『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『「太陽の塔」岡本太郎と7人の男たち』(2018年、平野暁臣、青春出版社)

登場人物

テーマ館サブプロデューサー
千葉一彦(ちば かずひこ)
1931年生まれ。東京芸術大学卒業後、東映を経て日活の美術監督として活躍。1967年、最初期メンバーのひとりとしてテーマ館プロジェクトに参画し、塔内および地上展示担当のサブプロデューサーとして岡本太郎を支えた。

太陽の塔 建設設計担当
奈良利男(なら としお):左
1942年生まれ。大学卒業後、集団政策建築研究所に入所。電通大体育館や集合住宅の設計にかかわったのち、太陽の塔の担当に。

太陽の塔 建設設計担当
植田昌吾(うえだ しょうご):右
1942年生まれ。設計事務所勤務を経てフリーランスの建築家に。集団制作建築研究所に招かれ、太陽の塔の設計に従事した。

テーマ館地下展示ディレクター
伊藤隆道(いとう たかみち)
1939年生まれ。東京藝術大学卒業後、ディスプレイデザイン、彫刻、照明など造形作家として幅広い分野で活躍。テーマ館では地下展示〈いのち〉のデザインディレクションを担当した。東京藝術大学副学長を経て、名誉教授に。

太陽の塔 構造設計担当
大山宏(おおやま ひろし):右
1940年生まれ。東京大学大学院坪井善勝研究室にて構造計画を研究。同氏退官後、川股重也研究室にて太陽の塔の構造設計に従事した。

太陽の塔 施工担当
嵩英雄(かさみ ひでお):左
1940年生まれ。東洋大学大学院卒業後、1966年竹中工務店入社。翌67年から同社技術研究所の研究員としてコンクリート研究に従事し、太陽の塔の工法を提案した。

大阪万博 初代事務総長
新井真一(あらい しんいち)
1914年生まれ。1940年商工省(現在の経済産業省)に入省。自動車課長、デザイン課長、繊維局長などを経て、1965年大阪万博事務総長に就任。1967年退任直前に岡本太郎にテーマプロデューサー就任を要請し、受諾させた。その後、中小企業金融公庫副総裁、大阪商工会議所副会頭などを歴任。2012年1月逝去。


引用

千葉 (略)じつは以前、NHKがテーマ館と太陽の塔を『プロジェクトX~挑戦者たち~』でとりあげたいと相談に来られたことがあったんです。『プロジェクトX』は、新幹線やダム建設など、難題を克服して成功にいたる物語を描いたドキュメンタリー番組で、とても人気がありましたから、覚えておられるでしょう。
でも、けっきょく番組にならなかった。なぜかといえば……なんの苦労もしていないからです(笑)。
平野 ウソだ(笑)。そんなはずがないじゃないですか。
千葉 いや、ほんとうに。いくら話を聞いても期待していた苦労話が出てこないので、NHKのディレクターがついに「これじゃ、プロジェクトXにならないなぁ…」って(笑)。苦労話をしろと言われても、苦労と思っていないので話にならないんですよ。
平野 苦労を苦労と思わなかった…。一種の興奮状態にあったのかな?
(略)

