『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

「私にとっての戦後、そして若者へのメッセージ」(2015年、中西新太郎、『myb みやび』第2号)

特集 団塊世代の戦後70年
私にとっての戦後、そして若者へのメッセージ
中西新太郎

 想い描いた場所から遠く離れて 「戦後日本」かたどり着いた場所を思うとき、心に浮かぶのは、生活に行き詰まった兄妹が、明日の展望もなく函館山に昇る大晦日佐藤泰志海炭市叙景』)の情景。そして、「無差別に人を殺し歩いている通り魔も私なら、たまたま通りかかって殺される犠牲者も私に他ならぬ」と描かれる世界都市東京(奥泉光『東京自叙伝』)の末期である。
 たどり着いたのは、かつて想い描いた場所ではなかった。そのことを嘆いて、「こんなはずじゃなかった」と言いたくはない。「戦後レジーム」の打破を叫ぶ右派言説のように、「戦後日本」がまちかっていたと非難するつもりもない。「戦後」をそのようにとらえ語ることは、阪神淡路大震災オウム真理教事件の年に生まれ、いま成人を迎える若者たちが生きる歴史的現実であり起点である「いま・この場所」を、できの悪い作品をあげつらうかのように私物化する行為に他ならない。あたかも団塊の世代が(戦後)社会を思うさま動かせるかのように誤認し錯覚してきたのではないかと自問する。
 もちろん、想い描いた場所にいないという事実――貧困と「無縁社会」化のありふれた事実に触れるだけでも、「戦後七〇年」のいまをまるごと成功とみなす素朴な思いこみは崩れ去るはずだ――に目をそむけてはならないと思う。「戦後」の歴史的堆積がどのような過程をたどり、どんなメカニズムの下で、望んでいたわけでない帰結へと導かれたのか。「戦後日本」のいわば思春期を生きた団塊の世代がその過程の何を見て何を見なかったのか、自己正当化を交えず自らに問い質すことは、「戦後七〇年」のこの場所から出立せざるをえない若い世代への責任であるだろう。

無一物の輝き

(略)
しかし同時に、「戦後」が素朴に「ゼロからの出発」ではなかったこともいまにして思い返す。無一物となったことにだけ気をとられた「戦後日本」は、自らが引き起こした植民地支配や侵略戦争の責任をも解除されたかのように錯覚していた。
(略)

成長経済から取り残されて

(略)

見過ごしていた置き去りの構造

(略)
職業人への入り口にあった団塊世代の自負は、旧来秩序に反逆する社会的・歴史的代表者に自己を同定させる。さらにそのことが、自分たちの反抗する青春期を、「戦後日本」変革のアクメ(絶頂期)に重ねさせる。後年の若者たちからひそかに軽蔑され尽くす、「あの時期は真剣だった、社会を変える情熱があった」という「団塊親父」の昔語りが生まれることになる。団塊世代の不幸は、そうした自己認知が社会的評価(ステレオタイプ)として通用してしまった点にある。
 しかし、七〇年前後の社会・政治変動を社会変革の可能性に満ちた輝ける時代とみなすのは、控え目にみても歴史的誤認であった。(略)

心ならずも金ぴか時代に生きる

(略)
 ひとつの時代の転換を察知しその意味を告げる観察者、たとえば山崎正和が、「柔らかい自我」の出現を予測し(『柔らかい個人主義の誕生』1984)、村上春樹が意図して時代に棹ささないシニカルでスタイリッシュな生を形象化する八〇年代には、豊かな生活のアイテムが溢れ、貧困の現実が社会の表面からまったく消え去ったことはもちろん、
(略)

異なる戦後の邂逅と交錯

(略)
 残念ながら、八〇年前後から顕わとなる東アジア同時代史のこの転回に、日本社会は、総じて無頓着だったと言わざるをえない。東アジア世界の戦後がはじめて公然と交錯し、それぞれの「戦後」がいわば生のすがたで邂逅し始めたにもかかわらず、「戦後日本」はこの現実とは無縁の、自閉的なすがたのまま年を重ねた。置き去りの構造にたいする注視と批判とが国際化してゆくにもかかわらず、靖国神社参拝問題にせよ、教科書問題にせよ、外圧としか受け取れない心性が滲み出してゆく。固くこびりついた自閉的な「戦後日本」像からわが身を引き離すことのできない難儀な症状に、私たちの社会はいまもある。「外圧」をすっぱり断ち切り、「日本人」のいまと過去を素直に肯定したいと願う誘惑は、現在のヘイトスピーチにまでつながる右派言説、歴史修正主義言説の培養土として、この四半世紀の間に、無視できない規模で広がった。(略)
(略)

