郷は、いままでの幕府政治は良くないとする徳川慶喜の考え方がはっきりしてきた、そして二条摂政も慶喜が昔の政治体制に戻すという考えを持っていないこと、および旧い体制でやっていこうという会津・桑名の論が幕府(慶喜)の考え方ではないことが初めてわかったのだと報じた。ついで、これを受けて王政復古クーデターの成功はほぼ間違いないとしたうえで西郷は、「会・桑の処は、如何にも安心は出来申す間敷《まじき》か、動くものならば、此の両藩かと相察せられ申し候[#「動くものならば、此の両藩かと相察せられ申し候」に傍点]」(傍点引用者)と断じた。
(略)
 同様の認識は、情報を共有していた以上、もちろん大久保にもあった。そして、大久保の場合は、西郷よりも、より戦いの相手を絞っていた。会津藩である。このことは、大久保が十二月五日付の蓑田伝兵衛に宛てた書簡(『大久保利通文書』二)中に次のように記していることで判明する。「会桑に至りては今に周旋もいたし、反正の廉《かど》これ無く、……御発動の日にいたり候得ば、幕(府)に於いて究めて干戈《かんか》(=武器)をもって動き候義は万々御座無く、今は会のみの事にあい成り候得ば、少々動き候ても差し知れたる事と愚考仕り候」。
「御発動の日」とは、言うまでもなく王政復古クーデターを決行する日であった。大久保の認識では、クーデターをやっても、幕府は兵を挙げて動くことは「万々御座無く」、絶対になかった。それゆえ、大久保は、クーデター後に挙兵するとしたら会津藩のみだとみて、同藩との戦いには十分勝利できると踏んだ(「差し知れたる事」)。

P303

   西郷にとって計算外の出来事

(略)
 だが、近年の研究では、こうした見方を修正する見解も出されつつある。最大の根拠は、西郷が、当初はともかくとして、徳川慶喜の政権返上後は攪乱工作の見合わせを伊牟田・益満に指示したことである。したがって、十一月下旬から関東各地で始まった浪士集団による攪乱工作は、西郷の命令に従わなかった現地指導者独自の判断によったと考えられるようになった。
 新たに登場してきた見解は正しいと思われる。それは、薩摩藩邸焼き打ちの情報を知らされた直後の慶応四年一月一日付で蓑田伝兵衛に宛てて発せられた西郷書簡(『全集』二)中に、次のようにあるからである。「(事件の報を受けて)大いに驚駭《きょうがい》いたし候仕合いに御座候。……江戸において諸方へ浪士相|起《た》ち動乱に及び候趣に相聞かれ候間、必ず諸方へ義挙いたし候事かと相察せられ申し候。……爰許《こころもと》にて壮士の者暴発致さざる様御達し御座候得共、いまだ訳も相分からず、……其の内決して暴動は致さざる段御届け申し出で置き候儀に御座候。……百五十人計り罷り居り候て決して暴挙いたす賦《つもり》とは相見得ず、京師の暴動に依り如何様共致すべくとの様子にて、乙名敷《おとなしく》罷り在り候趣は近比《ちかごろ》迄相聞こ得《え》居り候処、……残念千万の次第に御座候」。
 事件発生の情報を知らされた西郷が、「残念千万」とごく親しい人物に対して書き送ったことは軽視しえない。

P322

   柔らかな対応

夕暮れにようやく終わった、この日の会談に臨んだ西郷の態度は、後年の勝の回想によると、ひどく「おおらか」で寛大なものだったらしい。(略)
大久保は、西郷に劣らない「胆力」の持ち主ではあったが、彼では西郷のような柔らかな対応はなしえなかったであろう。ましてや、「逃げの小五郎」といわれた木戸の「胆力」では西郷のマネはとうていできなかったとみなせる。まさに心中に余裕のある千両役者なればこそとりうる風格の漂う対応となった。

P365~366

   なぜ同意したのか

 つづいて、記述上の流れからいって、当妖、ここで検討しておかねばならないのは、士族の救済問題に人一倍熱心であった西郷が、なぜ士族の特権を全面的に否定することになる廃藩クーデターに同意したのかという問題である。この点を解明するうえでまず参考にしなければならないのは、廃藩直後に郷里の親友である桂久武に宛てて送られた西郷の七月二十日付の書簡(『全集』三)である。そこには廃藩に同意した被の心境が次のように綴られていた。長くなるが、重要なので大事な箇所を以下に抄録することにしたい。

天下の形勢、余程進歩いたし、是迄《これまで》因循の藩々、却《かえ》って奮励いたし、尾張を始め、阿州・因州等の五・六藩建言に及び、大同小異はこれあり候得共、大体郡県の趣意、日々御催促申し上げ候|位《くらい》、殊に中国辺より以東は、大体郡県の体裁に倣《なら》い候模様に成り立ち、既に長州侯(=毛利|元徳《もとのり》)は知事職を辞せられ、庶人と成らせらるべき思食《おぼしめ》しにて、御草稿(=廃藩願いの草稿)迄も出来居り候由に御座候。封土返献天下に魁《かい》(=さきがけ)たる四藩、其の実蹟(績)相挙らず候わでは大いに天下の嘲笑《ちょうしょう》を蒙り候のみならず、……当時は(=現在は)万国に対立し、気運開き立ち候わでは、迚《とて》も勢い防ぎ難き次第に御座候間、断然公議を以て郡県の制度に復され候事に相成り、命令を下され候時機にて、……天下一般|比《かく》の如き世運と相成り、如何申しても(=どう反対しても)十年は防がれ申す間敷、此の運転は人力の及ばざる処と存じ奉り候。

 ここから明らかとなるのは、名古屋・徳島・鳥取といった有力藩から、藩知事の辞職論や廃藩建白が相次いで出される中、「万国」と「対立(対峙)」するためにも、藩を廃し中央集権国家を樹立することは逆らえない時代の流れだと西郷が冷静に受け止めての同意だったことである。

P414~415

   突然の朝鮮使節志願

 しかし、大事なことは、政府関係者の多くが副島が成果を上げて帰国したと受けとめたことである。そして、その一人がほかならぬ西郷であった。ついで副島は、帰国後、中国で得た大いなる自信を背景に、朝鮮問題の解決に自らがあたりたいと願い出たようである。そして、この段階で西郷の朝鮮使節への志願が突如なされるに至る。そうした意思表示がなされたことを、史料面で証明する最初のものが、先に少し触れたように、明治六年七月二十九日付板垣退助宛西郷書簡であった。いささか長くなるが、重要なので関係する箇所を抄録する。

 扨《さと》朝鮮の一条、副島氏も帰着相成り候て御決議相成り候や。若《も》し、いまだ御評議これなく候わば、何日には押して参朝致すべき旨御達し相成り候わば、病を侵し罷り出で候様仕るべく候間、御含み下されたく願い奉り候。弥《いよいよ》御評決相成り候わば、兵隊を先に御遣わし相成り候儀は如何に御座候や。兵隊を御繰り込み相成り候わば、必ず彼方よりは引き揚げ候様申し立て候には相違これなく、其の節は此方より引き取らざる旨答え候わば、此より兵端を開き候わん。……断然使節を先に差し立てられ候方御|宜敷《よろしく》はこれ有る間敷や。左候得ば、決って彼より暴挙の事は差し見得候に付き、討つべきの名も慥かに相立ち候事と存じ奉り候。……公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せなにとぞられ候に付き、何卒《なにとぞ》私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候。副島君の如き立派の使節は出来申すべきかと存じ奉り候間、宜敷《よろしく》希い奉り候。(中略)
 追啓、御評議の節、御呼び立て下され候節は何卒前日に御達し下されたく、瀉《しゃ》薬(=下剤)を相用い候えば、決して他出相調い申さず候間、是又《これまた》御含み置き下さるべく候。

   使節を志願した動機

 本書簡には、西郷が朝鮮使節を志願した動機(背景)が、すでにかなりの程度鮮明に記されている。(略)


P531

   愛され親しまれる西郷へ

(略)だが、本書中で描写してきたように、本来の西郷隆盛は(略)たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても、見事に演じきれるだけの力量があった千両役者だったが、半面律儀で繊細な神経の持ち主であった。そして、そのぶん、彼は苦悶に満ちた人生を歩みつづけ、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。すなわち西郷は、政治的には、これ以上ない形での敗者(朝敵)として生涯を閉じた。それは、彼が愛してやまなかった武士層による道義的な国家建設を目指すという目標が未完に終わったことを意味した。我々は、このことを忘れてはなるまい。


記事作成者コメント:現代日本社会は、西郷隆盛という人間を切り捨てようとしているらしい。今年のNHK大河ドラマの無残な失敗をみると、私にはどうしてもそう思える。そのかわり、兵士の肉片と武器の残骸でつくった「不死の化け物」で”日本”を守ろうとしているらしい。
これはもちろんたとえだが、単純な靖国史観の復活(それが何を意味するのかはさておき)ではなく、もっと不気味な「何者か」に”日本”がすがろうとしているように思えてならない。明治維新150周年に対する批判は、そこから始めるべきだ。そのようなことでしか守れない”日本”とは何なのか、放棄したってまったくかまわないのではないだろうか。もっと八方破れに生きるべきではないだろうか。それこそ民族文化ではないだろうか。妙な言い方になるが、私にはそう思えてならない。
いくら「過去の人」と切り捨てようとも、未来に必ず待ち受ける人々がいる。どんなに不完全であろうと、まるごとのその人と向き合う価値のある存在、それが過去に確かにいたということ、そのことを確認するのが、歴史を学ぶことの意味であるはずなのだ。その歴史観の変容の罪は、必ず未来で裁かれるだろう。

 歴史学をやってまして、いろんな経験が一方的に不幸だと受けとめなくて済むようになったということが、この年まで生きてきて一番ありかたいなと思いますね。

「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」(家近良樹)の紹介 - s3731127306973のブログ

本郷和人氏の精神的荒廃について   副題「おはぎとオレンジジュース」

「いってみよー、どこまでセコイ大口を叩けるか!」という、見る者をなめきったバラエティー番組のふざけた企画であれば、と思った。
歴史学者兼”売れっ子の書き手”、本郷和人氏の以下の記事である。

www.sankei.com

早川タダノリ氏のツイートで知ったのだが、私は読んで悪性の胸やけがした。

第一、本郷氏は産経新聞が超極右歴史観・「日本はなにがなんでも絶対一つ」歴史観を日々発信していることの危険性をどう考えているのだろうか。
2017年11月に亡くなられたが、佐藤進一という歴史家がいた。本郷氏の指導教官である石井進の指導教官であるから、本郷氏は孫弟子にあたる。代表作は1965年に出版された「日本の歴史9 南北朝の動乱」で、50年以上の時をへた現在も南北朝の通史として名高い。ちなみに、本郷氏自身の話によると、配偶者の本郷恵子氏(専門は日本中世)は佐藤氏から激励の手紙をもらったことがあるという(※1)。
佐藤氏は研究思想も政治思想も穏健派だったようだが、1968年の東大紛争の時に「造反教官」となり、約一年後に辞職している。以下の記事に佐藤氏の言動がある。

あとがき4 「造反教官」の1970年 : 佐藤進一『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年) - あとがき愛読党ブログ

佐藤教授は九月八日に辞表を提出し、十月七日の文学部教授会で受理された。辞表提出にさいし同教授は「退官の趣意に関する覚書」を全文学部教授に配った。要旨は「哲学科学生の処分はすべきでなかったと考えるし、従ってこの処分を行なった教授会の構成員である私は、当然その責任を明らかにしなければならない」というもの。九日夜、東京・練馬区関町の自宅で同氏は退陣の弁を語った。

「一ついえるのは、処分についてもっと本筋にかえって考えるべきで、処分の理由となった事実をもう一度はっきりさせるべきですよ。これが何よりの前提で、教授会の議論には欠けていた……」

本郷氏は、蔵書に確実にあるであろう、佐藤氏の著書にどんな姿勢で臨んでいるのだろうか。私は非常に気になる。
本郷氏は、今はほぼまったく更新されない自身のHPで、以下のように書いている。

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/new-up/15.html

 我が国での史料の解析は、明治時代に始まる史料編纂所での歴史資料の編纂事業を中核として進められてきた。一方で欧米からの歴史理論の受容の必要性が等閑視されたわけではなく、例えば東京帝国大学教授の三上参次は後任の助教授、平泉澄に理論研究の重要性を強く説いたと言われる。1930(昭和5)年の平泉(35歳)の外遊はまさにそれを目的としたものであったが、彼の研鑽は皮肉なことに、およそ科学とはかけ離れた皇国史観として結実したのであった。

  敗戦後の皇国史観の徹底的な否定は、正反対の位相を有する唯物史観の隆盛を招来するが、それもやがて新たな理論に批判的に継承されるべきであった。ところが、ベルリンの壁の崩壊やソビエトの瓦解を目の当たりにした今日ですら、唯物史観はしぶとく根を張り、これを凌駕する潮流はなかなか見えてこない。研究者の怠慢はまさに責められるべきであるが、では彼らは如何にして給料分の活動を持続しているかといえば、実証性を口実に史料解釈に安易に依存しているのである。

アマゾンでの著作リストを見るかぎり、本郷氏は”サブカルチャー”の力をおおいに”動員”して理論(合理的)的史観を広めようとしているようだが、「フレキシブルに売れる人間になってくれ」が基本原理の高度消費社会への警戒心がほぼまったくない。その証拠に、たとえば2018年のうちに7冊以上も本を出している。いや、同程度のスピードで本をだした(本郷氏の仮想論敵の一人であるらしい)網野善彦氏の例もあるが、いくら網野氏でも1年のうちに5冊以上も本を出したことはない。それに、CiNiiで調べるかぎり、本郷氏は少なくとも2010年ごろからほとんど研究論文を書いていない。この点も、最晩年に人生の最後に決着をつけようと「古文書返却始末記」などを書き続けた網野氏と対照的である(※2)。指導教官の石井進氏と五味文彦氏のうち、石井氏はもう亡くなられたが、五味氏はまだ『吾妻鑑』現代語訳を執筆するなど健在でおられるようである。「少し腰を落ち着けて本を書いたらどう?」と教え子に一言でも苦言をいうべきではないだろうか(※3)。サービス精神あふれるのもいいが、その結果無残なものを書いてしまうのならば、「サービス精神」は人をむやみに刺すトゲにしかならない。

Amazon.co.jp: 本郷和人[https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%83%B7-%E5%92%8C%E4%BA%BA/e/B001I7S1QY:titl
CiNii Articles 検索 -  本郷和人


私は戦国時代については勉強不足なので言及できない(※4)が、本記事の幕末期についての文章には、どうしても一点批判をしたい。それは以下の点である。

「なぜ、「実は西郷です」と書いて、「実は、西郷(隆盛)と大久保(利通)です」と書かなかったのか?」

西郷隆盛といえば、江戸城無血開城が最大級の政治的功績の一つとして有名である。西郷が大規模戦争を望んでいただけのならば、なぜ江戸城無血開城させることができたのか理解不能になってしまう。”ひどく冷たい”と評価されることの多い大久保の名前を入れていれば、決定的な記述ミスにはならなかったはずである。ちなみに、西郷隆盛の有名なエピソードの一つとして、戊辰戦争において庄内藩に寛大な措置を行ったことも挙げられる。これが現在も入手容易な『南洲翁遺訓』が庄内藩関係者によって編集された理由である。関係書籍によく出てくるエピソードなので、本郷氏が知らないはずがない。
家近良樹氏の著書『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(2017年、ミネルヴァ書房、索引をさしひいて567頁!)のP312~P325に、徳川慶喜の処罰問題~江戸城無血開城についての記述があるが、家近氏は特にP322で

   柔らかな対応

夕暮れにようやく終わった、この日の会談に臨んだ西郷の態度は、後年の勝の回想によると、ひどく「おおらか」で寛大なものだったらしい。(略)
大久保は、西郷に劣らない「胆力」の持ち主ではあったが、彼では西郷のような柔らかな対応はなしえなかったであろう。ましてや、「逃げの小五郎」といわれた木戸の「胆力」では西郷のマネはとうていできなかったとみなせる。まさに心中に余裕のある千両役者なればこそとりうる風格の漂う対応となった。

と指摘している。今の本郷氏に、家近氏のこのレベルの洞察がどれだけ期待できるだろうか。私には非常に困難だと考える。
私は、政治的立場の違いを認めたうえで、この西郷隆盛の伝記の著者・家近良樹氏を敬愛しているが、家近氏は講演「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」の最後のほうにおいて、以下のように語っている。

歴史学をやってまして、いろんな経験が一方的に不幸だと受けとめなくて済むようになったということが、この年まで生きてきて一番ありかたいなと思いますね(※5)。

本郷氏は、いや失礼、”今の”本郷氏は、この言葉の”奥深さ”を、どこまで理解できるだろうか?


