『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

梶村秀樹先生の執筆物の引用と検討メモ(この記事の日付はよくかわります)

以下の作業も継続中。
『戦争と平和』『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』『死の家の記録』『賭博者』『貧しき人々』『分身』『スチェパンチコヴォ村とその住人』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)の電子テキスト化をすすめます。第二次作業の期間は最低40日間です。(2024年2月11日までこの記事はこのブログのトップにあります) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]


竹内好」という単語がふくまれる論文
竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「排外主義克服のための朝鮮史(第一章)」「朝鮮からみた現代東アジア」「第1巻解説 梶村秀樹著作集」「朝鮮近代史の若干の問題」「現在の「日本ナショナリズム」論について」「「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判」「亜州和親会をめぐってーー明治における在日アジア人の周辺」「朝鮮からみた明治維新
梶村秀樹先生と竹内好氏との関係はどうしても徹底的に調べておかない「内在的発展」の描き方の核心部分がわからなくなると判断した。今考えても、わたしの判断は大英断だったといえる。


以下、参考
梶村先生の執筆物の検討

金嬉老への判決を支えた日本社会   [1972年]
 単に威勢よく拳をふりあげれば良いというほど、この「社会的世論」なるものが一筋縄でいかない錯雑・屈折した構造を持っていることは、いやというほど痛感させられてきた。また、一般的・抽象的に日本人の差別意識の変革を呼びかけることだけでは足りないことも、良く分かった。そういう一般論は、無理解のもとで金嬉老個人に向けられる毒舌の一言で、しばしば簡単に吹き消されてしまう。われわれが当初からそう考えてきたように、金嬉老の運命のかけられている法廷闘争の場と全くかけ離れた形で、空論にふけることはもちろんできない。

この「社会的世論」なるものが一筋縄でいかない錯雑・屈折した構造を持っていることは、いやというほど痛感させられてきた。

〇植民地と日本人   [1974年]
 しかも、それほど普遍的な植民地体験が、「邪悪なる国家権力と善良なる庶民」という体裁のよい図式だけでわりきることを許さない屈折・錯雑した深層意識を形づくらせたことが、いっそう重要である。なにかに傷ついた心がそれだけ強烈に希求する権威への帰属意識、そこから出てくる利己的・独善的な国家意識とアジア認識。このパターンが、確かに今でも生き続け、受け継がれていることを感じる。

屈折・錯雑した深層意識


〇論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見   [1978年]

事実としての定住という言葉で私が何をいおうとしたかは一七六号五五~五六頁にかなり具体的な議論をしているので、重複はさけたい。最近、韓国への母国留学体験を契機として、在日朝鮮人大衆とともに生きることを決意して戻る人が少数だが出ている。それは意識的定住といえるケースであろう。総連の活動家の中にも、別の意味で、やはり少数、意識的定住といえるケースがある。しかし、日々の生活に追われている多くの下づみの人々ほど、意識的な選択の契機さえ持てぬまま、最も日本社会にまきこまれた生活を余儀なくされ、生活のために帰化をさえ望まざるをえない所に追いこまれ、しかもそれすら拒否されるという状況におかれている。サルトル哲学流にいえば、そういう人々も実は、本人も気づいてはいないかもしれないが日々自由に選択しており、その結果として意識的に定住しているのだといえなくもなかろう。しかし、そういう人々に「あなた方は実は意識的に定住しているのだ」ときめつけることから何かが生れるとは思わない。

サルトル」が登場するのは、著作集全6巻で1カ所だけ。アルベール・メンミのほうが何度も登場する。

 まず、最も重要なこととして、在日朝鮮人の実存を徹底的に理解しぬこうとする姿勢。現実が多様で動いている以上、これはどこまでいってもきりがない課題であって、何でも分ってしまったように思い上った瞬間、一旦成立した自立した関係も、たちまちくずれ去ってしまう。この点は、理解の深さが、関係の深さを規定するというほど重要であると思う。これなしには、見当ちがいのことを「いわねばならない」と思いこんでしまう。
 次に、おのれを凝視し続ける執拗さ。関係を持続させていくなかで、たえず自分が何者であるかをみつめつづける態度。
 次に、自然さ。まず、「頭が上らない」と一面的に自己規定し、次にそれではいけないと思うと相手のだめなことばかりをいいつのればいいと思い定めるような、どこまでいっても、あらわれ方はちがうが棒を呑んだようにぎこちない、観念的で一方的な関係設定の姿勢を克服しなければならない。よく人のいう「複眼でみる」とか「柔軟な思考」とかいうのも同じことかもしれない。
 次に、往々にして一世の朝鮮人が造作なく到達しているような、ある本質的な意味でのやさしさ、暖かさ。うまく表現できないが、本誌一六八号で和田春樹氏がいおうとしたことも、同じことかもしれない。
 まだまだいろいろあると思うが、とてもまだ考えきれることではないので、今後の課題としなければならない。もちろん、われわれの内にも外にも、以上のことに反する数多くのありようがあり、それらと一々闘うこともわれわれの課題である。

 付言すれば、五氏が私に具体的に詳論せよとせまったことのうち、私が全然言及していないことも幾つかある。それは、考えていないからでも、いう勇気がないからでもなく、あえていうまいと決意しているからである。もちろん、そんな決意はばかげていると思うのは、とる人の自由にまかせざるをえない。近ごろよく無限定、感傷的、そして時に自己欺瞞的に使われる「実感」とか「ホンネ」とかの言葉の使い方を、私は好きではない。「ホンネで生きる」ということは、それ自体立派なことでもない最低限の要求であり、ホンネを自ら凝視し、深化していく努力をぬきにして、何でも「ホンネ」でありさえすればいいというものではあるまい。
 状況が困難であればあるほど、豊かな可能性を夢みることができるような人間でありたい。

ここは、あえて省略せずに引用した。
実は、国立国会図書館でこの論文を閲覧できる。
朝鮮研究 (185) - 国立国会図書館デジタルコレクション




〇義烈団と金元鳳   [1980年](1982年)

「朝鮮革命宣言」

 だが、急激なイデオロギー分化のなかでは、そうした姿勢をうらづけるためにも最低限の理論構築が要求された。その要求に応えるべく書かれたのが、金元鳳の要請をうけて北京で申采浩が執筆したといわれる有名な「朝鮮革命宣言」(一九二三)なのである。(略)

民衆はわが革命の大本営である
暴力はわが革命の唯一の武器である
我々は民衆のなかに行き民衆と手を携え
絶えざる暴力――暗殺、破壊、暴動を以て強盗日本の統治を打倒し
わが生活の不合理な一切の制度を改造し
人類が人類を圧迫することを許さず
社会が社会を搾取することを許さぬ
理想的朝鮮を建設するのだ。

 以上のような内容をもつ「朝鮮革命宣言」には特徴的な点が二つある。その第一は、いわば「民衆の発見」ということである。(略)
 第二に、考え方としては、マルクス主義アナキズムとかさなる部分を大いに持ちながらも、それぞれに独特なキーワードのいずれをも、みごとなほど使っていないことである。(略)
 以上二点ともが、義烈団・金元鳳が、やがて二〇年代後半に、厳密な意味での民族協同戦線派に展開していく道筋を暗示しているともいえるのである。

「第二に、考え方としては、マルクス主義アナキズムとかさなる部分を大いに持ちながらも、それぞれに独特なキーワードのいずれをも、みごとなほど使っていないことである。」


〇論説 旧韓末北関地域経済と内外交易 [1989年]
論文内には、「内在」という単語は1回も使われていない



https://s3731127306973.hatenablog.com/entry/2049/12/31/000000

梶村秀樹先生の仕事を引用している人一覧(敬称略)

姜徳相
「一国史を超えて : 関東大震災における朝鮮人虐殺研究の50年」「」
晩年のインタビューに梶村先生が登場
姜徳相 | CiNii Research all 検索
・宮田節子
「私が朝鮮に向かいはじめたころ(東洋文化講座・シリーズ「アジアの未知への挑戦 : 人・モノ・イメージをめぐって」講演録)」

・山田昭次
たぶんどこかで引用していたはず

徐京植
『分断を生きる―「在日」を超えて』『半難民の位置から―戦後責任論争と在日朝鮮人』のどちらか
・山本興正
「戦後朝鮮史研究における「60年代の問題意識」の一断面 : 「民族」と「日本人の責任」をめぐる梶村秀樹と旗田巍の思想的交錯」『戦後思想の再審判―丸山眞男から柄谷行人まで』
『排外主義克服のための朝鮮史』(解説)
・中野敏男
朝鮮史研究者以外で、中野氏は一番よく読んでいる。梶村秀樹先生の死後の弟子といっていいぐらいよく読んでいる
『〈戦後〉の誕生―戦後日本と「朝鮮」の境界』『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』「「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯」「「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)」
・板垣竜太
『日本植民地研究の回顧と展望:朝鮮史を中心に 板垣竜太,戸邉秀明,水谷智 校正前』
・加藤圭木
「1920~30年代朝鮮における地域社会の変容と有力者・社会運動 ─咸鏡北道雄基を対象として─」
・車承棋
・洪宗郁
・姜元鳳
・林雄介
・戸邉秀明
・水谷智
吉野誠
梶村秀樹朝鮮史研究 -内在的発展論をめぐって-」
・金泰相
・中村平八
・姜萬吉
・吉見義明
『草の根のファシズム : 日本民衆の戦争体験』のどこか
・石田米子
「月報」に寄稿、『黄土の村の性暴力』という記念碑的労作が生まれた背景には、梶村秀樹先生の存在があったのではと真剣に考えている。
調査中
並木真人
中塚明
山辺健太郎
遠山茂樹
井上清
芝原拓自
竹内好武田泰淳丸山眞男加藤周一中野重治大西巨人
林達夫花田清輝、、、吉本隆明
和田春樹
村松武治、小林勝、上野英信森崎和江
大門正克、吉沢南
旗田巍
澤地久枝
幼方直吉、
林えいだい
岡まさはる
米津篤八
宋連玉
金富子


引用していないと思われる人
鹿野政直
山田昭次氏の著作は引用していた。
鈴木裕子
いちはやく「慰安婦」問題に接近した
安丸良夫
色川大吉

司馬遼太郎、黛
中井久夫安克昌(あん・かつまさ)
津田左右吉家永三郎
浅田彰


アミン
「韓国の社会科学はいま」「六〇~七〇年代NICs現象再検討のために   ――主に韓国の事例から――」「“やぶにらみ”の周辺文明論」「「日帝」との対峙は過去のものであるか?」「旧植民地社会構成体論」「歴史の発展は幻想だろうか(聞き手 菅孝行)」

フランク
「韓国の社会科学はいま」「旧植民地社会構成体論」

サルトル
「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」「歴史の発展は幻想だろうか(聞き手 菅孝行)」「」

内在的発展
「朝鮮近代史研究における内在的発展の視角」「「一筋の赤い糸」としての内在的発展」「『常緑樹』(解説)」「『朝鮮史の枠組と思想』あとがき」「排外主義克服のための朝鮮史」「六〇~七〇年代NICs現象再検討のために   ――主に韓国の事例から――」「第5巻解説 梶村秀樹著作集」「申采浩の朝鮮古代史像」「第4巻解題 梶村秀樹著作集」「『東学史』によせて」「第2巻解説 梶村秀樹著作集」「第2巻解題 梶村秀樹著作集」「東アジア地域における帝国主義体制への移行」「朝鮮からみた日露戦争」「朝鮮からみた現代東アジア」「朝鮮思想史における「中国」との葛藤」「朝鮮社会における移行法則」「朝鮮史研究の方法をめぐって」「日本における朝鮮研究」「朝鮮近代思想史の課題」「“やぶにらみ”の周辺文明論」「朝鮮近代史研究の当面の状況」「朝鮮近代史の若干の問題」「朝鮮近代史と金玉均の評価」「私にとっての朝鮮史 『朝鮮史 その発展』序章」「一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営」「旧植民地社会構成体論」「日本帝国主義支配下の朝鮮ブルジョアジーの対応」「「民族資本」と「隷属資本」 ――植民地体制下の朝鮮ブルジョアジーの政治経済的性格解明のためのカテゴリーの再検討」「書評 『日本帝国主義と旧植民地地主制 ――台湾・朝鮮・満州における日本人大土地所有の史的分析』」「書評 『朝鮮社会経済史研究』書評」「書評 『韓国経済史』書評」「朝鮮史をみる視点」


投企
定住外国人としての在日朝鮮人」「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」

梶村秀樹先生を知るための30章、または50章

石田米子、竹内好、(花田清輝なし)、姜徳相、内在的発展論、経済史、民衆思想史(色川、安丸、鹿野)、言語論翻訳論、植民者論、家族関係(とくに父)、華青闘、日韓条約、昆虫採集、実証主義、史料とはなにか論、最後の論文、申采浩、夏目漱石魯迅、民族責任論、国境をまたぐ生活圏、金嬉老サルトル、メンミ、咸錫憲、朴正煕、西岡の転向と2つの論文、文学観(国民文学論争にふれないといけないかもしれない)、日本帝国主義論、


網野善彦メモ
「時国」での検索結果(メモ CiNiiで「時国」で検索したら、「戦時国家」というキーワードが入った論文がたくさん出た)

〇『蒙古襲来』
項目「幕府とその周辺」「四方発遣人」「時宗の死」

〇『日本の歴史をよみなおす(全)』
項目「日本人の識字率」「太良荘の女性たち」、「百姓は農民か」「奥能登の時国家」「廻船を営む百姓と頭振(水呑)」「村とされた都市」「襖下張り文書の世界」、「飢饉はなぜおきたのか」「海上交通への領主の関心」
(「水田に賦課された租税」には「時国」なし)

〇『歴史の中で語られてこなかったこと』(宮田登との対談)
項目「隠然たる力を発揮する隠居たち」「誤解されている二男、三男のあり方」「稲作地帯は近世の現象」「百姓と農民は違う」「日本像の書き替え」「崩れつつある日本史の常識」

〇『米・百姓・天皇』(石田進との対談)
項目「3 主食は米か」「6 東と西のちがい」「7 女性の力の再評価」

〇『対談 中世の再発見』(阿部謹也との対談)
「時国」なし

〇『増補 無縁・公界・楽』
「時国」なし

〇『日本中世の民衆像 平民と職人』
「時国」なし

〇『海民と日本社会』
「百姓は農民、「村《むら》」は農民という誤解」「誤解の根深さ」「日本列島の社会と海民の諸活動」「注記」、「非農業分野への視点」、「はじめに――時国家の調査について」「能登の豊かさ――「頭振」の実像」「能登の「百姓」の生業」「中世能登の都市」「むすび――残された課題」、「はじめに」「能登半島の特質」「奥能登・時国家の調査から」

〇『中世再考 列島の地域と社会』
「中世民衆生活の様相」の「結び」「注」、「地名と名字」「民具学と農業史 宮本常一氏と日本常民文化研究所

〇『日本列島再考――海からみた列島文化』


川崎という歴史家


梶村秀樹著作集1:朝鮮史と日本人

第1章 朝鮮史の意味
013 排外主義克服のための朝鮮史(はじめに/なぜ朝鮮史を学ぶのか/朝鮮侵略の理論と思想/戦後民主主義のもとでの朝鮮観/朝鮮史の内在的発展/若干の補足と論争の深化のために)
078 朝鮮語で語られる世界
089 私にとっての朝鮮史――『朝鮮史――その発展』序(朝鮮民衆の内在的発展/朝鮮史の意味/本書の限定条件)
第2章 日本のナショナリズム
097 竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈
104 「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判
123 自由民権運動と朝鮮ナショナリズム(朝鮮への接近/士族民権派豪農民権派/貧農民権派
136 朝鮮からみた明治維新(私のジレンマ/侵略の歴史と連帯の歴史?/「民衆」の未発の契機/からめとられた中で)
151 朝鮮を通してみた天皇制の思想――さめた思想(はじめに/皇民科教育の詐術/天皇はえらい、えらいは人間、人間はわたし/民族差別の根源と天皇制思想)
165 亜洲和親会をめぐって――明治における在日アジア人の周辺(だれが主導したのか?/清国留学生の状況/亜洲和親会の約章と活動/亜洲和親会に参加した各国人/朝鮮人民族主義者の不参加問題/亜洲和親会その後)
第3章 在朝日本人
193 植民地と日本人(在朝日本人史の欠落/一旗組の生きざま/国家権力との癒着/植民地化の時代)
217 植民地朝鮮での日本人(三・一運動下の日本人/在朝日本人の存在形態/在朝日本人の意識と行動)
244 植民地支配者の朝鮮観(自己合理化の感情/煙に巻く「教化」の論理/戦後の継承と変形)
256 「旧朝鮮統治」はなんだったのか(何の差別もなく?/事実の誤り/近代化に心血を注いだ?/植民地支配肯定論の継承/植民地支配をごまかすな!)
第4章 日本人と朝鮮
271 在日朝鮮人・韓国人差別の淵源――皇民化の問題を中心に
297 差別の思想を生み出すことば
308 サハリン朝鮮人の特集にあたって
315 竹島=独島問題と日本国家(はじめに/日本国民の「竹島」認識/韓国・朝鮮側の基本姿勢/日韓両政府間の論争文献/竹島=独島の自然条件/竹島=独島の地理的位置/竹島=独島の歴史的名称/竹島=独島の認知/一七世紀の実効的経営?/竹島=独島の帰属についての意識/帝国主義的な一九〇五年の日本編入/戦後の竹島=独島/日韓条約竹島=独島/国際法とは何か?/最近の事態/おわりに)
358 「日帝」との対峙は過去のものであるか
371 歴史的視点からみた日韓関係――日本側発題(日本人の歴史認識/教育の軍国主義化/教科書検定の内実/侵略の合理化/私たちの課題/歴史家の責任/日韓の相互交流)
381 歴史をねじまげてはいけない――「日韓合邦」の真相(応急まで制圧下/抵抗試みた高宗/侵略を直視せよ)
385 近代史における朝鮮と日本