もうひとつの民主主義へ

 団塊世代の「昔語り」としてつたえられる「戦後」は、有り体に言えば、若い世代にとって実感が持てぬだけでなく、拝聴する意義も見いだせないだろう。戦争待望論だとして衝撃を与えた評論「丸山真男を引っぱたきたい」(赤木智弘2007)に窺われるのは、「戦後」の資産などゼロだと感じるロスト・ジェネレーションの怒りで、その怒りは企業社会体制の受益者(=「戦後日本」の冨の受益者)と目される団塊世代にストレートにぶつけられた。日本人はことごとく「努力教信者」になったと言い、そこから排除された自己を「生ける屍」と述べる「黒子のバスケ」脅迫事件被告の陳述(渡邊博史『生ける屍の結末』)にも、ゼロあるいはマイナスからの出発を強いる社会、時代への呪詛が鮮やかに表明されている。置き去りにされた側から眺める「戦後」は、自分たちをゼロ地点にとどめおく部厚い秩序に映って無理ないのである。
 「戦後」七〇年を経たいまが、再びそこから始まる「ゼロ地点」に感じられるにせよ、私たちの生を歴史的現実とまったく無縁に成り立たせることはできない。ノストラダムスの予言が実現するとされた一九九九年をゼロ地点として期待を寄せた者もいたが、もちろんそれは幻想に過ぎなかった。まるごと「戦後」を引き継げと求めることの誤りと同様に、「戦後」は何者でもなかったと断定することも錯誤である。主観的にどれだけ切実にそう思うとしても、歴史的にしかありえない生のリアルを拒絶することの代償は重い。
 「戦後日本」が、いまこの社会から出発する若い世代に歴史的債務を負わせていることは否定できない。「戦後」が積み重ねてきた不良資産の相続を放棄したい願望はよく理解できる。だが、「コスモポリタン」として自由に生きられるだけの莫大な冨を持たない「普通人」は、「債務」をもふくめた歴史的現実の上に立つ以外に、いまここにある困難を突破することなどできない。「戦後日本」をどのように選り分け、自らの未来に資する社会的冨の創出に結びつけることができるか――眼前におかれたのはそうした歴史的課題なのだと思う。
 この夏、全国に広がった「民主主義ってなんだ」どいう若者たちのコールに接し、歴史的生を引き受けて動く探究が始まったと痛感している。民主主義を矮小化し、権力者の専制的統治手段に変質させてきた政治秩序への異議申し立ては、「戦後」を選り直すのだという若者たちの宣言のように、私の耳に響く。成長経済の見果てぬ夢に駆り立てる政治に同調せず、社会の豊かさを別様に構想する若い運動家たちも次々に登場している。「戦後」のそれとは異なるスタイルと話法で広がるそうした社会―運動は、自分たちの拠って立つ歴史を見出し、自前の社会構想を育てようとする思想運動でもある。彼ら彼女らの探究もまた、ゼロからの出発でありえない以上、それはそれで幻想をふくむかもしれない。東アジア世界の戦後へと「戦後日本」を合流させる道程には、まだ幾多の困難があることだろう。だが、この道をすすむことでしか、「戦後日本」にこびりついた迷妄と幻想を脱することはできないと思うし、いま始まった若者たちの探究には、「自らの思う道を進め、人々(大人たち)の言うに任せよ」と声をかけたい。

(1) 第1次世界大戦後に生まれた戦後post warという観念は、そもそも、ネイション・ステイトの再建という枠組みを暗黙のうちにひそめており、世界を同時代史的につかむ視点が欠けていた。日本に限らず、帝国主義清算・克服としての戦後が主題化されないのである。戦後にカギ括弧をつけているのは、こうした欠如を考慮してのことだ。
(2) 沖縄の唄者大工哲弘がこの曲を「沖縄へ返せ」と言い換えたのは、この認知構図にたいする痛烈な異議申し立てであった。
(3) もちろん、リタイアした団塊世代が優雅な年金者生活を送っているという非難は事実に反する。置き去りの構造は団塊世代内につらぬかれている。「経済大国」時代の取り分を持ち逃げし、人生の優雅なアフターファイブを謳歌する「戦犯」として団塊の世代は断罪されている。それは必ずしもまちかっていないと思うが、リタイア世代の多くは、最低生活と言ってよい状態におかれている。

引用者コメント:すくない文字数で無理を承知だが、中西新太郎氏にはもっとオウムについて語ってほしかったとおもう。徐京植先生に、自身の母と父と兄たち、そして出会って感動を受けた人びとの人生についてもっともっと語ってほしいのと同じように。まあこれは、私の個人的なことであるが。
それはともかく、私には、文化の受容者がいまさらのように「オタク文化(本当はサブカルチャー全般)の政治に対する視野がせまくなった」とか「科学と政治の関係を理解できなくなった」とかいったことを言ってほしくない。ここでいう「政治」なるもの中身も問題だし、なにより問題はオタク文化に限らないことは、1980年代の特にサブカルチャー全般をすこし広い視野でみかえせばすぐわかることである。中西氏はそのことをきちんと指摘している。
一例だけあげるが、1980年代以降のサブカルチャーの担い手に『忘れられた皇軍』を記録した大島渚(怒りっぽかったが同時に人を引きつける魅力があったと聞く)にならぶものが現れず、無知蒙昧かつ右顧左眄かつ曲学阿世を形にしたような三浦朱門(実態はすこしちがうだろうが、それほど的外れでもないだろう)の実質的上司のような思考回路をもった、「クールジャパン」とやらの代表者ばかりが現れたように見えるのは、大変な問題だったと私はつくづくおもう。「日本民族殺すにゃ刃物はいらぬ、日本語つぶせばそれでよい」というやつだ。それを日本民族が、日本民族を解体するつもりがないうえで、実行してしまったように思えてならない。