ここまで書いてきて、私は怒りとともに、深い深い失望感を感じざるをえない。日本近現代史「おはぎとオレンジジュース」のエピソードを思い出してしまった。何のことか、以下に説明する。
1995年3月20日の早朝に、地下鉄サリン事件を引き起こした実行犯たちは衣類と傘などを処分(場所は多摩川周辺だと証言されている)して、夜もふけた頃第六サティアンに戻り、松本(麻原)に報告をした。そのとき、松本(麻原)は実行犯たちに「マントラを一万回唱えなさい」と言ったのは有名なエピソードなのだが、同時に”報酬”として渡したのが「おはぎとオレンジジュース」なのである。この記述はwikipediaの記述だが、「[27]降幡賢一『オウム法廷5』 p.307」という出典が書かれているので信用できる記述だろう。関連資料すべてを確認したわけではないが、「オウム「教祖」法廷全記録1 恩讐の師弟対決」に杉本繁郎(現・無期懲役囚)の証言として、たしかにこうある。

P284

検察官「部屋を出た後、証人らは何をしましたか」
証人「麻原からもらったおはぎを食べ、ジュースを飲みました。」

私はこの記述を読んで、頭に血がのぼった。「こんな無神経極まる人間が教祖だったとは!」と。
あまり知られていないが、警察は、3月22日以降の薬品などの証拠押収だけでは警察はオウム真理教教団のサリン製造を立証できず、結局、1995年5月6日の林郁夫の全面自供をまたねばならなかった。4月23日に中枢幹部の村井秀夫が刺殺されたことを考えると、オウム教団側の証拠隠しは「うまくいってしまった」のであって、その分、林郁夫の全面自供は非常に重要だった(※6)。
もし仮に、実行犯たちが地下鉄サリン事件から帰ったとき、松本(麻原)が「私も一緒に唱えるから、マントラ一万回となえることにしよう。今日は身を清めるために絶食だ。」などと言ったらならば、林郁夫(※7)たちの性格から判断すると、実行犯たちの自供までにかかった時間は、二カ月どころでは済まなかった可能性は非常に高い。この「おはぎとオレンジジュース」は、オウム教団の精神的荒廃と、その大規模殺人を可能にした方法論の一端が示されていると私には思われてならない。
本郷氏の、はっきりいえば、”精神的荒廃”ぶりは、この「おはぎとオレンジジュース」のエピソードと、「無神経極まる態度、そして”現実認識のちゃぶ台がえし”という精神的勝利法のとてつもない危険性」という点で、根本的に共通している。本郷氏は物理的に人を殺すことは決してないだろう。それは間違いない。だが、この記事では現に、言葉で他人を殴っている。だから私は、そう判断せざるをえない(※8)。



最後に本郷氏に、一言。

「本郷さん、あなたには心底失望したよ!!! ”売れっ子”ほど危険だと思ってたけど、あなたもだとはね!!! はっきりいって、筆を折ることも考えたほうがいい!!! 今後20年間は絶対にあなたの本を買わないからね! あと、恵子さんはじめ、友人・関係者の著者の本は全部、私の「一人につき十年に一冊だけ購入」のリストに入れておくからね!! 一人の読者にも、それぐらいの意地というものがありますからね!!!」


※1 「本郷和人 戦士から統治者としての王へ」https://www.youtube.com/watch?v=DzTNPyQgPgE の20分~25分あたりを参照。
※2 2000年の書評記事、「細川重男著, 『鎌倉政権得宗専制論』, 吉川弘文館, 二〇〇〇・一刊, A5, 五六七頁, 一三〇〇〇円」の、特に「4 まとめ」の部分を参照。18年という年月があるとはいえ、同じ人物が書いたとはとても思えないほど丁寧な記述である。一部引用しよう。

P116
「これをもとに百十七頁にもわたる鎌倉政権上級職員表、それに寄合関係基本資料、鎌倉政権要職就任者関係諸系図はこうして完成をみた。まこちに、得宗研究の根本史料と呼ぶに相応しい仕事である。これをもとに展開される細川氏の所論もまた、やがて乗り越えられていくのかもしれない。しかしこの膨大な史料部分は、湯学問的成果として後世に残っていく。これから得宗研究をこころざす研究者すべての財産になるに違いない。」

細川重男氏といえば、鎌倉政権成立時の資料をいわゆる「ヤンキー言葉」で現代語訳した本を出して、鎌倉~室町時代の武士(および民衆)の実像は「(ある種の)粗暴さ」抜きに考えられないことを、清水克行氏らと同時期に認知させた歴史家である。細川氏は自身のHPで活動を報告されているが、現在の本郷氏の言動をみて、何か思うところがあるのではないだろうか、と私は勝手ながら推測するのだが……。

https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
※3 2014年の書評記事によると、本郷氏は「研究者として決定的に格が違う」という理由から、五味氏に頭が上がらないようなのだが……
自然の背景に人間の営みを見る|好書好日

※4 中世史研究者としては、徳川幕府李氏朝鮮との国交再開交渉をめぐる有名な「対馬藩国書偽造事件(についての両国の政治的決断)」に言及すべきでは、と素人ながら思う。
※5 「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」(家近良樹)の紹介 - s3731127306973のブログ
※6 即死性の薬物による大規模化学犯罪事件の立証が日本裁判史上ほぼ例がないこと、1995年3月中旬ごろまでには警察が仮谷清志さん監禁致死事件についての一定の立証ができていたことをふまえても、林郁夫の全面供述の重要性はほぼ揺らがない。これがなければ少なくともあとまる1年は裁判が長引いただろう。
※7 林郁夫の送迎役が、危険な意味で”無邪気”な、送迎役の中で唯一の死刑囚である新実智光だったことなどを考えると、1995年3月の時点で松本(麻原)は林郁夫の「真面目な」性格を十分判断できる判断力があったと判定できる。ちなみに、林郁夫と同姓だが親類関係のない、同じく教団内で「真面目」と評価されていたらしい林泰男の送迎役が、上で証言を紹介した杉本繁郎である。杉本は最古参幹部の一人で、専属運転手という、秘書のような立場だったことで、松本(麻原)の俗物性や危険性をかなりよく知ることができたのはほぼ確かである。林郁夫などの「あえて危険な、もしくは重大犯罪をさせて、脱走させにくくした」という推測は本質的に当たっているだろう。
補足になってしまうが、実行役と送迎役の人選がどのような思考過程で決定されたかは、論者の死角になっているようだが、非常に重要だと考えるべきである。オウムという教団の”カラー”がくっきりと出ているとみてよいからである。
※8 上で紹介した家近氏は、西郷隆盛について、P531で「だが、本書中で描写してきたように、本来の西郷隆盛は(略)たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても、見事に演じきれるだけの力量があった千両役者だったが、半面律儀で繊細な神経の持ち主であった。そして、そのぶん、彼は苦悶に満ちた人生を歩みつづけ、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。」と書いていることを付記しておくことにする。

「S・Y」の供述書(原文P004~P082)

・以下は撫順戦犯収容所に収容されていた戦犯「S・Y」の自筆供述書の原文P004~016の一部である。
・「S・Y」は1890年生まれ、最終学歴は1911年の陸軍士官学校卒業(第23期)もしくは1918年の憲兵練習所卒業、最終経歴は1945年の「満洲国」憲兵訓練処長である。ちなみに、陸軍士官学校時代の同級生に戦犯の「F・S」および「S・H」がいる。

・日本人名は原則「××××」と伏字にした(原文には明記されている)。
・読みやすくするためとはてなブログの筆記法を使うと完全に現物を再現できないという問題のため、原文とはすこしレイアウトを変えている。文章は変えていない。
・読解困難な部分は□とした。あとで埋める予定である。

原文は以下サイトを参照
http://61.135.203.68/rbzf/index.htm
http://japanese.cri.cn/781/2014/07/03/Zt145s223191.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

友人T・K(もしくはT・S?) 陸軍大佐 陸軍士官学校卒業、陸軍幼年學校次来同期生として親交あり。政黨政派関係なく任官後職務地を異にしたる為通信に依って友好せり。日本中国侵略作戦中河北省に於て一九三八年戦死せり。
同E・K 先妻の兄、姻戚関係として交はりしが先妻没後も親しく交はれり、八・一五に至る。政黨政派関係なく、彼との交友関係は私事につき相談合手となりあいたり。
同僚F・S 陸軍中将 第五十九師團長として一九四五年八・一五に至る。彼とは陸軍士官學校同期(第二三期生)、幼少のこ頃京都府、伏見町小學校の學友、陸軍幼年學校も同期生として共に學びたり。任官後は職務地を異にしたる為友好関係中断勝ちなりしが、一九四八年九月よりハバロフスクに於て同一収容所に起居を共にし爾来今日に至る。
同 S・H 『北支那派遣軍』兵團長として一九四五年八・一五に至る。彼とは陸軍士官學校同期にして幼年學校以来友好関係あり。任官後は職務地を異にしたる為友好関係中断勝ちなりしが、一九四八年九月よりハバロフスクに於て同一収容所に起居を共にし爾来今日に至る。

経歴[004]

一八九〇年八月三〇日 出生
一八九六年四月一日  京都府伏見町尋常小學校に入校。
一九〇〇年三月三〇日 同校卒業。
一九〇〇年四月一日  京都府伏見町立高等小學校に入校。
一九〇一年四月一日  東京府北豊島郡赤羽、岩淵尋常高等小學校第二年級に轉向。
一九〇二年四月一日  東京市牛込區私立早稲田中學校に入校。
一九〇四年九月一日  東京陸軍中央幼年學校豫科に入校。
一九〇七年七月二〇日 同校卒業。
一九〇七年九月一日  同校本科入校。
一九〇九年五月三〇日 同校卒業、陸軍士官候補生を命せられ歩兵第五二聯隊(青森縣弘前)配属。
一九一一年五月三〇日 同校卒業、陸軍見習士官を命ぜられ、原隊復帰。小隊長勤務に服す。
一九一一年一二月一日 陸軍歩兵少尉、歩兵第二十聯隊附(京都府福知山町)小隊長勤務に服す。
一九一三年九月一日  陸軍戸山學校体操科学性として派遣せらる。
一九一四年二月二八日 同校修業。
一九一四年三月一日  陸軍歩兵中尉[005]

一九一五年三月一日  陸軍歩兵學校(千葉縣千葉市)通信科學として派遣せらる。
一九一五年九月三〇日 同校修業、原隊に於て通信班長を命ぜらる。
一九一六年一二月一日 陸軍憲兵中尉、朝鮮平壌憲兵分隊長。
一九一七年五月一日  朝鮮延安憲兵分隊長。
一九一七年六月一日  東京憲兵隊附。
一九一七年九月一日  憲兵練習所入所。
一九一八年五月を三〇日 同所修業、原隊復帰、東京憲兵隊副官業務を補佐し、外務科長を兼務す。(外事科長の職務は軍機保護警察につき、英・米・蘇・独・佛等外人視察。)
一九二一年七月一日  陸軍憲兵大尉 東京憲兵隊副官。
一九二三年八月一日  愛媛憲兵分隊長。
一九二三年九月二〇日 臨時麹町憲兵分隊長(東京)関東震災地戒厳警備勤務。
一九二四年一月一五日 神戸憲兵分隊長。
一九二六年三月一日  東京上野憲兵分隊
一九二八年憲兵指令部部員、(東京)警務課勤務、軍事警察務に服す。昭和大禮(天皇即位式)大禮使を兼務、主として京都市□□山田市郡住典禮の警衛勤務に服す。[006]

一九二九年四月一日  陸軍憲兵少佐、関東憲兵長春憲兵分隊
一九三一年四月一日  東京渋谷憲兵分隊
一九三三年三月一日  東京麹町憲兵分隊
一九三四年三月一日  朝鮮咸興憲兵隊長
一九三四年八月一日  陸軍憲兵中佐
一九三四年一二月一日 関東憲兵隊司令部部員(警務部勤務、主として治安警察業務に関し課長として一九三六年七月一日以降)一九三七年一〇月三一日まで高級部員として服務す。)
一九三七年一一月一日 新京憲兵隊長
一九三八年三月一日  陸軍憲兵大佐
一九三九年三月一日  関東憲兵隊司令部警務部長
一九四〇年八月一日  南支那派遣憲兵隊長
一九四二年七月一日  憲兵司令部附、待命、豫備役
一九四二年九月一日  召集、支那派遣軍總司令部、軍事顧問部勤務(僞汪政権、軍事顧問として僞警察・僞保安隊の指導業務に當りました。)
一九四四年六月三〇日 憲兵司令部附 召集解除[007]

一九四四年一〇月一日 東京若素製藥株式會社社員
一九四五年二月一日  僞満洲国陸軍少将 憲兵訓練處長
一九四五年八月一五日 日本敗戦により離職。
  賞罰
一九二〇年六月一日  大正三年乃至八年戦役の功勞に依り、勲六等に叙し瑞寶章を□け、大正三年乃至八年戦役従軍記章並一時賜金五百円を受く。
一九二五年六月一日  年功に依り勲五等に叙し瑞寶章を□く。
一九三七年八月一日  僞満満洲事変の功勞に依り勲三等に叙し旭日中綬章及事変従軍記章並に一時賜金一千円を受く。
一九三七年一二月一日 僞満洲国建設の功勞に依り勲三位に叙し柱國章を贈らる。
一九二四年一二月二五日 日本國會開院行幸路に於て廣島縣人難波大助は摂政を暗殺せんとしてその東用自動車窓に近接發砲せる暗殺未遂事件に對し麹町憲兵分隊長として警衛任務を完遂し得ざりし科により軽謹愼八日に処せらる。
一九四二年五月二〇日 南支那派遣憲兵隊長在職中私物品を公用船に託し東京に輸送せる科により南支那派遣軍司令官より想謹愼三〇日に処せらる、七月一日待命、待命豫備役に入る。[008]

  自己罪行
 中国に於て私の犯しました罪行につき、以下年次を追うて担當職務毎に区分して直実に供述致します。
   長春憲兵分隊長當時(自一九二九年四月一日至一九三一年三月三一日)
 私は一九二九年四月一日長春憲兵分隊長として赴任しはじめて日本の中国侵略国策遂行を任務とする関東軍の一員として服務致しました。當時の関東軍は『関東州及南満洲鉄道付属地』に蟠踞する日本の侵略国策を遂行する派遣軍でありました。九・一八までの関東軍は『関東州及南満洲鉄道権益地域』を基盤として東北全体を中国侵略の基地として占有し、ここに先ず日本の確乎たる勢力を築き上げんとする企図を有しました。従って関東軍は其企図を遂行するため右『日本権益地域』内に隷下軍隊を配置し警備上任ぜしむると共に積極的に日本の権益用語を理由として盤踞地域内外に於ける發生事件を捉えて之に乗じて兵力を行使し當時の東北政権(張作霖・張学良)に對し強軟時に應ずる方策を用いて其勢力を『消滅』することを計りました。又日本人と中国人を差別し中国人を對しては挑發を以て之れに當り殊に反日行動を極端に弾壓しました。然し時日の経過と共に人民の排日思潮は高まり、東北政権も對日政策を強化しました。張作霖の存在は関東軍の侵略政策遂行の『障害』となしましたので、関東軍は一九二六年之れを謀殺し、又遂に一九三一年には九・一八事変を起して東北侵略陰謀を実行に移しました。私は事変發生の年の三月末[009]

迄に二年間長春憲兵分隊長として侵略関東軍の一員となり職務を執行しました。
 一、長春憲兵分隊長は當時『南満洲鉄道付属地』の北端たる長春及四平街に憲兵分隊を、公主嶺分遣隊を配置し、又吉林市に新聞記者に変装せる特務憲兵の××憲兵曹長を當時派遣し、憲兵の有する軍事警察権及び一般司法行政警察権を以て之等總兵力の約七十名を指揮して、軍事警察の外『附属地の警備、日本権益の用語、在留人(日人)の保護、中國民心の動向査察』中國軍政機関の情報蒐集工作及中國人民の抗日言論を鎮壓する工作を実施し、関東軍の侵略行動計劃実施実行に伴う警察権を終始執行致しました。
 私は分隊長として部下に對し、右の如き方針を指示しました。
『隊長より與えられた任務に基き服行する。而して長春満洲に於て日本権益の最北端要衝にして警備に万全を期せねばならぬ。特に管内日・中紛争事件發生の場合は機先を制し断乎として之を処理する。若しも、中國側に不當を認むる事由ある場合は、事件後の擴大を敢えて顧慮せず、中國側弱点の眞想を明かにし對者を制壓することを口実とする。中國側に責任のあることを明白にし、遅れをとってはならぬ。』
 右は事件の処理を日本側に有利にし乘ずる事由あらば、之れに乘じて挑發し擴大して侵略發動の理由をを構成する意図を暗示したものであります。
 二、私は在職中終始中國側諸情況を偵察し憲兵隊本部を経て軍司令官に情報そして報告しました。即ち中國對日政策、軍隊政府機関の情況・人民抗日反日情況、一般民心趨向、流言飛[010]

語等に関する事項であります。殊に長春郊外南嶺に中国軍の集団が常駐して参りました。従って部下憲兵密偵をして絶えず其動静を偵察すると共に、其配置・編成・装備・地形等につき情報を蒐集し上司に報告し、一面長春警備隊、公主嶺鉄道守備隊に通報致しました。
 又吉林市は日本の『権益地域』外でありましたが中國側軍政機関の所在地でありましたから憲兵特務××曹長を新聞記者名義を以て入込ましめ、前期同様情報蒐集工作を爲さしめました。
 私は長春憲兵分隊長として在任中、一九三一年九月一八日發生の事変の計劃各図を有することは充分察知して居りました。従って如上の情報は郡の侵略行動の準備工作として実行したものであります。
 三、長春警備隊兵榮建築場に於て一九二九年五月某日夜一〇時頃、警察法令違反者として中國人五名を部憲兵をして『逮捕』せしめました。之れ等を分隊に留置し拷問(横打、水攻等)の上一名を長春司法領事に送致し他の四名を約一週間掃除奴役として酷使致しました。
 四、一九二九年並びに一九三〇年七月及八月の二ケ月に亘り関東軍司令部参謀部は東北侵略準備計劃の目的を以て軍司令部附将校を分派して東北各鉄道(四平街―鄭家屯―斉斉哈爾線―吉林―梅河口―瀋陽線、北鉄各線)、水路(哈爾浜―漢河関、松花江黒龍江沿岸地区)興安嶺等の地形偵察を実行せしめました。此偵察将校は先づ長春分隊に於て偵察工作準備を爲すを例としました。私は分隊長として偵察将校にし、豫め分隊にて蒐集しあある鉄道鉄道時間表[011]
(※ 「畱」の「留」の本字)

松花江汽船運航表、各地在住日本人等を探示し、或は紹介する等便宜を供與しました。
五、長春『附属地』警備演習を一九二九年九月に実行しました。目的は事件勃發の際長春駐屯出勤後は『付属地』の警備は、憲兵、警察、在郷軍人の部隊を以て担当する計劃の下に訓練したのであります。私は憲兵分隊長として長春警察署長、在郷軍人□会分會長と共に此演習を統裁致しました。當時長春には一万の在留軍人が居りました。この軍人の緊急避難処置を研究し、又かヽる非常時に於て中國人民の反抗行動に對して武力を以て鎮壓する方針を採ることを警察署長、□合分會長との間協議申合しました。
六、歩兵第三八聯隊は一九二九年五月長春に移駐し再後部隊戦闘演習の爲常に長春郊外『附属地』外農耕地を荒しました。中國農民の被害届・損害賠償請求が頻々として分隊に到来しました。之れに對し私は『演習場を持たぬ軍隊が農耕地を演習場に充つることは止むを得ぬ』として部下に對し『正式に賠償手續を探れば到底豫算関係上支払許さぬから一々之れを取り上ぐるな』との意を授け被害農民の訴を却下せしめ、人民の権利を無視し抑壓する態度、對策を採りました。
七、長春南方約十キロ米の『満鉄附属地』耕作地に工作中の日本人農民に對し一九二九年九月上旬附近部落より發砲せる事件がありました。私は分隊長として××憲兵曹長に命じ憲兵約一五名を索いて現場に急派し『満鉄附属地』外附近部落を捜索せしめ、中國官憲に無断にて、部落自衛団員約二〇名を分隊に拉致、自警団の武器を掠奪しました。其上苛酷なる取調を行いました。然るに中國側の厳重なる抗議に對し右拉致人数、武器を日本領事を経て還付しました。[012]

