『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

三・一独立運動百周年への提案ふたつ

今年は朝鮮民族の歴史における画期的”事件”、三・一独立運動百周年記念である。朝鮮半島負の遺産、南北分断の解決への道はいまだ遠いらしいが、南北分断を解決する意味においても、この”事件”をふりかえる必要があるだろう。

さて、私が日本語圏でみるかぎり、とても不安に思う、暗黙の前提があるようにおもわれる。
それは、こうである。
「官憲の弾圧に命と人生をかけてたちむかった朝鮮民族の民族文化はすばらしい、なんだこれは! といわずにおれない。三・一運動に命と人生をかけて参加した日本民族は一人もいない。だから、日本人はダメなんだ!」
私は、この前提には重大な問題があるとおもっている。血統と民族文化を一致させないといけない、ということである。
私に言わせれば、天皇制は(想像上の)血統主義であって、結局それ以上でも以下でもない。中国圏で天皇制(実は血統主義)が採用できなかったのは、有力な血統が複数あったため、という、ただそれだけにすぎない。だから、私に言わせれば、天皇制の血統主義と、ヨーロッパの「人種主義」(実質は血統主義)を本質的に分離して批判する、という大勢の論者の方法論はとても奇妙にみえてしかたがないのである。

こんにちの、近代以降の民族文化は、血統主義を全否定しないといけない・一個人が過去の民族文化のすべてを、守りに入らずに背負って、おのれの人生を賭けなければいけない・個々の「民族」の名前のみを名乗ってはいけない。

だから、(血統上の)日本人が朝鮮民族の民族文化のすべてを背負って日系朝鮮人になれるかどうか、(血統上の)アイルランド人が沖縄民族の民族文化のすべてを背負ってアイルランド系沖縄人になれるかどうか、(5代までさかのぼった血統上の)ユダヤ人が、パレスチナ人文化のすべてをせおって「ユダヤパレスチナ人になるるかどうか、(身体上の)非ろう者がろう者のろう文化のすべてを背負って「非ろう者系ろう民族者」になれるかどうか、(身体上の)男性が、世界中すべての(いろいろの)”女”文化のすべてを背負って、「生物学的非女性系リブ」になれるかどうか、それは正しく自分の人生を賭けているかどうか、つきつめていえばこれだけでしかない。
驚くべき結論ではある、すじみちだてて考えてみれば、私は当たり前のことをいっているだけである。ゴヤピカソが、「スペイン人には私の芸術のありがたみが三割増しでわかるようになっている。あとの血統の連中には知らないよ」などというだろうか。そんなことを少しでも想像するだけで、「なんていやしい!」と身の毛がよだつようだ。だいたいそんなケチなことを少しでもいうような「文化人」、いや、「創作家」など、知識や訓練をひけらかすばかりでムナシイ人生を生きているだけである。三・一独立運動の独立宣言文もそうだった。多少ブルジョアジーよりで、女性の視点を明言していなかった文言ではあったが、少なくとも「開かれた民族主義」を唱えていた。
私が、金学順氏や姜徳景氏のことを「全身全霊で尊敬しなくてはいけない!」と明言する人がなぜこんなにも少ないのか? というのも、同じ意味である。「尊敬」なんて言葉をつかわずともいい。「あっ、これはすごい!」でいい(本当は「これは」なんてのはいらない、「すごい!」でいい)。もちろん、歴史に対して名乗り出られなかった被害当事者をさげすんでいるわけではない、誰もそんな資格はない。名乗り出られたのは、「ツキ」と呼ばれる何かの要素が金氏や姜氏などの、個々の被害当事者に味方になったからである。しかし、名乗り出て、別の個人と出会った以上、その「別の個人」が、金氏や姜氏たちに対して、人生のいくらか、もしくはすべてを賭けようとしないのは、根本的におかしいではないか。
「マジョリティは自分を守っているから、そんな、あんなすごい人たちに対して人生を賭けようなんてことはゼッタイにむりなんだ。もしできるならば、マジョリティのケチなアイデンティティをぶっこわして、また再構築してから、それからだ。」
だぶんこういう反論があるだろうが、それこそ私には理解も納得もできない。だいいち、その、「再構築」したあとのアイデンティティというのは、そんな大したものだろうか。批判を覚悟ではっきりいうが、そんなものは、せいぜい反差別運動の「荷物持ち」にガマンできる程度のアイデンティティ(というより、役割意識)でしかないのではないか。少なくとも私は、「もっと広い意味でまっとうに生きたい」という、とても単純な理由から、反差別運動のしっぽに参加している。「荷物持ち」というのは、はっきりいってケチケチした考えである。ほかの方も、ほぼ全員がそうだと思うのだが……。