397 「朝鮮史と日本人」解説 新納豊
409 解題 初出誌その他 新納豊

                                                                                                                                                                                                                                                                                            • -

梶村秀樹著作集2:朝鮮史の方法

第1章 内在的発展の視角
013 李朝後半期朝鮮の社会経済構成に関する最近の研究をめぐって(はじめに/(一)通年の形成/(二)北朝鮮歴史家の問題提起/(三)内在的批判)
036 朝鮮近代史の若干の問題((一)朝鮮近代史の時代区分/(二)大院君の政治的性格のついて/(三)「日本の朝鮮侵略」の質の問題/(四)日帝時代の朝鮮人ブルジョアジーについて/(五)侵略のイデオロギーとしての「朝鮮援助」論について)
060 朝鮮近代史と金玉均の評価
080 朝鮮近代史研究の当面の状況
086 日本における朝鮮研究
108 朝鮮史研究の方法をめぐって(はじめに/(一)第一段階――知らないから知る/先学たち/侵略史の勉強/「善意の悪政」論との出会い/第二段階――内在的発展の歴史/日朝比較論/第三段階)
126 朝鮮社会における移行法則
148 朝鮮近代思想史の課題
160 “やぶにらみ”の周辺文明論
164  朝鮮近代史研究における内在的発展の視角)
第2章 朝鮮史と東アジア
181 朝鮮思想史における「中国」との葛藤((一)はじめに/(二)「事大主義」の条件と特徴/(三)新羅以前の朝・中関係/(四)高麗時代の事大主義と民族主義/(五)李朝の成立と事大主義の定着/(六)小中華論の完成から否定へ/(七)近代以後の事大主義)
208 朝鮮からみた現代東アジア((一)東アジアとプロレタリア国際主義の理念/(二)朝鮮革命と国際条件/(三)社会主義国際関係のイメージ/(四)日本の問題状況)
241 朝鮮からみた日露戦争(はじめに/(一)朝鮮中立化構想をめぐって/(二)開戦前の朝鮮の世論/おわりに)
275 東アジア地域における帝国主義体制への移行((一)世界資本主義の編入過程における東アジアでの国際的両極分解/(二)遠山氏の東アジア地域史論をめぐって/(三)更新資本主義発展の世界史的条件/(四)東アジア地域史像の再検討/(五)補論)
第3章 意味としての歴史
305 日本帝国主義の問題(はじめに/(一)日帝像の原型――近代民族運動のなかでの日本像/(二)マルクス主義者の自国史認識と日本帝国主義像/(三)南朝鮮と日本での「日帝」)
336 申采浩の朝鮮古代史像(はじめに/(一)運動経歴と思想の展開/(二)啓蒙運動器の歴史観/(三)一九二〇年代の古代史研究/(四)『朝鮮上古史』の朝鮮古代史像/おわりに)
361 歴史と文学((一)意味としての歴史と事実としての歴史/(二)科学としての歴史の意味/(三)史料としての文学)

373 「朝鮮史の方法」解説 吉野誠((一)侵略史から内在的発展論へ/(二)一国史的把握と世界史的観点/(三)法則的把握と近代批判/(四)民衆像の探求/(五)朝鮮観の「先祖帰り」現象)
388 解題 初出誌その他 吉野誠

                                                                                                                                                                                                                                                                                            • -

梶村秀樹著作集3:近代朝鮮社会経済論

第1章 外圧への対応
011 李朝末期(開国後)の綿業の流通および生産構造――商品生産の自生的展開とその変容(問題設定/洋貨の流入と土布生産の発展過程/洋貨の土布市場奪取過程/原料輸出・製品購買の構造への転化過程/要約と展望)
135 近代朝鮮の商人資本等の外圧への諸対応――甲午以後(一八八四~一九〇四年)期の「商権」問題と生産過程(はじめに/商権の自主性の問題/生産過程での営為/まとめ)
第2章 植民地化前後の地域経済
157 旧韓末北関地域経済と内外交易(はじめに/北関地域と国内隔地間交易の進展/ウラジオストーク貿易と北関地域経済/「併合」後、ウラジオスト-ク交易の切断と日帝による地域経済再編)
188 一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営(問題状況/一九一〇年代前半の生産・流通・消費/農家経済調査データの分析/おわりに)
第3章 植民地社会論
237 旧植民地社会構成体論(問題設定/既存の旧植民地社会構成体論/植民地半封建社会構成体論の一般的前提/国際分業の諸段階と植民地半封建社会構成体の歴史的位置)
265 日本帝国主義支配下の朝鮮ブルジョアジーの対応――平壌メリヤス工業を中心に(問題視覚/平壌メリヤス工業の位置づけ/草創期/小経営史/企業化ブーム/自動化と恐慌/「満州進出」問題と総合メリヤス工業化への展開/戦時経済と資本の「同化」/要約にかえて)
328 「民族資本」と「隷属資本」――植民地体制化の朝鮮ブルジョアジーの政治経済的性格解明のためのカテゴリーの再検討(狭義の「民族資本」概念の成立過程/朝鮮における「民族資本」認識/経済的側面からみた「民族資本」)
354 一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例(はじめに/蔚山達里村落の概況/渡日者とその他の流出人口/流出人口の出身階層別/途日者の学歴と人口流出の影響/おわりに)
第4章 内在的発展の展望
375 「一筋の赤い糸」としての内在的発展 
383 「民族経済」をめぐって

387 「近代朝鮮社会経済論」解説 李洪洛
400 解題――初出誌その他 李洪洛

                                                                                                                                                                                                                                                                                            • -

梶村秀樹著作集4:朝鮮近代の民衆運動

総論 朝鮮民族解放闘争と国際主義
013 朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動(序章 朝鮮史の主人公としての朝鮮人民/第一章 朝鮮革命運動の前史/第二章 朝鮮民族解放運動の国際的試練/第三章 在日朝鮮人運動と日本人民と日本人民の堕落/第四章 金日成抗日パルチザン闘争と八・一五への若干の諸問題)

第1章 三・一運動
089 『東学史』によせて
101 三・一運動を考える
106 民族主義社会主義のはざま――朴慶植『朝鮮三・一独立運動』によせて
117 大韓民国臨時政府をめぐって(一 民族主義者たちの情勢判断と運動方針/二 三つの政府とその統合/三 民族主義者の理想国家像/四 改造か創造か?)
第2章 国外における解放闘争
135 義烈団と金元鳳(テロリズムと共同戦線/金元凰のおいたち/設立当初の義烈団/三・一後の民衆意識/実力抗争の論理/「朝鮮革命宣言」/テロリズムの時期/中国革命のなかへ/安光泉との出会い/共同戦線の論理/民族革命党の結成/金九との合作/革命後の金元鳳/おわりに)
171 1930年代満州における抗日闘争にたいする日本帝国主義の諸策動――「在満朝鮮人問題」と関連して(一 「在満朝鮮人民問題」/二 共産主義者の指導する抗日武装闘争の展開(一九三〇年代前半)/三 集団部落設定(匪賊分離)と民生団・協助団の策動(民族離間工作)/四 「華北安全農村」について/おわりに)
212 『アリランの歌』〈解説〉
223 一九四〇年代中国での抗日闘争(日中戦争以前の民族運動/在中朝鮮人大衆の情況/朝鮮義勇隊韓国光復軍華北朝鮮義勇軍/おわりに)
235 解放前の在日朝鮮人運動史――在日朝鮮人労総結成~全協への解消を中心として(はじめに/ 一 路線転換前の運動/二 路線転換をめぐる諸過程/三 全協指導下の在日朝鮮人運動/四 全面戦争下の個別抗争)
第3章 ブルジョア民族主義から民衆的民族主義
281 朝鮮共産党――断章
292 新幹会研究のためのノート(はじめに/一 新幹会の活動/三 新幹会解消問題/結びにかえて)
321 甲山火田民事件(一九二九年)について(はじめに/一 朴達『曙光』に記された甲山火田民事件/二 ソウルから見た事件の経過/三 若干の考察――結びにかえて)
350 『常緑樹』〈解説〉
357 一九二〇~三〇年代の民衆運動(二〇~三〇年代は空白ではない/二〇年代民主運動者の精神史の軌跡/民衆的民族主義のヴィジョン/おわりに)

369 「朝鮮近代の民衆運動」解説 劉孝鐘
387 解題――初出誌その他 劉孝鐘

                                                                                                                                                                                                                                                                                            • -

梶村秀樹著作集5:現代朝鮮への視座

第1章 8・15以後の朝鮮人
013 八・一五以後の朝鮮人民(序 朝鮮現代史研究の実践的視点/一 戦後世界分割と朝鮮人民の苦闘/二 朝鮮南北分断の軍事的固定化/三 統一への苦難の時代/四 革命と統一への新たな画期)
第2章 日韓関係を考える
105 日韓条約のゆくえを追跡します
108 対韓経済進出の具体的状況(一 はじめに/二 国家資本の投下/三 民間資本の進出/四 貿易関係/五 人の往来と外交とりきめ/六 おわりに)
119 日刊体制の再検討のために(一 歴史的パースペクティブ/二 南朝鮮の高成長経済/三 従属資本主義発展の諸要因/四 日本資本主義の「戦略」/五 従属の問題/六 ゆがみの問題――結論にかえて)
第3章 韓国経済の展開
135 一九六〇年代初頭の南朝鮮の支配構造といわゆる隷属資本(第一節 問題設定/第二節 地主階級の没落/第三節 アメリカ帝国主義南朝鮮支配政策と「隷属政策」の育成/第四節 一九六〇年代初頭の独占財閥資本の状況/ 第五章 結びにかえて――独占財閥資本の志向と朴政権の「民族主義」)
157 韓国経済における政府の役割――一九六〇~七〇年代(はじめに/一 国家資本の比重/二 国家の経済介入/おわりに)
229 六〇~七〇年代NICs現象再検討のために――主に韓国の事例から(はじめに/一 NICs現象の世界史的規定条件/二 NICs現象と内在的諸要因/三 八〇年代NICs――不安定性の顕在化/四 若干の方法論的コメント)
第4章 韓国の民衆運動
259 歴史としての四・一九(四月革命ということば/自由と民主の理念/李承晩独裁下の批判勢力/大邱の二・二八デモ/馬山の事件/四・一八から四・一九/四・一九へ/四・一九当日のソウル/李承晩の下野/四月革命の歴史的位相)
278 ベトナム派兵の傷痕(一 はじめに/二 派兵の経緯/三 派兵の名分/五 韓国軍の戦い様/五 兵士の苦悶/六 血であがなわれたドル/七 結びに――日本の罪)
318 韓国の労働運動と日本(労働者の手記を読んで/韓国労働運動の現段階/生存権闘争と基層労働者/日本独占資本の韓国侵略/安い韓国製品は何を語るか?/日本人としての立脚点)
329 語りはじめた労働者たち(闘いの糧としての手記/蓄積される闘いのエネルギー)
339 韓国現代史における「南民戦」(はじめに/「南民戦」の目ざしたもの/「自生的社会主義」/現代史の中の「南民戦」)
350 韓国の農村で(本当にハゲ山か?/渦巻の目、ソウル/自負と悪戦苦闘/日本経済の後追いか?)
第5章 北朝鮮への視点
357 北朝鮮における能動協同化運動(一九五三~五八年)についての一考察(はじめに/一 農業協同化運動の経過の概観/二 個別組合の事例/三 若干の問題点の検討/おわりに)
406 朝鮮北半部からみた現代日本(朝鮮からみた現代日本/「日本軍国主義」とは何か?/「日本帝国主義」について/米帝日帝との関係/侵略の戦略論/日本の国内体制論/七二年以降の情勢について)

427 「現代朝鮮への視座」解説 水野直樹
439 解題――初出誌その他 水野直樹

                                                                                                                                                                                                                                                                                            • -

梶村秀樹著作集6:在日朝鮮人

序 在日朝鮮人とは
013 定住外国人としての在日朝鮮人(はじめに/歴史的形成過程――国境をこえた農民層分解/国境をまたぐ生活圏/定住外国人指向の必然性/二者択一論批判/「帰国」か「帰化」か/民族への帰属意識/おわりに)
第1章 植民地下の在日朝鮮人
037 在日朝鮮人の渡来史
048 「同化主義の刻印」
065 八・一五以前の在日朝鮮人の歴史(1渡航の歴史/2日本での生活/3たたかいの歴史)
075 在日朝鮮人の生活史(一 朝鮮人労働者層/二 労働運動の昂揚から戦時体制への移行/三 むすび――戦後史の展望) 
108 海がほけた!――山口県長生炭坑遭難の記録(一 はじめに/二 ききがき/三 若干の蛇足)
127 戦時下の在日朝鮮人
第2章 解放後の在日朝鮮人
137 解放後の在日朝鮮人((一)解放直後の在日朝鮮人運動(一九四五・八~一九五〇)/(二)朝鮮戦争下の在日朝鮮人運動(一九五〇~一九五三)/(三)分断固定化時代の在日朝鮮人運動(一九五三~一九六五))
232 論文「在日朝鮮人の処遇政策確定過程にみられる若干の問題について」への内在的批判
242 なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか――指紋拒否者への脅迫状に答える
第3章 入管法・外登法と在日朝鮮人
253 在日朝鮮人にとっての国籍・戸籍・家旅(上)
267 在日朝鮮人にとっての国籍・戸籍・家旅(下)
287 外国人登録法と常時携帯義務制度(一 治安立法としての外国人登録法/外登証常時携帯制度の機能/三 外国人登録制度のねらいは朝鮮人/ 外国人登録制度の推移/ 日本人にとっての外登法問題)
302 在日用先人の指紋押捺拒否の歴史(指紋制度の前史/”協和会手帳”の再現/一九五二年の外登拒否闘争/二重登録はそんなにあったか?/共通した指紋制度への怒り/指紋押捺拒否事例)
318 朝鮮人に対する同化政策の歴史と現状(意見書/鑑定書要旨)
331 在に外国人管理の歴史と現在(在日外国人管理の思想/人権を保障されるのは「国民」だけ/強制退去条項はなぜなくならないのか/名ばかりの「永住」許可/生存権を脅かされる在日三世、四世/同化か、追放か/在日朝鮮人の闘いを支援する意義/制度的差別の解体に向けて/日本社会のオルタナティブとは)
第4章 在日朝鮮人と日本社会
351 金嬉老への判決を支えた日本社会(「健全なる常識」?/警察の「論理」/マスコミの役割/誰からの被害者か?)
365 金嬉老裁判の現在
374 私における呉林俊氏の肖像
381 論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見
389 論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見
405 定住外国人県民の生活とニーズ――「県内在住外国人実態調査」を終えて(はじめに/定住外国人と民族差別/「見えない外国人」/当事者の実存的真実/職業構成と民族教育へのニーズ/おわりに――自治体と県民の責務)
412 「指紋」の闘いは終わっていない(”指紋”問題とは/人権としての”指紋”/国側が固執するわけ/民族差別としての指紋制度/欧米人拒否者の気持/「共に生きる」ために)

427 「在日朝鮮人論」解説 佐藤信行
439 解題――初出誌その他 佐藤信行

『戦争と平和』『ハックルベリー・フィンの冒険』の入力作業中、『戦争と平和』は一区切りつくまで最低でも6カ月以上かかる、『トム・ソーヤーの冒険』『死の家の記録』『賭博者』『貧しき人々』『分身』『スチェパンチコヴォ村とその住人』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)の電子テキスト化はいちおう完了。(2024年4月2日付の記事)

死の家の記録 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『賭博者』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『貧しき人々』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『分身』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『スチェパンチコヴォ村とその住人』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

2024年3月1日から、最低0時間作業、10日で5時間ごとに報告。
(『トム・ソーヤーの冒険』、いちおう読書可能の状態する)
『トム=ソーヤーの冒険』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
『戦争と平和』 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
ハックルベリー=フィンの冒険 カテゴリーの記事一覧 - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]



『カラマーゾフの兄弟』三回目の校正終了 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
『アンナ・カレーニナ』 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
『悪霊』 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]
ドストエフスキー短編 カテゴリーの記事一覧 - 京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会
『白痴』_400文字に1か所の誤字 カテゴリーの記事一覧 - 『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『アンナ・カレーニナ』『白痴』『死の家の記録』『戦争と平和』『貧しき人びと』『分身』『賭博者』『作家の日記』(米川正夫訳)『辞典』の完全電子化をすすめるブログ[反万博!!!]




第一次作業の方針

〇原則全文字を約10ミリ(6倍、親指大の大きさ)にする。
〇通信障害は基本的に7日、いや4日以内に解消されていると仮定。
〇被災者とその関係者約10万人のなかで、約2人のおたがいをしらないだろう読者がいると仮定して作成。
〇厳密な校正にとらわれない予定。仮設建築物みたいになると予定。
〇インターネットのみにしかできない「支援物資」として試行錯誤する予定。

2024年1月10日朝、40分、192-232、校正

死の家の記録』作業時間、校正
■21ー■33 096-117
■34-■46 118-144
■47-■59 112-144 演劇の場面
■05-■17 049-096
山高帽子、ウチダヒャッケン
■20-■32 145-192
■33-■45 193-240,241-265
■45-■57 241-288
■01-■21ー■38 073-086ー096
■42-■00ー■33ー■57 097-110-131-144
■00ー■10 整理 
花火、ウチダヒャッケン 
■14-■34-■44ー■08 145-162-172-192
■23ー■54-■20ー■43-■55 233-249-266-274-280
■15-■22-■33-■40-■44 281-284-288-289-292
一応、校正完了、いちおう読むことができる
■10-■50 いちおうやすむ
2日間作業、なかなかつかれた。よくねることがひつようだ。

■22-■02、321-349、ざっと
■43-■03、350ー362
■28-■33、363-370

20240118
■00-■14、382まで
■23-?、383から394まで

賭博者(休憩を確保しながら)
■13-■26 ー402
■27-■38 ー410
■43-■55 ー420(約90分ぐらい)
■21-■41 ー330(以下、二回目)
■21-■04 ー355
■27-■56 ー370
■56-■15 ー379
■16-■39 ー391
■43-■56 ー397
■05-■23 ー403
■24-■41 ー409
■43-■01 ー430
■18-■25 ー424
■56-■16 ー433
■47-■08 ー440






死の家の記録
241-292
約55カ所、10分で訂正

20240124
最善の支援だとは思っていないが、金は6万円+1万円以上募金したし、せいふのしえんのおくれの情報をいろいろ確認して怒りを燃やしている。現地入りできない以上、「書籍」の支援ぐらいしか思いつかない。そもそもインターネット上でできる支援はほとんどない、というところからすたーとしないといけないとずっと考えている。

公開投票受付中プラス梶村秀樹先生の年表(工事中)

注釈メモ 「論説 旧韓末北関地域経済と内外交易」「朝鮮語で語られる世界」「竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「朝鮮からみた明治維新」「歴史と文学 朝鮮の場合」「解放前の在日朝鮮人運動史」「解放後の在日朝鮮人運動」「定住外国人としての在日朝鮮人」「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」など(梶村秀樹) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]
梶村秀樹先生の著作物・執筆物のうち、校正が完了したもののリスト(工事中) - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

