『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

『いつでも幸福でいられる不幸』(2012年、中西新太郎、『教育』第801号)

CiNii 論文 -  いつでも幸福でいられる不幸 (特集 子ども・若者の不安と安心)

社会閉塞と生活満足度のギャップ

 いま、若者たちの意識を考える際の出発点は明白だ。成長の夢は終わった、ということである。(略)

右肩下がりの時代の幸福追求

(略)
 規範化された恋愛文化に背を向ける点では、このエートスは達観とも言うべき見事な対処術だろう。強調したいのは、生のさまざまな困難についてもこれと同様の対処術が発揮されている点である。自分の願望や要求を小さくし、方向を転換させてしまえば、とても解決できそうにない困難に「無駄な」(実りない)エネルギーを使わずにすむ。手の届く範囲だけに関心を向ける態度だと非難してもはじまらない。強大で強迫的な秩序のなかで自分が生きられる余地をつくるために編み出された知恵であり処世術なのだから。
(略)
 「そんな幸福感は思い込みにすぎず、幻想のなかで生きるようなものだ」という批判は当然にあるだろう。現実の生活が追いつめられ、先の展望が塞がれるなかで満足だと思っているだけのこと、という批判である。しかし、幸福幻想をそのように批判すればすむとは、筆者には思えない。未来を輝かしいものと考えられない者がそれでもなお満足できそうな世界を夢想すること、夢想するだけでなく追求してみること――そこに幸福追求の一つの姿を認めることはできないだろうか? 幸福追求の権利を「普通」の若者たちが獲得する径路のなかに、この幸福感を位置づけることは可能ではないだろうか?

大切なのは安心できる人間関係

 たしかに、「何もなくたって生きられるさ」というミニマリズムは、自分の欲求を無限に小さくすることで、死んでいるのと同じ状態にまで人を誘導しうる(ライトノベルの文化形象に現れたこの様相について、拙著『シャカイ系の想像力』岩波書店、2011、を参照されたい)。自己の生の価値(尊厳)までも放棄させる径路を、このミニマリズムはひそませている。
 しかし、「居心地のよい場所」を探そうとする処世術は、同時に、居心地のよさをつくりだしている「関係」に焦点を合わせ、どうしたらそんな関係を当たり前のこととして味わえるのかを、共有された社会的、文化的目標へと押し上げもする。アニメ「けいおん!」の大ヒットは、とりたてて波乱のない、まったりした「日常」の価値が広く受け入れられ、求められていることの反映ではないか。
(略)

安心と不安のスパイラル関係を超えて

 幸福追求の現代的姿は、こうして、孤立する不安を解消するための種々の技法を含むこととなり、そのなかに排除のしかけもまた埋め込まれてしまう。安心できるかかわりあいを求める当然のふるまいが、たとえそんな意図をもたなくとも、不安の重石《おもし》をより下のレベルと見なされる集まりへと委譲する格差的な構造をつくりだしてしまうのである。(略)
 かかわりあいのこの性格は、実は、ケアの領域で考えられ観察されてきたことがらである。荒唐無稽な空想ではなく、現にそうしたかかわりあいの追求があり、検討がある(たとえば、統合失調症の患者とスタッフとがともに生きる「べてるの家」の向谷地生良が伝えるかかわりあい技法。岡野八代『フェミニズム政治学』〈みすず書房、2012〉が追求しているのも、この領域の正当な評価である)。学校という社会的世界にあっても、この意味でのケアが社会形成の課題として位置づけられるべきではないか。ケアとは、ケアの対象者が抱える問題や困難を解消して「正常な生活」に復帰するための支援ではない。ケアの過程そのものが、これまでは見えていなかった社会のかたち(かかわりあい)を発見し、具体化するいとなみなのである。現実の学校生活でくり広げられる、葛藤と矛盾に満ちたかかわりあいの様相を、幸福追求の創発的なメカニズムととらえ直したうえで、たがいのイタさを俎上《そじょう》にのぼせる構想と実践とが要求されていよう。
(略)