『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

『批評 自己責任時代の〈一途〉を映すケータイ小説』(2007年、中西新太郎、『世界』第772号)

CiNii 論文 -  批評 自己責任時代の〈一途〉を映すケータイ小説

小説とは言えない小説?

(略)
 八〇年代半ばにおける赤川次郎青春ミステリーと思春期少女、バブル期におけるシドニー・シェルダン作品と若年未婚女性、萌え系ライトノベルと男子青少年といったように、作品と読者とが特定の歴史的関係を結ぶ現象はケータイ小説に始まったことではない。両者の関係が、定型化された宣伝手法をつうじて強化され加速させられることも同様である。ここに挙げたどの事例をとっても、それらの流行がそもそも作品批評の次元にのる類の、つまり小説ないし文学というジャンルで論ずべきことがらなのかどうかが話題になっていた。ケータイ小説も然り。ただケータイ小説の場合、文字で書かれた小説ジャンルはおろか、さまざまな手段で描かれる物語の臨界をこえた、その意味で独特な表現世界に、思春期少女が強く共鳴している。そういう作品世界の特質と、これを「読む」関係とに、すなわち、「小説を読む」という伝統的な〈発信―受容〉形式を踏みながらも、そこに盛りこまれる内実が伝統形式で想定されていたそれと異なるという点に、ケータイ小説の新しさがあり不可思議がある。PC文化と区別されるケータイ文化の出現とも微妙にかかわるケータイ小説のそんな不可思議について考えたい。
(略)

私の物語か、私たちの物語か

(略)
 「共鳴」はただし、描かれた物語に対する共感ではない。階層的、世代的、文化的等々の帰属の共通性に依拠する共感共同体が出現するわけではなく、ストーリーや登場人物に対する感情移入に支えられた「ファンクラブ」が形成されるわけでもない。ケータイ小説が読み手の誰にでも当てはまる「誰かの、どこかの」物語であることを想起しよう。ケータイ小説を「読む」とは、この場合、読み手が自身のライフーストーリーを追うことと重なっている。誰もが自分にふさわしい(と感じられる)自分用の物語を持っており、ケータイ画面に映る物語は、これにそぐうか否かによって取捨選択される。対象である他者の物語への想像力を如何ほどか強いる感情移入とはちがって、読み手の少女たちは自分自身の物語を追い、その完結を夢見る。主人公の内的独白が大半を占めるストーリー構成と描写についてゆけるのはこの故であろう。
 もちろん、ケータイ小説へのこの共鳴にも、共感共同体が果たしているような排除の機能はある。お気に入りの物語がけなされることは自己の物語への攻撃、ひいては自身の生そのものへの攻撃を意味するからだ。批評を許さぬこと、さらには批評の存立場所自体をなくすことは、ストーリー化された人生を完結させるために必要不可欠な防御である。こうして、一途な努力をけなす(とみなされた)者への反感と敵意もまた共鳴する。「そうは思えない」と別の現実を差し出すことは、プライドに支えられた各人の物語を傷つける、不作法で攻撃的な振る舞いなのである。共鳴する大衆的生にとって他者の物語である、少数者、「逸脱者」の困難な現実は、こうして、聞きとられることなく出口を失う(4)。
 だとすれば、ケータイ小説は他者の物語を生み出せないのだろうか。恋敵であるリスカ少女と面と向き合い、「あたしの話…聞いてもらっていいですか?」という問いかけに「聞かせて欲しい」と応じる場面(百音『永遠の願い』)には、そうした出会いの可能性が垣間見える。ケータイ小説が変貌を遂げるとすれば、それは、独白のマイーストーリーに介入する他者の像が「リアル」に登場するときであろう。

(1)たとえば、ケータイ小説総合サイト「魔法の図書館」は、会員登録すれば、図書館にあるケータイ小説に簡単にアクセスできる。
(2)ホラージャンルを得意とするSaoriなど。
(3)ケータイ小説サイトにはケータイ小説の書き方指導もあり、小学校高学年から書き手となることが可能である。
(4)このメカニズムについては、拙著『〈生きにくさ〉の根はどこにあるのか』(NPO前夜)参照。