 八、長春驛信号所に於て一九二九年一〇月(日時不詳)遊撃中国体の襲撃事件がありました。捜査の目的を以て憲兵下士官以下約十名を現場に急派し、信号所を離るゝ約四、五百米の部落より中国人約十名を遊撃隊に連絡ある嫌疑の下に、中国側官憲の承認を経ず、無断にて分隊に拉致し取調に當り拷問を行いたる上証拠不充分の理由を以て将来を戒め屯長に引渡しました。
 九、長春警備隊隣接地區に射撃場及演習地地域拡張の爲、一九二九年一〇月下旬関東軍経理部は中国人の土地掠奪工作を実施しました。その掠奪坪數は約二平方キロ米でありました。この地域内に民家數軒あり、農作物も尚耕地内に点々残存しある情態でありました。分隊長たる私は部下憲兵をして居住農民を立ち去らしめ、経理部をして演習場射撃場掠奪目的を達成しました。
 一〇、公主嶺、鉄道守備隊司令官中将××の統裁する鉄道守備隊三ケ大隊、長春歩兵第三八聯隊の聯合演習を一九二九年一一月下旬、長春北方中国領土内に於て実施しました。私は長春憲兵分隊長として分遣隊を併せ指揮して演習地の警備を主宰しました。此際演習地に當る耕地に農民の出入を禁止し、人民に通路修築を強要し、又軍隊宿榮に要する民家の強制徴發、宿榮軍隊の人民物資の掠奪の助勢等を実行しました。これより人民に對し財産の損害を與へました。
 一一、公主嶺憲兵分隊に於て一九二九年一二月(日時不詳)中国人約二〇名を警察法令違反として逮捕しました。取調に當り横打、水攻め等の拷問を行いたる上、××××二名を長春司法領事に送致し、残余中国人を『懲戒』と称し暴行(笞刑)を加えたる上屯長に引渡しました。私は所轄分隊長として本事件に對し責任を負ふ[013]
(※ 「击」は「撃」の簡体字

次第であります。
 一二、寛城子に於て一九三〇年二月(日時不詳)日本警備隊演習中、其歩哨に對し發砲事件がありました。
日本警備隊は現場附近巡羅中野中国路警兵二名の所爲なりとし、路警備隊長に無断にて之れを拉致し憲兵隊に引渡しました。私は分隊長としてその取調を部下に命じました。取調に際し發砲いたることを自供せしむる爲横打して一名の面部に受傷せしめました。路警備長の抗議に對し、警備隊は受傷者の治療を施し、治療費をおくり路警兵二名を還付しました。本件につき私は發砲行爲が果して路警兵の□□ありしや否やの問題を究めず、警備隊の言のみを信じて路警兵を取調べ且つ横打により責傷せしめ、及日本警備隊が中国領土内に於て中国軍人を不法拉致し中国に與へたる侮辱行爲を不問に附した点につき、実行責任を負う次第であります。
 一三、日本陸軍大學校學生約六十名が現地演習の目的を以て一九三〇年五月中旬、公主嶺、長春に参りました。學生中に××××大尉が参加して居りました。××大尉の公主嶺長春に於ての行動宿泊につき鉄道沿線、市内、演習場、旅館の警衛に任じました。此際警衛警戒の爲中国人を極度に壓迫しました。即ち『危険分子』(反日思想積極分子、游撃工作を嘗てなしたる者等)を検束し、実手銃、手榴弾發見を目的とする市内検索、市内沿道の交通整理、停車場旅館の警戒等をなしました。これにより市民の行動を制限したのみならず検索によって人民の生命・身体・財産上に大なる損害と壓迫を與へました。[014]

 一四、中国が北鉄接収工作を実施し之れに関聯して一九三〇年六月上旬中国軍が北満に出動しました。此軍の出動に際し私は分隊長として治安上の事故防御を理由として日本領事を通して『長春附属地』通過につき厳重なる制限を加え出動軍の行動を著しく妨害遅延せしめました。平生日本軍は自分勝手に中国側領土に於て演習訓練等を実行しあることについては、之を不問に附し、偶ゝ中国軍隊の『附属地』通過に對して極端なる制限を以て□み全く一方的な処置を採りました。
 一五、前第一四項に関係し人民の中国軍の出勤に関する声援盛んに起り『長春附属地』内に於ても中国人の志氣沸騰し、中・日人間に紛争が惹起しました。之れ等の事故發見の都度當事者の中国人を検束し日人と差別して極めて不公正なる処理を実施しました。
 又吉林大學生の中国軍支援の示威運動が長春に於ても行はれました。この示威運動が長春城内より『附属地』に波及することを虞れて學生運動を制限し同團体の進入を禁止し以て學生を『附属地』内中国人との間を故意に分離しました。
 一六、萬賓山事件が一九三一年三月一四日に發生しました。當時日本領事館の對鮮人政策は表面的保護政策を採り朝鮮人を東北に出稼ぎさせしむることを奨励し、日本勢力の東北侵染を強化することを各図して参りました。万宝山に於ても此政策が採られ鮮人を支援し、土地問題、水利問題等につき中国人を壓迫する對策を行いました。現地中国人は侵略日本勢力の現地侵入を嫌悪して居りました。其の結果中鮮人間に對立感情が醸成せられ遂に三月一四日衝突を惹起するに到りました。現地鮮人は長春領事館に[015]

急報し調停方で制限しました。領事館は長春中国側商外機関に接衝し係官並に領事館警察官を現地に派遣し應急對策を実施しました。関東軍は万宝山事件を大々的に宣傅し、日本の庇護下にある鮮人が中国政府並に人民より『不當の壓迫処遇』を蒙りありと吹張した爲、之れに刺激をうけて現地の紛争は其度を深め、七月に入り一層激化するに至りました。之れは日本侵略者が万宝山事件を拡大紛叫せしめんとする對策を裁しあることを制するものでありまし。万宝山事件の直接『九・一八事変』を起しました。即ち日本帝国主義侵略にこの事件を利用し『九・一八事変』發生の事由として取り揚げました。私はその年三月末日迄長春憲兵分隊長として在任間自己又部下が直接に同事件の鎮壓工作に参加して居りません。然し憲兵分隊長初期の状況調査並に上司に對する報告をなしました。
     関東憲兵隊司令部部員當時(自一九三四年一二月一日至一九三七年一〇月三一日)
 私の関東憲兵隊司令部部員として在任當時の偽満内一般情勢は、関東軍は九・一八事変以来帝国主義日本の中国侵略の基地たる偽満洲国建設の爲、先ずに偽満国内治安の確率を得んとして軍・偽満軍警其他の機関を動員して治安工作を実行中でありました。其當時東北に於ける抗日遊撃隊の勢力は焼く一〇万内外でありました。其中抗日聯軍と反満抗日遊撃隊は約四万弱でありました。前者は中国共産黨指導の下に果敢なる抗争を展開し、又後者は国民黨と連絡し又は単独で抗日抗争を行って居りました。一九三五年遊撃隊の情態の主たるものは、鉄道被襲事件数が前年に比し・四一件の[016]
(※ 「うかんむり+尓」は「宝」の異体字

急報し調停方で制限しました。領事館は長春中国側商外機関に接衝し係官並に領事館警察官を現地に派遣し應急對策を実施しました。関東軍は万宝山事件を大々的に宣傅し、日本の庇護下にある鮮人が中国政府並に人民より『不當の壓迫処遇』を蒙りありと吹張した爲、之れに刺激をうけて現地の紛争は其度を深め、七月に入り一層激化するに至りました。之れは日本侵略者が万宝山事件を拡大紛叫せしめんとする對策を裁しあることを制するものでありまし。万宝山事件の直接『九・一八事変』を起しました。即ち日本帝国主義侵略にこの事件を利用し『九・一八事変』發生の事由として取り揚げました。私はその年三月末日迄長春憲兵分隊長として在任間自己又部下が直接に同事件の鎮壓工作に参加して居りません。然し憲兵分隊長初期の状況調査並に上司に對する報告をなしました。
     関東憲兵隊司令部部員當時(自一九三四年一二月一日至一九三七年一〇月三一日)
 私の関東憲兵隊司令部部員として在任當時の偽満内一般情勢は、関東軍は九・一八事変以来帝国主義日本の中国侵略の基地たる偽満洲国建設の爲、先ずに偽満国内治安の確率を得んとして軍・偽満軍警其他の機関を動員して治安工作を実行中でありました。其當時東北に於ける抗日遊撃隊の勢力は焼く一〇万内外でありました。其中抗日聯軍と反満抗日遊撃隊は約四万弱でありました。前者は中国共産黨指導の下に果敢なる抗争を展開し、又後者は国民黨と連絡し又は単独で抗日抗争を行って居りました。一九三五年遊撃隊の情態の主たるものは、鉄道被襲事件数が前年に比し・四一件の[016]

増加を示し、又角遊撃隊は治安攪乱の目的を以て都邑を襲撃する等関東軍並に偽満軍警に痛烈な打撃を與えました。尚又これ等遊撃抗争に對應する人民の日帝を憎しむ心からの支援行動は全面的に展開せられ、人民と遊撃隊の間は眞に不可分の関係にありました。
 一、職務範囲
 一九三四年一二月一日―一九三五年五月三〇日間は警務部内に課の編成がなく、私は治安警察を斉可し軍事警察務につき高級部員××中佐の副任として業務に當りました。一九三五年六月一日―一九三六年六月三〇日間第三課治安に関する課長として、一九三六年七月一四日―一九三七年一〇月三一日迄高級部員として、又警務課長(第二課)として××中佐の後を継ぎ、軍事・治安に関する警務部業務一切を管掌し、警務部長を補佐しました。一九三四年一二月―一九三七年一〇月末の間偽中央治安維持會幹事を、一九三五年九月一日より一九三六年三月三一日迄偽中央警防連絡委員會員兼幹事を、又一九三六年四月一日より一九三七年一〇月三〇日迄偽中央警務統制委員會委員兼幹事を兼務し、幹事長(警務□長)事故ある場合、幹事長代理の職に當ったことも屡々ありました。
 私は如上の職務範囲において、又如上の偽満治安情勢に對処して、警務部に於て同部の諸對策計劃、部長、幹事長の名儀を以てする命令、指示又自己、課長名儀を以ってする注意事項をもって隊下、偽地方警務統制委員は、指示し要求する等、人民鎮壓に関する諸工作を自ら主謀し、劃策し、各憲兵隊を指揮し偽地方警務統制委員會を運榮したことが屡々あります。又各憲兵隊、偽各方警務統制委員會の情報、報告の審査、査察等の業務に當りました。[017]

 二、立案審議決定したる法令・規定・對策事項
 (一)『思想對策に就て』と題する印刷物を一九三六年一月憲兵隊長會議開催の際、私は治安課長として各体調に配布し且つ講演を行いました。
 其要旨は右の如くであります。
 『1、思想對策の第一要件は憲兵偽警察機関の統合能力を發揮し重要目標たる共産黨・国民黨等の地下組織分子を成るべく速かに検挙し、又各遊撃隊を討伐検挙することである。
 2、将来の對策及要領
 一九三五年度秋季工作の結果東・東南・防衛地區に於て遊撃隊を山岳地帯に壓迫したが好日聯軍は分散して多数隊員は討伐地区より脱して都市農村に潜入した。依って之等潜入者の検挙工作を徹底することを要する。又主要人物の未検挙に終っているものが多い。中には端緒だけを検挙し中絶しているものもある。之れ等検挙討伐工作はまだまだ初歩的であるに過ぎない。よろしく事件の系統的研究判断、検挙に関する各機関の連繋工作を緊密にし、機を失せざること、検挙後の取調、取扱方法手続を改善すること並に処理の合法適正化等に着意することを要する。
 3、思想對策の目標
 主たる目標は潜入南京政府の抗日地下工作員、東北軍閥系分子、中国共産黨工作員等である。其區分は右の如くである。』[018]

 ①反満抗日分子団体――藍衣社、藍志社、除奸団、力行団等。
  日満政・軍情報蒐集工作者、――蘇同盟軍及南京政府軍事分會派遣員。
  □□団体の衣を籍る団体並其工作員
  反満抗日遊撃隊
 ②中国共産黨満洲省委、蘇同盟共産黨国際工作班
  抗日連軍
 ③其他、所謂土匪、遊撃隊との連絡者、使嗾者 資産・弾薬供給者、討伐計劃探知蒐集者。
 4、思想對策の重点
  ①黨地下組織の分布状況、の偵謀、――之れにより状況を明知す。
  ②検挙に依る組織破壊覆滅工作
  本項(4)は別に定むる計劃(即ち特別探査機関を以てする工作)により実行する。』
 (ニ)『共産黨処理要綱』の編纂と実施
 関東憲兵隊司令部は一九三六年七月八日附関東軍司令部より『共産黨処理』に関する命令を受領しました。
 右要綱の内容は『第一、思想對策実施に基き共産黨関係者は縦前の如く憲兵に於て厳重処分に附すること。 第二、日満警務機関は憲兵の區□により厳重処分に附することを得。 第三、厳重処分に附することを適當とせざる共産黨関係者は原則として軍法會審に送致す。 第四、関東憲[019]

隊司令官は要綱に依る処理に関し日満警務機関を統制す。』というのであります。 私は憲兵隊司令部治安課長として該要綱案を憲兵隊司令部第一官庁××大佐、同第三課思想對策主任将校×××大尉を指揮して起案せしめたる上、之れを軍司令部第一課××参謀に回付し、之に基き軍司令部命令として該要綱が下達せられました。依って同要綱趣旨の徹底と其実行を適確なしむる爲××・×××両人に『要綱に関する説明書』を作製せしめ、要綱と共に隊下に示達する手續を執り行いました。
 右要綱の本質と目的は一、共産黨関係者は苛なく『厳重処分』を以て□むこと。二、同関係者中には官吏公職員等の身分を有する者、學生智識分子等を包合し之れ等の所謂インテリ階級者を『軍行動による厳重処分』をもって処理することは、目前の法治尊重現含による国際関連に照して憚るところがある関係より、これを糊塗偽瞞すること爲に唐突に『厳重処分』に附することを避け一應裁判所の審理にかけ合法化を装う手段とすること。三、尚一般法員の審理速度は緩慢にて戦時情勢下の當時の偽満治安上の処理要求に適當せず因って即決主義の軍、軍法會審によって処理するを適當とする見解を固守したこと。……を魂胆とするものでありました。つまり共産黨関係者はその存在を客ず其生命を断つ方針を以てし世上の眼を欺瞞するための申譯に一部分を裁判によって合法化せんとする正に帝国主義的陰険、悪辣なる制作を露骨に現示したものであります。
 私は當時軍憲兵の幹部として極端なる反共思想を抱持し共産黨は日本帝国主義侵略上の癌腫であると考えて居りましたから徹頭徹尾之れを『撲滅』する對策と実行とを企図して参りました。[020]

従ってこの要綱の起案を指揮し發令後は之れを指示してその実行を督励し、よって多数の共産黨関係員を厳重なる処断に導き、多数の人民領導の烈士を尊き犠牲として葬るの大罪を犯しました。こゝに衷心より認罪する次第であります。
 (三)中国人民の抗日統一戦線結成及専門争行動に對し一九三四年次来其済滅工作を実行し来りましたが當時偽満に於ては此運動が盛んで各階層の反満抗日思想が昂揚し偽満の排日興論は中国本土方向の影響下に益ゝ㳽満の道を歩んで居りました。私は偽中央警務統制委員會を通じ、本運動の中核母体たる国民黨、共産黨を始め、宗教団体、社交団体、文化団体等の救国を以てする統一戦線結成団体を目標として偵察の上弾壓する計劃を樹立し、一九三六年一月警務部長通諜を以て各隊に示達し、又隊長会議の際『思想對策に就て』の講演をなした節本項に及んで掲示しました。私は各抗日団体の『検挙工作』を通じて抗日戦線結成妨害及鎮圧を憲兵隊司令部に於て指揮しました。
 (四)日本の對偽満沿外法権撤廃問題に関して一九三六年初頭関東軍司令部に沿外法権撤廃準備委員會が構成され、私は其委員を業務致しました。(偽満に於ける日本の沿外法権撤廃は一九三七年一二月一日□絶しました。)この委員會に一九三七年一一月末迄に三回出席しました。担當業務は右の通りであります。
 1、日本憲兵は偽満に於ける日本の治・廢後偽満国人に對し偽満法令を以て警察権を行使し得る爲『日本憲兵を偽満警察官と見做し偽満警察官と同様の警察権を行使し得』の偽満法令を[021]
(※「㳽」は「瀰」の異字体)

政府より公布せしむる案を作製しました。
 2、治・廢に伴い警察機構運榮上の人事異動を除き、日本警察機関を偽満に移交するに際し其編成人員等成るべき現状のまゝ移管すること。
 日本より偽満機関に移る人員の待遇は既に法権撤廃以前に偽満機関に入りたる警察官の現状待遇と均衡を得せしむるやう処遇する。
 3、『日本権益地域』内に施行せられありたる警察法規は日本人に適合にするやうに制定せられてありました。沿廢後偽満警察法令を右日本法令に基準して調整せしむる。(例へば行政警察法に於て日本人榮業者に對する取締を日本人に適合するよう該法を修正する如し。)
 本治・廢問題は侵略日本の内外に對する欺瞞政策に過ぎません。事実上既に偽満を支配する方策は軍と多数の日本人官吏を以て確立し中国人民を統制する機構を整備しありましたから治廢により日本は何等の影響を受ける情態でなく寧ろ日本憲兵の警察権を拡充し偽満警察内に多数の日本人警察官を抱擁したる等単に警察についてみると治廢によって其権力を強化したのであります。治廢は名のみ基本質は偽満を一層日本帝国主義強壓下にその権力支配の下に置いたのであります。私は其支配権実現のため準備工作に當り配置致しました。即ち武力警察力を合法化して一層人民を迫害する為の準備工作を為しました。
 (五)間島図們に於て偽満鮮警察協助協定を一九三六年一月下旬に締結されました。偽満側は関東憲兵隊司令東条英機が協定員になりました。協定事項の主たるものは、偽満治安工作に對する朝鮮[022]

例殊に国境警察機関が協助すること。また朝鮮国境警備につき偽満洲治安工作情報を絶えず朝鮮側に連絡すること、及コンチュン地方を主とする防諜工作情報の交換等に関する事項でありました。従って再後偽満鮮警務機関が協助能力を發揮して、中・鮮人民の抗日行動に當りましたから、東辺地方遊撃隊の工作、琿春地方に於ける抗日工作に大なる妨害影響を齎しました。私は本協定會議に直接参加せず司令部にありまして協定事項起案業務につき総務部××少佐の準備作業を援助指揮致しました。
 (六)偽警務統制委員會
 1、偽警務統制委員會設立の経緯
 正工作を実施しました。此方第廿治安工作に良結果を齎しました。同時に準備に於ける全警務機関を包含する連絡委員會を構成して工作の連絡を実施しました。然しながら『思想對策』上未だ警務機関の統合能力を発揮するにつき遺憾の点がありました。因って私は治安課長として関東憲兵隊司令部をして警務統制力を把握せしむるを要する上日軍の××参謀に提案しました。軍に於ても其意図を有して居りましたので、一九三六年四月一日関東憲兵隊司令官、同憲兵隊長に對し各〃其職務に應ずる日偽満警務機関に對する統制區□権を附□し一面関東憲兵隊司令官・憲兵隊長・憲兵分隊長を委員長とする、中央・地方・地區偽警務委員會を構成し各偽満警務機関統制指揮して『思想對策』を実行せしむる命令を發しました。これによって偽満警務統制委員會が構成せられました。[023]

