本のシニシストども
インターネット文化は、判断をしくじっても、最善をつくさなくても、なんの罰も受けないし、「栄光」から遠ざけられない。
「人間」をなめるな。
見てくれだけみる屑、それに居直る屑。
1970年大阪万博を圧倒しているインターネット文化、ではない。なめるなふざけるな、とすら言いたくなる。
実演という方法の強力さ。
togetterでは「大阪万博」と検索しても、「よく見ている」ということにはならない
「ひろしまタイムライン」、ある先輩に聞いたら「どこが手抜きですか、説明してください」という趣旨の返信があって、本当に脱力して、わたしは返信できなかった。
インターネット文化の緊張感のなさ。鎌田てつや氏の「大衆の反逆」という発言。
失敗したってかまうもんか、というインターネット文化。だから卑屈になる。
老人虐待のような、しょうもないうっぷんばらしのような発言など、したくない。つきあわなくて本当によかった。
表現の自由が、どれだけゲスな事をいえるかという競争になってはいけない。
建築として最低、ということ。これは多くいうまでもない。そして、インターネットのつかいかたとして最低、ということ。ここを関連づけてかんがえるべき。
インターネット文化は、結局緊張感がなかった。昔の言い方でいえば、本当は生命線たりえない、ということになる。なんとか善意でなりたっている、としかいいようがない。
なめられたもんだと壁をぶん殴りながら言いたくなる。
ひろさふかさ、するどさ、すきのなさ、いきおい、独特の味
「固定客」をつかむ
やつあたりするひとは、すこしは金があるひとではないだろうか? エネルギーの使い方をまちがえているが。
金と欲望の使い方を8割以上まちがえているインターネット文化