梶村秀樹先生の重要著作物の復刊は、2023年01月時点で、まだ先。あと6カ月はかかりそうだ。
本屋か古本屋か古物商取引サイトで、とにかく著作を買って3回読んでほしい。まず5000円分買ってください。お願いします。
https://www.amazon.co.jp/
出版 – 神戸学生青年センター KOBE STUDENT YOUTH CENTER
Yahoo!オークション - 日本最大級のネットオークション・フリマアプリ
日本の古本屋 / 全国1000店の古書店が出店、在庫700万冊から古書を探そう
https://jp.mercari.com/
【楽天市場】梶村秀樹の通販
eBay Direct Shop - イーベイダイレクトショップ
Yahoo!オークション - 日本最大級のネットオークション・フリマアプリ
dl.ndl.go.jp

梶村秀樹先生の執筆物のランキング(「私」の選択)
1位 『朝鮮語で語られる世界』
2位 『排外主義克服のための朝鮮史
2位 『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』
2位 『定住外国人としての在日朝鮮人
2位 『朝鮮からみた明治維新
2位 『なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか』
3位 『排外主義克服のための朝鮮史
4位 『解放後の在日朝鮮人運動』
4位 『白凡金九』『東学史』『常緑樹』の翻訳
4位 『朝鮮における資本主義の形成と展開』
4位 『朝鮮史 その発展』
5位 『論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見』『論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見』
5位 車承棋氏の『梶村秀樹の「未発の契機」一植民地歴史叙述と近代批判-』で引用されている論文すべて――「“やぶにらみ”の周辺文明論」「朝鮮近代史の若干の問題」「日本帝国主義の問題」「現在の『日本ナショナリズム』論について」「朝鮮近代史研究における内在的発展の視角」
5位 『申采浩の朝鮮古代史像』『申采浩の啓蒙思想』『申采浩の歴史学
5位 『一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例』
5位 『歴史と文学 朝鮮の場合』
6位 『朝鮮史の枠組と思想』収録論文


かなりしぼって選んだ。2位の4本プラス1本は、梶村秀樹先生の視野の広さから考えて、どれもおとせない。最後につけくわえた『なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか』、これは短すぎるから(実はそれだけではないのだが)、あとにつけくわえた。『排外主義克服のための朝鮮史』は別格として(この「別格」という認識がいろいろ問題をひきよせているのだが)、翻訳の仕事、特にあの3冊は絶対にはずせない。




梶村秀樹先生を研究対象とした論文のランキング
1位 車承棋氏、『梶村秀樹の「未発の契機」 : 植民地歴史叙述と近代批判(論文)』
1位 中野敏男氏、『「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯』『「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)』(季刊前夜


「全体を見ろ!」という教え

1910年、竹内好、生まれる。
1935年、梶村秀樹先生、生まれる。
1964年、梶村秀樹先生、『竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈』『「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判』、このとき、竹内好54歳、梶村秀樹29歳。重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。
1965年、日韓条約、おおくの反対のなか締結されてしまう。
1965年、梶村秀樹先生、『現在の「日本ナショナリズム」論について』、竹内好批判。梶村先生の一生の仮想論敵だった。
1965年5月と7月、安丸良夫氏、『日本の近代化と民衆思想』上下(日本史研究 = Journal of Japanese history / 日本史研究会 編)を発表。
1968年、梶村秀樹先生ら、『シンポジウム日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか』、ここで部落差別発言が出る。
1969年、梶村秀樹先生、『私の反省〔本誌昨年12月号掲載・座談会「日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか」に関連して〕』
1969年、梶村秀樹先生、『申采浩の歴史学――近代朝鮮史学史論――』
1970年7月7日、華僑青年闘争委員会による、いわゆる「華青闘告発」。梶村秀樹先生の「排外主義克服のための朝鮮史」全三回の講義は、この告発に答えるものであった。
1970年11月、梶村秀樹先生、『東学史――朝鮮民衆運動の記録』(呉知泳)(平凡社東洋文庫)の翻訳
1971年、梶村秀樹先生、『排外主義克服のための朝鮮史』(第1章)。重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。
1973年、梶村秀樹先生、『白凡逸志――金九自叙伝』(金九)(平凡社東洋文庫)の翻訳


1974年、梶村秀樹先生、『植民地と日本人』、植民者としての日本人批判
1974年、安丸良夫氏、『日本の近代化と民衆思想』(青木書店)。たぶん、梶村秀樹先生は1965年前後に「通俗道徳論」を読んでいる。
1975年、梶村秀樹先生、『朝鮮語で語られる世界』という講演をする。のちに活字化。重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。
1977年1月、梶村秀樹先生、『朝鮮における資本主義の形成と展開』(龍渓書舎)
1977年10月、梶村秀樹先生、『朝鮮史――その発展』(講談社現代新書
1977年11月、安丸良夫氏、『「民衆思想史」の立場』(一橋論叢)を発表、CiNiiで閲覧可能。

1978年、梶村秀樹先生、『植民地朝鮮での日本人』、植民者としての日本人批判
1978年、梶村秀樹先生、『申采浩の朝鮮古代史像』発表。

1977年、竹内好、死去
1977年、梶村秀樹先生、『亜洲和親会をめぐって――明治における在日アジア人の周辺』
1977年、梶村秀樹先生、『申采浩の啓蒙思想』を発表。
1980年7月、梶村秀樹先生、『解放後の在日朝鮮人運動』(神戸青年学生センター)、現在でも購入可能。
1980年、梶村秀樹先生、『朝鮮からみた明治維新』、この論文を読むと、竹内好氏だけでなく、安丸良夫氏も仮想論敵だったのではないかと推測される。また、この論文から梶村先生の(おそらく父方)祖父が貧農~中農出身で出世競争に負けた(実態はもっと複雑)ことに挫折感をいだいていたこと、また梶村先生の父親が裁判官であり、いわゆる大正教養主義に傾倒していたこと、戦時中は鬱屈をかかえながら業務をしていたこと、そして梶村先生がそれにたいする反発から、あまり役に立たなそう(失礼だが梶村先生はそう考えていたようだ)だが広い世界を見せてくれるだろう学問の世界にはいったことが語られている。
1981年2月、梶村秀樹先生、『植民地支配者の朝鮮観』(『季刊 三千里』)、植民者としての日本人批判
1981年2月、梶村秀樹先生、『朝鮮現代史の手引』(勁草書房
1981年10月、梶村秀樹先生、現代語学塾常緑樹の会と共に『常緑樹』(沈熏)の翻訳。この翻訳作業はそうとうエネルギーをそそぎこんだものであることに注意。
1982年4月、『朝鮮史の枠組と思想』(研文出版)
1983年、梶村秀樹先生、『朝鮮を通してみた天皇制の思想――さめた思想』
1984年、梶村秀樹先生、『歴史と文学』を発表。
1985年、梶村秀樹先生、『定住外国人としての在日朝鮮人』。重要さと(多少下品な言い方だが)有用性では上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。「国境をまたぐ生活圏」という単語が登場したのはこの論文。実は、「私」が著作集収録論文を調べた限りでは、「国境をまたぐ生活圏」という単語はこの論文だけである。
1986年1月18日、石母田正氏、死去。梶村秀樹先生は、石母田氏の幸徳秋水批判を一面的と批判。
1986年、梶村秀樹先生、『「旧朝鮮統治」は何だったのか』、植民者としての日本人批判、
「 『朝日新聞』大阪本社版に「語り合うページ」という欄があって、そこで昨年の六月から八月にかけて「旧朝鮮統治」の評価をめぐる読者間の大論争が展開されていた。同じ『朝日』をとっていても私ども東日本に住む者は論争の存在自体を知らずにいたということも、考えてみれば奇妙なことだが、編集部からコメントせよということで、その部分をまとめたコピーを読む機会を与えられた。」
1987年、吉見義明氏、『新しい世界史(7) 草の根のファシズム』(東京大学出版会)を発表。「第2節 民衆の序列」に、宮田節子氏、内海愛子氏、呉林俊《オリムシュン》氏らの著作を参考にした記述。ただし、梶村秀樹先生の著作の引用はなし。
1988年11月16日、エストニアソ連で初めて国家主権を宣言した
1988年、梶村秀樹先生、『<研究ノート>80 年代韓国の労働経済と労働政策 : 労働争議同時多発の背景』(神奈川大学、『経済貿易研究』)

1989年、梶村秀樹先生、『一九八七年の韓国情勢』『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』。『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』は重要さで上位5位に入る、きわめて重要な論文の1つ。CiNiiで閲覧可能。この論文は死の直前に書かれたものであり、長さと密度の点からみて、とてつもないエネルギーがこめられている。
1989年、梶村秀樹先生、死去。
1990年、並木真人氏、『戦後日本における朝鮮近代史研究の現段階--「内在的発展論」再考』(「歴史評論」、歴史科学協議会
1991年8月、ソ連共産党内の保守派と軍部のエリートがゴルバチョフ打倒のためのクーデターをおこす、だが失敗。1991年8月31日までに15の共和国が独立を宣言した。冷戦の崩壊
1991年9月、バルト三国の分離独立が認められる。
1991年、梶村秀樹著作集編集委員会、著作集第1巻の1番目に『排外主義克服のための朝鮮史』、2番目に『朝鮮語で語られる世界』を選択した。
※「私」コメント、この判断はきわめてすぐれている。とくに、2番目に『朝鮮語で語られる世界』を選択したことはきわめてすぐれている。ただし、このことをはっきりいっているのは、「私」が知っているかぎりでは車承棋氏と「私」ぐらいである。
1998年、牧原憲夫氏、『客分と国民のあいだ 近代民衆の政治意識』(吉川弘文館〈ニューヒストリー近代日本 1〉)

2001年、中野敏男氏、『大塚久雄丸山眞男――動員、主体、戦争責任』(青土社
2002年、徐京植氏、『半難民の位置から――戦後責任論争と在日朝鮮人』収録の『「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か――在日朝鮮人の進む道』のP169―P170に梶村先生の『定住外国人としての在日朝鮮人』(1985年発表)を紹介。
「ここで梶村秀樹氏が一九八五年の論文において、次のような貴重な指摘をしていたことは思い出しておく価値がある。
在日朝鮮人が日本に定住しつつも日本国家への帰属を否認するとき、それを裏返した観念は、日本側が神経を尖らせるような現にある南北いずれかの国家への忠誠観念では必ずしもなく、一般的には、国家への帰属意識というよりは、全体としての民族への帰属意識、南北と在日等をひっくるめて苦難と闘う民衆との一体化の希求と表現した方が適当なものとしてある。強力な母国の保護を受けてこれに依存して生きていこうというのではない。民族の一員としての実存を意識化していけばいくほど、苦難を克服しようとする母国民衆の課業に主体的に参与していこうとする意識に、到達せざるをえないのである。(略)国家の側の都合によって、こうした民族への帰属の志向、創造過程への主体的参与の意思を阻むことは、あってはならないことである。」
略をなくした引用は以下の通り
在日朝鮮人が日本に定住しつつも日本国家への帰属を否認するとき、それを裏返した観念は、日本側が神経を尖らせるような現にある南北いずれかの国家への忠誠観念では必ずしもなく、一般的には、国家への帰属意識というよりは、全体としての民族への帰属意識、南北と在日等をひっくるめて苦難と闘う民衆との一体化の希求と表現した方が適当なものとしてある。強力な母国の保護を受けてこれに依存して生きていこうというのではない。民族の一員としての実存を意識化していけばいくほど、苦難を克服しようとする母国民衆の課業に主体的に参与していこうとする意識に、到達せざるをえないのである。それは、真の意味の「国際性」ともかえって矛盾する意識ではない。
 在日朝鮮人青年としてこうした意識化の歩みを進め、現に韓国の獄中にいる徐勝・徐俊植兄弟の生の軌跡は一つの典型例をなしており、投企の具体的形態はさまざまで誰もが同じ行動をするというのではないとしても、思想の形としてのある普遍性をもっていることはまちがいない(32)。悪意に動機づけられてこれを背後から揶揄することはなされえても、正面から論駁することは誰にもできないのである。国家の側の都合によって、こうした民族への帰属の志向、創造過程への主体的参与の意思を阻むことは、あってはならないことである。」
2002年から2019年まで、姜徳相氏、『呂運亨評伝』(1)ー(4)発表。
2004年、石田米子氏と内田知行氏、『黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない』を発表、石田米子氏は梶村秀樹氏と交友があったことが著作集月報からわかる。
2004年2月27日、網野善彦、死去

2006年、牧原憲夫氏、『民権と憲法』(岩波書店岩波新書 シリーズ日本近現代史 2〉)
2006年9月4日、阿部謹也氏、死去
2006年、中野敏男氏、『「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯』『「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)』(季刊前夜)を発表。中野氏の梶村秀樹先生への接近はこのころからと思われる。戦後思想の再評価の過程で竹内好氏の再評価をするなかで梶村先生を「発見」したと推測される。

2008年、柏崎正憲氏、『反差別から差別への同軸反転 : 現代コリア研究所の捩れと日本の歴史修正主義』、CiNiiで閲覧可能。
2008年、牧原憲夫氏、『幕末から明治時代前期 文明国をめざして』(小学館〈全集日本の歴史 第13巻〉)
2010年、水谷智氏、塩川伸明氏、戸邉秀明氏による『日本植民地研究の回顧と展望 : 朝鮮史を中心に』(同志社大学人文科学研究所)、CiNiiで閲覧可能。
2010年、姜徳相氏、『日本と朝鮮のまっとうな過去と現在を結ぶための史観』(「コリア研究」立命館大学コリア研究センター)
2010年から2013年まで、「media debugger」氏、梶村秀樹先生のの著作に基づいて竹内好氏らを徹底批判。
media debugger
「私」もその批判に衝撃を受けた。ただし、本当に不思議な事だが、「私」が梶村秀樹著作集など入手可能な著作をすべて読むかぎり、梶村秀樹先生にとって竹内好氏はきわめて重大な仮想論敵だった。

2012年、中野敏男氏、『詩歌と戦争―白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHKブックス)、梶村秀樹先生への言及あり。
2012年―2013年、加藤圭木氏、科研費による研究『植民地期朝鮮における港湾都市開発と地域社会』を行う。
2013年、「社会科学 = The Social Science(The Social Sciences)」(同志社大学人文科学研究所)に、梶村秀樹先生についての論文3本が発表される。CiNiiにて閲覧可能。
『日韓体制下の民衆と「意味としての歴史」 : 梶村秀樹の韓国認識と歴史認識』(姜元鳳)
梶村秀樹の韓国資本主義論 : 内在的発展論としての「従属発展」論』(洪宗郁)
『日本「戦後歴史学」の展開と未完の梶村史学 : 国家と民衆はいかに(再)発見されたか』(戸邉秀明)

2013年、車承棋氏、『梶村秀樹の「未発の契機」 : 植民地歴史叙述と近代批判(論文)』(「Quadrante : クァドランテ : 四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌東京外国語大学)を発表。CiNiiにて閲覧可能。
※「私」コメント、「私」がこの論文をpdfで読んだ時の衝撃はわすれがたい。梶村秀樹先生の視野の広さと最終目標をほぼ完全におさえた論文であり、この論文なしで梶村秀樹先生を評価することはできない。

2014年、『排外主義克服のための朝鮮史平凡社ライブラリーから再版、山本興正氏による解説。
※「私」コメント、やはりこの本は避けてとおれない。ただし、梶村秀樹先生の最終目標が非常に高いところにあるため、梶村先生を理解するにはこの本だけでは絶対にいけない。「絶対に」というのは「私」の強調するところである。2023年の時点でも、このことをはっきり言う人がきわめてすくない。
2014年、姜徳相氏、『一国史を超えて : 関東大震災における朝鮮人虐殺研究の50年』(「大原社会問題研究所雑誌」、法政大学大原社会問題研究所
2015年、山本興正氏、『戦後思想の再審判―丸山眞男から柄谷行人まで』に寄稿。
2015年、牧原憲夫氏、『山代巴 模索の軌跡』(而立書房)
2016年4月4日、安丸良夫氏、死去

2017年、「私」、梶村秀樹著作集全6巻の電子化を作成することを決定。
※「私」コメント、どうしてこの決定をすることができたのか。「私」個人の判断というより、東アジアの歴史の大きな流れの中の決定だったと思うし、だからこそしくじらないですんだ。
※「竹内好氏と梶村秀樹先生の関係」を徹底的にしらべることを主な目的として、全著作の電子化の作業をすすめた。わたしには鈍感なところがあって、金と時間があっても3000KB以上の電子化をすすめる作業をするような人はきわめてすくないことに気がついていなかった。
2017年、『〈戦後〉の誕生―戦後日本と「朝鮮」の境界』に中野敏男氏、寄稿。内容は、『「日本の戦後思想」を読み直す(7)「方法としてのアジア」という陥穽--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯』『「日本の戦後思想」を読み直す(第8回)植民地主義批判と朝鮮というトポス--アジア主義をめぐる竹内好梶村秀樹の交錯(その2)』(季刊前夜)に、丸山真男氏の植民地認識についての分析をあわせたもの。
2017年、加藤圭木氏、『『1920~30年代朝鮮における地域社会の変容と有力者・社会運動』にて梶村秀樹先生の『論説 旧韓末北関地域経済と内外交易』を紹介。「私」が見るかぎり、梶村先生のあとをついで1920年代の朝鮮人側の動向を調べた論文はない、ということらしい。
近年、加藤圭木氏は植民地支配責任についても積極的に発言している。

