『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『モルグ街の殺人』(エドガー・アラン・ポー:作 中野好夫:訳)

モルグ街の殺人事件

サイレンが、いかなる歌を歌ったか、またアキレスが、女人どものあいだに、その身を隠した時、果していかなる仮の名を名乗ったか、それらは、まことに難問であるとはいえ、まったくわれわれの推測を絶しているわけではない。
   サ・トマス・ブラウン

 通常、分析的と称せられている精神機能で、じつは、ほとんど分析を許さないものが、いくらもある。それらは、ただ結果によって料《はか》るほかはない。だが、ただそれについて、わかっていることの一つは、この分析的能力なるものを、とくに人並外れて具えている人間にとっては、それは、常に非常に生き生きとした楽しみの源であるということだ。あたかも強壮な人間が、その肉体的能力を得意として、なんでも筋肉を使う運動といえば、喜ぶのと同様に、この分析家もまた、なんでも物事を解きほごす知的活動といえば、夢中になる。どんな下らない仕事でも、彼のこの才能を、発揮させてくれるものなら、ただもう喜んでやるのである。謎《なぞ》遊びだとか、難問解きだとか、さては暗号解読だとか、とにかくそういったものが、なにより好きで、それらの解決に対しては、常人の理解力では、とうてい人間業と思えないような慧敏《けいびん》さを示すのだ。事実その結論は、手順も手順、じつに整然たる手順によって、齎《もた》されるのであるが、うち見たところは、なんとしても直観としか思えない。
 いったい解析の能力というものが、おそらく数学の研究、それもとりわけ、ただその逆行的操作のゆえをもって、不当にも、優先的に解析学と呼ばれている高等数学の研究によって、大いに発達させられることは、事実であろう。だが、それにもかかわらず、計算は、かならずしも分析ではない。たとえば棋士であるが、彼は計算はするが、分析はしない。したがって、知的能力に与えるチェス遊びの効果などということは、非常な誤解だということになる。僕は、いま別に論文を草しようというのではない。ただこれから、多少変ったといえば、変ったある物語をしようというに当って、いわばその前文として、いささか駄弁を弄しているにすぎない。したがって、言っておくが、高度に思索的な知的能力の涵養《かんよう》には、あのただ複雑なだけで、下らないチェス遊びなどよりは、地味ではあるが、ドラフツのほうが、断然はるかにためになる。チェスというやつは(略)
(略)

(略)
(略)だったが、これは、たちまち窓から、まっ逆さまに投げ落した。
 ところで、船乗りは、猩々が、切り苛《さいな》んだ死体を抱いて、窓のほうへ近づいて来た時には、色を失ったまま、小さくなって、避雷針にしがみついていたか、あとは降りるというよりは、滑り落ちて、そのまま家へ。逃げ帰ってしまった、――兇行の結果も、怖ろしかったが、そのあまり、あの猩々の運命などについては、いっさい喜んで、考えることを忘れてしまった。階段を上った人々が聞いたという例の言葉は、つまり悪鬼のような猩々の声にまじって、この船乗りが挙げた、恐れと驚きの叫び声だったのだ。
 もはや、これ以上つけ加えることは、なんにもない。きっと猩々は、部屋の扉が破られる前に、いち早く、また避雷針を伝って、逃げたものに相違ない。その時に、窓は、また閉めていったものにちがいない。当の猩々は、その後、所有主自身が捕えて、なんでも大した金で、植物園《ジャルダン・デ・ブラント》へ売ったということだ。ルボンは、僕らが警視庁へ行って、いっさい事情を説明すると(もっとも、だいぶデュパン君の註釈つきでだが)、すぐに釈放になった。ところで、警視総監君だが、むろんデュパン君に対して、好意以外はないはずだが、さすがに事件のドンテン返し振りには、いささか口惜しさが、隠し切れなかったらしい。人間、よけいなお節介は、考えものだぜなどと、ちょっぴり厭味を、言わないではいられなかったようが。
 「なんとでも、言わしておくさ」と、かんじんの皮肉には、答える要もないと考えたか、デュパン君は言った。「しゃべりさえすりゃ、気が安まるんだろうからね。僕としちゃね、奴の本拠をついて、そこで敗かしてやったというだけで、満足さ。だが、先生がね、この事件の解決に失敗したということはね、けっして彼が思っているような、不思議でも、驚きでもない。というのはね、正直なところ、あの総監君はだよ、小才が利きすぎて、かえって浅智慧なんだなあ。つまり奴の智慧には、雄蕊[#「雄蕊」に傍点]がないんだ。ラヴェルナ女神の像みたいにね、頭があって、胴体がない。――いや、せいぜいのところが、あの鱈《たら》みたいにね、頭と肩とばかりなんだ。だが、結局は、いい男だよ。あれで、奴は、とても怜悧だという評判だってねえ。そこで、その由って来るゆえんを、じつにうまく評しえた名文句があるんだがね、僕は、そのために、いっそう奴が好きなんだよ。つまり、先生の手口っていうのはね、『あるものを否定し、ないものを説明する《ド・ニエ・ス・キエ・エ・デクスプリケ・ス・キネ・パ》』というのさ、ね」
[おわり]

底本:『世界文学大系』第33巻(1960年、筑摩書房
引用記事作成:2019年08月12日