『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

少なくともエドワード・サイード以降、「人文学(のすばらしさ)」を語ることは勇気が必要になったのではないか?――徐先生のコラムへの批判的コメント(簡略版)

正直に言って、尊敬する徐京植氏に批判的コメントをするのは気が引ける。しかし、このコラムを読んだときは悪い意味で非常に驚いた。反植民地主義者が、あまりにも無条件で「近代」を肯定してしまっているのである。


[寄稿]「図書館的時間」を取り戻す : 社説・コラム : hankyoreh japan

 さて、図書館の危機について述べよう。危機は主として二つの方向から迫っている。一つは社会全体に及ぶ読書文化の衰退である。一昨年の文科省の調査では、(雑誌を別として)1年間にまったく本を読まない人の比率が5割に達したそうだ。もう一つは、「費用対効果」「成果主義」という新自由主義的発想が文化や教育の領域まで浸食していることである。

 韓国のことはよく知らないが、日本では大学図書館の予算は常に縮減の対象であり、図書館の多くはこのところ長く「構造調整」という名の圧力にさらされている。専任司書職員の数は減り、外部委託の比率が年々増加している。こうした傾向の背景に、図書館の存在価値を短期的な「費用対効果」で計ろうという「新自由主義的」発想がある。この発想に立つと、図書館の価値は学生の就職率や資格取得率といったわかりやすい数値でしか計ることができない。

 図書館の使命は普遍的な視野を堅持して人類の知性に奉仕することである。その価値は一個人や一企業、一政権の寿命などをはるかに超える尺度でしか測れない。一例を挙げれば、カール・マルクスは英国亡命中、およそ30年間大英図書館に通って「資本論」を書き上げた。これはマルクス個人の業績であると同時に、図書館なしにはあり得なかったという意味で、大英図書館の業績でもある。このような知的営みの価値を短期的な尺度で計ることはできないのである。

(略)

 簡単には答えの得られないような深い問い(およそ人間に関する問いはすべてそうである)に身を沈め、終わりのない問答に没頭する、その思考の過程そのものが豊饒であり喜びに満ちているのである。それがつまり「図書館的時間」である。スマホの検索機能に依存し、上記のような思考過程を経ないまま与えられた「解答」に跳びつく態度は、その学生にとっての不幸であるだけでなく、社会全体の平和にとっての脅威である。それは事物を単純に類型化してとらえ他者を一括して差別し敵視する姿勢につながる。ヘイトクライムの温床であり、戦争の培養器である。支配者が望んでいるのはそのような「臣民」である。

 人間以外の存在が本を書くだろうか、本を読むだろうか。それは人間を人間たらしめる喜び、自由な人格として自己を形成する喜びなのである。このような喜びを学生にも提供しようとする場が、図書館である。そのためには、自由で寛容な「図書館的時間」を取り戻さなければならない。「新自由主義的時間」と「天皇制的時間」に抵抗して、人間の時間を取り戻すために。

「近代天皇制」と「西洋近代」を分離して考える、ということ自体、私は非常に問題があり、そこにこそ天皇制批判の落とし穴があると考えているのだが、そこはまだいい。問題にしたいのは、あまりにも「人文学的思考」「人文知の達成」を無条件で賛成できる発想である。「カール・マルクスは英国亡命中、およそ30年間大英図書館に通って~」一文をマルクスが読んだら、たぶんこういうだろう。「私は、帝国主義の産物たる大英図書館を、プロレタリア独裁の実現のためにあえて利用したのだ」と。上の「図書館」を「博物館」とおきかえたら、問題の意味がよりわかるだろう。そう、植民地主義と単なる暴政のちがいは、それがまぎれもなく人文学の知に支えられた思考様式だ、という点である。徐先生が何度も引用しているエドワード・W・サイードが、イスラエルパレスチナ問題においてくどいほど強調していたのだが、まさか先生は反植民地主義の大先輩サイードのことをお忘れになったのだろうか。それとも、「サイード先生はむしろマスコミについて批判している」とでもいうのだろうか? そんなはずはないのだが……。これがまず一点。
第二点、「スマホの検索機能に~」うんぬんというが、そもそもなぜ「日本の若者」がなぜ日本社会(のいろいろ)に関心をもたないのか、ひょっとしたら「日本社会」が「日本の若者」をさまざまな形で追い出しているのではないか、という発想がたぶん徐先生にはない。私がこういうことを言えるのは、徐先生が「日本の若者」の問題、たとえばオウム真理教や引きこもりや自殺率の増加と、植民地主義思考の関係性を論じているのを(私は)みたことがない。そういう可能性を思いつかない徐先生をみて、「日本の若者」が、「そうか、人文学の知というのは、どっかぬけてやがるな。じゃあ、一生懸命やんなくてもいいや」と考えない、と予想しないのだろうか? 大変失礼な言い方になっているのは、私自身よくわかっている。間違っているならば、だれでもいいからぜひ教えてほしい。
第三点、「それは人間を人間たらしめる喜び、~」うんぬんというが、じゃあ、どこからどうみても近代啓蒙の体現者・丸山真男はどうなるのか? 中野敏男氏や権赫泰氏が徹底的に批判しているように、丸山と植民地朝鮮認識(ひいては東アジア認識)は、丸山個人というより、「近代啓蒙のプロジェクト」に根本的な落とし穴があることを示している。植民地主義批判に限界があることが明白な以上、これ以上「近代啓蒙」についていって、なにがどうなるというのか? そのことを「現代の若者」はうすうすわかっているから、「近代啓蒙」に熱中したりしなくなったのである。

最後に。
私が3冊ほど読んだかぎりでは、エドワード・サイード「あいつら」の《まったくまともでない》像をつくってしまうことにおいて(それは必然的に「わたしたち」の像もつくってしまうが)近代人文学を徹底批判したが、それは「わたしたち」の《よりまっとうな》像をつくるという人文学の本来の使命に徹底的に忠実だったから、のはずである。題名にも書いたのだが、少なくともサイード以降、「人文学」を語るのは勇気が必要になったのである。

蛇足。
徐先生はハイデガー問題について語っておられない。ハイデガーは「ドイツ語が母語でない奴に哲学は決してできない」などと弟子や論敵が仰天するようなことを言っているが、私にはこのあたりにハイデガー哲学の危険な結論がむき出しになっていると思う。母語母語の限界を決定することができない。これはまぎれもなく事実だ。ウィトゲンシュタインハイデガーのこの暴言を聞いたら、きっとポパーのときよりはるかに激怒しただろう。
新元号なるものと日本語と呼ばれるものと”日本”についてのメモ そのいち - s3731127306973のブログ