『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部(記事の整理中)

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。

メモ――樋口直人氏の極右”活動家”への聞き取り記録に関するメモ

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最初に、このメモを書く理由をここに書いておこう。
私は以前、『聞書水俣民衆史5 植民地は天国だった』とそれに対する鹿野政直氏の書評を読んで、「ここに”民衆”というもののもっとも難しい問題が凝縮している」と心から思った。
今、梶村秀樹先生の著作群の全体を一通り読んで、その思いを強くしたと同時に、「2000年以降の差別主義者の言動にも、”民衆”というもののもっとも難しい問題が凝縮しているのではないか」と考えるようになった。
「お前は何を言い出すんだ!」と言われるだろう。だが、私は「あいつらは権力者の言うことを真に受けたうえでそれを自分勝手な理由で過激化しただけの差別主義者なんだ。」という”前提”をいったん拒絶して、1970年代以降の日本の”民衆”というものを徹底的に検討してみたい。言いかえれば、”文化”と”文化の落とし穴”を徹底して明らかにしたい、ということである。聞き取りを読んでどうしても奇妙に思うのは、あの人たちが「両親からの影響をほとんど受けていない」ということだ(樋口先生もそう指摘している)。ということは、1970年以降の”文化”が決定的な要因と考えるのが合理的ということになる。ふりかえって考えてみれば、1970年代以降の”文化”の危険性がどんなものであるか、本当にわかっているだろうか。私にはほとんど自信がない(私が文化的優位性にほとんど興味がなかったことも理由だが)。この問題を私は徹底的につきつめたい。梶村先生は、差別主義者への聞き取りを、在朝日本人という植民者から入手するという遠回りした方法をとるしかなかった。今は、一定以上の信頼性がある聞き取り記憶が大量にある。これを徹底して”使い切ろう”と思う。

もう一つ、私はここで、この聞き取りと自分史を交差させ、自分史を徹底的に語りたい。自分がどんな社会と文化の中で生きてきたか、自分が感じている社会と文化に対する消せない違和感はどこから来たのか、梶村秀樹先生になぜ引きよせられたのか、なぜこれまで落とし穴に落ちずにすんだのか、そして私が幸運にもこれまでやってこられた「何とか生きていけるやりかた」とはどんなものか、それを書いておきたい。

そうして明らかになるものは、おそらく「20世紀という時代が、ふつうの人たちの”夢”をどう食いつぶし、それに対してどんな対抗がなされてきたか」だと思う。

前置きが長くなった。以下に、メモを書くことにする。

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在特会の論理(8)」
CiNii 論文 -  在特会の論理(8) : 『嫌韓流』を地で行くH氏の場合

・この聞き取り記録を選んだのは、副題を読んだときの直感としか言いようがない。
他の聞き取りを読んだときにも非常に奇妙に思うのだが、質問に対して考えこんだり言い淀んだりする様子が感じられない。変な言い方だが、悪い意味で”自然”なのである。私が、生死の境をさまよう状況下におかれた経験がある戦場経験者や、在日朝鮮人一世などの、困難な状況下に置かれた人たちの聞き取り記録を大量に読んだことがあるからだろうか。こんなに人間すらすら話せるのは、かえってなにかおかしい。といって、誰からかこうい言い方をおしえれてやっているわけでもないらしい。学校からだけこんなことを学んだわけでもない。そこが実におかしい。
 もう一点、1980年代後半に巻き起こった「指紋押捺拒否闘争」への言及がまったくないこと。異様にすら思える。対象者は1980年代生まれだから、直接知ってるわけではないにしても、在日朝鮮人の歴史について学んでいれば、当然ぶつかるはずなのである。
 「歴史と文化」が根本的におかしくなっている。それは、私も落ちていたかもしれない落とし穴だ。

・「問題史」の消去を非常に強く感じる。まるで、たとえば在日朝鮮人運動に取り組み続けた日本人は、ただ騙されたか思い込みの強いだけのバカ者だとでもいうようだ。歯を食いしばって、日本人であること・日本人として生まれたことを心底恨み、しかもそのことを決して言えなかった経験を背負いながら、運動をつづけたことが何の意味もなかった、と言われることだけはどうしても拒否しつづけた日本人が、たとえば梶村秀樹だっただろう。外国人参政権運動は、もちろん在日朝鮮人の権利運動であるのだが、つきつめていくと、”同時に”日本人としての政治運動にもなる、このことだけはどうしても受け入れないといけない。加害者だから何にも得るわけにはいかない、ということは、実は”やってはいけない”のだろう。尽くされるの在日朝鮮人と尽くす日本人という構図(この構図自体が決定的まちがいなのだが)において、後者のほうがよけいに反発が向いているようだ。
「尊厳」というのは、実は加害者側において徹底的に考える必要があるのかもしれない。
「そんなに尊厳とか人権とかいうのならば、まず日本人として尊厳にみちた”まっとうなひと””立派なひと”を見せてくれ!」これは実にまっとうな要求なのである。本当にまっとうでまっとうで、なぜこれまでこの問題が徹底的に考えられなかったのか、私は理解できない。楽しいから自信を失いたくて失いたくてうずうずしている人間など、いるはずがないではないか。……私がせっかちすぎるのかもしれないが……