 2、偽警務統制委員會規定、本規定は私の指揮の下に豫め憲兵隊司令部に於て××、××両大尉が協力起案しました。規定の骨子は任務(治安粛正工作治標工作中の『思想對策』を重点とす)機構(別項供述)運營(委員會を中央は年約四回必要により臨時開會、地方、月一回、必要により臨時開會、地區毎週一回)偽警務統制委員會に幹事會を附設し実行機関たらしむ、報告規定(特報、並に月報を基礎とす)経費(各機関治安工作より自体経費支辨、特に必要ある場合は偽中央委員會にて支出を考慮す)等でありました。
 3、機構、偽中央警務統制委員會は関東憲兵隊司令官を以て委員長とし、各偽警務機関の長及警務、特高、警備(警防)運長其他必要なる職員(主として治安関係者)を委員として構成せられました。委員中より各機関数名次内の幹事を兼務せしめ、憲兵隊司令部警務部長をして偽中央委員會幹事會幹事長とす。各憲兵隊本部に偽地方委員會を設け憲兵隊所轄地區内の偽警務機関の長及課長を以て委員とし必要人員を以て幹事と兼務せしめ、憲兵分隊・所在地に分隊長を委員長とする前項に準じたる地區委員會を組織せしめました。
 4、任務、偽警務統制委員會の任務は関東軍治安粛正要綱に基き治安工作の治標工作中『思想對策』として共産黨国民黨其他抗日反満政治思想関係団体分子、抗日将軍、反満抗日遊撃隊を目標とする『討伐検擧工作』でありました。即ち抗日闘争を以て『王道楽土建設の』[024]
※「治標工作」という単語は現在はほとんど使われないが警察用語として存在する
※「支辨」はかなり字がつぶれているため、入力者もあまり自信がない

反對行動であり反人民行動なり』との断定のしたに苟くも侵略日本の利益目的に反するものは偽満法令の違反者として『取締・弾壓・処理』を行つたのであります。共産黨を始め凡ゆる抗日黨團分子に對し特務警察力と武力警察力とを以て『撲滅對策』を講じました。
 (七)特別捜査班の編成、私は一九三六年四月一日偽警務統制委員會第一回中央委員會開催の際憲兵隊司令部治安課長として又委員として會議に提案しました。此時の特設理由は各地區防衛管區『討伐』に特設遊撃隊を編成して重要遊撃隊を索めてこれを消滅する方策を実施するにつき之れに即應する爲偽警務機関に於ても特別捜査班を設け遊撃隊長、幹部を消滅する工作をなすにありました。同會議に於て各機関の用意する所となり偽民政部警務司に於て一九三六年七月より治安工作重要縣三方縣に長以下二〇名の特別捜査班を設け工作を實施することヽなりました。其法案夏季工作以降毎索に遊撃隊長・幹部を『検擧討伐』し又『誘致』により抗日遊撃隊の戦力消磨に相當の影響を斉すに至りました。
 (八)共産黨『検擧工作』の準備として偵謀、培養、一斉検擧計劃の適格性を期する目的を以て、私は幹事長代理として一九三六年八月の『中央幹事會』に於て、偽省警務廰特高課に『思想調査班』の設置
方を提案し各幹事の同意を得ましたので、一再令之れを実行するに至りました。
 又偽中央委員會におさまりて共産黨を對照とする工作計劃・指揮上、資料の蒐集・情報の審査・整理、對策の決定の爲、『思想對策調査班』の設置につき大使館警務部[025]
※「廰」は「庁」の異字体
※「一再令」という単語の意味は調べてたが不明、執筆者のミスか?
※「對照」は「対象」のまちがいだろう

××幹事の提案があり、一九三七年五月第五回偽中央幹事會に於て私は私は幹事長代理として之れを決定の上実施することを指示しました。よって偽中央委員會規定第六條の二として『思想對策防共の目的を以て中央幹事會に思想對策調査班を設け研究計劃は當らしむ。其実施内容事項は別に定むる所による』旨追加致し本調査班は偽各機関より警部補級以上の適任者を選抜し一・二名宛を憲兵隊司令部に差出し××幹事(憲兵少佐)を班長として六月頃より業務を開始しました。一九三七年末『在満中国共産黨に就て』と題する文献を編纂し配布致しました。
 次上二つの思想調査班は何れも共産黨對策を更らは周到適切に実行する爲、私自ら策劃参與、実行に當ったものでありまして日本帝国主義の手先として凡百ゆる手段術策を盡して黨の『撲滅』を計った對策の一つであります。帝国主義に抗争する人民の領導機関中国共産黨に對する陰謀並に鎮壓工作実行の上に於ける重大なる罪行として衷心認罪する次第であります。
 (九)外事班の編成を一九三六年五月二五日の偽中央幹事會に於て審議決定いたしました。當時蘇同盟より派遣せられたる對日地下工作員が増加の傾向にありましたので警務部防諜係××大尉の提案たる、『従来防諜目標たる蘇同盟情報工作員の發見検擧工作は思想對策の一部として実行したりしも再後併行実施することとしたし。』に對し私は××案に同意し『憲兵偽警務機関は将来の防諜の爲外事班を[026]
※「宛」の使用法が正しいのか入力者には不明
※「凡百ゆる」の読みは「あらゆる」だろう
※「盡」は「尽」の異字体
※「再後併行実施」の部分はあまり意味が通らないように入力者には思われる

特高課若くは特務課内に設け思想對策とは別に実施する』ことに決定しました。私は常に司令部内にありまして各機関イ本工作を指揮しました。
 (一〇)集團部落の結成工作を一九三五年一月より一九三七年一〇月迄の在任間私は中央委員兼幹事として提案、決定実行指揮を致しました。集團部落の結成目的は各遊撃隊活動地域たるに範囲に於ては人民に對する、憲警の監視が及びにくいのでこの地域から人民を、憲・警の監視範内に収容し遊撃と人民との関係を遮断する爲でありました。因そ本工作を偽警務委員會の對策の一つとして実行しました。この実行については、憲兵・偽縣警察が主動員となり、武力を以て遊撃地域より住民を立ち退かしめ耕地と遠隔する等の顧慮をも言いた豫定地に移住集家せしめたのであります。又一面部落の防備施設として外囲に阻止壕を作り囲壁を築く等の施設をなさしめました。集團部落の結成工作は農民生産を生活の基礎とする農民の経済生活を根本から破坏しました。耕地の遠隔等により農耕不能に隔られ農民破産の状態を出現した例も尠くありません。私は偽満の治安確立の爲と称して多数の人民に大なる損害を與へました。誠に反人民的なる重大罪行を犯しました。
 (一一)鉄道警備對策として
 1、鉄道列車を襲撃轉覆せしむる等の謀略工作を警防する措置として、鉄道線両約百米の通視地帯を設定する對策を偽警務統制委員會に於て決定実行しました。本工作は偽満治安工作開始時より実行して参りましたが一九三五年來鉄道運行妨害事故が頻發したのに鑑み私は偽中央委員として特に之れが徹底実行を提案し幹事會の決定を得て示達したのであります。京図線、佳木斯
[027]
※「坏」は「壊」の異字体である

勃利―牡丹江線等に於て完全に通視地帯工作が出来て居らぬ所がありました。かゝる鉄路は事故が比較的多かったのであります。本工作は一九三七年に入り概ね完成に至りました。右の結果鉄道警備には効果を斎しましたが沿線住民の耕作制限(一九三五年来この地帯には高い作物の栽培を禁止しました)又森林の伐栽焼却等人民財産上に與えたる損害は莫大な額に達しました。
 2、鉄道、水路、陸路の検問強化を実行せしめました。遊撃隊員抗日地下工作員、其他警察法令違反者の發見工作を周密ならしむる目的を以て憲兵指揮の下鉄道警備隊員約三名の検問班を設けて検問工作を徹底的に実行せしめました。この工作の結果多数の人民を検擧しました。
 3、鉄道警護の爲鉄道愛護村を設け人民が自發的に鉄道を護衛する工作を従来より実施中一九三六年春季以降この業務を鉄道警護隊の専管業務(従来は『満鉄、国鉄』自ら工作を行いました)としました。目的は愛護村を鉄・警の補助体として完全に利用するにありました。私は鉄道警護隊幹事の提案を支持し軍に謀り愛護村工作を鉄・警に専管せしめて鉄道警備力の強化を実行しました。
 (一二)抗日遊撃隊『討伐検擧工作』の一つの欠陥は偽省縣境に於ける工作が不徹底に流れる傾向があることでありました。之れによって遊撃隊に配備なき一方の省縣内に離脱せしむる虚隙を作ることになります。私は委員幹事として偽各地方委員會個々の工作を避け隣接地方・地區は必ず事前連絡を遂げて工作を実行するよう幹事會に計り殊に一九三六年五月下旬の幹事會に於て審議の上同意を得之れを次索以降の對策着眼として各地方委に示達致しました。[028]
※「虚隙」は中国語か?

 (一三)民間武装を解除し遊撃隊に對する重機弾薬補給源を消滅する目的を以て自衛団用を除くの外民間重機弾薬の回収(掠奪)を実行しました。本工作は従来より実行し來りしも一層之れを徹底せしむるの要がありました。私は中・警・委を連帯し武力を検索の手段を使用して、又隠匿する者に對して厳重なる処置を以て臨み本工作を徹底実行せしめました。
 (一四)国境地帯は関東軍が偽満政府機関を運營して偽満国防並に對ソ作戦準備の爲對ソ国境線に法律的制限區域を設け該地域人民の居住権を奪い、或は行動を制限した法律であります。本法は一九三六年末頃制定公布したと記憶します。該法の根幹経項は関東軍の起案になり偽満政府をして法律案を作製せしめ更に軍にて審査の上偽満政府より公布したものであります。
 該法中の警察事項については次の如き段階を経て法制化され又施行となりました。
 1、居住証明書制度、防諜工作の実行上国境地帯居住民に身分証明書を持たしめ、検問の際偽造証明書、不正行使等の容疑者發見に資する目的を以て憲兵隊司令部防諜係××大尉起案、偽中央幹事會の審議を経、軍の承認を得、偽満法制局に回付し法律案に挿入せしめました。居住証明書發給機関は偽国境縣政府警務機関と致しました。偽造並に乱發を防止するため、日本所轄憲兵隊係官の捺印用紙を証明書に用いしめ、又本人の写眞を貼布することに定めました。
 2、旅行証明書、国境地帯に旅行する者は居住所轄警察發給(官区吏は所轄官應)の旅行証明書を所持せしめ、官憲の検問に當り身分を証明せしめました。[029]
※「官区吏」は「官吏」の書き損じを消去しなかったものか?

 3、無住地帯の設定、国境線より約深度二〇キロ米を無住地帯として日本軍陣地線は尚深度を拡大しました。本件の効力發生直前、憲警の警察力と以て強制的に法定の線外に居住民を立ち去らしめました。
 4、掲影模寫の禁止
  以上国境地帯法の施行に関係して人民の蒙りし影響は甚大なるものがあり殊に居住・旅行の制限・立入禁止等に基く人民の生活権侵害は最も大なる帝国主義的罪行でありました。私は該法案の審議・公布による對人民強制執行業務及違反取締業務に関し偽中央委員會幹事として終始参加し、掲示を與え、人民に對し大なる迫害を加えました。
 (一五)偽満洲国軍機保護法に関する審議、一九三七年三月偽中央幹事會に於て、憲兵隊司令部××幹事が偽満洲国軍機保護法の制定公布を見ざるため該報發表と軍機に抵触するや否やの標界分哨ならず困惑しありとの發言を爲しました。之れに對し私は該法は現在立案中本年一二月中、公布の豫定なりと回答致しました。其後本法の内容につき偽幹事會で審議致しましたが其内容は如何なりしや記憶に存じませんので茲に供述することを得ません。誠に申譯ありません。
 (一六)一九三七年の偽満恩赦令の發布に對し、一九三七年九月偽中央幹事會に於て『憲兵・警務機関に留置中の共産黨関係者に對しては本令をせず法的処置をとる』べく、私は幹事長代理として決定示達致しました。當時帝国主義侵略者の手先として中国の愛国抗日工作員たる共産黨員を故意に『弾圧』する思想を以てこの処置を執りました。自己の最も憎むべき罪行として衷心陳謝認罪する次第であります。[030]

 (一七)関東軍命令による電信電電話通信検閲規定に基き一九三七年一月より同検閲を実行致しました。本規定は治安防諜上の必要より私及××大尉提案、関東軍が命令して実行せしめたものであります。右提案内容は□□に電□□紙を検閲し、電話を傍受し郵便封筒を開封して内容を検閲し、若し容疑者を發見せば其發信、着信者を□□し要すれば『検擧』する等の事項を骨子と致しました。本規定の実行の実行に右の□□を採しました。
 1、電信検閲は憲兵及警察官を偽郵便電報局に派遣し検閲しました。
 2、電話は偽電□會社内に特設せる電話傍□室に憲兵を派遣し豫め□定せる目標人物の電話を盗聴
  1、或は□□に交話線に傍受□を□し入れて通話内容を盗聴せしめました。
 3、郵便通信は秘密開封により内容を検閲致しました。
 右工作の結果は防諜治安工作として情報蒐集工作に相當の成果を治めました。然れども人民の信□の秘密保障権を蹂躙侵害した陰険悪辣なる帝国主義罪行でありましてこれを審劃実行した自己罪行の重大なることを反省し衷心認罪する次第であります。
 (一八)新聞紙法・出版物取締法に基き偽警務機関に於て機関に於て機関業務を担任致しました。豫め関東軍報道班・憲兵隊司令部間の協議の上有害影□を與える政治思想関係事項・軍機保護に抵触する事項は特に注意し□要事綱は隊司令部に連絡の上処置を与ることを偽刑務機関に申入れ実行せしめました。
映画・ラジオ検閲は偽警務機関(警務司)は於て右に準じて実行致しました。
本検閲により違法行為として發行禁止・停止・記事削除等の命令処理を□けた件数は厖大なる数に上りました。[031]

 (一九)寫眞毛熱 国境地帯法違反行為に憲・警をして取締に着意せしむると共に国内要地、司令部、豫庭會等を撮影することを厳□しました。然しながら繪葉書ポスター等不用意に撮影□□□□する事例が□くありませんでした。私は偽中央幹事會に於て取締につき審議した上、例示写眞を各機関に送り着意を喚起し□令違反者に對しては写眞器材・原版・繪画等を押収する等の對策処分を行はしめました。次に取締を強化したる結果一九三七年以降違反事例は激減するに至りました。
 三、人民鎮壓に関する事項。
 (一)牡丹江土龍山に於て一九三四年春季以来自衛団を中核とする武装蜂起事件が發生しました。同事件は関東軍が開拓村を設□せんとして人民の土地を多量に掠奪したことに起因して發生しました。現地人民は激昂の局に達し自衛団長(或は保長?)謝文東が中心となり自衛団に□其他土地の有志がこれに参加し、現地人民の熱烈なる支援の下に抗日遊撃行動を持續しました。この謝文東遊撃隊の『討伐』は一九三四年度來実施中でありましたが、日本軍は□ヽ反撃をうけ遂に□隊長××大佐は戦死する等の事がありました。一九三五年に入り更に大規模の『討伐』を行うことヽなりました。私は治安課長として『討伐部隊』配属憲兵の兵力區・偽警察隊の兵力法定(約五百名を吉林省より出勤)並びに遊撃出動につき偽警務司當局との□□□、軍との連絡等各種業務に當り、以て憲兵隊司令部に於て本『討伐工作』に策劃□□與しました。 謝文集東司令は一九三六年六目屯に遊撃行動で停止し誘致工作に應じました。
 (二)敦化に於て一九三五年二月私自ら遊撃隊『武装解除』を実行しました。偽吉林省末高兵團(兵団長××[032]

文□)隷下偽敦化守備隊長大佐××××は□□工作により反満抗日遊撃隊百五十名を敦化□□縣境より敦化市内収容所に収容しました。誘致條件は『武装解除』をなさず、一定地域の警備に充當する約束が取□はされてありしため、収容所に於て武装のまヽ約十日間□禁しある状態で□□しました。この事が関東軍司令部には□□となり、□□調査の上解決の任務を帯びて、私は現地は出張収容所の状態を実施しました。其結果『武装解除をなさざるは軍の方針に反し且誘致は無條件たるを本別とする断乎武装解除すべきである』□□××大佐に意見を述べ遂に××大佐を同意せしめましたので収容遊撃隊の『武装解除』を私の意途に依り実行しました。中心幹部約一〇名は部隊に於て利用し他は解散帰農せしめました。私は××大佐をして遊撃隊と締結した條件を□□せしめ、遊撃隊を『武装解除』し其武器弾薬(小銃約一五〇、拳銃約二〇、弾薬多数)を押収掠奪しました。
 (二)関東憲兵隊司令東条英機は一九三六年二月上旬磐石、樺甸両縣の治安不良なる情況に鑑み其一部地區を視察しました。私は之れに□行しました。この□□に右両縣を所管地區とする吉林憲兵隊長×少佐を同伴しました。××偽副縣長の案内にて同縣城北方約四〇キロ米の農村の□□情態を視察しました。其附近一帯は過去縣下□□の農耕地でありましたが、日本軍の侵略により農民の大部は避難し耕地は荒廃状態に當りました。尚樺甸副縣長も磐石に□□□其報告により同縣も□□□□状態にある旨を承知しました。當時其責任を抗日遊撃隊に負はせ、その遊撃行動を速かに『消滅』して農民の□地□□を誘致すべきである、との方策を□て××分□長に對し磐石樺甸地區の抗日聯軍を果敢に『討伐検擧』するよう指示しました。[033]

尚此機に□□□江両縣を管區は□□□憲兵隊長が□□××を□□に□□し□□□□□□□□□縣『討伐□□』につき現地□□を開き、私は□□□□□□各縣境にある抗日聯軍第一路軍×××司令直轄舞台を該地區に包囲し、來るべき□□□に於て軍各機関と□切る連□□の下は『討伐検擧』を実行することを掲示しました。此會議決定案に基き春季工作を実行しましたが抗日聯軍は□□も『討伐』側の企図を察して事前に□江縣方面に移動しました。従って同春季工作に於ては大なる結果を得ませんでした。當時の具体的検擧状況は記憶しませんので、こヽに記述するを得ません。
 (四)熱河省青龍縣反満抗日遊撃隊(×××司令)並錦州省朝陽縣反満抗日遊撃隊に對し一九三五年三月中旬、西南地區防衛西部は錦□□は満軍警をもって大『討伐』を実行しました。私は治安課長として承徳憲兵の配属憲兵□出計劃並命令下達に従事し、又憲兵隊司令部に於て承徳憲兵隊の『討伐検擧』の指導と同隊の報告取締業務に當りました。又警務部より××少佐と現地に派遣した『討伐検擧』工作を指導せしめました。本工作の結果×××遊撃隊長は敗北し又青龍朝陽両縣遊撃隊は消滅しました。
 (五)偽奉天地方委員長が××××は東辺路に於て×××将軍の遊撃隊を本目標とする特別工作隊を編成し工作を実施する計劃を報告しました。之れは一九三六年四月頃でありました。其計劃は奉天憲兵隊□□長××××を長として誘致工作により獲得せる約一〇〇名を基幹とする特設遊撃隊でありました。私は偽中央委員としてこの計劃を支持し□□、□□、□□等につき援助を與えました。其後一九三九年私は警務部長として在任の時××工作隊を□□東辺道討伐部隊に配属し□□軍の『討伐誘致[034]

