『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

民族文化の”曲折”ということ、または、私にとっても”まだ”驚くべき説(簡易版)

特に、日本軍性暴力問題にかんして、反植民地主義の論者たちの心の奥底、いや、すでに意識にはっきりかたちづくられているものとして、「”日本民族文化まるごと”が、”歴史のゴミ”ではないか?」という問題がある。これいじょうなく過激な「文化論」だが、反植民地主義者にとって、おそらく、原理的には、ここがつまづく点ではない。私の判断では、梶村秀樹氏や徐京植氏の著作群ですら、この”歴史のゴミ”にはいりかねない可能性が、わずかだが、ある。なぜかは、あとで書く。つまづく点は、つきつめていえば、一つだけである。

――「”朝鮮民族文化まるごと””台湾民族文化まるごと”と”日本民族まるごと”、その決定的なちがいはなにか?」

科学的血統(エセ生物学における記述ではDNA)にはちがいがみつけられない。個々の文化の記述においてもちがいはみつけられない。
しかし、現実に、”日本(民族)文化まるごと”が、歴史のゴミのようにふるまっている。このことを直視すること!
ただし、この命題はすこしまちがっている。
ただしくはこうだ。
「『現時点において』”日本(民族)文化まるごと”が、歴史のゴミのようにふるまっている。」

つきつめていえば、問題は簡単なのである。(想像上の)血統と民族文化が一致していなければいけない、という、単純にして強力な、錯覚である。
一致していなければいけないのは、生活形式、この一点のみである。血統というのは、まったく関係がない。

では、具体的にはどうするか。
私にはいくつか考えがあるが、ひとつには、いわゆる日本語におけるすべての”文化”の(ナマ)原稿、そのすべてを日本列島の領域から撤去させることである。場所はとりあえず、ユーラシア大陸のあちこちでいいだろう。日本語の文化の”ナマ”は、日本列島に存在しなければならない、というのが根本的にまちがったイデオロギーなのである。必要があれば、保管場所にいって校正するなりすればいい。そんなことで割引されるような”文化”など、最初からまったく大したものではないのである。考えてみれば単純な話で、ゴッホの作品がオランダ以外の場所にあったとして、いったい何が問題があるというのか? (私個人としては、モンドリアンの中期~後期の作品のほうが自分の気質に合っていると思っているが)

――「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! おまえは日本語(”文化”)を滅ぼす気か!」と言われるかもしれない。
私は、はっきり、こう言い返そう。
そんなことで滅びる日本語(”文化”)など、最初から大したことがない、まったく完全に、ほろべばいい。あいうえおの50音表がこの世からまったく消えたとしても、私はまったく惜しいとは思わない。日本民族文化”がモンスターになるぐらいならば、だけど。そのほうが”民族文化”にとってすばらしいことなのである。それに、一からつくりなおせばいいだけで、ざっと500年ほどあれば、それなりの言語文化ができるはずだだ。」――

念のためにいっておくが、私は100%本気である。曲折がないならば、自分で作ればいいのである。民族文化とは、生活形式とは、そういうものである。というより、そういうものでしかない、と覚悟したところからしか、うまれない。
だいいち、児童虐待防止における親権断絶(いわゆる毒親問題)の問題を徹底してつきつめていけば、こういう結論になるのは必然なのである。いかなる血統といかなる生活形式はまったく何の関係もあってはいけない、ということに。そのことがよくわかっていないというか、思い切りの足りない論者(当事者ふくむ)が、どうも多いようだ。私のかんちがいだといいのだが。



考えてみれば、1946年ごろの、志賀直哉坂口安吾の特攻論(と言語論)の対抗は、うえに書いた論点と本質的な関係がある。血統と民族文化の断絶が必要らしい、と感づいた志賀直哉はやはりきわめて論理的だった。
私は、志賀直哉に全面的に賛同する。300年ほど、血統上の日本人全員が、文法上のフランス語をつかったのち、文法上の日本語にもどればいい。そんなもので折れて戻らない日本語など、実は”民族文化としての日本語”などではない。せいぜい、文法的もしくは修飾技術によっていじくりまわされた”文法上の日本語”でしかない。
坂口安吾は、そのことに気がつかなかった。だから、投降兵より特攻兵を擁護してしまった。私利私欲に正しくてっした投降兵を、坂口安吾は肯定できなかったのである。
「投降」という、民族文化にとって、本当にすばらしい、決定的な”文化”(ピカソの「ゲルニカ」に並ぶほどの)を擁護できない、”民族文化まるごと”なんて、最初からおかしかったのである。

”民族文化まるごと”が毒親化するならば、民族文化など(正確には”民族文化まるごと”など)ほろべばいい。一からつくりなおすだけだ。人類が滅ぶことを考えても、民族文化が滅ぶとはなにかを考えられないサブカルチャーポップカルチャーなど、急所を骨折しているようなものだ。そんなものに私には何の興味もない。だいぶはやっているらしい、「文化論」にあるような、(広い意味での)創作家の”出生地のごろあわせ”など、もっと興味がない(私のかんちがいかもしれないが)。私にとって、かずおおくの戦争証言から学んだ核心部分のひとつは、言語の核心は文法ではなくまして修飾でもなく、全体をせおった瞬間にしかない、ということである。

ただし、私はこのことを植民地支配責任論だけからからかんがえたわけではない。もう一つ、オウム真理教の思考回路のまったく逆をいった、という面がある。竹内好加藤周一にならって。もちろん私は凡人だが。