2018年12月31日、「梶村秀樹著作群の電子化 約700KB分」「抜粋資料pdfの作成」「SYの供述書の電子化(途中まで)」
2019年12月31日、「梶村秀樹著作集のほぼ完全な電子化(4・2MB)(ただし未校正)」、「「オウム法廷」(降幡賢一)の電子化(6・8MB)(ただし未校正)」「「アンナ・カレーニナ」(トルストイ作、米川正夫訳)の1・2・3・8章の電子化(1MB)(ただし未校正)」「「証言台の子どもたち」「ほんとうは僕殺したんじゃねえもの」(浜田寿美男)の電子化(1・2MB)(前者だけ校正)」「中西新太郎先生の論文約30本の電子化(700KB)(ただし未校正)」
2020年12月31日、「「ひろしまタイムライン」で変なものをいくつか発見する。「公開質問状」をだしたが、何の返事もない」「京都アニメーション放火殺人事件についての公開質問状」「『梶村秀樹著作集』第1巻と第3巻収録の論文の校正、「亜州和親会をめぐってーー明治における在日アジア人の周辺」「私にとっての朝鮮史 『朝鮮史 その発展』序章」「竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判」「現在の「日本ナショナリズム」論について」「植民地と日本人」「植民地朝鮮での日本人」「竹島=独島問題と日本国家」」「一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例」「著作集第3巻の「解説」+「解題」」「一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営」」「『オウム法廷』一部校正
」「『サリヴァンの精神科セミナー』2回校正」「『カラマーゾフの兄弟』電子化(まだ校正おわっていない)」「『罪と罰』電子化(まだ校正おわっていない)」「『おとなしい女』『おかしな人間の夢』電子化(校正おわり)、『九通の手紙に盛られた小説』『プロハルチン氏』『ポルズンコフ』『クリスマスと結婚式』『人妻と寝台の下の夫』『正直な泥棒』『弱い心』『白夜』『ボボーク』『キリストのヨルカに召されし少年』『百姓マレイ』『百歳の老婆』『宣告』電子化(まだ校正おわっていない)」「『ドラえもん』第1巻-第5巻の文字データの電子化」「『ドラえもん』『オバケのQ太郎』冒頭6Pの入力」
2021年12月31日、「梶村秀樹著作集電子テキストの校正1,2,3,4のすべて、5,6の一部」「ドストエフスキー電子化のみ、9000KB」「ドストエフスキー校正完了、1000KB」「「ひろしまタイムライン事件」検証、しっぽをつかんだ。」「沖縄戦記録、約900KB」「サリヴァンセミナー、電子化」「ツイッター文化が宣伝以外に自己の長所を主張できないこと(長所がないこと、ではない)を自分自身の眼で確証できたこと(2021年11月退会)」「インターネットに借金取りなみにしぶといやつは少ないことに気がついたこと」「NHKアーカイブス、収集」
2022年12月31日、「梶村秀樹著作集全六巻の電子テキストの校正を完了」
2023年03月、「アンナ・カレーニナの電子テキストの校正完了」「悪霊の電子テキストの校正完了」「および2テキストの青空文庫への寄贈手続きが完了」(←発表は2023年10月)
2021年、姜徳相聞き書き刊行委員会、『時務の研究者 姜徳相: 在日として日本の植民地史を考える』発表。
2021年6月12日、姜徳相氏、死去。
2023年、大槻和也氏、『「朝鮮と日本のあるべき関係」を求めて : 梶村秀樹による물레 (ムルレ) の会および指紋押捺拒否運動への活動従事を手がかりに』、CiNiiで閲覧可能。
2023年、「ある出版社」から、2024年中に梶村秀樹先生の著作の電子書籍が出版できると連絡があった。

梶村秀樹先生のライフヒストリーに関する資料で特に重要なもの
「回想」「月報」「私の反省」「朝鮮からみた明治維新」「排外主義克服のための朝鮮史全3部」「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」「朝鮮語で語られる世界」「私にとっての朝鮮史」「竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」「差別の思想を生み出すことば」
※「回想」「月報」はもっと重要視すべきだろう。インターネット上では使用している論説がない。



梶村秀樹先生のライフヒストリーに関する資料(作成、約150分)

梶村秀樹著作集 月報(全六巻分)」(とくに、石田米子氏の回想が興味深かった)
梶村秀樹著作集遺文と回想」
梶村秀樹さんと調布■■の会(収録の回想)」
「追悼梶村秀樹さん(収録の回想)」
梶村秀樹先生を悼む(住吉高校  印藤 和寛)」(「先生は「私こそ竹内好さんの一番の弟子だと思っでいます」とおっしゃった。」は見落としてはいけない)



友邦協会での朝鮮総督府の元官僚へのオーラルヒストリー
東洋文化研究」2号から(学習院大学の出版)


梶村秀樹著作集第1巻より
「排外主義克服のための朝鮮史
朝鮮語で語られる世界」
「私にとっての朝鮮史
竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」
「朝鮮を通してみた天皇制の思想――さめた思想」
「朝鮮からみた明治維新
「植民地朝鮮での日本人」
「「旧朝鮮統治」は何だったのか」
「差別の思想を生み出すことば」
竹島=独島問題と日本国家」
「歴史的視点から見た日韓関係」
「歴史をねじまげてはいけない――「日韓合邦」の真相」
「近代史における朝鮮と日本」

梶村秀樹著作集第2巻より
「朝鮮近代史と金玉均の評価」
「朝鮮近代史研究の当面の状況」
「日本における朝鮮研究」
朝鮮史研究の方法をめぐって」
「朝鮮社会における移行法則」
「“やぶにらみ”の周辺文明論」
「朝鮮近代史研究における内在的発展の視角」
「朝鮮思想史における「中国」との葛藤」
「朝鮮からみた現代東アジア」
「東アジア地域における帝国主義体制への移行」
日本帝国主義の問題」
「申采浩の朝鮮古代史像」
「歴史と文学 朝鮮の場合」


梶村秀樹著作集第3巻より
李朝末期(開国後)の綿業の流通および生産構造  ――商品生産の自生的展開とその変容――」
「近代朝鮮の商人資本等の外圧への諸対応」
「一九一〇年代朝鮮の経済循環と小農経営」
日本帝国主義支配下の朝鮮ブルジョアジーの対応」
「「民族資本」と「隷属資本」――植民地体制下の朝鮮ブルジョアジーの政治経済的性格解明のためのカテゴリーの再検討」
「一九二〇~三〇年代朝鮮農民渡日の背景――蔚山群達里の事例」
「「一筋の赤い糸」としての内在的発展」
「「民族経済」をめぐって」

梶村秀樹著作集第4巻より
朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動
「義烈団と金元鳳」
「『アリランの歌』(解説)」
「解放前の在日朝鮮人運動史――在日朝鮮労総結成~全協への解消過程を中心として」
「新幹会研究のためのノート」
「甲山火田民事件(一九二九年)について」
「『常緑樹』(解説)」
「一九二〇~三〇年代の民衆運動」

梶村秀樹著作集第5巻より
「八・一五以後の朝鮮人民」
日韓条約のゆくえを追跡します」
ベトナム派兵の傷跡」
「韓国の労働運動と日本」
「語りはじめた労働者たち」
「韓国の農村で」


梶村秀樹著作集第6巻より
定住外国人としての在日朝鮮人
「海がほけた!――山口県長生炭坑遭難の記録」
「解放後の在日朝鮮人運動」
「なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか」
金嬉老への判決を支えた日本社会」
金嬉老裁判の現在」
「私における呉林俊氏の肖像」
「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」
「論文「朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」
定住外国人県民の生活とニーズ――「県内在住外国人実態調査」を終えて――」
「「指紋」の闘いは終っていない」



朝鮮史の枠組と思想』より
「「家族主義」の形成に関する一試論」
「申采浩の啓蒙思想
「申采浩の歴史学――近代朝鮮史学史論――」
「あとがき」


『朝鮮を知るために』より
「保育園にて」
「朝鮮との出会い」
「出しぬき合い社会」
「私と朝鮮語
「「先公よ、しっかりさらせ」を読んで」
「「自由」にたじろぐまい!  民族差別と闘う連絡協議会第七回全国集会(一九八一年)への感想」
「《書評》西順蔵著『日本と朝鮮の間』」
「《書評》宋孝順著『ソウルヘの道』」
「《書評》和田春樹著『北の友へ南の友へ』」


梶村秀樹著作集・単行本未収録の執筆物より
「日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか」
「『歴史と理論』を読みかえしてみて」
「私の反省」
「私の失業始末記」
「平均的私大生のアジアのイメージ」
「『東亜日報』意見広告に見る民衆意識(上)(中)(下)」
「教科書問題を考える一朝鮮史研究の視点から」

2017年から2023年の間 映画、「探偵ドラマシリーズ」2本と「画家の出る映画」1本だけ。読書、短編小説がほとんど、長編で読了できたのは、「そして誰もいなくなった」「動く指」「ペドロパラモ」「第三の警官」「ゴッホ日本に賭けた夢」「エドゥアールマネ西洋絵画の革命」「美の呪力」「子どもを殺してくださいという親たち」、はんぶんぐらいは、ドラマで見ていた。「ある長編戦争小説」を再読できなかったのはつらかった。
電子化の時に再読、「カラマーゾフの兄弟」「アンナ・カレーニナ」「悪霊」「白夜」。マンガ、3巻以上のストーリーもので読了できたものは2つしかない。
戦争証言アーカイブス、新しく読むことがほとんどできなかった。



追加作業のためのメモ
イタガキリュウタ、ヨシノマコトの反論論文、ニュウカントウソウ、



並木真人論文
歴史評論 (482) - 国立国会図書館デジタルコレクション
○戦後日本における朝鮮近代史研究の現段階--「内在的発展論」再考/並木真人 //p15~30


20230923。20分。
20240925、40分
20231001、40分
20231010、30分、


梶村先生の執筆物の検討 その他メモ - 『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]


メモ

「ほんとうに読むべき本になる条件」
ひろさふかさ、するどさ、すきのなさ、いきおい、独特の味
「固定客」をつかむ

『古文書返却の旅』P091、第六章より、「実際、読み切った文書は七、八年間でわずか五百点にとどまった。(略)そしてその過程で、なによりもわれわれが驚いたことの一つは(略)」→「、八年間でわずか五百点にとどまった。」

わたしの、本気の反万博論 その58 そもそも、爆発するガスや有毒物が埋まっている土地(夢洲)で、よりによって「(今より安全な)近未来」を見せるイベントをする。それに形ばかりでも世界中の国々が参加する。イベントの歴史で、こんな愚行は一回だってやってはいけない。

イベント自体の存在意義を破壊する。これが現在そのものかもしれないが、それにしてもなさけない。
すばらしいことができるかどうかより、きちんと命の安全を守っているかをさきに考えなければならない。これはイベントの原則だ。

……荒廃している。いま、はっきりいえることは、これだけだ。

わたしの、本気の反万博論 その57 「あの決意」に負けたくないかどうかすら言うことができないって、どう考えてもおかしいだろ。雑誌でもインターネットでも、だれも「あの決意」と対決できていない。ほぼはっきりしている。

もちろん、わたしは「太陽の塔」と「明日の神話」について言っている。精神論ではなく、決意の存在理由の問題。正直、こんなことを言うことはつかれる。

ハックルベリー=フィンの冒険(マーク=トウェイン作、吉田甲子太郎訳)、第8章とちゅうから第13章とちゅうまで

20240414
■43-■48、5分、OCR、101-151
■49―■54、5分、OCR、152-200、
20240418
■04-■10、15分、ざっとせいり、作品見ながら、101-140
20240419
■18―■33、15分、ざっとせいり、101-119
20240420
■20-■04、44分、ざっとせいり、130-168
■35-■21、46分、ざっとせいり、160-201
■30―■00、30分、101-115、読みながら校正
20240421
■25-■24、59分、116-144、読みながら校正
■57-■56、59分、145-181、読みながら校正