工作』を実行せしむる等同工作隊の運用援軍を致しました。尚同工作隊の活動に對し関東憲兵隊司令官の黨□を□□する手續を執行しました。
(六)海□□憲兵隊に於て一九三五年(月日不詳)偽興安軍司令官××××を首領とする□□を□□とする抗日行動と劃策中の約十名の行動を探知し偵察を進めた結果略明瞭となりました。因って之れを司令部に報告して参りました。司令部に於て『一斉検挙』を決定し、私は検擧命令案□□防諜係××大尉を現地に派遣措置に當らしむる等警務部長の業務を補佐しました。海□□憲兵隊に於て××司令官及一〇名の偽満軍官を『検挙』し××××司令官の寝台に隠匿しありたる多額の金貨を証□品として押収し人員を偽軍事部軍法會審に送致致しました。××××は死刑、其他一二年及至七年の徒刑刑決を□け処理されました。
(七)一九三六年四月偽牡丹江市の新設・牡丹江―図□鉄道の建設・羅津港の建設に関聯し延吉憲兵隊牡丹江憲兵隊の所管地區内防□治安工作は重要性をを加えました。重要建設工程を阻害する愛国行動を『弾壓』する目的を以て私は業務部員として両隊に出張し建設途上の現地一部情況を実視すると共に工作情況を聴取し且□水兵団(□中時□水□□)参謀長大佐□□□と協議の上牡丹江郊外□河及延吉の日本侵略軍兵營並附属□軍事施設建設の中国人勞働者、牡丹江―図們鉄道工事中国人勞働者、並に各地より図們牡丹江方面に流入する人民並に混入する對日地下工作員及治安攪乱工作員の情況を偵知し有害分子の『検挙工作』を徹底すべき両憲兵隊及両偽地方警務統制委員會を指導しました。 其結果、各憲兵隊は主として軍工事場及鉄道に偽警務□□は牡丹江延吉に流入する人[035]

民に對し偵諜検問を以て容疑者の『検挙』を行い極めて多数人民の□禁投獄しました。尚□河軍□築場に於て對日地下工作員一名を『逮捕』し『厳重処分』に附しました。
(八)関東憲兵隊の兵力は一九三五年に於て約一八〇〇名でありました。日本侵略政策に要する関東郡の兵力増強・偽満洲国建設工作の進展に伴い関東憲兵隊の編成配置をより一層完□増強することが重要であったため現有兵力を増加し約三〇〇〇名とする計劃を一九三五年一〇月頃審議し決定しました。私は部員として審議に参加し主任将校××少佐(総務部第一課長)を指導援助しました。この計劃案は関東軍を経て陸軍省令として一九三六年四月に実施し□□所轄の結果を見ました。私は帝国主義侵略の爲の憲兵力を増加し人民鎮壓を強化する計画・工作に参加しました。
(九)一九三六年四月本渓湖中心安奉線地區共産黨反帝反□運動に對する『一斉検挙』を偽中央警務統制委員會統制の下に関東局警察機関が中止となり実行致しました。本検挙の結果人員数は記憶に□しませんが国境域一帶の黨組織は『消滅』に至りました。 又偽奉天地方委員會に於て、奉天、撫順、鞍山□□に於て共産黨地下組織の『検挙』を行い又実□縣下黨組織の『検擧』により統計約五〇〇名を揚げました。その処理結果について記憶に存せず供述致し得ませんことを誠に申譯ありません。 が以上により南満省委、撫順特委等の中心勢力は破□せられました。 私は中央委員として司令部に於て右工作情況の経過取締の報告、連絡並に経費事項等につき業務に服し該工作を援助致しました。
(一〇)熱河省□平、豊寧両縣長城線にある偽熱河省警察機関に對し河北側よりする遊撃危襲
が頻り[036]

に実行せられ一九三六年春季頃最も熾烈でありました。偽中央委員會は辺境警備の万全を期する爲偽承徳地方委員會を督励し処置を構せしめました。私は偽警務司を通じ其警察力強化に関する打会を実施し偽承徳地方委員會を援助しました。
(一一)各地區防衛管區の日偽満軍の治安工作『討伐』に併行し憲警の治安工作『思想對策』は私の部員在任間各年度・春・夏・秋・冬の四季に亘り『討伐検擧』を行いましたが其結果全期に亘る統計数は記憶に存じませんが人が一九三五年一〇月より一九三六年三月末迄の六ヶ月間に於ける憲・警の総検擧数は六五八件、一一、八九〇名、誘致人員六四六七名となって□ります。又軍の『討伐』数は一二、四二五名でありますと次に総計三〇七八二名、と示しております。當時人民の抗日行動に對し日満軍・警の『討伐検擧工作』により如何に多くの犠牲者を出したかはこの一部分の数字を以ても知ることが出来ます。私は治安課長として右工作の計劃・実行或は指揮又参加して大なる罪行を犯しました責任を負う次第であります。
(一二)奉天憲兵隊長が□中佐は一九三六年四月奉天交通銀行に所謂適正預金約二〇〇万円あるを以て之れを差押へ□□□司令部に報告しました。私は該預金は一部敵性公金であり其大部分は人民預金であり九・一八以後預金者が国民黨統制區域に居住するため預金を其儘となしあることを承知しながら、上司の承認を得□□体調に對し、警務部長名を以て即刻実施すべき旨指示をなしました。□□隊長は部下将校を派遣して右銀行預金約二〇〇万円を差押(掠奪)之軍司令部に送附しました。私は人民預金掠奪工作を援助しました。
(一三)アメリカの銀員右めにより一九三六年四月頃河北方向より山海関を□て多額の現大津が偽満内に密輸入され[037]

偽満内を□□して安東より朝鮮に流出しました。これを警察法令違反として私は銀差押えを□劃し山海関憲兵分隊長に對し警務部長通牒を以て差押実行を掲示しました。同分隊は国境線に於て密輸工作員を『検擧』し相當額の銀を掠奪しました。この掠奪銀は関東軍に送附せしめました。□は何□□しや記憶致しません。
(一四)一九五六年六月より各隊をして共産黨地下組織偵察工作を実行せしめありし所同年春季□□□憲兵隊に於て北満□委□□□以下一〇名余を『検挙』し□置中□□□が離脱しました。このことは他隊の黨偵諜と『検挙』に重なる影□を齎しました。哈爾浜憲兵隊は□□□の離脱により同地□□□に必らず連絡あるべきにより『検挙』の時□につき考慮を要する旨上申しておりました。偽中央幹事會は審議の上私は治安課長として警務部長(幹事長)名を以て六月一五日各関係隊は黨員を検擧すべきことを指示しました。其結果各隊は左□の如く共産黨を『検擧』しました。
哈爾浜憲兵隊 五二名   斉斉哈爾憲兵隊 三八名   牡丹江憲兵隊 二九名   新京憲兵隊 一三名   海□□憲兵隊 一二名   計 一四四名
 備考、この『検挙』数は中間報告で未だ確実数字ではありませんでした。
 六月一八日偽中央幹事會におきましては右『検擧』の結果確定数を知りました。その報告によりますと總『検擧数』一七二名、其中四〇名八七名は智□分子(教職員等)であることが判明しました。よそ私は黨工作員として智□分子たる學校教職員等に□分の□意を要することを偽幹事會を[038]

通じて掲示しました。 尚□に至り(国年一一月)右『検擧』中に哈爾浜国際交通局が含まれありしを知りました。 本『検擧』は東北に於ける共産黨に對する第一回組織的『検擧』と見るべきものであり、黨の抗日工作に甚大なる影響を□來せるのみならず多数の人民□□を黨□□より消耗せしめ抗日戦線に重大な損害を斎しました。私は本『検擧』工作については最初より参加し工作の主謀、劃策、実行指揮に□って□々私の罪行中顕著なる事項として茲に衷心より認罪するものであります。
(一五)湯原縣城の襲撃が抗日聯軍第二聯軍によって一九三六年夏季に実行されました。同軍は襲撃に際し日本人偽副縣長次下官吏を数名斃しました。私は治安課長として湯原憲兵分隊長に對し、其西北方山地帶の第二路軍根拠地を軍と□□し徹底的に『粉砕』すべきことを指示しました。同分隊長は偽湯原地區委員會を指揮して、□□偵察を行い、同年秋季『討伐検擧』を実施して該聯軍を『駆逐』しました。然しながらその具体的情況については記憶しませんので茲に詳述するを得ません。又當時聯軍の奇襲戦法につき之を偽中央委員會に報告して地方縣城警戒につき指示を與えました。同年依蘭縣城の襲撃事件もありしと存じますが記憶明瞭ならず、茲に供述を為し得ません。
(一六)偽満皇帝は一九三六年九月一六日公主嶺を迭視しました。依って事前に公主嶺を中心とする共産黨関係、各遊撃隊の『討伐検挙』工作を実行し特に磐石伊通地區の『検討』を実施し警備上□□なきより同月初旬の偽中央幹事會に於て幹事長代理として指示しました。右に依り偽公主嶺磐石地區委員會は所管内の『討伐検擧』工作を実施し偽皇帝の迭視は事故なく終了しま[039]

ました。右送致の事前並に當日の警備に関する工作につき、私は中央幹事長代理として司令部にあって工作を□劃し人民鎮壓工作を指揮しました。
(一七)虎林饒河富錦憲兵隊の防諜工作指導の爲一九三六年九月上旬私は高級部員として、以上各隊に出張し特に冬季□□時の越境警戒に備え、情報関係の抗日地下工作員の發見工作につき支持を與えました。指示した主なる事項は①国境配備の日満軍警、特に特務機関との□□□□□□、情報の交換、を行い情況を明にして工作に當ること。②密偵 連絡者を以てする視察警戒組の構成 ③検擧取調上の□意事項④□□交通路、鉄道、汽船、□□等の鉄道警護隊員との合同検問検索の強化等でありました。 再度同方面防諜工作は漸時發揚するに至り、佳木斯憲兵隊の當該検擧数は大部分同方面の『検擧』によるものでありました。
(一八)一九三六年九月一日より僞中央警務統制委員會は夏季『思想對策』に引續き同方針の下に秋季『思想對策』を実行しました。この九月中の『總検擧数』は左の如くであります。
   『總検擧数』   三一七四名
   法院送致   九一二名
   厳重処分   二七六名
   利用     一三六名
   釋放     一三二四名[040]

私は部員、委員、幹事として右検擧工作に司令部に在って工作の計劃、工作指揮業務を執行致しました。
(一九)私は僞中央委員、同幹事として一九三六年七月六日同會議席上『北満に於ける去る六月一三日共産黨検擧の結果検擧者一七二名四〇%八七名は教職員なりしこと。黨員獲得の為、中國共産黨が智識分子を重視しあることはこの数字により明かである。各機関はこの情況に着意し黨組織の索出検擧に努力すること。』を提示しました。午後、憲・警はこの着意を以て偵察工作を進めました。関東局警察も亦この着意により安奉線沿線の黨組織を偵諜中安東に於ける抗日團体保團會の組織を探□し一層内査を進めた結果同年一一月(日時不詳)安東保團會會長僞安東省教育廳長以下會員六〇名を『検擧』しました。而してこの人員と僞奉天地方委員會を経て僞奉天高等法院検察廳に治安維持法事案として送致しました。私は中央院□幹事として本『検擧工作』につき憲兵隊司令部に在って本年七月以来参加し捜査の結果整理、對策指示、『検擧実施』につき業務を執行しました。
(二〇)私は僞承徳地方委員會をして従来英・米・其他外国宗教団体が自衛の理由を以て武器弾薬を貯治安工作上藏し僞満治安工作上陰然たる抗争武力の□を是して居りましたから、宗教団体の反對を押し切り武器類を回収しました。結果小銃三二一、弾薬七四・一七三、平□弾一〇〇を押収しました。
(二一)一九三六年冬季工作につき同年一一月二七日私は幹事長代理として僞中央幹事會に於て左の如く指示しました。
(作成者注:「平□弾」は、「平揚弾」か?)[041]

『抗日聯軍は経過累次の討伐検挙工作により東辺道地區、第二□軍は牡丹江省地區、第三聯軍は濱江省、竜江省地區山岳に、又×××将軍の遊撃隊は間島適化両省密林地帯に壓迫せられたるも依然として遊撃戦を續行中である。因って各地方委員會は冬季盗伐検擧工作を徹底すべき、各山岳地域個々の根據地にある遊撃隊相互の連絡を遮断すると共に、遊撃隊の兵器弾薬、糧食衣服の補給工作を隔絶して其戦力を滅殺する方策を併用すべきである。又共産黨の検擧工作は従来の工作に鑑み、要すれば温存□□して更に内定を續行し成るべく黨組織の全貌を把握することに努むるを得策とする。』この提案に對する各機関は同意しました。よって特別事務あるものを除き来年四月以降は『一斉検挙』を実施する事に協議を決定しました。この協議案は同年一二月四日実施の偽中央委員會第五同會議に報告したる上実行に移しました。
 以上の對策方針に基き各偽地方委員會に於て一層偵諜工作を進め一九三七年四月中旬『検擧工作』を開始し奉天、新京、哈爾浜、大連、牡丹江、斉斉哈爾、海拉爾、撫順各地區に於て夫に『検擧』を実施しました。而して本『検擧』人員処理結果等の具体的供述をするだけの記憶がありません。此『検擧』につき私は終始関與し計劃主案、對策の審議偵察工作案につき司令部に在って指揮執行致しました。
(二二)斉斉哈爾日本軍駐屯部隊の軍事機密□□暗号書類紛失事件が一九三七年五月に發生しました。僞斉斉哈爾地方警務統制委員會を督励し其索出に當らせました。①斉斉哈爾市に□□及附近一体部隊の一斉検索 ②暗号搬出推定路の検問 ③逮捕せる暗号搬出容疑者の自供による河水捜索、[042]

④ソ聯と連絡ある人民、遊撃隊と連絡する疑ある人民其他警察法令違反者等の一斉検挙を行う等でありました。この捜索の結果は暗号書は發見するに至らず、唯××という人民が暴力的捜索の對照として□□る壓迫と不法取扱いを□けました。私は司令部に於て本事件の捜索につき斉斉哈爾機関を指導しました。
(二三)所謂七・七事変が一九三七年七月七日に勃發を間もなく関東軍は其一部を関内に出勤せしめました。私は高級部員として、関東軍戦斗司令所(長總参謀長中将東条英機)□属憲兵長として警務部大尉××××を選定派遣しました。又各隊に對し所管内治安確保に任すると共に軍輸送警務に對する警戒援護並に『民心の動向査察』等に遺□なきより示達致しました。
(二四)私は治安課長として一九三六年一月以降邪教宗教團体たる紅鎗會等が安東地區、濱江省海倫地區等に於て抬頭して参りましたのでこれを処理すべき関係僞地方委員會に指示して、僞満法令を適用して之れを禁止せしめました。又□□の動□を□察し若し秘密會合を發見せば治安維持法を適要して之れを□□せしめ中心人物は之れを『検擧』する對策を指示しました。
(二五)一九三五年五月一日、憲兵隊長會議を関東憲兵隊司令部に於て開催の節私は治安課長として警務部長指示事項中に『共産黨検擧對策』を掲げ各隊に指示しました。指示の要旨は
『1、各隊は特別□□班を設けて所管地区内共産黨地下組織を偵諜すること。
 2、索出したる目標を□□□□し或るべく組織□の全貌を把握すること。
 3、機を見て司令部に於て統制の下に一斉検擧を行う』[043]

憲兵隊は以後偵諜工作をつづけ、同年九月上旬警務部長名を以て私は各憲兵隊に對し『一斉検擧』を指示しました。
その結果『検擧数』   八一件   三六七名
    処理内譯『厳重処分』   一七名(各隊取調報告に『厳重処分』の意見を上申しているものを私は課長として審査の上其処刑執行を司令官命令を以て各隊に示達し銃殺せしめました。)
   『法院送致』   四三名
   『利用』     二三名(各隊に於て以後の捜査に利用するものであります)
   『譯放』     二〇四名
   『取調中』    八〇名
私は本事件の捜査計劃、同工作検擧処理につき憲兵隊司令部に在って五月一日より十月□日間五ケ月に亘り参加し全工作の実行指示に當りました。[044]

新京憲兵隊長当時(自一九三七年一一月一日至一九三九年二月末日)
一、私は関東憲兵隊司令部から一九三七年一一月一日新京憲兵隊長として転任しました。其時は中佐であり一九三八年三月一日大佐に進級しました。
 新京憲兵隊は当時の吉林省を管区とし、軍事警察務軍機保護、軍司令部の警戒、其他軍機関の警戒、軍人軍属の非違犯罪の取締等)の外、治安上の警察務を主なる任務と致しました。
 新京憲兵隊の編成配置は概ね左の如くでありました。
  新京憲兵隊本部 副官室 少佐以下一五名
  特高課         少佐以下二五名
  新京北憲兵分隊 分隊長 少佐以下四〇名
  新京南憲兵分隊 分隊長 中尉以下二〇名
  公主嶺憲兵分隊 分隊長 大尉以下二〇名
  吉林憲兵分隊  分隊長 少佐以下三〇名
  敦化憲兵分隊  分隊長 大尉以下二〇名
  敦化   分隊は一九三八年七月一日
延吉憲兵隊より移管   編入されました。
計               一七一名

