『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

SNS文化が、SNSの基礎に無知ということは十分ありうる(あとで書き直すかも)

1年ぐらい前から、ツイッター掲示板がわりに利用することに価値を感じられなくなった。
いくつか理由はあるが、大きな理由の一つは、「活気」というものをどうしても感じられなくなったことだ。いまさらきがついたのか、といわれるかもしれないが。
ツイッターをざっとみても、ツイッター文化が何ができるのか、何ができないのか、そういうことを論じていないらしい。これは、「ツイッターは対面におとるのか」という問題と関係はあるが、別の問題である。
対面は人類が滅ぶまでなくならないが、SNS(「会員制交流サイト」というよくわからない日本語訳の単語をわたしは信用していない)は技術であり、人類が滅ぶ前に滅ぶかもしれない。つまり、SNSを成立させているものの基礎についてよく考えないといけない。たとえば、「いいね」ボタンは有害かもしれない、といったような。そういう考え方が明らかに存在するかというと、わたしはそういえないと判断する。つまり、SNS文化が、SNSの基礎に無知
そもそも、SNS文化に「自身の文化の活気を保証する」という考えがあったかどうかも不明なのだが、ここではおいておく。
とにかく、自分をつきはなした考えのないSNS文化とのつきあいに時間を使っても、わたしは独創的なことはできそうにない。もっとどぎつい言い方をすれば、「生産的でない」。



追記
呉座勇一氏の事件でツイッターをじっとみていて、網野善彦氏の再評価(否定的なものでも)ができるのかどうか、かなり直感的なものだが、不信感を持った。「うまいこと(ウケルこと)をいうこと」のほうに力をそそいでいるように感じられたからだ。本人に自覚があるのかどうかはわからないが。
わたしの直感があたっていれば、あの人たちに梶村秀樹先生や高木仁三郎氏や阿波根や中井久夫氏(この人は2010年ごろまでには一線を退いていた)の再評価ができるはずがない。