『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「ひろしまタイムライン事件」が差別扇動事件であったことは間違いない。そして、「ひろしまタイムライン」事件が(しょうもない)改ざんすらふくんだ、手抜き事件だったことも、ほぼ間違いない。しかし、それをはっきり指摘したのは、わたしがしるかぎりわたしだけ。反差別運動すべてふくめて。改ざんはともかく、「手抜きの可能性」は誰でもきがつくべきだった。なぜ気がつかなかったか。重大な問題である。これがわたしが個人的に「ひろしまタイムライン」事件にこだわる理由である。

相手が生命と人格に対して真剣に書いているか、手抜きしているか、それともだまそうとしているか、こびようとしているか、それがわからないなら、書く資格がない。当たり前のことのはずなのに。

本当に、「私だけが手抜きの可能性に気がついた」というのは、本当におかしな、いや最悪の場合を考えるならば、非常に恐ろしい話なのである。だれもかれも「手抜き」の悪質さに気がついていないのだから。

以下、簡単なメモ。
「手抜き」の根拠。1、歴史考証担当の不在 2、演劇考証担当が何をしたかの説明が不明確 3、元史料を提示していない。おそらくもとになった日記だけをもとに原稿を書いている。ちなみに、NHK側の解説記事、事件の発覚前には参考資料がぜんぜんかいてなかった(はず、)発覚後にの解説記事数本には参考資料が必ず書いてあるというしょうもない行動、 4、(しょうもない)発表原稿の改ざん。もともと書いて考証のためだかで日記執筆者に見せた原稿を発表の時に少し変えている(誤字脱字ではない)。大して自信がなかったのだろうと推測される。 5、誤字脱字の指摘をして、私には一言もいわずに誤字脱字を直す。6、ツイッターという設定ならば、ほぼ不可能な場面を書く。
ほかにもある。書いていてだんだん腹が立ってきた。「利用者」を舐め切っているNHKも問題だが、舐め切れられて激怒しない「利用者」もおろかの極みだ。

「ひろしまタイムライン」公開原稿改ざん疑惑―改訂版 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

はっきりかくが、小松原氏と北村氏には少なからずがっかりした。2人とも誹謗中傷で大変なこともあるだろうが、やはり書かないといけない。特に北村氏、3人の登場人物を同時にとりいれて演出、だったかなんだだったか言っていたが、「ひろしまタイムライン」の手抜きはおそらくそのレベル以下である。そう見えないのは、元の素材の日記がそこそこしっかりして書かれていたから、というだけの話だと私は考えている。

「すべての話題がここにある」だとかいうツイッターのスローガンのようなもの、わたしはこういうふうにあまやかすことがツイッター使用者の堕落の原因(のひとつ)だと考えている。なぜって、考えてみればいい、たとえば、ツイッター文化がほっといても、ツイッターの等身大の姿はどうであって、将来はどうあるべきか、具体的には「いいね!」ボタンは本当に必要か、ということを考えるようになっているだろうか? わたしにいわせれば、この点にかぎっては、あざわらわれても反論も擁護もできないレベルでツイッター使用者たちは堕落している。きびしすぎる批判だろうか? そうかもしれない。しかし、こころあたりはあるはずだ。
しかし、わたしにいわせれば、「いいね!」ボタンの必要性について考えていません、でも「表現の自由」についてはちゃんと考えています! っていうのは、おかしい。その「表現の自由」というのは、いわばだしっぱなしというだけであって、コミュニケ―ションのという「流れ」のようなもの、そこの基盤を破壊するような言動にみえる。「技術論」と「文化論」がごっちゃになっている。
せめて、「いいね!」ボタンの必要性について真剣に検討するだけの挑戦精神があるならば、ツイッター文化の価値をみとめてもよかったが、それがないならば、切り捨てていいだろう。それこそ掲示板かブログで代用すればいい。

命とプライドを守る、覚悟も技術も道具も信頼できる他人への連絡先もない? じゃあ、あなたがたみんな真の意味で「無能」と判定されて当然。それは文化でも技術でも同じこと。……ちっぽけな私利私欲だけ守りつづけるならば、「あいつ死んでもかまわないんだな」と言われても……。やめよう、むなしい。