二、人民鎮圧に対する方針対策
(一)就任当時治安防諜に関する指示事項
「1.新京憲兵隊管区は偽満洲国の心臓部にて、首都新京を中心として関東軍司令部、偽満政府機関、其他日満中央機関が彙集し、政治経済の中心地である。又公主嶺、吉林等地方都市は、軍高等司令部、省公署所在地にて地方政治経済の重要都市である。所管内に発生する事件は敏感に波及し、民心に刺激動揺を与える。よって軍政機関の保衛警戒並に首都を中心とする治安攪乱工作を未然に防圧し、特に思想対策を工作重点として其万全を期す。
2.思想対策は、都市を中心とする治安平定地区に於ける共産党、国民党地下組織の偵諜弾圧工作を行うと共に、治安不良地区たる永吉、磐石、樺甸、額穆、敦化各県に於ける抗日聯軍第一路軍及朝鮮遊撃隊を重要目標として討伐検挙工作を実行する。
治安平定地区に於ける党検挙工作は、憲・警機関とも工作計画に基き各ゝ特別捜査班を編成し、偵諜 索出工作を行い、機を見て隊長命令により一斉検挙を行う。
 抗日聯軍、其他遊撃隊に対しては軍の討伐に即応し、配属憲兵及討伐警察隊は前季工作に引続き討伐検挙工作を実施す。特に吉林省警察庁に於て数個の特別捜査班を設け、軍特設遊撃と共同して有力なる遊撃隊長を目標として工作を実行す。
 抗日聯軍情報蒐集は最も重要なり。憲・警は特務能力を発揚して工作に努め、獲たる情報を機を失せず報告、通報して生きた資料とすること。
3.遊撃隊と人民とを分離する為、一層集団部落の結成を行き亘らせる。よって吉林憲兵分隊は偽警務機関と聯系し、治安不良地区の右情況を調査し、之れに基き憲・警協同して計画的に実行すること。尚討伐地区・隣接地区の人民にして游撃隊に通する者、或は支援、補給工作に携る者を徹底的に検挙すること。
4.都市県城、農村に潜入する游撃隊員を発見検挙すること。
5.游撃地区に通ずる交通路の検問を強化する。
6.鉄道交通路を厳重に検問検索する。
7.防諜工作は憲兵・警察共外事班を強化して、抗日地下工作員の発見偵諜を進め、市に於ては特に旅館、妓楼、劇場、偽装商戸、屑物商等に密偵網を敷設し、列車、駅検問班を強化する等各種対策を計画、実行して、地下工作員の発見偵察に努むること。尚通信検閲、並に軍特設通信班と協同する無電連絡工作の発見工作を併せ行うこと。
(二)一九三七年一一月初旬、新京北・南憲兵分隊、及偽首都警察庁の「厳重処分」に附すべき中国人約三十名を 隊附××憲兵少佐に指揮せしめ、偽首都警察庁押送用バス二台に分乗せしめ、憲兵偽警察官約四〇名を以て護衛し、偽新京東北方約二〇吉米の刑場に押送途中、被護送遊撃隊員一名が手錠を装したるまゝ警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、其場に斃し離脱を計りました。××少佐は後部車輛にありましたが、急遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄部落より自衛団を集めて遂にこの勇敢なる遊撃隊員其他全 員約三〇名を射殺し、引揚の上其顛末を報告しました。私は××少佐が臨機応変の処置を講じたことに対し賞詞を与へました。本件は被押送者が受刑の直前、必死の最後的反抗闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指揮官××少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射撃屠殺致しました。私は隊長として××以下を指揮し、この屠殺を実行せしめたのであります。しかも当時××に対し賞詞を与へて居ります。私の罪行は最も厳重であります。茲《ここ》に衷心認罪致します。
(三)一九三七年一一月初旬、新京憲兵隊本部に於て隊下分隊長の会議を開催致しました。この会議に於て治安工作につき指示した事項は左の如くであります。
「抗日聯軍第一路軍は樺甸、磐石、額穆、敦化各県山岳地帯に於て、又第二方面軍は安図、濛江各県より敦化県方面に亘り游撃行動を展開しあり。よってこの抗日聯軍を主目標として思想対策を徹底せんことを期す。就中軍討伐と聯系して、楊靖宇司令統率の第一路軍直轄部隊の根拠地を覆滅する計画の下に対策を実行する。就ては警察力を集中して之れに当る為、警察隊の増援を計り、各討伐地関係の憲警は討伐工作に即応する管内警備を強化すること。」
以上、対策に基き軍「討伐」と協同して憲・警の「討伐検挙」を実行した結果、楊司令の直轄部隊は約一〇〇名の損傷を出し、春季金川、輝南方面に移動しました。右冬季工作に於て配属憲兵により「逮捕」し、吉林憲兵分隊に後送した聯車隊員約二〇名は、其中約 八名を「厳重処分」に附し、五名位を法院に送致し、他を利用又は釈放しました。
(四)一九三八年一月二六日、関憲警第五八号をもって石井細菌化学部隊と関係ある憲兵隊司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなることを察知しました。
私は右命令に基き処置を取りましたが、当時如何なる手続を経て何名の人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、こゝに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡 したことについては、一九三八年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐××××が、一九四八年ハバロフスク国際裁判法廷に証人として証言したることにより、之れを確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基いて、私は新京憲兵隊長として之れに対する措置を実行したのに相違なく、従って私は石井細菌化学部隊の試験工作に封帛助協力して国際法規に違反し、非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であります。
(五)一九三八年二月中旬春季「討伐検挙工作」につき、吉林分隊に於て憲・警機関の会議を施行し、私は会議に臨んで対策指示を致しました。其要旨は左の如くであります。  「前冬季工作により相当の成果を揚げ、第一路軍楊 司令直轄部隊に其約五分の一の損耗を与えたるも、該部隊を金川方面に逸したり。就ては来る春季工作に入る前に同軍と連絡ある人民の一斉検挙を実行し、一面 吉林、及各農村に潜入せる隊員を索出検挙すこと。
 春季工作に於て吉林地区は依然第一路軍に対する工作を実行す。之れがため通化独立憲兵分隊との連繋定を遂げ、彼此相呼応して工作を実行すること。(之 れがため吉林分隊長及吉林省警備課長を通化に派遣し協議せしめました)
 第一路軍に対する情報蒐集を適確にし、同軍の移動方向を予め把握して、捕捉殲滅を期すること。」
 春季工作は一九三八年三月中旬より開始しました。
之れに先行して聯軍に連絡ある人民を「一斉検挙」し、又都市農村潜入の游撃隊員を「逮捕」し、「討伐検挙工作」により聯軍隊員に又人民に多大の犠牲を出しました。この春季工作を通じて憲・警の総「検挙」数は約七〇〇名に達しました。私は隊長として各工作を画 策し、指揮し、且つ「被検挙者」の処理につき之れを指揮して多数の「厳重処分者、法院送致者」を出しました。
(六)一九三八年四月中旬、偽新京・吉林市に於て共産党員約一〇名を検挙しました。本検挙は一九三七年一一月、憲警連絡打合せの上、各々特搜班にて内偵を進めた結果、中・小学校職員中に党関係者あることを確かめ、司令部の承認の下に害で警聯系「検挙」したものであります。二名を法院に送致し、三名を偽新京市に引渡し解職となりました。吉林に於ける分は、吉林警務庁に於て取調べ処理しました。
(七)一九三八年四月下旬、国民党関係者を検挙しました。
本件は憲・警特別捜査班に於て予ねてより査索中、偽新京特別市政府機関内に同党員の潜在しあること、及之れと連絡関係を有する吉林市政府内同党関係者あることを探知したる結果によるものにて、新京、吉林併せて十数名に上る「検挙」であったと存じますが、中約一五名を法院に送致したと記憶致します。
(八)一九三八年五月中旬、夏季治安工作につき左の指示をなしました。
「1.夏季工作につき吉林憲兵分隊は、依然第一路軍に対する「討伐検挙」を行う。楊司令軍は農作物繁茂期を目指して再び磐石、樺甸地区に侵入せんとするものゝ如く、依って樺甸濛江県境に於ける配備を強化し、通化地区機関と相呼応して聯軍捕捉消滅工作を実行すること。又敦化、寧安地区の游撃隊は南下して第一路軍と連絡を策する企図あるものゝ如く、最近情報は活溌なる行動を報じあり。よって夏季工作に於ては、第一路軍と敦化方面港撃隊の連絡を遮断する為、交通路検問を強化すること。
2.吉林、敦化両憲兵分隊は緊密なる連繋の下、一部警察力をもって敦化討伐工作に呼応し、敦化、額穆、永吉県境工作を果敢に実行すること。
3.春季工作により脱離せる都市農村潜入港撃隊員検挙工作を徹底すること。」
この夏季工作は六月下旬より実施に入りましたが、七月より敦化憲兵分隊が新京憲兵隊に編入せられましたので、第一路軍と第二路軍の合作妨害工作上、著しく効果を上げました。第二路軍の鏡泊湖《きょうはくこ》方面よりする南下企図を挫折せしめました。
(九)一九三八年五月、関東軍司令部航空写真製図班を新京に設置し、工作を開始しました。製図用機器及製図は軍事機密扱となって居り、又製図は国防軍事工作、治安工作、偽満政府土地整理工作に必要欠くべがらざる資料でありましたから、私は隊長として、其防諜並に 警備警戒につき、新京南分隊に命じて之れが任務に当らせました。
(一〇)一九三八年六月上旬、偽満皇帝は、安東、鞍山、撫順、奉天を巡視しました。此時偽新京市内、管内鉄道沿線に亘り偽皇帝に対する危害を防制するため、厳密なる警衛警備を実行しました。特に事前に政治思想上視察中の要注意人の検束、拳銃・手榴弾の検索を行い、又偽皇常の出発帰還当日、交通整理、堵列部隊の掩護、停車場の警戒等により、人民に対し交通遮断、立入禁止等、大なる制限抑圧を加え、且つ警察制令に違反せる人民に対しては過度の処理を以て臨打等、反人民的対策を実行しました。
(一一)一九三八年七月初旬、敦化憲兵分隊を初度巡視しました。敦化分隊は延吉憲兵隊より新京憲兵隊に移管編入替(同年七月一日)となりましたので、該分隊を掌握するためにこの巡視を行いました。敦化県の治安情況は当時、敦化―鏡泊湖道に沿う地区、又敦化額穆県境附近に遊撃隊の行動が活溌に行はれ、東辺道方面第一路軍と協同遊撃行動をとらんとする関係にありましたから、分隊長××大尉に各機関との連絡を一層緊密化し、第一、第二路軍の連絡を遮断するやう指示しました。よって敦化分隊は軍「討伐」に即応し、吉林機関と協力し夏季以降の工作を実行しました。其結果抗日聯軍の連絡工作は、或る程度挫折し得たと認めます。
(一二)一九三八年七月上旬、新京憲兵隊本部特高課外事班は偽新京児玉公園に於て街頭連絡中の蘇同盟関係抗日地下工作員中国人二名を発見「逮捕」し、留置中、共謀逃走を企てたる理由により二名を「厳重処分」しました。私は隊長としてこの「厳重処分」を命じました。
(一三)一九三八年七月下旬、偽新京市内に偽装商戸を構えて日本軍軍情を蒐集する抗日地下工作員二名を外事班に命じて「逮捕」の上、「厳重処分」せしめました。本件は、この二名と連絡を有する奉天工作員一名が憲兵特務の追跡をうけ、自爆即死したる通報を受けましたので、逃走を慮れて右二名を処分したのであります。私は隊長として命令をもってこの二名を部下をして厳重処分として銃殺せしめました。
(一四)一九三八年七月下旬、新京駅、寛城子駅中間の急造バラック式部落を検索整理せしめました。この部落は一九三七年頃より漸次に部落的集団家屋を見るに至ったものであり、部落民は各地より流転してこの地に居住するものが大部分でありました。保甲制度も確立しあらず、衛生施設も甚だ不備であり、且つ警察の捜査にも困難の場所でありました。依って偽首都警察庁と協力して部落の整理、粛正工作を実行しました。其結果、行動容疑、身元不明確、遊民、密買売等の理由の下に、多数の「追放者、逮捕者」を生じました。本部落民は生活上困窮しあることは一目明瞭でありました。当時之れに対する救済善導の措置を少しも考慮することなく、徒らに部落人民を圧迫し追放する等の対策をとり、多数人民をして益々窮境に陥れました。
(一五)一九三八年七月下旬、新京駅貨物倉庫に謀略放火と認なる火災事件が発生しました。私は隊下を指揮して厳 重なる捜査を実行せしめました。火災現場検証により放火材料(マッチを加工したるもの)を指定されたる位置に装置したる中国人労働者一名を「逮捕」し、続いて倉庫に働く労動者多数を新京北憲兵分隊、偽警察機関にて取調を行はしめ、工作中心人物を発見せんとしましたが目的を達成しませんでした。私の捜査命令により多数の人民に対し凡百ゆる拷問を行い迫害を加えました。
(一六)私の新京憲兵隊長在任期間を通じて各憲兵分隊は所管地区内軍倉庫、官舎等より警察法令違反事件被害届を多数受理しました。憲兵は之等事件の中、重大事件を除くの外は、微罪不検挙の方針の下に刑事訴追手続を省略し、被逮捕者に対し将来を戒むる理由によって横打暴行等凡ゆる帝国主義的野蛮手段を加え、然る後釈放する処理法を採りました。私は部下が人民に与へた不法行為に対し、深く其責を負う次第であります。
(一七)一九三八年一〇月上旬、吉林師導大学学生中に思想動揺現象のあることを吉林分隊が偵知しました。私は予ねてより学生の思想動向に著意するよう指示しておりましたから、其機に容疑者の思想調査を分隊に命じました。分隊は思想上要注意学生約一〇名を分隊に於て取調べました。結果は特に注意を要する程度にあらざりし為、説諭の上学校に引渡しました。然しながらこの取調べにより、全学生に対し無形の威嚇を行い尠からず学内に刺激影響を与えましたことにつき責を負う次第であります。
(一八)一九三八年一二月一日、敦化憲兵分隊に対し検閲を行いました。目的は同年七月指示した事項の実績を点検し、爾後の対策を指導するにありました。実績より見て敦化-鏡泊湖方面の遊撃隊は概ね分散しましたので、此方面にも偽警察の配備に委し分隊は東辺道方面額穆、樺甸県境の第一路軍に指向することに決定し、秋季工作に引続き冬季工作を実行せしむるよう指導しました。
(一九)一九三八年一二月三日、吉林憲兵分隊に於て冬季工作に関し会議を開催し、私は冬季結氷期を利用し磐石樺甸県境山岳地帯内に越冬する第一路軍を「追撃消滅」すべく指示しました。吉林省の用い得る警察力を動員して冬季工作に充当することとなりました。軍の「討伐」と併行して「討伐検挙」を行いましたが、第一路軍の軽快神速なる行動により、却ってその奇襲反撃を蒙る状態でありました。楊靖宇将軍は機を見て「討伐圈」を脱し、金川方面に転移しました。
(二〇)一九三八年一二月初旬、新京犬猫病院にペスト患者が発生しました。偽新京防疫委員が編成され、部下からも将校が其委員に加はりましたと記憶します。偽首都警察庁が中心となり、防疫警戒を実行しました。防疫の名のもとにペスト汚染地区の封鎖、家屋焼却、消毒、ペスト源泉地農安の包囲封鎖、農安―新京の交通遮断、ペスト予防接種等を実行しました。この事件に対し防疫委員の人民の利益を無視した過度の諸対策は、甚だしく人民を迫害したものでありまして、私はこの業務に携はりました間、自己の犯した罪行につき責を負う次第であります。
(二一)一九三九年一月下旬、隊下分隊長会議に際し、前年度「思想対策」の実施結果に鑑み、概ね次の要旨の指示を与えました。
「所管地区内思想対策上の重要目標たる抗・聯第一路車楊総司令とその直轄部隊は、其兵力を減じて約三九〇名を残すのみとなった。然しながら其闘志は益と堅結不屈、山岳内を軽妙に移動して逆襲に転じ、屡々討伐車警をなやます情態である。従って冬季工作中大勢に変化なし。よって前方針を以て冬季工作を継続すると共に、偽吉林警察庁に於て更に特別捜査班を増強し、中枢幹部を目標とする工作を実施するを得策とすべく吉林分隊長は本計画実現につき努力すること。尚第一路軍に対して特に大討伐をもってする画期的工作を実施するよう中央に意見を具申する予定、吉林敦化分隊は第一路軍行動情報を随時蒐集提報すること。」
 私は新京憲兵隊長として、第一路軍に対する画期的大討伐を実施するの要あることを憲兵隊司令部に意見上申しました。その結果は、一九三九年度秋季工作より吉林地区防衛司令官野副少将を指揮官とする東辺道特別討伐隊を編成して統一ある工作を実施することゝなりました。(この項については後に供述致します。)
関東憲兵隊司令部警務部長当時[原文P055~P082]
   (自一九三九年三月一日至一九四〇年七月三一日)
 私は一九三九年三月一日、新京憲兵隊長より関東憲兵隊司令部警務部長に転任致しました。当時の偽満国内一般治安情勢を総括致しますと、過去累年の「討伐検挙」等「治安粛正工作」によりまして治安は著しく安定に向いつゝありましたが、抗日人民闘争は依然として各所に継続せられて居りました。其武装游撃抗日行動総兵力は抗日聯軍五二〇〇名、地方游撃隊一三〇〇名、計六五〇〇名が各所に分布活動中であり、其中最も優勢なりしは東辺道の抗日聯軍第一路軍総指揮楊靖宇将軍の一八〇〇名でありまして、其中楊将軍の直轄部隊は約五〇〇名、同隷下部隊一三〇〇名が撫松、濛江、長白、臨江、輯安、磐石、樺甸、金川、輝南方面にあり、その第二方面軍として金日成、全光、方振声各司令が楊将軍と相呼応して活溌なる游撃戦を展開し、又第二路軍の第五師陳翰章部隊は敦化県三台山に根拠地を占め第一路車と聯系し協同作戦中でありました。第三路軍は浜江省東北部海倫東方地区に根拠を築き、耕作地を開墾して持久抗日作戦を企図して居りました。尚熱河省興隆、青龍各県に於て河北側よりする第八路軍関係の抗日攻勢が漸次活溌となり、屡ゝ同方面は治安上の脅威を感ずる情態でありました。加うるに偽満国内民心は反日思想日に益ゝ高まる傾向でありまして、表面の安定情態は何時変革するや、真に計り難き情勢でありました。然しながら一面偽満軍警は、概ね其編成機構能力の充実整備を得る情態になりましたので、国内治安工作は偽満軍警を以て担当せしめ、関東軍は対ソ作戦凖備に軍力を傾注する方策を採りつゝありました。
 一、職務範囲
 警務部長は関東憲兵隊司令官を補佐し(警務部業務たる軍事警察(関乗軍司令部、其隷下部隊の保衛、軍機保護防諜、軍人軍属の非違犯罪の警防、軍事特高警察―思想警察を主とす――等)及治安警察務(思想、政治、治安攪乱工作の警防弾圧警察工作等)を管掌しました。警務部業務に関しては、関東憲兵隊司令官隷下各憲兵隊に対し指示指導権(実質上の指揮)を有しました。因って警務上に於ける憲兵隊運営指揮の職能を持って居りました。
二、警務部長として決定、実行したる方針対策。
(一)治安工作中の治標工作並に軍事防諜(謀略防衛事項含む)に関し、着任当時左の如く方針対策を決定し、隊下に示しました。
「1. 方針
  ①思想対策 本年度関東軍治安粛正要綱に基き決定せられたる関東憲兵隊治安粛正工作準則に示す思想対策の要領を踏襲す。
  ②防諜工作 関乗軍の意図に基き憲兵の実施する防諜工作を警務部に於て統制す。」
「2. 対策
  ①抗日聯軍、反満抗日清撃隊を主要目標として治標工作を実施す。
  ②在東北共産党、国民党組織検挙消滅工作其他抗日思想政治行動を為す団体並人民の検挙工作。
  ③防諜蘇同盟より派遣の抗日地下工作員に対し、憲兵各偽警務機関特高課、外事班及検問班を設け、索出検挙処理を行う
   i 地下工作員発見の場合、視察温存培養により全貌把握に努む。
   ii 検挙は憲兵隊司令部に於て之を統制実施す。
   iii 無電工作員は軍司令部特設通信隊に引渡す。
   iv 逆用工作は軍第二課にて統制指揮す。
   v 鉄道、船舶、バス、駅に於ける合同検問班を憲兵鉄警に於て特設す。
   司尾行引継簿を憲兵隊司令部に於て制定実施せしむ。
   vi 八六部隊に於て電気検索器、無電方向探知機を作製し各隊に交付す。又工作員より押収せる秘密文書、伝書類の化学鑑識を併せ行う。
   vii 防謀勤務者の教育を憲兵教習隊、鴒満各警務機関教練所に於て実施す。
   viii 防謀関係抗日地下工作員発見方法として秘標工作を施設実施す。
(二)本工作は国境地帯法に基く居住証明書様式の用紙に秘密標示を施し、検問の際、該秘標の有無を秘密に検査し、正偽発見に便せしむ。右項目中、尾行引継簿、秘票工作は防諜係××・××両大尉の発案を私が決裁し実行したものであり、八六部隊の特設は××少佐の発案にかかり、審議の上特設することに決定し、軍命令を以て編成実行しました。(八六部隊については別項に詳細供述致します。)
(三)謀略防衛。一九三九年初頭より偽満内各地に謀略容疑の事故が頻発しました。其内容から視察しますと、抗日各游撃隊の実行せるもの――鉄道運行妨害、県城・部落襲撃、日偽満軍建築の放火破壊等、及地下工作員の実行するもの――大連埠頭の日本軍用飛行機、関東軍防寒被服倉庫の放火全焼事件等の中、後者に属するものが同年に入り急激に続発しました。而して事件の発生の都度捜査を実施しましたが、工作指揮者を発見したる事例は稀有の状態でありました。因って対策として、
「1. 謀略現場の検証を厳密に実行し、例えば放火か失火かを明確に判別すること。
 2. 謀略手段を調査分類し、特別捜査班を以て捜査を系統的に実行すること。
3.謀略目標となる施設の平時警戒力を強化すること。」
等の方法を実行せしめました。
(四)(五)[略]
(六)一九三九年四月一日、関東憲兵隊司令部直轄八六部隊が編成されました。八六部隊設立の目的は、関東憲兵隊の軍事防諜、謀略防衛並に思想対策任務遂行上に要する科学的捜査活動を為し得る能力を具備する為でありました。其基幹人員は警務部第四班でありました。××少佐を部隊長とし、憲兵三〇名及嘱託技術者二名を以て編成せしめました。任務は電気検索器、無電方向探知機(旅行用小型鞄に装入し使用目的を秘匿す。)の製作、使用法の演練、写真化学、発射弾の鑑識、犯罪指紋による犯罪捜査(偽満指紋管理局と連絡しました)、及器材使用技術教育等でありました。該部隊の任務を秘匿するため、偽新京郊外寛城子の一建物を部隊庁舎に充て、私服をもって勤務せしめました。又各隊の特種事件捜査に対する応援出動をも命じました。要するに八六部隊の設立は、科学捜査法を以て人民の 抗日行動を一層容易に発見し、「弾圧」する目的に外なりません。私は当時警務部長として該部隊の設立と爾後の活動につき積極的に指揮指導しました。