オーリンズには売らねえといってただよ。でも、ついこのごろ、どれい買いが、あのへんにきてることに、おらあ気がついただ。それで、心配になってきただよ。ところで、ある晩、ずいぶんおそくなってからだだ、おらあこっそりと戸口のところにいってみたら、戸がしっかりしまっていなかっただ。そして、あの女が、後家さんに、おらあをオーリンズに売るつもりだ、といってるのを、おらあきいただ。あの女は、おらあを売りたかねえのだが、おらあ八百ドルに売れるだで、あの女は、その大金に目がくらんだだよ。後家さんは、あの女に、そうさせねえようにしようとしただが、おらあ、そのあとなどきいていられなかっただ。おらあ、いきなりとびだしただ。
 おらあ、外にでると、すっとんで、丘をかけおりただよ。そして、町のすこし上の岸で、舟をぬすむべと考えただが、人がまだおきていただ。んだから、川っぷちの、あのぶっけえりかけたおけ屋の店にかくれて、みんながいなくなるのを待ってただ。おらあ、そこに一晩じゅうかくれていただよ。だれかかれかが、しょっちゅううろうろしていたでな。朝の六時ごろになると、小舟が通りだしただ。そして、八時か九時ごろ通っていく舟は、どれもこれもまあ、あんたのおやじさんが町にきて、あんたがころされたといったって話をしてるだ。あとのほうのなんそうかの舟は、あんたがころされたところを見にいく女や男で、いっぱいだっただよ。その人たちは、しばらく岸に舟をつけて、ひとやすみしてから、たっていっただで、おらあ、その人たちの話から、人ごろしのことがすっかりわかっただ。おらあ、あんたがころされたで、とてもかなしかっただよ、ハックさん。だが、もう、かなしくなくなっただよ。
 おらあ、そこのかんなくずの下に、一日じゅういただ。はらがへったが、でも、おらあ、おっかねえことなかっただ。あの女と後家さんは、朝めしがすんだらすぐ、野外説教会にでかけていって、一日じゅういねえことを知っていたからだよ。それに、おらあ、夜が明けると、家畜をつれて、外へでていくことを、あの人は知ってるだから、おらあが、そのあたりにいねえでも、なんとも思わねえからだよ。あの人たちは、暗くならねえうちは、おらあのいねえのに、気がつかねえだよ。ほかの召使だって、おらあのいねえのに、気がつきはしねえだ。あいつらは、あの人たちがいなくなるとすぐ、外にとびだして、あそびほうけているからだだ。
 ところで、暗くなってから、おらあ、川っぷちの道にでて、家のねえところまで、二マイル以上も、川岸をのぼっただよ。おらあ、もう、こころをきめていただ。ずっと歩いてにげようとすれば、犬にあとをつけられるだ。また、舟をぬすんで川をこえたら、舟がねえのに気づかれるだ。そして、むこうっぷちのどこかにあがったかがわかるだし、どっちへおっかけていけばいいか、わかるだ。ね、そうでねえだかね。だから、おらあ、いかだをさがさなくちゃならねえと考えていただ。いかだなら、あとをのこさねえだ。
 そのうちに、川岸のでっぱなをまわってくるあかりが一つ見えただ。そこでおらあ、川にとびこんで、丸太につかまって、それをおしながら、川の半分以上もおよいでいっただよ。そして、流木のあいだにまじって、頭をひくくして、なんとか、ながれにさからっておよいでいるうちに、いかだがきただ。それでおらあ、いかだのとも[#「とも」に傍点]におよいでいって、つかまっただ。すると、空がくもって、ちょっとのあいだ、たんと暗くなっていただよ。だからおらあ、はいあがって、板子の上にねただ。いかだの人たちは、ずっとむこうの、あかりのある、まんなかのほうにいたんでな。川の水はふえ、ながれははやかっただ。だから、おらあ、朝の四時までには、二十五マイルも川をくだっていると思っただ。そうしたら、夜明けのすぐまえに、こっそりと川にはいって岸におよいでいって、イリノイがわの森ににげこもうと思っていただよ。
 だが、おらあ、運がわるかっただ。この島のさきっぽのとこまできたとき、ひとりの男が、カンテラを持って、とものほうにやってきただ。おらあ、ぐずぐずしていられねえと思ったから、そっとすべりおちて、この島にむかって、およぎだしただ。ところで、おらあ、この島、どこからでもあがれると思っていただが、あがれねえだ――岸ががけになってるもんなあ。島のしりまでおよいできて、やっとこさ、うまいとこを見つけただよ。森のなかにはいってから、おらあ、やつらがカンテラをふりまわしているかぎり、もう二度といかだには、手をだすめえと考えただよ。おらあ、パイプとひとかたまりの固形タバコとマッチを、帽子のなかに入れて持っていただが、それがぬれなかったで、まったくたすかっただよ。」
「そいじゃ、それからずっと、おまえは、肉もパンも食わなかったのかい。どうして、どろがめをつかまえなかったんだい。」
「どうして、つかまえるだ? 万が一、ふんづけたところで、すべって、つかまりはしねえだ。どうして、石をぶっけるだ。どうして、夜、石をぶっつけられるだ。おらあ、ひるまは、岸にでられねえじゃねえか。」
「ああ、そうだったな。おまえは、ずっと、森のなかにいなきゃならなかったんだね。おまえ、みんなが、大砲をうつのきいたかい。」
「ああ、きいただよ。おらあ、みんながあんたをさがしているのを知っていただ。ここを通るのを見ていただよ――やぶのなかから見ていただよ。」
 小鳥のひなが五、六ぱ、一、二ヤードとんでは、ちょいちょい立ちどまりながら、近づいてきた。それは、雨になるしるしだ、とジムはいった。にわとりのひなが、そんなとびかたをするのは、雨になるしるしなのだから、小鳥のひながそういうとびかたをしても、それはおなじことだと思う、と、ジムはいった。わたしは、小鳥をつかまえようとしたが、ジムにとめられた。ジムは、そんなことをしたら、死ぬというのだ、むかし、おやじが大病でねていたとき、家のものがだれか、一わの小鳥をつかまえてきたのを見て、ばあさんが、おやじは死ぬといったが、ほんとうにおやじは死んでしまった、とジムは話した。
 それから、食べものをこしらえるとき、ものの数をかぞえてはいけない、そんなことをしたら、不幸がやってくる、とジムはいった。太陽がしずんでから、テーブルかけをふってもおなじだともいった。それからまた、だれかみつばちの巣を持っている人が死んだら、つぎの朝の太陽があがらないうちに、そのことをはちどもにおしえてやらなければならない。そうしないと、はちは、よわりきって、はたらかなくなり、死んでしまう、とジムはいった。また、みつばちはばかものをささないといった。が、わたしは、それは信じなかった。わたしは、なんども、自分をささせてみようとしたけれど、ささなかったからだ。
 わたしは、まえから、こんなようなことはいくつかきいていた。だがそれでぜんぶというわけではなかった。ジムは、迷信のことなら、なんでも知っていた。彼は、自分の知らないことは、まずないといっていた。わたしには、どんなまえ知らせでも、みんな不幸のまえ知らせのように見えるのだが、なにか、幸運のまえ知らせというものはないのかと、ジムにきいてみた。
「とてもすくねえだよ――それに、そんなもの、生きてる人の役にはたたねえだよ。幸運がこようってとき、どうして、それを知りてえだ。幸運をよせつけめえてのかね?」それから、ジムはいった。「あんたのうでにどっさり毛がはえて、むねにもどっさり毛がはえてたら、それ、あんたが金持ちになるまえ知らせだよ。そうだとも、そういうまえ知らせなら、いくらか役にたつだ。金持ちになるのは、うんとさきのことだからな。いいかね、あんたは、はじめのうち長いあいだ、びんぼうしなきゃならねえかもしれねえだ。そんなとき、そのまえ知らせで、だんだんに金持ちになるってこと知らなかったら、あんたは、がっかりして、自殺するかもしれねえだ。」
「おまえは、うでとむねに毛がはえているかい、ジム。」
「そんなこと、なんだってきくだ。これ、見えねえだかね。」
「ところで、おまえは、金持ちなのかい。」
「そうじゃねえだよ。でもおらあ、一度金持ちだったし、これからまた、金持ちになるだよ。おらあ、まえに十四ドル持ってただが、やまをやって、すっぽりなくしただ。」
「なんのやまをやったんだい、ジム。」
「そうさね、はじめは品物に手をだしただよ。」
「どんな品物だい?」
「もちろん、生きている品物――家畜だよ。おらあ、一頭のめ牛に十ドルかけただ。だが、おらあもう、家畜に金をかけるような、あぶねえことはしねえだよ。そのめ牛はかってるうちに、ころりと死んだだからね。」
「それで、まるまる十ドルそんをしたのかい。」
「ふうん、みんなは、そんしなかっただよ。九ドルなくしただけだ。おらあ、その皮と油を、一ドル十セントで売っただから。」
「それじゃ、五ドル十セントのこっていたんだね。そのあと、やまはやらなかったのかい。」
「そうだとも。ところであんた、年よりのブラディシュさんの、一本足の黒人を知ってるだろう? あいつが銀行をこしらえて、いうだよ。だれでも一ドルあずけたら、年のくれに、四ドルよけいにもらえるだって。そいで、黒人は、ひとりのこらずはいっただが、みんなは、たいした金は持ってなかっただ。大金持ちってのは、おらあひとりだっただ。そこで、おらあ、四ドル以上くれとがんばっただ。そして、四ドル以上くれなければ、おらあ自分で銀行をはじめるっていってやっただ。ところが、そいつは、おらあにおなじ商売をさせたかあなかっただ。なぜって、そいつは、二つの銀行がたっていけるほどのしごとはないというんだ。それで、そいつは、おらが五ドルあずけたら、年のくれには、三十五ドルはらうっていっただよ。うんだから、おらあ、五ドルあずけただ。それからおらあ、その三十五ドルをもとでにして、すぐにそいつをぐるぐるまわして、もうけようと思っていただ。ボブという黒人がいるだが、ちょうどそいつが、いかだをひろっただ。だんなはそれを知らなかっただ。そいで、おらあ、そのいかだをボブから買って、年のくれがきたら三十五ドルはらうといっただ。だが、その晩のうちに、だれかにいかだをぬすまれただ。そのうえ、そのあした、一本足のやろうは、銀行がつぶれたっていっただよ。そんなわけで、だれも、一セントももらえなかっただよ。」
「あとの十セントはどうしたんだい、ジム。」
「ああ、そいつは、おらあ使うべと考えていたところ、おらあ、ゆめを見ただよ。そのゆめが、おらあに、その金を、バラムっていう黒人にやれっていうだ――バラムのろばでとおっているやつだよ。あいつのばかなことは、わかっているでねえか。だが、みんな、バラムをしあわせだっていうてるだが、おらあは、しあわせでなかっただ。ゆめのおつげだと、バラムは、その十セントをもとでにして、おらあに大金をもうけてくれるっていうだ。ところで、バラムがその金を持って教会にいくと、説教師が、びんぼうなものに金をやったものは、キリストさまに金をかしたのだから、その金は、かならず百倍になってもどってくるといっただ。だから、バラムは、その十セントをびんぼうなやつにやって、どうなるか、じっとこころ待ちにしていただ。」
「それからどういうことになったい、ジム。」
「どういうことにもなりゃしねえさ。おらあ、なんとしても、その金をとりもどすことができなかっただ。バラムにもできなかっただ。おらあ、でえじょうぶだとわからないうちは、もう二度と、金をかさねえだよ。あの説教師め、百倍になってけえってくるなんていうだ! なあに、おらあ、あの十セントが、そのまま、けえってきさえしたら、それでいうことはねえだ。ひょっこりもどってきたら、どんなにうれしいかしれねえになあ。」
「なあに、それでいいんだよ、ジム、いまにまた、金持ちになれるんだものな。」
「そうだとも、それに、考えてみりゃあ、いまだって、おらあ金持ちだよ。おらあこの自分を持ってるだ、そして、このからだには八百ドルのねうちがあるだからな。おらあ、あの金がおしかっただ、が、いまじゃもうおしいとは思わねえだよ。」
      09 島《しま》の生活《せいかつ》、はじまる
 わたしは、ちょうど島のまんなかあたりにある、ある場所を見にいきたいと思った。それは、探検ちゅうに見つけておいたところだ。そこで、わたしたちはでかけたが、じきにそこへついた。この島は、長さがたった三マイル、はばか四分の一マイルしかなかったからだ。
 その場所は、かなりほそ長い土地で、四十フィートばかりの高さの、けわしい丘というか、山の背というか、そのようなところにあった。山腹は両がわとも、とてもけわしく、ふかいやぶになっているので、その頂上にのぼるのに、わたしたちは、ひどく骨がおれた。わたしたちは、その丘をのぼったり、くだったり、ぐるぐる歩きまわったりした。そのうちに、わたしたちは、頂上近くのイリノイがわで、かなり大きな岩あなを見つけた。ほらあなは、へやを二つ三つあわせたくらい広く、しかも、ジムがまっすぐ立つことができた。なかはすずしかった。ジムは、すぐにわたしたちの持ちものをそのなかへはこびこみたがった。だが、わたしは、しじゅうこんなとこへのぼったり、おりたりするのはいやだといった。
 ジムは、カヌーをうまいところにかくして、持ちものをみんな、このほらあなのなかにはこびこんでおきさえしたら、だれかがやってきたときには、このほらあなに走りこめばいいのだ、そうすれば、犬をつれてこないかぎり、わたしたちは見つかりっこないといった。そればかりか、小鳥どもが雨がふるといっているのに、あんたは持ちものをぬらしたいのかといった。
 そこで、わたしたちは、カヌーのところまでもどっていって、カヌーをほらあなの下のところまでこぎあげてきてから、いっしょうけんめいになって、持ちものをみんなほらあなにかつぎあげた。それから、すぐ近くに、やなぎがふかくしげっているところを見つけて、そこにカヌーをかくした。わたしたちは、つり糸からさかなをなんびきかはずし、またその糸をしかけてから、ひるの食事の用意にとりかかった。
 ほらあなの入り口は、大きなたるをころがしこめるくらい大きかった。そのうえ、入り口の片がわの床がすこしつきでていて、そこがたいらになっているので、たき火をするのにつごうがよかった。だから、そこで火をたいて、ひるの食事をこしらえた。
 わたしたちは、ほらあなのなかに、敷物のかわりに毛布をしいて、そこでひるめしを食った。荷物は、みんな、そのおくの手近なところにおいた。まもなく、うす暗くなってきて、かみなりが鳴り、いなびかりがはじまった。小鳥のまえ知らせは、まちがっていなかったのだ。じきに雨がふりだした。どしゃぶりだった。風もすごかった。こんなすごい風は、わたしははじめてだった。いつもくる、夏のあらしの一つなのだが、とても暗くて、ほらあなの外は、あお黒く見えたが、すばらしくもあった。雨がもうれつないきおいでたたきつけているので、すこしさきの木は、ぼんやりと、くもの巣のように見えた。そこへ風がゴオーッとふいてくると、木はまがり、葉のうらが白く見えた。それから、なにもかもひきさいてしまいそうな、すごい風が、ゴオーッとうなってきて、木ぎの枝を、気でもくるったようにゆさぶった。つづいて、きゅうに、いっそうあお黒く、まっ暗になったと思うと、ぴかっと――後光でもさしたように明るくなって、その瞬間、ずっととおくあらしのなかで、まえには見えなかった、数百ヤードもむこうの木ぎのこずえが、おどりくるっているのが見えた。たちまちまた、おそろしくまっ暗になると、こんどは、かみなりが、すさまじい音をたててくだけだ。それから、バリバリ、ゴロゴロ、パリパリととどろきながら、世界のむこうがわのほうへと、空をころげおちていった。ちょうど、あきだるがいくつも、階段をころげていくように――長い階段だと、たるは、ゴロンゴロンと、まったく、よくはずむものである。
「ジム、ここは、いいとこだね」と、わたしはいった。「おれ、ほかんとこにはいきたくなくなったよ。さかなと、とうもろこしパンのあついのを、すこしとってくれ。さかなは、大きれのとこだぜ。」
「ね、あんたがここにきたのは、このジムのおかげだよ。あんたは、下の森のなかで、めしも食えず、おまけに、おぼれかけていたかもしれねえのだ。そうにちげえねえだよ、ぼっちゃん。ひよこは、雨のふるのを知ってるだから、きっと、小鳥だってわかってるだよ。」
 川は、水がふえだし、十日か十二日も増水しつづけたので、とうとう岸をこえてしまった。島のひくいところや、イリノイがわの低地では、三フィートから四フィートも水がでた。イリノイがわの岸までの川はばは、数マイルにひろがった。だが、ミズーリ州がわの岸までは、まえとおなじ川はば――つまり、半マイルだった――そっちがわの川岸はきり立ったがけになっているからだった。
 ひるま、わたしたちは、島じゅうをカヌーでこぎまわった。外では、太陽がぎらぎらてっているのに、ふかい森のなかは、とてもすずしく、うす暗かった。わたしたちは、木ぎのあいだを、でたりはいったり、ぐるぐるこぎまわったのだが、つる草がいっぱいたれさがっているところにつきあたってしまい、もどるか、べつな道をいかなければならないこともあった。大きな木がたおれていると、どの木にもきっと、うさぎかへびか、そんな動物がのっかっていた。島が水びたしになって一日二日たつと、うさぎは、はらをへらして、すっかりげんきがなくなってしまった。だから、つかまえる気なら、まっすぐカヌーをこぎよせていって、いくらでもつかまえることができた。だが、へびとかめは、そうはいかなかった――彼らは、すうっと水のなかににげていくからだ。ほらあなのある山の背は、それらの生きものでいっぱいになった。うさぎでもへびでも、かおうと思えばいくらでもかうことができた。
 ある晩、わたしたちは、材木のいかだの一部をひろった。すばらしい松板《まついた》だ。はばか十二フィート、長さは十五、六フィートぐらいで、表面のところが六、七インチ水面からでていた――がっちりしたたいらな床板だった。ひるま、山からきりだしたままの丸太がながれていくのを、よく見かけたが、わたしたちは、手をださなかった。わたしたちは、ひるまは、すがたをあらわさないことにしていたのだ。
 またある晩、明けがた近くに、わたしたちが、島の突端のところまでいってみたとき、木造家屋が一けん、島の西がわをながれてきた。その家は、二階づくりだったが、ひどくいっぽうへかたむいていた。わたしたちは、カヌーをこぎだして、その家にはいりこんだ――二階の窓からもぐりこんだのだ。しかし、なかはとても暗くて、なにも見えなかったので、わたしたちは、カヌーをしっかりつなぎ、そのなかにすわって、夜が明けるのを待っていた。
 島じりまでくだらないうちに、夜が白みだしてきた。それで、わたしたちは、窓からなかをのぞいてみた。寝台が一つあった。それからテーブルが一つと、古ぼけたいすが二つ見えた。床の上には、いろんなものがちらばっていた。かべには、服がなんちゃくか、ぶらさがっていた。むこうの床のすみに、なにか、人間のようなものが、のびていた。それで、ジムがいった。
「もしもし、あんた。」
 しかし、人間らしいものは身じろぎもしなかった。そこで、わたしも大きな声でよんでみた。すぐ、ジムがいった。
「あの男は、ねむってるでねえ――死んでいるだ。あんたは、じっとしてなされ――おらあがいってみるだから。」
 ジムは、はいっていって、からだをかがめてのぞきこんでからいった。
「死びとだだ。ほんとに、死びとだだ。おまけに、まるはだかだだ。せなかをうたれてるだ。死んでから、二日か三日になるだ。はいってきなされ、ハックさん、だが、顔は見るでねえぞ――おっかねえからな。」
 わたしは、けっして死人のほうを見なかった。ジムは、死人の上にぼろをなげかけたが、そんなことをするひつようはなかった。わたしは、死人など見たくなかったのだ。床の上には、手あかによごれたトランプが、たくさんちらばっていた。古いウイスキーのびんも、なん本かころがっていた。それから、黒い布でつくったふく面用の顔おおいが二つおちていたかべには木炭で、このうえなしに下等なもんくと絵がいちめんにらくがきしてあった。きたないキャラコのドレスが二ちゃくと女の夏帽子が一つ、それに、女の下着がなんまいかかべにかかっていた。また、男の衣類もなんちゃくかかかっていた。わたしたちは、それらのものをカヌーにつみこんだ――そのうちに役にたつかもしれないからだ。床の上に、古い、まだらあみの男の子の麦わら帽子がおちていたので、わたしは、それをひろった。それから、赤ん坊にのませるための布の乳首をつけた、からの牛乳びんがあった。そのびんもひろっておきたかったのだが、それはこわれていた。それから、みすぼらしい古ばこが一つと、ちょうつがいのこわれた古い毛皮ばりのトランクが一つあった。二つとも、口があいていたが、めぼしいものは、なにひとつはいっていなかった。こんなにとりちらしてあるところからみると、うちのものが、大いそぎでにげだし、あわてふためいていたので、なんにも持ちだすひまがなかったのだろうと、わたしたちは思った。