長くなったが、「半分ぐらい・元・日本民族」の一人として、ふたつの提案がある。
明治維新後の日本列島において、三一独立運動にかろうじて並びそうな文化的”事件”は、私が知るかぎり、ふたつある。
ひとつは、岡本太郎の「太陽の塔」と「明日の神話」の存在。
もうひとつは、梶村秀樹の著作群の存在である。
縄文土器論の問題や、民族経済の問題はあるが、重大な意味を持っていることを否定できる人はいないだろう。
そこで、ひとつめの提案。
「ホンモノの「太陽の塔」を、朝鮮半島の38度線、非武装地帯に設置すること」――現在の、「日本民族」を滅ぼしてしまった血統だけしかよりどころのない「日本人(のほとんど)」には、「太陽の塔」のすごさを理解できない。だから、朝鮮民族の民族文化に「太陽の塔」をプレゼントする。「もってけもってけ」である。現在の「日本人(のほとんど)」は、「源氏物語」や「鎌倉の大仏」や「新幹線」なら、まだ無関心でいられるだろうが、「太陽の塔」ならば、心の深い部分で「あれを失ってはいけないんじゃないか」と思うはずだ。それだから、「失う」に値するのである。朝鮮民族の民族文化ならば、「太陽の塔」に感動して、必ず同じぐらいすごいものをつくってくれるはずである。日本側では、あと50年ほどは不可能だろう。朝鮮民族の民族文化ならば、まあおそらく、30年以内につくってくれるはずである。いっておくが、私は、ふざけているのでもなくやけになっているのでもなく、まったく本気でこの提案をしている。ここを絶対にまちがえないでほしい。
もうひとつの提案。
梶村秀樹氏を「三・一独立運動の、おくれてきた参加者」として認定し、梶村秀樹氏の著作群を世界記憶遺産とすること」――認定する主体は、南北朝鮮政府ではなく、南北朝鮮民衆の独立した集団がいいだろう。梶村の著作群が、「民族史学」の提唱者・申采浩の著作群と対比することができるほどすごい著作群だ、と認定されれば、こちらの世界から去った梶村秀樹もきっと喜ぶはずである。こちらはおそらく、ほとんど反対されないだろう。というより、なぜ言い出す人が少ないのか、不思議におもうぐらいだ。「(想像上の)血統主義」ほど薄く広くひろまっているいやしいものはない。


……これは本気で思うのだが、現在日本列島の民族を考える人たちは、なぜ「太陽の塔」に対決しようとしないのだろうか? 私は本で知っているだけではあるが、「太陽の塔」をめぐる人(新井真一・丹下健三・奈良利男・植田昌吾・千葉一彦・伊藤隆道・大山宏・嵩英雄・小松左京・石坂泰三・桑原武夫、そして岡本敏子岡本太郎)たちは、すくなくとも、あれを作っているその過程・歴史にあらわれでた側面において、本当に魅力的な人間たちだった。「過去の日本人」をふみこえてのりこえようとする「日本人」だった。あれぐらいの「文化」がつくれずに、そしてそれをめぐる人たちの歴史を避けて通って、(それこそ右も左も)いったいどんな「文化」をつくろうというのか? 「万博」という近代のイベントのなかで、「太陽の塔」はどうみても「矛盾そのもの」なのである。皇国史観・大和政権美術に対するアンチだった1952年の縄文土器論、あれをクサしておれば、「太陽の塔」を避けて通れる、という発想は、「ゲルニカ」に頭をさげてすませるインテリと大差ない。