『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部(第1巻、第2巻、第3巻、第4巻の校正を完了させて)

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

メモ――インターネット”文化”は粗末にされていいか?

この記事を読んで、何かメモしておこうと思った。

デジタル庁が9月に発足 改革関連6法が成立「個人情報保護を後退させる恐れ」:東京新聞 TOKYO Web


そんなとき、以下の記事が広く読まれているそうで、中井久夫先生の発想と似ているな、と線を引くように読んでいたのだが、本論とまったくべつのところが「えっ! これでいいの?」とうめいてしまった。

フェミニストはなぜ「からかわれる」のか? 「からかい」という行為のズルい構造(江原 由美子) | 現代ビジネス | 講談社(7/7)

今日では、「からかう」のはネットユーザーであり、「からかわれる」のはフェミニスト個人である。過去よりも現在のほうが、メディア規制はずっと弱く、個人攻撃の色彩がずっと強まっているように思う。炎上を期待して悪意ある言動を行ったり、「からかい」を装って「人格攻撃」がなされることも増えている。何とかならないかという焦燥感が募るばかりである。

あたりまえのように、江原氏は「ネットユーザー」という単語を使っている。全体の文章からみて、江原氏の自由意思で書かれたはず。
インターネット文化は基本的に信用されなくてあたりまえ、という発想が根底にあるのだとわたしは推測する。
実態からみれば、たしかにほぼその通りである。
しかし、わたしの不満は、それが問われることのない前提になってしまっている(らしい)ことだ。

江原氏だけを揚げ足取りするつもりはまったくない。広く言えば、このコロナ感染拡大という条件下では、社会全体におけるインターネット文化の立場はもっと徹底して論じられるべきだと考える。たとえば生存権にてらしあわせて、インターネット文化における「安全文化」を「個人情報保護」と「デマ防止」と「誹謗中傷防止」に限定してしまう発想はおかしいのではないか、人々に「文化的な必要最低限の情報をあたえているか」から問わないでいいのか、とか。
わたしの過去の経験に照らして、「インターネット上での、必要最低限の情報」というのが問題になること自体、かなり珍しかった。わたしの独断かもしれないが、紙の本を買ってくれ、ということのほうが多かったように思える。いまふりかえって、それはインターネット文化の空洞化をすすめてしまったのではないかと反省している。

また続きを書くかもしれない。

参考資料
『民主主義を構想する ネット社会と現実政治の悪しきスパイラルを超えて』(2015年、中西新太郎、『人権と部落問題』67(1)) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部