(七) 一九四〇年五月初旬、憲兵隊長会議席上、警務部長指示事項として思想服務要綱を各隊に示達しました。本要綱につき、私(警務部長)の指示要旨は左の如くであります。
「爾今関東憲兵隊の思想警察を思想服務要綱により実施する。元来関東隊思想対策は、関東軍治安粛正工作要綱の示す範囲に於て実行し乗れり、而して思想警察は憲兵本来の主要任務にして、当面の治安工作過程中の思想対策に限定すべきものにあらず、憲兵は本然の任務として思想警察を遂行すべきである。思想服務要綱は、永年計画と年度計画を樹て、関東軍治安工作と併行して実行するよう規制した。
(1)思想警察目標を甲・乙に分類し、甲は抗日思想闘争党団(共産党、国民党等)、抗日政治党団及之に属する者、反軍思想運動者、治安攪乱工作をなす団体分子を対照とし、乙は満蒙白系露人等の思想動向、民族意識、時局に対する民心趨向、政治経済方面における人民不平不満事項、其他民間に現はるゝ特異事項等である。
(2)処理要領 甲目標に対しては、特高能力を十全に発揚して内偵並に査察と法的処理を適正に実施すべく、乙目標に対しては、動向趨勢を察知し、情報蒐集を為すを本旨とする。即ち情況を明知して変に備うる 趣旨であって、徒らに民心を刺激する如き措置を戒 めねばならぬ。元より甲・乙目標は常に関聯性を有し、殊に乙については其趨向によって甲に含有する場合あるも、原則として之れを視察に止め、要すれば弾圧措置を執るべきである。
(3)従来、思想対策の欠陥は、思想対策有能者のみに委し、その独断処理が大部分で「思想のことは彼に委せる」風象がある。全体的に有機的機能が発揮せられて居らぬ。又密偵の作用に牽制せらるゝ傾向が顕著である。依って指揮に任する者は、思想警察指揮能力の培養と肯綮に当る指揮を行はねばならぬ。
(4)国内外の情勢に基き、平戦両時に亘り、思想警察の万全を期すべく、殊に満洲国建設の途上、民心の安定は尚未だ確固不動と認め難く、就中蘇中両国の対満策動は日を追うて熾烈化する今日、民心は何時変革するや甚だ戒心を加うる要がある。此際、変に具うるの用意あることが最も緊要である。
(5)隊司令部、隊本部は永年計画、年度計画を立案し、思想警察を系統的に進むべく、分隊以下は永年計画は隊本部の計画に基き、年度計画は自ら立案して実行すべきである。計画は常に重点目標を把握し、之れに向って工作を遂行し、而して次に移る如くすべきである。」
の指示を行い、思想服務要綱、説明、及注意事項を印刷配布しました。
(八)戦時有害分子処理要綱を一九四〇年五月初旬、憲兵隊長会議席上、警務部長指示事項として各隊に指示しました。この要綱は、関東憲兵隊司令部第二課××少佐提案、書記××××の起案に成るものであります。私は××より要綱案を提示せられ、之を承認しました 要綱は関東軍対ソ作戦準備に関聯し、戦時警備に備える必要上作定しました。戦時有害分子名簿を制定し平時より視察調査して(例えばソ聯に居住した経歴を有する者、ソ聯と連絡ある者、愛国意識旺盛にして抗日言動を為すもの等、反日分子)、容疑要視察人を名簿に登録しました。名簿は甲・乙・丙の三種に分類し、甲に属する者は戦時に入るや直ちに「逮捕」の上、死刑処分し、乙は事情厳重なる者は直ちに死刑(憲兵隊司令部査覈《さかく》の上)、丙に属する者は厳重に視察し、逃亡を予防し厳重なるものは司令部の指示を待って処理することとなって居りました。
三、人民鎮圧に関する具体事項。
(一)一九三九年四月一日より五月末日に至る間、各地区防衛管区に於て春季治安粛正工作を実行しました。当時の情勢は抗日聯軍第一路軍は樺甸県大蒲柴河部落を襲撃しました。吉東省委責任兼第二路軍総指揮周保中将軍は依蘭県老爺嶺山中より苗地盤寧安県鏡泊湖附近を 窺いつゝあり。北満党抗・聯第三路軍は浜江省海京地区に根拠し、游撃区内に耕地を開墾し、農耕による持久抗日戦を画策中でありました。尚国内に於ける共産党(軍)の主義的抗日救国思想宣伝工作は益と積極化し、特に偽満軍警に対する背反指導工作が著しく露骨化して参りました。
 右に関し、私は警務部長として治安工作に関し左の 如く実行するよう指示しました。
「1. 東辺道に於ける抗・聯第一路軍・浜江省海東地区の抗・聯第三路軍を主目標とし、各地区防衛管区討伐隊と協力して討伐検挙工作を実行する。
2.右第一、第三路軍は漸次接近し、中満地区に強固なる游撃区を開拓し、抗日全民戦線強化による陣容整備を目的とする戦略的企図を有する情報あり。本件に対し、更に情報蒐集に努むると共に、各路軍を現地に於て圧迫し、其企図を未然に防圧する処置を構すること。
3.ラジオ放送による国外よりの抗日救国、反日逆宣伝は中国、蘇聯より、中、露語をもって盛んに行はれつゝあり。其回数は哈府二一一件、モスコー二八件、重慶二四六件、貴陽一八三件等にして日本帝国主義侵略行動を暴露しつゝあり。一面国内、党、軍の偽満軍警に対する亡兵工作は、愈ゝ積極的に宣伝せられつゝあり。
右に対しラジオ放送妨害工作を為すと共に、聴取者の動静を監察し適当の逆宣伝を弘報機関、協和会、偽警 務機関に於て実施すること。又亡兵工作に対しては、満軍・警自体警防工作を実行すると共に、其帰趨を監察すること。」
結果四・五月に於て憲兵の検挙」せる思想対策関係者は、一九八名を示して居ります。又第一路軍、第三路軍の接近策は「討伐作戦」によって北上南下を防止しましたので、其実現を見るに至って居りません。北満に於けるラジオ放送による民心影響は、等閑に附し難き状態であることを認められました。
春季討伐に於て憲兵のみの「検挙」数が一九八名に達したることから推察し、「全討伐検挙数」は巨大なる数に達したと認めます。私は警務部長として春季思想対策を指揮し、膨大なる損害を人民に与えたることを認める次第であります。
(二)一九三九年初頭頃より海拉爾《ハイラル》日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良の為め、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、防諜の見致より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集し来たりしものであります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或は伝染病が多発したのであります。海粒爾憲兵隊は防諜警備上現 場に出動服務し、労働者に酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令指示を致しました。其関係に於てこの事件に対する重大なる責任を負う次第であります。
(三)一九三九年四月上旬、私は奉天、大連両憲兵隊を司令官の検閲に代って査閲しました。其目的は、当時偽満建設上最も重要なる工業経済の中心基地を管轄する両隊の服務状態を査閲し、対策方針を指示するにありました。其指示したる事項は左の如くであります。  「奉天、鞍山、撫順、本渓湖、及大連を包含する地区は、偽満建設の工業経済の中心基地である。此地区の治安確保工作は直ちに偽満建設の基本となる。現下奉天大連憲兵隊管内、南満党、抗日遊撃隊の活動は微々たる状況にあるが、中国共産党、同国民党の本地区に対する思想宣伝工作は熾烈であり、ラジオ、文書を以て実行せられ、各階層就中工場労働者に対する工作を重点としている。本地区はまさに抗日統一戦線結成の温床地域たる特色を示している。表面の平静は決して油断を許さぬ。これに幻惑さるゝは最も危険である、一層思想警察を徹底して推移情勢を把握し、変に応ずる適切の措置を講じ得るよう努力すること。大連に於ては一層州庁警察部との連繋を密にし、殊に近来頻発する謀略放火事件の検挙を達成するよう、綜合成果を発揚せんことを望む。」
 右指示の結果、両憲兵隊の思想警察活動は概ね適正に実行され、発生事件を萌芽の中に処理することを得ました。但し大連市の謀略放火事件は、遂に年内に於て解決し得ず、一九四〇年二月関東軍防寒被服倉庫の放火焼失により莫大な損害を蒙るに至りました。然しこの事件発生の直後、謀略放火団を総検挙することが出来ました。
(四)一九三九年五月上旬、佳水斯《チャムス》憲兵隊の査閲を実行致しました。目的は当時、饒河-冨錦-佳水斯、及仏山―冨錦―佳水斯両交通路(水路含ム)は抗日地下工作員のソ聯との連絡路であり、又抗日聯軍のソ聯えの移動連絡路と目せられ、防諜思想対策上の重要交通路に当りましたから、佳木斯憲兵隊の右対策実施状況を査閲し、又指導を行はんとするにありました。私は査閲官として隊長中佐橘武夫に対し、左の如く指示をなしました。
「1.佳水斯憲兵隊所管地区内に於て、治安並防諜上最も重要なる目標は、抗日聯軍第二路軍である。同軍総指揮周保中、軍長柴世栄は軍内幹部の誘降続出により部内の動揺防止、鎮圧に努むると共に、逃走誘降の傾向顕著なるものに対しては、極刑処分を以て臨むものゝ如く、此機に乗し彼等に対する思想諜略は効果大なるべく研究を望む。
2. 佳木斯―ソ境要地路線は、抗日工作員の連絡路なり。従来当隊防諜成果を見るに其努力の跡を認むるも、尚は住居証明書秘票工作の励行、抗日地下工作員の連絡拠点たる饒河、仏山、冨錦、佳木斯、勃利等主要地の検問検索の強化、要地に於ける計画的一斉検挙の実施、各捜査機関の連繋協同工作の励行、既得材料の査覈利用等につき研究実行をのぞむ。」
旨指示する所がありました。
 其後佳木斯憲兵隊の防諜工作の結果は逐次向上し、私の在任間に於て聯関係抗日地下工作員の発見、利用、工作は約十件十名を算しました。又抗日聯軍内部攪乱工作を行いたる結果と認かべきは、同年七月第二路軍内部第九軍長李華堂が部下と共に抗日行動を停止 し、誘降に応じました事例等があります。
(五)一九三九年五月下旬、偽満国境ノモンハン事件が発生致しました。以下本件に関する事項につき供述致します。
1.一九三九年五月下旬、関東軍司令部に於て情報会議が開かれ、私は出席致しました。会議に於ては、緒戦戦況が報告され、引続き各部隊担任の情報の交換報告が行はれました。私は関東憲兵隊関係情報の要旨を左の如く報告致しました。
「(1)満洲里ソ聯領事館並に「モ」鉄従業員間に相当激越なる反日言動を漏すものあり。
(2)各地治安情勢は、本事件勃発の影響下に変化あるべきを予想せらるゝも、現在特異事項なし警戒を倍?[くさかんむり+徒]《ばいし》するの要あり」
 本会議に於て軍の指示したる事項は「国内治安の確保につき、各地区防衛管区は警備の万全を期すること。及関東憲兵隊は地方警務機関を統制して警戒を厳にすると共に、民心の動向に留意し、其動揺を防止すること。」を示しました。
 右に対し、私は警務部長として各隊に対し、ノモンハン事件に伴う治安警備を厳にし、並に異変徴候を察知し、機を失せず鎮圧所置を構すると共に急報すべきことを指示しました。
2.ノモンハン事件勃発と共に関乗軍は国内非常警備を令し、各部隊より総計約三ヶ大隊の歩兵を差出さしめ、補助憲兵を命じて之れを関東憲兵隊に配属しました。私は警務部長として此人員を各憲兵隊に概ね一乃至二ケ中隊づゝ配属せしめました。各隊は補助憲兵を基幹とする警備部隊を編成し、各所管地区内要警備個所、停車場、埠頭、軍需工場、軍倉庫、飛行場、燃料工場、同蓄積場、火薬庫、炭礦、食糧 集積場等の警備衛兵、並に要地巡察等の勤務を為さしめました。
 補助憲兵は「憲兵」の標式腕章を附せしめましたから、一見憲兵たること明瞭でありまして、武装憲兵を平時に比し尚更露骨に現はしました。之等の武装力を以て平素より一層強度の警戒取締りを実行せしめましたから、人民の蒙りし迫害は甚大でありました。この補助憲兵は一九三九年八月上旬停戦と共に撤退致しました。
3.一九三九年五月末日、憲兵隊長会議に於てノモンハン事件、及治安工作につき警務部長として左の如く指示しました。
ノモンハン事件の勃発により国内治安は其影響下に変化あるべきを予想せらる、依って左記事項につき各隊は治安警備を強化すること。
①国内抗日党団のノモンハン事件を契機とする策動の情況・調査・報告。
②国内抗日党団の治安に及す策動の弾圧。
③民心の動向調査、流言蜚語の取締、流言者の厳罰。
④国外よりする宣伝、国内よりする宣伝、各種工作の情況・調査報告、ラジオ電波封鎖工作の徹底(電波攪乱工作は車にて行う。)
⑤要警備物件(旅館、劇院、映画館、駅、船着場、群衆場所等)の警備査察。」
 治安対策につき左の如く指示しました。
「①ノモンハン事件を契機として、各遊撃隊が反撃に出づることを予想せらる。春季工作の結果によるに南満遊撃隊は抗日聯軍第一路軍の果敢なる遊撃戦は、同地方治安を悪化し、日満軍に対し益と反撃作戦に出でつゝあり。吉林省東南部及通化省に於ける抗聯第一路軍兵力は二〇〇〇名にして軍警部隊、集団部落を奇襲し、武装解除人質拉致を行いつゝあり。又長白県下にありし金日成遊撃隊は又もや鮮内に進撃を行いつゝあり。
 浜江省海東地区抗聯軍第三路軍は屡ゝ北黒線駅を襲撃破壊する等、交通路線を目標とせる点注意を要する。
②本夏季討伐検挙工作に於て、○憲・警による遊撃隊情報の蒐集を一層適確機敏化し、之を討伐部隊に通報して対策処置を適正ならしか。○集団部落の内部粛正――遊撃隊に連絡する分子の掃討工作を徹底すること。○吉林省討伐重点地区に対する兵力増援を行う。(吉林省に於て一五〇〇名を樺甸県に増援実施予定。)
③鉄道其他主要交通路線の警備、並各地方県城の警戒を一層徹底すること。)
右対策決定の上夏季工作を引続き実行することとなりました。
五月中に於て、熱河省南部国境附近共産党八路軍第二一総隊所属地方遊撃隊長徐峯以下一二名、及東辺道輯安県下共産党支援団体、及中国共産党東京支部責任一を憲兵に於て「検挙」取調の上、利用し若くは法院に送致しました。
4.一九三九年六月上旬、ノモンハン事件に関する警備工作視察、並指導の為、憲兵隊司令官少将××××に随行し、海粒爾憲兵隊に出張しました。私は警
部員として直接に海粒爾憲兵隊長中佐××××に対し左記の指示を与えました。
「(1)戦場直後地区たる海粒爾憲兵隊所管地区内の治安を確保すること。
 (2)蘇聯関係抗日地下工作員、及通蘇容疑者の検挙を実施し、ソ聯外蒙より西部国境を越境進入する抗日地下工作員の発見検挙を行うこと。
 (3)民心の動揺情況を調査し、報告すること。」
 指示に基き同憲兵隊は抗日地下工作員中国人白系ロ人蒙古人約三〇名を「検挙」しました。又以前より温存視察中の無電工作員五名(海拉爾二、斉々哈爾一、哈爾浜二)を夫々関係隊をして「検挙」せしめました。又軍命令に基き憲兵隊司令官命令を以て全憲兵隊に対し温存視察中の抗日地下工作員中国人約一○○名を「検挙」せしめました。
右「検挙人員」は各憲兵隊に於て取調べの上、軍命令に基き「戦時利敵罪」として大部分を「厳重処分」に附せしめました。
5.一九三九年六月下旬、海拉爾憲兵隊報告に依れば西部国境一帯に流言蜚語が盛んに流布し、日本軍の 敗戦状況を伝え、民心動揺甚しく、機に乗じ国内外よりする宣伝は激増し、ラジオ放送六六五件に達しました。又諸物価の高騰に依り賃金値上に起因する労働争議問題の激増を示しました。本件に関し私は警務部長として左の如く決定指示しました。
「①西部国境に於ける日本軍敗戦に関する流言蜚語については「モ」鉄従業員の言動に注意すると共に、積極的に「モ」鉄従業員に接近し流言行為を拡大する者を検挙すること。
②高度ラジオ受信機を禁ずること。電波妨害工作を行う。
③民心安定を目的とする逆宣伝を行うこと。
労働争議に対しては警察機関に於て調停工作を行うと共に、悪質争議は検挙弾圧を以て処理すること。」
 本決定事項は警務部長通諜を以て各隊に示達しました。其結果は大なる争議事件の発生を見ることなく推移しました。しかし民心を刺激せしむる対手国の宣伝工作により益と影響を蒙りました。
(六)一九三九年七月中旬、大連埠頭に於て日本軍戦闘機焼
却事件が発生しました。之れは謀略放火と認めましたので、警務部長通諜を以て大連憲兵に対し捜査指示を致しました。其工作援助のため八六部隊より一部を大連憲兵隊に配属致しました。
 大連に於ては鋭意捜査に当りましたが、未だ検挙に至りません。其後も被害は頻々として続出し、遂に一九四〇年二月、大連郊外関東軍防寒被服倉庫一棟を放火によりて焼却せられました。私は関東軍司令部第二課長××大佐と共に急遽大連に出張し、直接大連憲兵 隊及大連警務機関の捜査工作を指揮しました。遂に大連警察署に於て謀略関係地下工作員約二〇名(天津方面より派建せらる)を検挙しました。
 本捜査のため事件発生の都度埠頭其他の現場から中国人労働者を憲兵隊偽警察に拉致し、厳密なる取調を行い、自供を強いる等人民に対し甚しき脅迫迫害を加えました。
(七)一九三九年八月八日、関憲作命第二二四号を以て河北より石井細菌化学部隊に引渡すべき中国人九〇名を哈爾浜、及孫呉に押送すべき関東憲兵隊司令官命令を下達しました。この命令は関東軍作戦命令によるものでありまして、私は警務部長として第三課に命じて命令案を起案せしめ、司令官命令として下達したものであります。命令内容の要旨は左の如くであります。
憲兵教習隊××中佐は、附属人員憲兵約三〇名、及看護下士官一を指揮し、河北より押送し来る中国人九〇名を山海関に於て河北押送者より受領し、之れを孫呉に押送し中、哈爾浜にて三〇名を残余を孫呉に於て夫々石井部隊受領員に引渡すべし私は、当時被押送中国人は石井細菌化学部隊に於て実験用に供すべき事を承知の上、押送引渡業務を事実上指揮して、石井細菌部隊の化学実験の下に中国人民を虐殺する工作に協力致しました。
 又、一九四〇年四、五月の候、日本陸軍技術本部並習志野|瓦斯《ガス》学校合同試験班が毒瓦斯砲弾効力試験を北黒線地区に於て実施しました。此際関東軍作戦命令に基き、私は警務部長として右試験場特別警戒の為、憲兵将校以下約六〇名を差出し、又憲兵隊留置中の厳重処分に該当する中国人約三〇名を該試験団に引渡すべき工作を司令官命令を以て示達しました。
 右二件は何れも生体を化学試験に供したのでありまして、私は警務部長として其目的を承知しつ大人員引渡を為さしめたのであります。誠に非人道非人間性の惨虐を絶する行為であり、且つ又細菌毒瓦斯兵器は国際法に於て厳に禁止する事項でありまして、右行為は国際法違反行為たることを確認致します。今当時之等悪虐非道の日本軍事ファシストの毒牙に斃れた人々の身の上に想到致しますると、自責の念に堪へぬ次第であります。私は言語に尽ぬ滔天の罪行を犯しました。唯々謹んで認罪致します。
(八)一九三九年八月中旬、秋季治安工作に関し警務部長として左の如く指示しました。
「東南地区第一路軍は兵力約二〇〇〇名、軍警、集団部落を猛襲しつつあり、浜江省海東地区抗聯第三路 軍は南下して新游撃区を開拓せんと企図しあり。虎林地区第二路軍はノモンハン事件に伴い行動積極化せり。就中第一路軍は敦化県大蒲財河を前後六回に亘り襲撃する等、行動最も活溌なり。第一路軍に対する決定的討伐工作実施の要あり。これが為、秋季工作に於て関係各偽警察力を集中して軍と協力大攻勢を以て討伐検挙を実行せんとす。」
 其結果、偽各関係省警務機関警察隊を束辺道地区及浜江省海東地区に増援し、軍と協力して秋季工作を実施することゝなりました。
(九)一九三九年八月下旬、関東軍治安会議を開催されました。私は本会議に出席致しました。会議には各地区防衛管区治安対策、夏季工作の成果、今後の対策につき報告がありました。私は関東憲兵隊業務上、大要次の如き報告を致しました。
「(1)ノモンハン事件の経過に伴い全満各地殊に西部国境地帯は民心動揺の徴ありしも、時日の経過と共に鎮静に向いつゝあり。但し物価騰貴による労働争議の頻発、国内外よりする抗日思想宣伝工作は依然熾烈にて警戒を要す。
(2)夏季工作の結果、東南地区、北満海東地区は游撃行動尚執拗なり。東南地区第一路車は夏季討伐の終季に於て軍勢却って増強を見る。来る秋季工作に成し得る限り警察力を増強し軍に協力する大討伐を実施る計画なり。此際軍に於ても、決定的大討伐を行はれんことを期待す。」
 右第(2)項につき軍に於ても予め対策計画を持って居りました。軍は次の如く決定指示しました。
「九月中旬以降、各地区防衛管区に於ける秋季工作を継続する。而して東辺道地区第一路軍に対し東南地 区防衛司令官野副少将指揮の下、関係日満軍警を統合する東辺道特別討伐隊を編成し、同軍を徹底的に殲滅する迄討伐を続行する。」
(一〇)右に依り私は警務部長として以下の指示を致しました。
「日本憲兵は野副討伐隊に有力なる配属憲兵を附属す。別に通化独立憲兵分隊の××特別工作隊を野副部隊に配属す。
 偽満各関係者は有力なる県警察を野副部隊に配属すると共に、関係県警察は討伐検挙に即応する管内警戒並に検挙工作を実行す。
 討伐地区より離脱する遊撃隊員、遊撃隊と連絡ある人民、都市に潜入しある潜撃隊員の検挙工作を徹底せしか。鉄道、水路、陸路の検問検索を強化す。
 聯軍、遊撃隊の軍・警・集団部落に対する奇襲作戦に備う。尚襲撃事件に対し其外、内因を研究(例えば内部連絡者の処理問題等)対策を構すること。
 野副討伐部隊に即応し、偽満の最後的決定的治安工作として本工作を完遂すること。」
 九月中旬来、その開始時機に於ける抗日聯軍其他遊撃隊兵力は、合計四一四〇中、抗・聯三一二〇、其他一〇二〇名、東南部第一路軍約二〇五〇名でありましたが、秋季工作末期たる一一月末は全満総数三三〇〇名、抗・聯二五五〇名、其他七五〇名にて第一路軍一四〇〇名、一九四〇年一月末は全満総数二六〇〇、抗・聯二一五〇名、其他四五〇名にて、第一路軍一一〇〇名となって居ります。即全満総数に於て秋季工作によって八四〇名を「消滅」し、一九四〇年一月末に於て更に七〇〇名を減じ、第一路軍については秋季工作によって六五〇名を一九四〇年一月末に於て更に五〇名を減じて居ります。
 又秋季工作に警務部長指示に基き憲兵に於て検挙したる数は左の如くであります。