 わたしたちは、古いブリキのカンテラ一つ、柄のない肉きりぼうちょうを一ちょう、どこの店で買っても二十五セントはする、まあたらしい、バーローじるしのナイフを一つ手に入れた。それから、たくさんの牛脂製のろうそくと、ブリキのろうそく立て、ひょうたんとブリキのコップ一つずつをちょうだいした。そして、寝台からうすぎたないさしこのかけぶとんをひっぺがし、また針やピンやみつろうやボタンや糸などがはいっているあみぶくろと、一ちょうのおのと、すこしばかりのくぎとを見つけた。そのあとで、とほうもなく大きなつり針がついている、わたしの小指ぐらいのふとさのつり糸一本、雄じかの皮一まき、皮でつくった犬の首輪と馬の蹄鉄、なん本かの、はり紙のないくすりびんなどが手にはいった。そして、いよいよ、その家からでようとしたとき、わたしは、かなりじょうとうの、馬をとかすくしを一つ見つけた。ジムも、きたないバイオリンの弓と木の義足を一つ見つけた。ひもがとれていたが、それさえなおせば、りっぱに使える義足だった。だが、それは、わたしには長すぎたし、ジムにはみじかすぎた。それでもわたしたちは、そこらじゅうをさがしたが、もう片方は見つからなかった。
 そんなわけで、ぜんたいからいうと、わたしたちは、たいへんなもうけものをした。いよいよカヌーをこぎだそうとすると、わたしたちは、島から四分の一マイルも下にながされてきていたうえに、もうすっかり夜が明けていた。そこでわたしは、ジムをカヌーのなかにねかせて、さしこのかけぶとんをすっぽりとかぶせた。ジムがおきていたら、ずいぶんとおくからでも、黒人だとわかるからだ。わたしは、イリノイがわの岸にこぎよせようとしたのだが、やっとこぎよせたときには、ほとんど半マイルも川下におしながされていた。それからわたしは、岸の下のよどみをそっとこぎのぼったのだが、なにごともおこらなかったし、人にもであわなかった。わたしたちは、ぶじにほらあなへかえりついた。
        10 ジム、がらがらへびにかまれる
 朝めしのあと、わたしは、さっきの死人のことを話しあって、どうしてころされたのか、たしかめようとしたが、ジムはいやがった。そんな話をしたら、なにかわるいことがおこるというのだ。そのうえ幽霊になってでてきて、わたしたちをなやますかもしれない。ほうむってもらわない人は、うめてもらって、やすらかな気持ちになっている人よりも、幽霊になって歩きまわりたがるものだ、とジムはいうのだ。それは、いかにももっともらしくきこえたので、わたしは、そのうえ死人のことを口にしなかった。だが、わたしは、どうしても、死人のことを考えずにはいられなかった。だれがあの男をうちころしたのか、そしてなんのためにうちころしたのか知りたかったのだ。
 わたしたちは、とってきた服を、あれこれとかきまわして見てるうちに、毛布でつくった古外《ふるがい》とうのうらに銀貨で八ドルぬいこまれているのを見つけた。ジムは、あの家の人たちは、この外とうをぬすんできたのにちがいないといった。金をここにぬいこんであるのを知っていたなら、外とうをおきっぱなしにしていくはずがないというのだ。わたしは、あの家の人たちが、あの男をころしたにちがいないといったが、ジムは、そんな話をするのはよせといった。そこで、わたしはいった。
「おまえは、あの死人の話をすると、不幸がくると思ってるけどさ、でも、さきおととい、山の背の頂上で、おれがへびのぬけがらを見つけて、持ってったとき、おまえ、なんていったい。手でへびのぬけがらをさわるくらい、おそろしい不幸をまねくことはないといったじゃないか。ところが、こんなのが、おまえのいう不幸かい。おれたちはこんなにいろんなものをかきあつめてきたうえ、八ドルももうけだしゃないか。こんな不幸なら、おれ、まい日あってもいいぜ、ジム。」
「なんだって、ぼっちゃん、なんだって。あんまりよろこびなさるでねえ。そのうちに、くるだよ。おらあのいったこと、おぼえてなさるがいい、いまにくるだ。」
 不幸は、ほんとうにやってきた。この話をしたのは、火曜日だった。ところで、金曜日のひるめしのあと、わたしたちは、山の背のてっぺんにねころんで、タバコをとりだした。わたしは、もうすこしタバコをとってこようと思って、ほらあなへいくと、そこにがらがらへびがいた。わたしは、それをころしてしまってから、いかにも生きているようにとぐろをまかせて、ジムの毛布のすそのほうにおいた。ジムがこいつを見つけたときは、さぞおもしろいだろうと思ったからだ。ところが、夜になると、わたしはへびのことをすっかりわすれてしまっていた。わたしがあかりをつけていると、ジムは、その毛布の上にどんとねころんだ。するとそこに、ころされたへびのおかみさんだが亭主だかがきていて、ジムをかんだのだ。
 ジムは、わめき声をあげて、とびあがった。どくへびがとぐろをまいて、いまにも第二の攻撃にうつろうとしているのが、あかりでまっさきに見えた。その瞬間、わたしはぼうでへびをたたきのめした。ジムは、おやじのウイスキーのびんをつかんで、がぶがぶとのみはじめた。
 ジムは、はだしだったので、かかとのまんなかをへびにかまれたのだ。みんな、わたしのばかからおこったことだ。死んだへびをなけておくと、どこへでも、かならず死んだへびのつれあいがやってきて、そのまわりにとぐろをまいているものだということを、わたしはわすれていたのだ。ジムは、へびの首をちょんぎって、とおくへなげてくれといった。それから、へびの皮をむいて、その身を一きれやいてくれといった。わたしがいわれたとおりにしてやると、ジムは、それを食って、これは、へびのどくをけすのに役にたつのだといった。ジムは、また、がらがら鳴るへびのしっぽをわたしにきりとらせて、それを手首にまきつけさせた。ジムは、それも役にたつのだといった。わたしは、こっそりとほらあなからぬけだして、へびをずっととおくのやぶのなかになげてやった。なろうことなら、それがみんなわたしのばかさからおこったことだということを、ジムに知らせたくなかったのだ。
 ジムは、ぐいぐいウイスキーをあおったので、ときどき、頭がへんになって、あばれまわったり、わめきたてたりした。だが、正気にかえるたびに、ウイスキーをのんだ。足は、大きくふくれあがり、すねもおなじようにふくれてきた。だが、そのうちに、ウイスキーのききめがあらわれてきたので、このぶんなら、ジムはだいじょうぶだ、とわたしは思った。しかし、わたしなら、おやじのウイスキーにやられるよりは、へびにかまれたほうがましだ、と思った。
 ジムは、四日四晩《よっかよばん》ねていた。すると、すっかりはれ[#「はれ」に傍点]がひいて、またもとどおりげんきになった。わたしは、もう二度とへびのぬけがらに手をふれまいとこころをきめた。その結果がどんなにおそろしいか、もうわかったからだ。ジムは、こんどはあんたも、おれのいうことを信用すると思うだ、といった。そして、へびのぬけがらをいじくると、とほうもなくおそろしい不幸をまねくのだから、おれたちには、へびのぬけがらのたたりがまだつづくかもしれない、といった。へびのぬけがらを手にとるぐらいなら、新月を左のかたごしに千べんでも見るともいった。そういわれると、わたしもそんな気がしてきた。それまで、わたしは、新月を左のかたごしに見るなんてことは、まったく不注意きわまる、ばかげきったことで、けっしてしてはならないことだと考えていたのだった。なんでも、ハンク=バンカーじいさんは、新月を左のかたごしに見たことがあるといって、じまんしていたということだ。ところが、それから二年とたたないうちに、よっぱらって、玉つくりの高い塔からおっこちて、じいさんは、せんべいのようにぺしゃんこにつぶれてしまった。それで、棺おけにおさめるかわりに、二まいの戸板にはさんでほうむったということだ。だが、わたしは、それを自分の目で見たわけではない。おやじからそうきいたのだ。とにかく、それは、ばかもののように、左のかたごしに新月を見たためにおこったことなのだ。
 さて、いく日がたつうちに、水はひいて、川はまた岸と岸とのあいだをながれるようになった。そこで、まずわたしたちがかかったことは、あの大きなつり針に、皮をむいたうさぎのえさをつけて、それをしかけ、人間のように大きななまずをとったことだ。長さが六フィート二インチで、おもさは二百ポンド以上もあった。もちろん、わたしたちには、それをとっておさえることはできなかった。いや、なまずイリノイがわの岸へはねとばされたかもしれないくらいだ。わたしたちは、そこにすわったまま、なまずが、あばれまわって、死ぬまで待っていた。なまずの胃からは、しんちゅうのボタンやまるい玉や、いろいろながらくたがでてきた。その玉を、おのでわってみると、なかには糸巻きがはいっていた。ジムは、こんなに皮がかぶさって、玉になっているのだから、この糸巻きは、ずいぶん長いあいだ、なまずのはらにはいっていたのだといった。わたしは、これまでミシシッピ川で、こんなに大きななまずがとれたことはあるまいと思った。ジムも、これより大きななまずを見たことがない、といった。川むこうの村へ持っていけば、たいへんな金になることだろう。村の市場では、こういう大きなさかなは、一ポンドいくらできり売りするのだ、みんなが、すこしずつ買っていく、なまずの肉は、雪のように白くて、フライにするとうまいのだ。
 つぎの日、わたしは、たいくつで、おもしろくなくなったので、ジムになにかぱっとめさきのかわったことをしたいものだといった。そっと川をわたっていって、むこうのようすをさぐってこようかといってみた。その思いつきは、ジムの気に入ったが、ジムは、暗くなってから、よく気をつけていかなければだめだ、といった。それから、ジムは、いろいろと考えていたが、あんたあの古服をきて、女の子にばけられないかといった。それも、いい思いつきだ。そこで、キャラコのガウンのすそを、みじかくつめ、わたしは、ズボンのすそをひざまでめくりあげて、それをきた。ジムは、そのうしろをぐっとつまみあげて、ホックでとめてくれたので、ガウンは、かっこうよくわたしのからだにあった。わたしは、つばの広い女の子の夏帽子をかぶって、あごの下でひもをむすんだので、だれかわたしの顔をのぞいてみようとしたところで、えんとつのつぎめから下をのぞくようにまっ暗だった。ジムは、ひるまでも、あんただということがだれにもわかるまいといった。わたしは、一日じゅう女の服をきるこつをおぼえる練習をしたので、しまいに、なかなかじょうずにきこなせるようになった。しかし、ジムは歩きかたが、女の子らしくないといった。それから、ズボンのポケットに手を入れるために、ガウンをたくしあげるのをやめなければだめだ、といった。わたしは気をつけたので、いっそううまくきこなせるようになった。
 暗くなるとすぐ、わたしは、カヌーにのって、イリノイがわの岸にそってこぎのぼった。
 わたしは、渡し船の船着場のすこし下から、町にむかって川をよこぎりだした。そして、ながれにおしながされて、町の下はずれについた。わたしは、カヌーをつないでから、川岸にそって歩きだした。長いあいだあき家になっていたほったて小屋に、あかりがついていた。わたしは、だれがすみついたのだろう、とふしぎに思った。だから、こっそりとしのびよっていって、窓からのぞいてみた。四十歳ぐらいの女がひとり、松板《まついた》のテーブルにろうそくを立てて、そのそばで、あみものをしていた。見おぼえのない顔だ。よそものなのだ。わたしの知らない顔が、この町にある気づかいがないのだ。見も知らない女にあうなんてもっけのさいわいだった。みんながわたしの声をおぼえていて、見やぶられるかもしれないので、わたしは、ここまでやってはきたものの、心配になり、へこたれかけていたからだ。もしこの女が、このちいさな町に二日もいるのなら、わたしが知りたいことを、みんなおしえてくれるかもしれないのだ。そこで、わたしは、戸をたたいた。だが、自分が女の子だということをわすれまいと決心《けっしん》した。
        11 ハック、女の子になる
「おはいり」と、女がいったので、わたしは、なかにはいった。「おかけ。」
 わたしは、いすにこしをおろした。女は、つやのあるちいさな目で、わたしを見まもって、いった。 「おまえさんの名まえは、なんていうの。」
「サラ=ウィリアムズといいますの。」
「どこにすんでいるの。この近くかい。」
「いいえ。ホーカービルですの、七マイル下の。ずっと歩いてきたんで、あたし、すっかりくたびれてしまいましたわ。」
「それじゃ、おなかもすいているだろう。なにかあげようね。」
「いいえ、おかみさん、おなかは、すいてませんわ。とてもぺこぺこになりましたから、二マイル川下のお百姓さんで、ごちそうになってきたんですもの。もう、すいてませんわ。だから、こんなに、おそくなったんですの。おかあさんが病気でねているのですけど、お金もなにもないでしょう。それであたし、アブナー=モーアおじさんに知らせにきたんです。おかあさんの話だと、おじさんは、この町の上のほうにすんでるってことですの。おかみさんは、おじさんのことを知りません?」
「知らないよ、まだ、だれも知らないんだよ。ここにきてから、二週間にもならないんだからね。町の上のはずれまでは、まだまだとおいよ。今晩は、ここにとまっていったほうがいいよ。さあ、帽子をおとり。」
「いいえ。すこしやすませていただいたら、あたし、でかけようと思いますわ。暗くてもこわくありませんもの。」
 女は、あんたをひとりではやれないが、そのうち、一時間半もしたら、夫がかえってくるから、おくらせてあげようといった。それから、彼女は、夫のことや、川上の親類のことや川下の親類のことを話しはじめた。むかしは、もっといいくらしをしていたということも話した。だから、そのままそっとしていればいいのに、この町にきて、大しくじりをしたということも話した――そして、それからそれへと話しつづけるので、しまいに、わたしは、町のようすをさぐろうとして、こんな家にはいりこんで、とんでもないしくじりをしたと思った。
 だが、そのうちに、彼女の話は、おやじや殺人事件のことにおちていったので、わたしは、すっかりよろこんで、彼女のおしゃべりをつづけさせた。彼女は、わたしとトム=ソーヤーが一万二千ドル(ただし、彼女は、それを二万ドルにふやした)見つけたことや、おやじのことを、なにもかものこらずしゃべりたてた。そして、おやじがどんなにやくざものであったか、そして、またハックもどんなにやくざものであったかということを話してから、いよいよ話は、わたしがころされるところまですすんできた。わたしはいった。
「だれがころしたのかしら? その人ごろしの話は、ホーカービルでもずいぶんききましたけど、だれがハックをころしたのか、まだわかっていませんの。」
「そうだろうとも。だれがハックをころしたか知りたがっている人は、世間にはずいぶんあるんだよ。おとっつぁんのワインが、ハックをころしたんだっていってる人もいるよ。」
「まさか――そうかしら?」
「たいていの人は、最初は、そう考えたんだよ。あの人は知るまいが、もうすこしで、私刑《リンチ》になるところだったよ。でも夜にならないうちに、みんなの考えがかわって、ジムというにげた黒人どれいがころしたことになったのさ。」
「どうして彼が――」
 わたしは、口をつぐんだ。だまっていたほうがいいと思ったのだ。彼女は、わたしが口をさんだことなど、まったく気がつかないで、話しつづけた。
「その黒人はね、ハック=フィンがころされたその晩に、いなくなったんだよ。だから、その黒人に、賞金がかかっているのさ――三百ドルだよ。それから、おとっつぁんのフィンにも賞金がかかっていてね――これは、二百ドル。あのおとっつぁんはね、人ごろしのあったつぎの朝、町にきて、その話をして、それからみんなといっしょに渡し船にのってさ、死体をさがしにいったんだけど、それがすむとすぐ、さっさとどこかへいってしまったのさ。みんなは、夜にならないうちに、その人を私刑にかけようとしてたんだけどね、ところが、つぎの日、その黒人が、いなくなってたのがわかったんだよ。人ごろしのあった晩の十時から見えなくなったんだってさ。それでね、みんなは人ごろしを、その黒人におしつけたんだよ。そして、そんなさわぎでごったがえしているところに、つぎの日、ハックのおとっつぁんがかえってきてさ、判事のサッチャーさんとこへいって、わあわあなきさわいで、イリノイじゅうその黒人をさがすから、お金をくれっていったんだって。判事さんがいくらかやると、その晩よっぱらって、とても人相のよくないふたりのよそものと、夜中すぎまでうろつきまわっていたけど、そいつらとどこかへいってしまったんだよ。そしてね、それっきりかえってこないもんだから、みんなはこのさわぎのほとぼりがすこしさめるまではきっとかえってこないだろうと思っているのさ。どうしてかっていうと、みんなはあの男が自分でむすこをころしておきながら、強盗がころしたようにしくみ、訴訟で長いあいだいざこざしないで、ハックのお金を手に入れようとしているんだ、と思ってるからだよ。あの男なら、そんなこともしかねないって、だれでもいってるよ。ほんとにずるい人だよ。一年間かえってこなきゃ、なにもかもうまくいくんだからね。だれも、しょうこをあげられないんだもの、一年たてば、なにもかもおさまるんだからね。そして、あの人は、やすやすとハックのお金をもらえることになるんだものね。」
「ええ、あたしも、そう思いますわ、おかみさん、そういうやりかたなら、うまくいきそうですもの。そいで、その黒人がころしたと思ってる人は、ひとりもいなくなりましたの。」
「どうして、どうして、そんなわけにはいかないよ。黒人がころしたと思っている人は、ずいぶんおおぜいいるよ。そのうちにそいつをつかまえて、おどかして、いやでもおうでもどろをはかせることになるかもしれないよ。」
「そいじや、まだ黒人をさがしているんですの。」
「おやおや、あんたは、ほんとに罪がないわね。だれにでもひろえる、三百ドルという大金が、年じゅうごろごろころかっているものかい。人によっちゃ、そいつは、まだそうとおくまでいっていないと思っているんだよ。わたしも、そのひとりさ――でも、わたしは、そうはいいふらしはしないよ。二、三日まえだがね、このとなりべやにすんでいる年より夫婦と話してたら、あの人たちが、ひょいというじゃないか。ほら、むこうのジャクソン島という島には、まだだれもいってみないようだって。そいでね、わたしは、あの島にだれもすんでいないのかときいたんだよ。すると、そう、だれもすんでいないっていうんだよ。わたしは、もうなにもいわなかったけど、ちょっと考えたんだよ。一日二日まえのことだけど、島のとっぱなのあたりから、けむりがたちのぼっているのが、たしかに見えたような気がしたんだよ。
 だから、わたし、きっと黒人があの島にかくれているのだ、と思ったのさ。ともかく、さがしてみるねうちはあると思ったのだよ。それから、一度もけむりは見えないから、あれがその黒人なら、もういってしまったのかもしれないけどさ、でも、うちの人が、これから見にいくところなんだよ――なかまとふたりでね。うちの人は、川上にいってたんだけど、きょうかえってきたんで、かえってくるとすぐ、わたしはその話をしてやったんだよ。二時間ばかりまえにさ。」
 わたしは、心配で、じっとしていられなくなった。なにか手でいじりまわさないではいられなかった。だから、わたしは、テーブルの上から針をとって、糸を通そうとした。手がふるえて、うまく通せなかった。女がおしゃべりをやめたので、顔をあげると、彼女は、いかにもおかしそうに、すこしわらいをふくんで、わたしを見ていた。わたしは、針と糸をおいて、彼女の話がおもしろかったようなふりをした――ほんとうにおもしろかったのだが――わたしはいった。
「三百ドルとは、大金ですわね、おかみさんがもらえたらいいのに。だんなさんは、今晩島にいくんですの。」
「ああ、そうだよ。さっきいったなかまとね。ボートをかりたり、鉄砲がもう一ちょうかりられるかどうか、さがしに、川上にいっているんだよ。夜中すぎには、あの島へいくにちがいないよ。」
「夜が明けるまで待っていたら、なおよくさがせるんじゃありません。」
「とんでもない。そんなことしたら、あいてのほうからも、よく見えるじゃないかい。夜中すぎなら、たいてい黒人もねているだろうしさ。こっそり森のなかを歩きまわっているうちに、暗いから、なおよくたき火が見つかるんじゃないのかい。そいつが、たき火をしているとすりゃね。」