「仮設」という発想はなかった

植田 ただ、理屈はそうだけれども、設計している私たちにそういう認識はありませんでした。たしかに仮説建築物として申請したけれど、それはあくまで申請上の話であって、「仮設だから」なんていう意識はなかった。
限られた時間の中で、当時の技術をいかにうまく組みあわせて実現させるか、ということで精一杯だったし、逆にいえば、それほど選択肢があったわけでもないんです。あの形を建築物として成立させようとしたら、結果として本格建築にならざるを得なかったということです。
そもそも70mの建築とはそういうものであって、「仮設だから」なんていうヤワな発想ではつくれません。
奈良 70mの高さになると風圧だって地上とは比べものにならない。映画のセットのようなハリボテで済ませようとしても無理なんですよ。本格的な建造物にするしかないんです。
しかも、設計の途中で、私は吉川所長に「保存するか解体するか決まっていないが、保存するという前提で設計せよ」と命じられたんです。「残すつもりでやれ」と。
平野 でも、設計段階では規則どおり撤去されるものとだれもが考えていたはずだし、保存するかもしれないなんて、だれも言っていませんでしたよね?
植田 申請上は仮設ですから、所長だってはじめはそんなふうには考えていなかったでしょうが、設計の過程を見ていて「これは100年、200年ともたせるべき建築になる」と感じられたんじゃないでしょうか。私たちはハナからそのつもりでやってましたけど。
奈良 所長だけではありません。構造を担当されていた東大の川股重也先生もおなじで、たんにあの造形を物理的に成立させればいいという発想を超えて、構造としてきちんとしたもの、美しいものにしなきゃいけないと考えておられた。
(略)

平野 「おお、いいね」って、どんどん進んでいったと。
伊藤 そうです。
平野 これだけの規模の、これほどのクオリティをもった空間だから、ぼくはてっきり、ものすごく複雑なプロセスと格闘した末の結晶だと信じていたんですけど、いまのお話を聞くと、とてつもなくシンプルっていうか…。
伊藤 いや、もうシンプルですよ(笑)。
(略)
平野 知りませんでした。じつはテーマ展示って、ほとんど記録映像が残っていないんですよ。公式記録映画に《生命の樹》がわずかに映っているだけで、地下展示については動画がまったくないんです。少なくともぼくは見たことがない。地下展示は、写真でさえごくわずかなカットしか残っていません。(略)

「私はできると思います」
(略)
大山 川股先生が10年と言われたの?
嵩 いや、私が10年もたせたいと。
大山 なるほど、それに川股先生も賛同されたわけね。10年もたせるなら、それなりのことをしなきゃいかんと。
嵩 建物って、10年もてば50年はもつんです。そのあいだに技術も進歩しますしね。だけど最初から半年もてばいいやっていい加減につくったら、ほんとうにそうなる。そんなことではダメです。
平野 ああ、なんていい話なんだろう!
大山 (笑)
嵩 (笑)
平野 じつは奈良さんと植田さんのお話の中にも、おなじようなエピソードが出てきました。設計を率いていた吉川健さんが、「残すつもりでやれ」と彼らに指示しているんです。もちろん当時は太陽の塔を残すなんて話はいっさいありませんでした。なにしろ保存が決まったのは1975年ですから。
大山 なるほど。
平野 どの万博にも一般規則という”憲法”があるんですが、大阪万博のそれには、展示館は閉幕後6カ月以内に撤去しなければならない、と書いてある。つまり半年で壊すことは周知の事実であり、義務だったんです。それなのに吉川さんはそう言った。
嵩 そうですか。
(略)

平野 あの塔が出てきたときはびっくりされたでしょう?
新井 それはもう、ほんとに想定外ですよ。
平野 当時、太郎に依頼する前は、テーマ館にどんなイメージを持たれていたんですか?
新井 どんなイメージもないです。
平野 あ、なかったんですか。
新井 ただね、これ(1966年の新井氏の論文「万国博覧会の新しい展開」)に書いてある考え方、テーマの「人類の進歩と調和」、そのシンボライズ…。
そうだ、太郎さんにまつわる話をひとつ思い出した。ぼくが、ナポレオンとか豊臣秀吉とか、人類の発展のときに社会をリードした連中の話にふれたときに、太郎さんは即座に「馬鹿を言うな、庶民だ!」って。
山下 ああ…!
新井 それを覚えてるわ、強烈に。
平野 言いそうだ、太郎…。ね?
山下 うん。
新井 人類をシンボライズするのはそんな人間じゃないと。ぼくらはそう思っていたけど、太郎さんはそうじゃなかった。なんかよく覚えているな。そういう人だから役所からの仕事なんて抵抗ありますよ。