[略]

××部隊××特別工作隊の誘降工作
  九月 臨江県楊靖宇軍特務大隊 営長一名、副官外六五名
  一一年式軽機二、擲弾筒一、同弾八、自動短銃一、拳銃一七、弾六〇〇、長銃五六、同弾四〇〇〇、銃剣一七、双眼鏡三を押収
  一〇月 通化省臨江県第八区紅土崖に於て三六名
  一一月 撫松区に於て団長以下一五四名
以上誘降総数二五五名を算しました
 以上、同年度秋季工作に於ける抗日遊撃隊の戦力「消滅数」は私の警務部長たる職務執行上の指揮又は協力によって、中国人民に与へた鎮圧対策の結果によるものでありまして、私の最も顕著なる罪行の一つであります。人民の抗日戦力を著しく減殺し、爾後の抗日行動に大なる影響を齎し、犠牲となりし戦士の遺族を悲歎の淵に突き落し、生活の根源を奪い、又「討伐検挙」に関連して厖大なる人民に「検挙、拷問、拉致等」凡百《あらゆ》る迫害を加え滔天の罪行を犯しました。其責任の重且大なるを痛感して、茲に誠意を以て認罪する次第であります。
(二)一九三九年九月上旬、ノモンハン事件につき哈爾浜市に於て其善後処置につき、日・偽満・蘇間の談判会議が開かれました。軍司令部の意図により哈爾浜憲兵隊をして会議の警戒及ソ側談判員の身辺護衛を名として談判員の言動を内査せしめました。
又同時頃、綏芥河―哈爾浜―満洲里間列車に於けるソ聯伝書使に対し、軍の指示に基き伝書盗取の目的を以て催眠性瓦斯を列車寝室に放射し、睡眠に陥れんとする工作を憲兵をして実施せしめました。結果は獲る所がありませんでしたが、この二件は軍事ファシストの手先として陋劣陰険極まる性質の罪行でありまして、私は警務部長として之れを憲兵に命じ、強制的に敢行せしめた指揮者として責を負い認罪致します。
(三)一九三九年一〇月下旬、ノモンハン事件日・ソ俘虜交換問題の交渉成立し、日本側俘虜受領委員により日本側俘虜は受領せられました。其人員は約三〇〇名であったと記憶します。この人員は軍に於て俘虜管理委員を組織し、管理することゝなりました。私は其委員に任命せられました。俘虜は吉林の軍病院に収容せられました。憲兵を看護兵に偽装せしめ、監視と看護とを兼ねて勤務せしめました。軍特設軍法会議によりて俘虜を取調べ所刑しました。死刑処分に附せられた者は約三〇名と記憶致します。尚中隊長として戦場に於て俘虜となった大尉一名は、癩病に罹り居り、且つ戦場にあって尽すべきを尽さずして俘虜となった故を以て、本人に対し死刑を判決されましたが、管理委員に於て本人に自決を勧告し、秘かに憲兵(看護兼務)をして拳銃を渡さしめ、遂に自殺せしめた由、後に委員、憲兵隊司令部員××中佐より之れを聞知しました。又俘虜の大部分は戦傷により人事不正に陥り、俘虜となったものが大部分であったと聞きました。然るに当時軍内外の思潮は俘虜になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました。因って判決処理が過当であったことは勿論、非人道的なる方法(例えば自決を強要する如き)が秘密に行はれたことも想像に難くありません(前記中隊長の事例もその一例であります)私は管理委員として俘虜に対する非法取扱の責任を負う次第であります。
(一三)一九三九年一二月初旬、冬季工作に関し私は警務部長として各隊に対し左の如く指示しました。
「1.抗・聯第三路軍西北指揮部××××司令は、九・一八記念日を期し、訥河県城を夜襲し、又北黒線を襲い秋季討伐により粉砕せられ、訥河地区より北安地区に分散せり。東辺道地区に於ては、対民宣撫工作益ゝ熾んなり、熱河省に共産第八路軍二五〇〇名出現、本季五回国境を突破せられた。第二路軍は湯原根拠地より三江省都市に中国人四五名を派遣し、諸施設、民心動向調査、官民離間策を企図する情報あり。

秋季工作の結果は同工作開始時全満抗日游撃隊員 四一四〇名
 同工作終期は 三三〇〇名
 抗日聯軍第一路軍は工作開始時    二〇五〇名
 同工作終期は  一四〇〇名
となり相当数の消滅結果を獲たり。
2.右情況に鑑み、游撃殊に抗日聯軍の幹部を索めて之れを検挙すること。之れがため各地とも特別捜査 班を組織して工作を実行す。
 東辺道冬季工作を益と果敢に続行す。聯軍内に誘降工作を行うこと。」

(一四)一九四〇年二月初旬、私は爾後の治安工作につき各隊に対し左記要旨の指示をなしました。
「1.南満党抗・聯第一路軍楊靖宇将軍の部隊は、約二〇〇名をもって一月末濛江県に移動せり。北満党は徳都嫩江県境山中にあり。
 一九三九年末、蒋政権の指令による中国冬季攻勢行動は警戒を厳にするを要する。特に共産青年救国 会の選抜工作員の入満情報あり。
2. 右対策として第一路軍の爾後の情況を偵知し、討伐軍に報すると共に、楊司令を濛江県に封鎖し、包囲圈を逐次圧縮して消滅する如く方策を講ずること。
3. 中共、国民両党の入満情報は右に止まらず、特に天津駐屯車の情報に之れに関するもの多し。よって承徳錦州両憲兵隊は本情報に対する警戒を実施すると共に、資料を入手し報告すること。」
 冬季工作の結果は濛江県に第一路軍楊靖宇軍を包囲中、同軍は逐次金川輝南方面に移動し、曹亜範軍と合流を策しつゝありました。冬季損耗兵力は約一〇〇に達しました。東辺道野副討伐隊は予め楊軍の南下を察知し、通化方面「討伐部隊」の配置を行い、第一路軍を東辺道中区に「捕捉」する態勢をとり、春季工作に入りました。
 一九四〇年七月末迄(私の警務部長在任間)、抗日聯軍各游撃隊共漸次弱性に向いつゝありましたが、第一、第三路軍の活動は依然勇敢無比にて日偽満軍警を反撃して居りました。私はこの遊撃抗日作戦をあくまで鴒 満治安維持の癌であるとし、之れを徹底的に「消滅」する企図の下に対策を構じました。第一路軍総指揮楊 靖宇将軍は一九四〇年三月遂に灌江地区に於て偽満警察により戦死を遂げました。
 私は一九三九年三月、警務部長着任以来、終始人民鎮圧の手段を更新し、繰り返し実行し、侵略軍の走狗として武力的圧迫を行い、大罪を犯しました。茲に東北に於ける過去犯した帝国主義的罪行を反省しまして、謹て認罪致す次第であります。
(一五)一九四〇年二月、東安憲兵隊、東寧憲兵分隊孫呉憲兵分隊を新設し、夫々隊務を開始致しました。之れ等の国境憲兵隊新設の目的は、関東軍の対ソ作戦凖備に関聯し、関東憲兵隊の国境配備を強化するにありました。この新設隊の業務開始によりまして、防諜方面に於ては軍の陣地構築、兵力の移動、兵営建設、軍用道 路の建修等に対する抗日地下工作員の「防制、発見、視察、検挙工作」を強化し、又治安工作に於ては国境線に通ずる鉄道、陸路の警戒掩護、国境地帯、隣接地区治安攪乱工作員等の検挙、其他国境地帯法実施の徹 底を計る等、国防並に治安上に大なる「効顕」をなしました。反面に、抗日地下工作員、游撃隊を始め一般人民に対し一層過烈厳酷なる鎮圧を執行し、著しき迫害を齎しました。私は警務部長としてこの新設隊設置の企画業務に参画し、新設隊の業務開始以来、其人民 鎮圧対策につき画策指揮に当りました。
(一六)一九四〇年五月一日、関東憲兵隊司令部に於て憲兵隊長会議が開催されました。当年関東憲兵隊の服務方針は、関東軍の対ソ作戦凖備に即応する治安工作を完遂し、防諜工作を徹底するにありまた。私は警務部長として、右方針に基く対策として左の如く指示しました。
「1. 治安工作  治安工作は客年秋季より実施せる思想対策により、抗日游撃勢力を著しく弱化せしめたるも、未だ之れを殲滅する能はず、乗辺道北満海乗地区、並に北安  地区に於ける残存活動を見るにつき、各隊は引続き決定的討伐検挙工作を展開して、少なくとも年内には治安確保の本を築き、以て後顧の憂なき関東軍をして対ソ作戦凖備に専念し得るよう努力実行を望む。
 昨夏ノモンハン事件の国内治安に及ぼせる影響は甚大なり。特に民心の動揺、対日信頼感の転落、共・国党の抗日全民統一戦線工作進展情勢、共産党 尖鋭分子の入満による党再建工作企図等、思想対策上の重要事項に対し従来の体験と教訓とに基き任務完遂に努力を傾注せんことを要望する。
2. 防諜工作  関乗軍の対ソ作戦凖備に伴い、ソ聯関係情報蒐集工作は愈ゝ活溌化せるに対し、各隊は更に創意的方策を以て有効適切なる対策を採取することを望む。之れに関し、国境憲兵隊は、日本軍陣地に対する防諜、掩護、国境地帯法の取締徹底を期すること。国境国内各憲兵隊とも、軍の移動、特種演習等に対する警戒掩護、軍人軍属の自発的防諜観念の啓発(情報工作員のみならず、周囲の人皆連絡員なるの着意を持たしむること。)等につき工作実行をなすこと。」
 等を指示しました。
 当時、私は、自己の任務遂行上唯一途に軍の方針意図に基き之れを忠実に尊重実現せん為にのみ身を委ね心を投じて盲目的に職権を振少廻し警察務を執行致しました。中国人民に対し其愛国思想、民族意識、人民的自覚、日本帝国主義に対する憎しみ、人命の尊重、生活権の擁護、人間性、人道性等々凡ての問題を無視して唯日本の為とのみ考え、日本に害ある人民は一人でも多く検挙し、一人でも多く屠殺することを以て自己職分を完遂する如く考え、職務を執りました。従って計画し実行した対策は、全くファシスト的暴圧政策、反人民的弾圧政策に外なりません。結果数へ難き滔天の罪行を重ねましたことを反省し、衷心から陳謝致す次第であります。
(一七)(一八)[略]
(一九)一九三九年三月一日より一九四〇年七月三一日に亘る警務部長在職間私の対策策画指示に基き各隊、偽鉄道警護隊協同の抗日地下工作員発見処理状況は概ね左の如くであります。
「1. 秘標対策により発見せる者  発見数 約一五〇名 厳重処分 約二〇名 偽鉄道  警護隊渡 約五〇名
2. 検問検索により発見せる者  発見数 約八〇名 厳・処 約一〇名 偽鉄・警渡  約二〇名
3. 無電関係地下抗日工作員  発見数 五名
4. 其他抗日地下工作員 厳・処 約二〇名  発見抗日地下工作員 計二三五名 厳重処分 約五〇名
  備考。
1. 処分を記しあらざる者は、視察続行、或は逆用中のものであります。
2. 一九三九年五月下旬、ノモンハン事件発生直後、視察中の工作員(殆んど中国人)約一〇〇名を厳重処分に附しました。」
 以上私は警務部長として各憲兵隊、偽鉄道警護隊を指揮して軍事防諜を理由として多数の抗日地下工作中国人を「探索・検挙・逆用」等種々の対策処理を実行せしめ、甚しきに至っては約百五十名の愛国烈士を「厳重処分」として「屠殺」せしめました。私は当時は当然の職務行為として何等の反省も為さず、尊き人命を奪い、多数人民を暗黒の淵に投じ誠に言語に絶する沿天の罪行を犯しました。茲に衷心より認罪する次第であります。

 「南支那派遣憲兵隊長」当時[略]
支那派遣軍総司令部軍事顧問部」勤務当時[略]
満洲憲兵訓練処長当時[略]
以上供述したる私の犯したる罪行に対する認識[略]