「あたし、そうとは気がつかなかったんですの。」
 女は、いかにもおかしそうにわたしを見まもっているので、わたしは、なんとなくいごこちがわるくなった。じきに、彼女がいった。
「おまえさんの名は、なんていったっけね。」
「メ、メアリー=ウィリアムズですわ。」
 なんだか、まえにはメアリーといわなかったような気がした。わたしは顔をあげられなかった――サラといったような気がするのだ。わたしは、うごきがとれなくなった。そして、それが顔にでていないだろうかと気になった。女がなにかいってくれたらなあと思った。彼女がだまっていればいるほど、わたしは、おちつけなくなってきた。ちょうどそのとき、女がいった。
「おまえさん、はじめにはいってきたとき、サラといわなかったかい。」
「ええ、そうですわ、おかみさん、あたし、そういいましたわ。サラ=メアリー=ウィリアムズといいますの。サラというのは、あたしの洗礼名なんですの。サラとよぶ人もありますし、メアリーという人もありますわ。」
「おや、そういうわけだったのかい。」
「そうですわ、おかみさん。」
 それで、わたしは、すこし気がらくになったが、とにかく、ここからはやくでたいと思った。わたしは、まだ顔もあげられないのだ。
 ところで、彼女は、またおしゃべりをはじめた。世のなかがどんなに不景気だとか、どんなにびんぼうしてくらしているとか、ここでは、ねずみがまるで自分の家ででもあるかのように、気ままかってにあばれまわっているとか、そのようなことを話しつづけたので、わたしもまた気がかるくなった。ねずみは、彼女のいうとおりだった。へやのすみのあなから、ひっきりなしに、ちょろ、ちょろっとはなをつきだすのだ。ひとりのときは、なにかねずみにぶっつけるものを手近においとかないと、やすまるひまもない、と彼女はいった。鉛のぼうをねじってむすんでまるめたものを見せて、いつもはうまくぶっつけられるのだが、二日まえにうでをくじいてしまっているから、きょうは、ねらったとおりぶっつけられるかどうかわからない、といった。だが、彼女は、機会をねらって、いきなりそれをねずみにたたきつけた。だが、それは、ひどくねらいがはずれたばかりか、「あ、いたっ!」と、彼女がいった。ひどくうでにひびいたのだ。それから、こんどはあんたがやってごらんなさい、とわたしにいった。わたしは、ここのおやじさんがかえってこないうちにでていきたいと思っていたが、もちろん、そんなそぶりは見せなかった。わたしは、鉛のかたまりをとって、まっさきにはなをだしたねずみめがけてたたきつけた。ねずみがそこにじっとしていたら、こっぴどくやられたにちがいなかった。女はとてもうまい、このつぎはしとめられると思う、といった。彼女は、立っていって、鉛のかたまりをひろってきてくれたが、それといっしょに、糸を一たば持ってきた。わたしにまくのをてつだわせようというのだ。わたしが両手をあげると、彼女は、糸のたばをわたしの手にかけた。それから、彼女自身のことや夫のことを話しだした。だが、彼女は、きゅうにその話をやめて、いった。
「ねずみから目をはなすんじゃないよ、鉛は、ひざの上においたほうがいいんだよ。すぐとれるようにね。」
 そういったかと思うと、彼女は、鉛のかたまりをわたしのひざにおとしたので、わたしは、両ひざをあわせて、その上に鉛のかたまりをうけとめた。彼女は、おしゃべりをつづけていた。だが、一分ぐらいで口をつぐんでしまった。それから、糸をはずし、わたしをまっこうから見つめて、いかにもおもしろそうに、いった。
「さあ、おまえさんの名、ほんとは、なんていうんだい。」
「な、なんですって、おかみさん。」
「ほんとうの名は、なんていうのだい。ビルかい、トムかい、ボブかい――でなきゃ、なんていうのさ。」
 わたしは、木の葉のようにふるえていたにちがいなかった。どうしたらいいのか、まるでわからなくなってしまったのだ。だが、わたしは、いった。
「どうぞ、あたしみたいなかわいそうな女の子をからかわないでください、おかみさん。あたしがここにいておじゃまになるんなら、あたし――」
「なあに、じゃまでもなんでもないよ。そこにすわっておいで。わたしはね、あんたをひどいめにあわせようとも、密告しようとも思っちゃいないんだからさ。あんたのひみつを、正直にお話し。わたしを信用してさ。わたしは、ひみつをまもってあげるばかりか、あんたをたすけてもあげるよ。あんたがたすけてほしいなら、うちの人だってたすけてくれるわよ。あんたは、にげてきた奉公人だっていうだけじゃないの。そんなこと、なんでもありゃしないわ。ちっともわるいことじゃないわ。おまえさんは、ひどいあつかいをうけたんで、にげる決心をしたんだね。ほんとに、密告なんかしやしないよ。さあ、すっかりお話し、いい子だからね。」
 そこで、わたしは、これいじょう女の子のふりをしていても、もう役にもたたないのだから、すっかり白状して、なにもかも話すから、あなたも約束を反古にしないでくれとたのんだ。それから、わたしは、こんな話をした――おやじもおふくろも死んでしまったので、わたしは、法律の年季契約で、この川から三十マイルもおくにひっこんだいなかの、いやしい老農夫のところに奉公にやられたのだが、その老農夫が、とてもひどくするので、わたしは、このうえしんぼうしきれなくなったのだ。ところが、老農夫が二日家をあけたので、わたしは、このときとばかり、娘の古い服をぬすんで、にげだし、三晩でここまで三十マイルやってきたのだ。わたしは、夜だけ歩いて、ひるまは、かくれてねむってきた。そのうえ、家からパンと肉のはいったふくろを持ちだしてきたので、それでここまでもちこたえられた、と、そんな話をした。それから、わたしは、アブナー=モーアおじさんは、きっとわたしをみてくれると思うから、このゴーシェンの町をめざしてやってきたのだといった。
「ゴーシェンだって、おまえさん? ここはゴーシェンじゃないよ。ここは、セント=ピータースバークだよ。ゴーシェンなら、ここから十マイルも川上だよ、ここがゴーシェンだなんて、だれがおまえさんにおしえたんだい。」
「だれって、けさ夜明けにあった男です。いつものようにねむるため、森んなかにはいろうとしていると、ちょうどそのときであったんです。道が二つにわかれたら、右のほうにいくがいい、そうすれば、五マイルでゴーシェンにつくっておしえてくれたんです。」
「よっぱらっていたんだね、その人は。おまえさんは、まるっきりうそをきかされたんだよ。」
「そういえば、よっぱらってるようなかっこうをしてだけれど、でも、そんなこと、もうどうだってかまいません。ぼく、夜明けまえに、ゴーシェンにつきたいんです。」
「ちょっとお待ち、おべんとうをこしらえてあげるから。持っていったほうがいいよ。」
 彼女は、わたしにべんとうをこしらえてくれてから、いった。
「いいかい、牛がねているとき、まえとうしろと、どちらからさきに立ちあがるんだい。さあ、はやくこたえるんだよ――だまって考えてないでさ。どっちの足から立ちあがる。」
「うしろ足からです、おかみさん。」
「そう、そいじゃ、馬は。」
「まえ足からです。おかみさん。」
「こけは、木のどっちがわにはえるかい。」
「北がわです。」
「もし十五頭の牛が、山のはらで草を食っていたとしたら、そのうちなん頭が、おなじほうに頭をむけて食っている。」
「十五頭ぜんぶです、おかみさん。」
「そのとおりだよ、おまえさんは、いなかでくらしていたにちがいないよ。わたしはね、おまえさんが、またわたしをだまそうとしているんじゃないかと思ったのだよ。さあ、おまえさんのほんとうの名は、なんていうの。」
「ジョージ=ピーターズてんです。おかみさん。」
「そうかい、わすれるんじゃないよ、ジョージ。ここをたつまえにわすれてしまって、エレグザンダーだなんていって、それで、しっぽをつかまれると、じつは、ジョージ=エレグザンダーというんです、なんていいぬけをするようじゃだめだよ。そんな古ぼけたキャラコのきものなんかきて、女の人のそばへ近よるんじゃないよ。女の子のふりなんかしたって、まるで、なってないんだからね。でも、あいてが男ならだませるかもしれないがね。それに、おまえ、針に糸を通すときにだってさ。糸をじっと持っていて、そっちへ針を持っていくもんじゃないよ。針をじっと持っていて、それに糸を通すようにするもんだよ。女なら、たいていそうするんだが、男は、いつもぎゃくなことをするものさ。それから、ねずみかなにかにものをぶっつけるときは、つま立ちになって、ぐっとのびあがって、手を頭の上から、いかにも不器用に持っていって、ねずみから六、七フィートもけんとうちがいのところにぶつけるもんだよ。かたを使って、うでをぎこちなくつっぱらかして、ほうるもんだよ、女の子らしくね。男の子のように、うでをよこに持っていって、手首とひじでなげるんじゃないよ。それから、いいかい、女の子なら、ひざの上でなにかをうけようとするときには、ひざをひらくものさ、おまえさんが鉛のかたまりをうけたときのように、ひざをくっつけはしないよ。いいかね。わたしは、おまえさんが、針に糸を通そうとしたとき、男の子だってことをかぎつけたんだよ。そして、それをたしかめるために、いろんなことをやらせてみたのさ。さあ、おまえさんのおじさんとこに、いそいでおいき、サラ=メアリー=ウィリアムズ=ジョージ=エレグザンダー=ピーターズさん。もし、こまったことがおこったら、ユーディス=ロフタス夫人にそういっておよこし、それがわたしだからね。できるだけのことをして、たすけてあげるよ。ずっと川づたいの道をいくんだよ。こんど歩いて旅行するときは、くつとくつしたを持っていくんだね、川づたいの道は、岩だらけだから。ゴーシェンについたら、足はひどいことになっているかもしれないよ。」
 わたしは、川岸を五十ヤードばかりのぼっていってから、またその道をぎゃくもどりし、カヌーのあるところに、こっそりかえった。そこは、女の家からかなり川下だった。わたしはカヌーにとびのると、大いそぎでこぎだした。ちょうど島の突端へこぎよせるのにつごうのいいところまでさかのぼって、それから、わたしは、川をよこぎりはじめた。もう顔をかくしているにはおよばなかったから、夏帽子をぬいだ。川のまんなか近くにこぎでたとき、時計が鳴りだすのがきこえたので、わたしは手をやすめて、耳をすました。時計の音は、川づらをわたって、かすかではあるが、はっきりときこえてきた――十一時だ。島につくと、息がきれかかっていたが、わたしは、息をつくひまもなく、すぐに森のなかにはいりこみ、まえに野宿していたところへいった。そして、そこの、小高い、かわいた場所に、あかあかと火をたいた。
 それから、わたしは、カヌーにとびのって、わたしたちの居場所まで一マイル半、死にものぐるいになってカヌーをこいだ。そして、岸にあがると、森のなかを、ぬかるみなどおかまいなしにつきすすんで、山の背にのぼり、ほらあなにとびこんだ。ジムは、ねていた。地べたに、ぐっすりとねこんでいるのだ。わたしは、ジムをたたきおこして、いった。
「おきて、てきぱきうごくんだ、ジム、一分間をあらそうんだ。おっ手がくるぞ。」
 ジムは、なにもたずねなかったし、ひとことも口をきかなかった。だが、それから半時間のはたらきかたで、ジムが、どんなにこわがっていたかがわかった。その半時間のあいだに、わたしたちは、持っているものはなにひとつのこさずいかだにつみこみ、いかだを、かくしておいたやなぎにおおわれた入《い》り江《え》から、いつでもおしだせるように用意をした。わたしたちは、まずほらあなのたき火をけし、それからあとは、ろうそくの火を外にもらさないようにした。
 わたしは、カヌーを岸からすこしこぎだして、あたりをながめてみた。だが、あたりにボートがいたにしても、見えるはずはなかった。おぼろな星あかりで、とても見わけがつかなかったからだ。そこで、わたしたちは、いかだをおしだして、そっと、木かげをぬって川をくだり、息をころして、島じりを通りすぎた――ひとことも、ものをいわずに。
         12 逃亡《とうぼう》――難破船《なんぱせん》
 もう午前一時近くにちがいなかった。わたしたちは、ようやく島のではずれまで川をくだったが、いかだのすすみかたは、ひどく、のろいように思われた。もし、ボートがやってきたら、わたしたちは、カヌーにのって、イリノイの岸ににげることにしていた。だが、さいわい、ボートがおいかけてこなかったので、大だすかりだった。なぜかというと、わたしたちは、鉄砲と、つり糸と、食べものとをカヌーに入れておかなければいけないということを、まったくわすれていたからである。ひどくあわてていたので、そこまで考えがまわらなかったのだ。なにもかもいかだにのせておくというのは、いい考えではなかった。
 もしあの男が島へいったら、きっとわたしがたいた野宿のたき火を見つけて、そこで一晩じゅうジムがもどってくるのを見はっているだろう、とわたしは思った。とにかく、彼らは、わたしたちの近くにはあらわれなかった。わたしのたいておいたたき火が、彼らをだませなかったとしても、それは、わたしのせいではないのだ。わたしは彼らに、いちばんやすっぽいてをもちいたのだ。
 夜が白みはじめるとすぐ、わたしたちは、イリノイがわへ大きくまがりこんでいるところにある砂州にいかだをつないだ。それから、おので、はこやなぎの枝をきって、それをいかだの上にかぶせた。すると、そこだけ川岸《かわぎし》にがけくずれができているように見えた。このへんで砂州というのは、ながれてきた砂がたまって、その上に、はこやなぎがまぐわ[#「まぐわ」に傍点]の歯のように密生した場所のことだ。
 ミズーリ州がわの岸には、山があり、イリノイ州がわの岸は、ふかい大森林になっていた。そして、そのへんでは、水路がミズーリ州がわの岸にそってながれているので、わたしたちは、一日じゅうそこにかくれていて、ミズーリ州がわの岸ぞいにくだっていくいかだだの蒸気船や大河のながれにさからって、中流をさかのぼっていく、のぼり蒸気船をながめてくらした。わたしは、あの女とおしゃべりをしたときのことを、みんなジムに話した。すると、ジムは、ぬけめのねえ女だ、その女が自分でおっかけてきたら、じっとして、野宿のたき火など見はってねえだよ――きっと、犬をつれてくるにきまっているだから、といった。そこで、わたしは、どうして、その女はおやじさんに犬をつれていくようにいわなかったのだろうといいかえした。すると、ジムは、きっとその女は、男どもがでかけるまぎわになって、犬のことを考えついたのだ。それで、彼らは犬をかりに町の上のほうまで、いかなければならなかったので、時間が、うんとおくれちまったのにちがいない。そうでなかったら、おれたちは、村から十六、七マイルも川下の、この砂州にきていられなかったろう――そうだ、まちがいなく、おれたちはまたもとの町につれもどされていたにちがいない、といった。そこでわたしは、彼らがおいつかないかぎり、おいつかない理由など、どうだってかまわないんだといった。
 暗くなりだしたとき、わたしたちは、はこやなぎのしげみから頭をつきだして、川上や川下や、それから、川むこうを見わたしたが、なにも見えなかった。そこで、ジムはいかだの上がわの板をなんまいかぬきとって、いごこちのいい小屋をいかだの上につくった。やけつくようにあつい日や雨の日に、はいっているためだ。しかも持ちものをぬらさないですむからだ。ジムは、その小屋に、いかだの表面より一フィートあまり高い床をつくった。だから、もう蒸気船の波がおしよせてきても、毛布にも波がかからなくなった。またわたしたちは、小屋のまんなかに五、六インチ土をもって、それがくずれないように、そのまわりをわくでかこった。じめじめする日や、さむい日に、たき火をするためだ。小屋のなかなので、たき火をしても、外からは見えるはずがないのだ。また、かじをとるかい[#「かい」に傍点]も一本、予備にこしらえた。一本ぐらい、川のなかのたおれ木などにひっかかって、おれるかもしれないからだ。古カンテラをぶらさげておく、みじかいまた木も立てた。蒸気船がくだってきたら、いつでもそれにあかりをつけて、いかだにのりかけられないようにするためだ。だが、のぼりの蒸気船には、〈川のおちあい〉でいきちがったときでなければ、あかりをつけなくてもよかった。川水がまだまだ高くて、ごくひくい川岸は、いまでも水につかっているので、のぼりの船は、いつも水路を通るとはきまっていないで、ながれのゆるいところをさがして、のぼっていくからである。
 この二日めの夜、わたしたちは、一時間四マイル以上のはやさのながれにのって、七、八時間くだった。わたしたちはさかなをとったり、話をしたり、またときどきおよいでは、ねむけをさましたりした。あおむけにねて星を見あげながら、しずかに大きな川をくだっていくのは、なんとなく気のひきしまるものだった。わたしたちは、大きな声で話しあう気には、どうしても、なれなかったし、めったに、大声でわらいもしなかった。わらうにしても、ほんの小声で、くすくすとわらうだけだった。だいたいからいうと、お天気もようはとてもよかったし、これという事故は一度もおこらなかった――その晩も、つぎの晩も、そのつぎの晩も。
 まい晩、わたしたちは、どこかの町を通りすぎたが、まっ暗な山腹にある町などは、まるで光の花園のように、きらきらとひかって見えた。家など、一けんも見えないのだ。五日めの夜、セント=ルイスの町を通ったが、明るいことといったら、全世界がぱっとかがやいているように見えた。セント=ピータースバークでの話だと、セント=ルイスには、二万から三万の人がすんでいるということだったが、わたしは、そのしずかな晩、午前二時だというのに、すばらしい光の海がひろがっているのを見るまでは、人びとの話を信じたことはなかった。町からは、もの音ひとつきこえず、みんなねしずまっていた。
 わたしは、そののち、まい晩十時ごろになると、そっとちいさい村にあがって、ひきわりとうもろこしか、ベーコンか、なにか食べものを、十セントから十五セントぐらい買うようにした。ときには、ちゃんとねぐらについていないにわとりのひなをくすねて、持ってかえることもあった。おやじはいつも、機会があったら、ひなをとっておくがいい、自分でいらなくても、ほしい人がいくらでもいる。善行はわすれられることなしだからな、といっていた。わたしは、おやじが自分でひなをほしがらないときなど、一度も見たことがなかったが、とにかく、おやじは、よくそういっていたものだ。
 朝、夜明けまえに、わたしは、とうもろこし畑にしのびこんで、すいかだとか、まくわうりだとか、かぼちゃだとか、実のいらないとうもろこしだとかいうようなものを、はいしゃくしてきた。おやじは、いつでも、いつかその代金をはらう気さえあれば、はいしゃくしてきてもかまわないといっていた。だが、後家さんは、はいしゃくするということは、ぬすむということのおだやかないいかたにすぎない。りっぱな人なら、そんなことはしないもんだといっていた。ジムは、後家さんもなかばただしく、おやじもなかばただしいと思うといった。だから、われわれのとるべき最良の方法は、たくさんの品物のなかから、二、三のものをえらびだして、その品じなはもう借用しないと宣言することである――そうすれば、そのほかの品物を借用することは、いっこうさしつかえないというのが、ジムの考えだった。そこで、わたしたちは川をくだりながら、一晩じゅう話しあって、すいかをやめるか、カンタロープ(メロンの一種)をやめるか、まくわうりをやめるか、それともなにかもっとほかのものをやめにするか、ちゃんときめておこうとした。そして、夜明け近くになってからやっと、話がまとまった。山りんごと柿をやめることにしたのだ。そうきめるまで、わたしたちは、気持ちがおちつかなかったが、しかし、そうきまると、すっかり気持ちがらくになった。そして、そうきまったことが、わたしには、うれしかった。山りんごはうまくないし、柿がじゅくするには、まだ二、三か月もまがあったからである。
 わたしたちは、朝、ばかっぱやくおきだしてきた水鳥や、夕がたいつまでもねぐらにかえっていかない水鳥を、ときどきうちおとした。だから、ぜんたいからみると、わたしたちは、なかなかぜいたくなくらしをしていたのである。
 セント=ルイスをすぎてから五日めの夜中すぎに、わたしたちは、大あらしにあった。かみなりが鳴り、いなずまがひかり、見えるかぎり、しのつく雨だった。わたしたちは、小屋のなかにはいって、いかだをながれにまかせた。いなびかりがさっとひかると、まえをまっすぐながれていく大川と、両岸の高い岩だらけのがけが、かっとてらしだされた。そのうちに、わたしがいった。「おーい、ジム、むこうを見ろ!」岩の上にのりかけて、蒸気船が難破しているのだ。そして、わたしたちは、それにむかって、まっすぐにながれていくのだ。いなびかりで、その蒸気船が、はっきり見えた。その船は、いっぽうへかたむいて、上甲板の一部を水面からのぞかせている。いなずまがひかるたびにえんとつをひっぱっているほそいくさりの一本一本から、大きなベルのそばにあるいすや、そのいすの背にぶらさがっている、つばのたれさがった古帽子などまで、手にとるように見えるのだった。
 さて、それは、夜ふけのことであり、あらしのなかのことでもあり、すべてが、ひどく神秘的な感じだったので、わたしは、難破船がたいそうものがなしげに、またさびしそうに、川のまんなかによこたわっているのを見ると、少年らしいふしぎな気持ちにとらえられた。そのうちに、わたしはその船にのりこんで、そっと、すこし歩きまわり、どんなものがそこにあるのか見たいと思うようになった。そこで、わたしはいった。
「あの船に、あがってみないかい、ジム。」
 だが、ジムは、最初は、頭から反対した。ジムは、いうのだ。
「おらあ、難破船など、うろうろ見物しにいきたかねえだよ。おれたちは、なに不足なくくらしてるだ。聖書にもかいてあるでねえか、『足《た》れるをもってよしとす』とね。あの難破船には、きっと番人がいるだよ。」
「番人だって! とんでもねえ。番をしてなきゃならないものなんて、上甲板の船室と水さき案内べやのほか、なんにもないじゃないか。あの上甲板の船室と水さき案内べやの番をするために、だれがこんな晩に、いのちがけで、あんなところにいるもんか。それにあの船は、いつなんどきこわれて、おしながされるかもわからないんだぜ。」
 ジムは、それには、なにもいうことがなかったので、だまっていた。
「おまけに」と、わたしはいった。「船長の寝室から、なにかいいものをしっけいしてこられるかもしれないぜ。タバコなら、きっとあるよ――現金で、一本五セントもするやつがさ。蒸気船の船長は、いつだって金持ちなんだ。月に六十ドルもとるんだよ。だから、やつらがほしいとなったら、金に糸めはつけないんだ。さあ、ろうそくを一本、ポケットにつっこんどけ。おれは、どうしたって、あの船のなかをひとさがししてこなきゃあ、気がすまないんだよ、ジム。トム=ソーヤーだったら、これを見のがすと思うかい。どんなことがあったって、見のがしゃしないぜ。そして、こういうのを冒険だっていばるんだ――いばるにきまっているよ。トムならそれがいのちがけのあぶないしごとだって、あの難破船にあがるにちがいないんだ。そのうえ、とても気どってみせたり――えらそうな顔をしたりすることだろうな。きっと、天国を発見したときの、クリストファー=コロンブスよろしくっていうかっこうにちがいないぜ。ああ、トム=ソーヤーがここにいてくれたらなあ。」
 ジムは、ちょっとぶつぶついっていたが、わたしのいうことにしたがった。だが、おれたちは、できるだけ口をきかないようにし、しゃべるときは、ごく小声でしゃべらなければならない、とジムはいった。いなびかりが、ちょうどいいときに、難破船をてらしだしてくれたので、わたしたちは、右舷のデリックのところにいかだをつけて、そこにしっかりとつないだ。
 そこの甲板は、水面から高くでていた。わたしたちは、かたむいた甲板をふんで、暗いなかを、左舷へむかって、上甲板船室のほうへと、そっとおりていった。なにしろまっ暗で、どこになにがあるのかまるでわからなかったので、そっと、足でさぐりながら、両手をひろげて、えんとつをひっぱっているほそいくさりをよけてすすんでいった。じきに天窓の前端につきあたったので、その上によじのぼった。そして一歩ふみだしたら、そこは船長室の戸口のまえだった。そのへやの戸があいていて、おどろいたことに、ずっとむこうの下のほうにあかりがついているのが、上甲板の船室を通して見えた。わたしたちは、はっとした。同時に、むこうのほうからひくい人の声がきこえてくるような気がした。
 ジムは、とても気持ちがわるくなってきたから、むこうへいこう、とわたしにささやいた。わたしもしょうちして、いかだにもどろうとした。だが、ちょうどそのとき、なき声でものをいうのがきこえてきた。
「ああ、おねがいだ、ころさないでくれ。けっして人にはしゃべらないから。」
 べつな声が大声でいった。
「うそだ、ジム=ターナー。まえにもそのて[#「て」に傍点]を使いやがったじゃねえか。きさまときたら、いつもわけまえ以上のものをよこせといっては、それをせしめてきたんだ。よこさなきゃ、ばらすとどくづきやかってな。だが、こんどもそのつもりでぬかしたんだろうが、ざま見やがれ。きさまみたいに、いやしくって、あてにならねえやつは、この国には、ほかにはねえぞ。」
 このとき、ジムは、もう、いかだのほうへ歩きだしていた。わたしは、好奇心をおさえきれなかった。トム=ソーヤーなら、いまさらしりごみはしまいと思った。だから、おれもしりごみなんかするもんか、どんなことがおこっているのか見とどけてやれと思った。そこで、わたしは、四つんばいになって、まっ暗やみのなかを、船尾のほうへはっていった。しまいに、わたしと上甲板船室の横廊下とのあいだには、船室が一つあるだけになった。すると、そこに、手と足をしばられた男がひとり、床の上にころがされていた。そのそばに、男がふたり立っていたが、ひとりはうす暗いカンテラを持ち、もうひとりは、ピストルをにぎって、その男を見おろしているのだ。ピストルをにぎっている男が床にころがされている男の頭に、ピストルをつきつけて、いった。
「おれは、こいつをやっちまいたいんだ。とうぜんやったってかまやしねえんだ――おい、このしみったれスカンクやろうめ!」
 床にころがされている男は、そのたびにちぢみあがって、いった。
「ああ、後生だ、ころさないでくれ。ビル。けっして、人にはしゃべらねえから。」
 その男が、そういうたびごとに、カンテラを持った男がわらっていった。
「たしかに、しゃべらねえだろうさ。きさまときたら、それよりほんとうのことをいったためしがねえんだからな。それだけは、まちがいっこなしだ。」
 それから、もう一度いった。
「こいつのおがみっぷりを見ろよ。おれたちが、こいつをやっつけて、しばってしまわなかったら、こいつは、おれたちふたりをころしていたにちがいねえんだ。それも、なんのためだ? まったく、なんの理由もなく、ただおれたちがおれたちの権利を主張したというだけで――たったそれだけの理由でだ。だが、きさまが、二度と人をおどかせねえことだけは、うけあいだよ、ジム=ターナー。ピストルをしまえよ、ビル。」
「いやだ、ジェーク=パッカード。おれは、こいつをころすほうに賛成なんだ――こいつは、ハットフィールドじじいを、まったくおなじ手ぐちでころしたじゃあねえか――こいつにだって、じゅうぶんころされるねうちがあるんだ。」
「だが、おれは、ころしたくねえのだ。それにはわけがあるんだ。」
「ああ、そういってくれるのはありがてえよ、ジェーク=パッカード。おれは、一生おまえの恩はわすれねえよ」
と、床の上の男が、べそをかきながらいった。
 パッカードは、そのことばに、耳もかさなかった。彼はカンテラをくぎにかけると、わたしのいるまっ暗なほうへやってきながら、ビルを手でまねいた。わたしは、できるだけすばやく二ヤードばかりあとにさがったが、船がひどくかたむいていたので、すばやくにげることはできなかった。だから、ふんづけられて、とっつかまらないように、わたしは上がわの専用室にはいりこんだ。パッカードは、暗やみのなかを手さぐりでやってきたが、わたしがいる専用室のところまでくると、
「ここだ――ここにはいれよ。」
 そういって、パッカードがはいってきた。つづいて、ビルがはいってきた。わたしは、彼らがはいってくるまえに、上のねだなにもぐりこんでいた。そして、すっかりおいつめられてしまったので、こんなところへこなければよかったと思った。ふたりは、そこに立ったまま、ねだなに手をかけながら、話しだした。すがたは見えないのだが、彼らがのんでいるウイスキーのにおいで、ふたりがどこにいるのかわかった。だからわたしは、自分がウイスキーをのんでいなくてよかったと思った。だが、のんでいようがいまいが、たいしたちがいはなかった。いつまでもこんなところにおいつめられたままで、息をせずにはいられないからだ。わたしは、しんそこからこわくなった。それに、息もはずませずに、こんな話をきいていられるものではない。彼らは、ひくい声だが、本気になって話しあっているのだ。ビルは、ターナーをころそうとしているのだ。
「あいつは、ばらすといってたから、きっとばらすよ。おれたちがいま、おれたちのわけまえをあいつにやったところで、どうにもなるものじゃねえ。けんかをして、あんなひどいめにあわせたあとだからさ。まちがいなく、あいつは、おかみの手をおれたちにむけてよこすにきまっている。きっとだよ。おれは、あんなやつは、やっかいばらいするほうに賛成なんだ。」
「おれも、不賛成じゃねえよ。」と、パッカードがおちつきはらって、いった。
「なあんだ、ばかばかしい。おれはまた、おめえは反対なのかと考えていたところなんだ。そうか、そいじゃ、それでいいんだ。いって、やっつけちまおうじゃねえか。」
「ちょっと待て。おれにも、いいたいことがある。いいかい。うつのもいい、だが、どうしてもやってしまわなきゃならないなら、もっとおだやかな方法があるのだ。おれは、こういいたいのだ――もしもだな、自分の身をきけんにさらさねえで、しかも、おなじようにうまく目的をたっする方法が、ほかにあるとしたら、なにも自分の首になわのかかるようなあぶない橋をわたるのはつまらねえ考えだ、そうじゃないか。」
「ちげえねえ、そのとおりだよ。だが、おめえ、こんなときに、どうしようというんだい。」
「うん、おれの考えではな――寝室をあらいざらいさがして、見おとしていた品物をすっかりかきあつめたら、岸にこいでいって、品物をかくすのだ。それから、この難破船がばらばらになってながれていくまで、待っているんだよ。それにはあと二時間とはかかりはしないよ。どうだ? やつは、おぼれて死ぬだけだ。だれのとが[#「とが」に傍点]にもなりはしない。やつをころすより、そのほうが、よっぽどましじゃねえか。おれは、なんとかころさないですむかぎり、人をころすことには不賛成なんだ。人をころすのは、ふんべつのたりねえことだし、いい習慣でもねえよ。そうじゃねえか?」
「うん、おめえのいうとおりだよ。だが、船が、こわれてながされていかなかったら、どうするんだ?」
「それもそうだ。だがとにかく、二時間待ってみたらどうだ。」
「それじゃ、そうするか。さあ、いこう。」
 彼らがでていったので、わたしは、ひや汗だらけになってねだなからぬけだした。そして船首のほうへはっていった。そこは、うるしのように暗かった。わたしは、かすれたような小声でよんだ。「ジム!」すると、すぐわたしのひじのところから、うめくようなジムのへんじがきこえてきた。わたしはいった。
「いそげ、ジム。ぐずぐずして、うめいているひまなどないぞ。むこうに、人ごろしどもがいるんだ。あいつらがこの難破船からにげだせないように、あいつらのボートをさがしてながしてやってしまわなきゃ、あいつらのなかまのひとりが、ひどいめにあうんだ。だが、あいつらのボートを見つけさえすれば、あいつらぜんぶに、ほえづらかかしてやることができるんだ――保安官が、あいつらをつかまえるだろうから。いそげ、大いそぎだ。おれは左舷をさがすから、おまえは、右舷をさがせ。いかだのところからはじめるんだ。そして――」
「おやっ! いかだは? いかだがねえだ。たいへんだ。綱がきれて、ながされてしまっただ。おれたちは、おいてきぼりくっただ。」
          13 わるものたちのいのち
 わたしは、息がつまって、気がとおくなりそうになった。人ごろしのなかまといっしょに、難破船にとじこめられようとは! だが、めそめそしているときではないのだ。もう、なんとしても、そのボートをさがさなければならないのだ――それを、自分たちのものにしなければならないのだ。そこで、わたしたちは、ぶるぶるふるえながら、左舷にそっとおりていったが、そのはかどらないことといったら――船尾にたどりつくのに、一週間もかかったような気がした。ボートなど、かげもかたちもなかった。ジムは、もう一歩も歩けそうもないといいだした――とてもこわくて、もう力もなにもぬけてしまった、といった。だが、さあ歩くんだ、こんな難破船の上においてきぼりくったら、たいへんなことになるぞ、とわたしはいった。そこで、また、うろうろと歩きだした。上甲板船室《じょうかんぱんせんしつ》の後部《こうぶ》をめざしてすすんでいくと、やっと、そこにでた。天窓のふちは、もう水につかっていた。わたしたちは、よろい戸からよろい戸へとぶらさがりながら、天窓の上をまえへまえへとすすんだ。横廊下のすぐそばまでいくと、はたして、そこに小舟があった。だが、あやうく見おとすところだった。わたしは、こんなにありがたいと思ったことはなかった。つぎの瞬間、わたしは、それにのろうとした。とたんに、戸があいて、ひとりの男が、わたしから二フィートばかりのところに頭をつきだした。わたしは、もうだめだとかんねんした。ところが、男がきゅうに頭をひっこめて、いった。
「そのカンテラを、見えないようにひっこめろ、ビル。」
 その男は、なにかはいったふくろをボートのなかになげこんでから、自分ものりこんできてすわった。パッカードだった。それから、ビルもでてきて、のりこんだ。パッカードが、ひくい声でいった。
「もういいぞ――こぎだせ。」
 わたしは、すっかり力がぬけて、もうこれ以上、よろい戸にぶらさがっていられそうもなかった。ビルがいった。
「待てよ――おめえ、あいつのからだをしらべてみたかい。」
「いや。おめえは?」
「しらべねえ。あいつは、まだわけまえの現金を持ってるはずだぜ。」
「そうか。そいじゃ、もどそう。品物だけ持ってって、現金をおいていくってて[#「て」に傍点]はねえからな。」
「な、おい、あいつは、おれらのやろうとしていることを感づいてるだろうか。」
「感づきはしめえ。だが、とにかく、現金はとってこなきゃ、さあ、いこう。」
 そこで、彼らは、ボートからあがって、船のなかにはいっていった。
 船がこちらがわにかたむいているので、戸は、パタンとしまった。半秒以内に、わたしは、ボートにのっていた。ジムも、わたしのあとからころげこんできた。わたしは、ナイフをだして、ロープをきった。わたしたちは、ながれだした。
 わたしたちは、かいに手をかけなかった。口もきかなければ、ささやきもしなかった。息さえころしていた。わたしたちは、死んだようにおしだまったまま、すごいはやさで、おしながされた。外輪のおおいのはしをすぎ、船首もすぎた。一、二秒もすると、わたしたちは、もう難破船から百ヤードも下にきていた。そして、難破船は、やみのなかにすいこまれて、かげもかたちも見えなくなってしまった。もう、だいじょうぶだった。わたしたちは、たすかったのだ。
 三、四百ヤードくだったとき、上甲板船室《じょうかんぱんせんしつ》の戸口で、カンテラが、ちいさな火《ひ》の粉《こ》のように、ちらりと見えた。悪漢どもが、ボートのないのに気がつき、自分たちも、もうジム=ターナーとおなじようなはめになったことがわかったのだと、わたしたちは思った。
 それから、ジムは、かいをにぎって、わたしたちの、いかだをおいはじめた。ところが、わたしは、このときになって、はじめて、悪漢どものことが、心配になりだした――いままでそんなゆとりがなかったのだ。たとえ人ごろしどもでも、こんなはめにおいこまれたら、どんなにおそろしいことだろうと考えはじめたのだ。わたし自身、いつか人ごろしにならないとはかぎらないのだ。そんなとき、こんなはめにあわされたらどうだろう。そこで、わたしは、ジムにいった。
「なあ、ジム、最初にあかりが見えたら、その百ヤード川上か川下の、おまえとボートがかくれているのにつごうのいいところに、ボートをつけようや。そうしたら、おれ、あがっていって、なにかうまい話をでっちあげてさ、だれかにいってもらって、あの人ごろしどもを、すくいだしてもらってやろうよ。そうすりゃ、あいつらは年貢のおさめどきがきて、首をしめられるまで生きていられらあな。」
 だが、この考えは、失敗におわった。じきにまた、あらしがおそってきたばかりか、こんどのあらしは、まえのよりひどかったからである。雨がそそぐようにふり、あかりは、一つも見えないのだ。みんなねてしまっているのだ、とわたしは思った。わたしたちは、目を見はって、あかりとわたしたちのいかだをさがしながら、すさまじいいきおいで川をくだっていった。だいぶたってから、雨はあがったが、雲がのこっていて、まだ、いなずまが、ぴかり、ぴかりとひかっていた。まもなく、いなずまのひらめきで、なにか黒いものが、わたしたちのさきをながれていくのが見えた。わたしたちは、それにむかってすすんでいった。
 それは、わたしたちのいかだだった。それにまたのったときのうれしさといったら、なかった。やがて川下の右岸に、あかりが一つ見つかった。だから、わたしはあそこへいこうといった。ボートは、あの難破船から人ごろしどもがぬすんだ品物で、半分ぐらいいっぱいになっていた。その品物をふたりで、さっさといかだにはこんで、すっかりつみこんでから、わたしは、ジムに、おまえは、いかだをながしていって、二マイルぐらいくだったらカンテラをつけて、わたしがいくまでつけっぱなしにしておいてくれ、とたのんだ。それからわたしは、ボートのオールをにぎって、川岸のあかりにむかってこぎだした。近づいてみると、さらに三つ四つのあかりが、山腹にひかっていた。村があるのだ。わたしは、岸のあかりの川上にボートをこぎよせてから、オールをあげて、ボートをながれにまかせた。わたしは、あかりのそばを通りすぎたが、それは、とても大きな渡し船の船首の旗ざおにぶらさがっているカンテラだった。わたしは、番人をさがしまわったが、どこでねむっているのかわからなかった。だが、そのうちに、やっこさんが、船首の繋柱《けいちゅう》の上にすわりこみ、頭を両ひざのあいだにつっこんで、ねむっているのを見つけた。わたしは、そのかたを二、三度そっとつついてから、なきだした。
 番人は、はっとしたように、目をさましたが、あいてがちいさな子どもだとわかると、大きなあくびとせのびをして、それからいった。
「おい、どうしたんだ。なくなよ、おい。どうしたのだ。」
「おとっつぁんと、おっかあと、妹と、それから――」
 そういって、わたしは、なきくずれた。
「おい、いったい、どうしたのだ。まあ、そんなになくなよ。おれたちはな、だれだって、ひどいめにあわなければならないんだ。おまえの不幸だって、そのうち、すっかりよくなるよ。おとっつぁんやおっかあが、どうしたというのだ。」
「みんなが――みんなが――あなたは、この船の番人なんてすか。」
「そうだよ」と、彼は、いかにもうれしそうなようすでいった。「おれはな、この船の船長で、持ち主で、水さき案内人で、運転手で、番人で、しかも船荷がかりの水夫というわけさ。そのうえ、ときによっては、荷物にもなれば、お客さんにもなるのだよ。おれはな、ジム=ホーンバックじいさんのような金持ちではないから、トムやディックやハリーに、あのじいさんのように気まえをよくしたり、金をばらまいてやるこたあできねえよ。だがな、おれは、じいさんになんどもいってやったもんさ、あんたと身分をとりかえるのは、まっぴらだって。なぜって、船のりのくらしが、おれの性にぴったりとあってるからだ。それに、町から二マイルもはなれた、なにひとつおもしれえことのねえところに、だれがすむものか、おまえさんの金をぜんぶくれたって、その身代を倍にしてくれたって、ごめんこうむる、とおれはいってやったのだよ。それから――」
 わたしは、それをさえぎって、いった。
「みんなは、もうひと息という、あぶないせとぎわに立っているんです。そして――」
「だれがだ?」
「だれかって、おとっつぁんとおっかあと妹と、それから、フッカー嬢がです。あなたがもし、この渡し船をだして、あそこまでのぼってくだされば――」
「川上のどこだい。みんなは、どこにいるのだ。」
「難破船にいるんです。」
「どんな難破船だい。」
「どんなって、難破船は一そうしかありません。」
「なに、おまえは、ウォルター=スコット号のことをいってるのじゃあるまいな。」
「そうです、その船です。」
「えっ! いったいまあ、そのれんじゅうは、あんなところでなにをしているのだい。」
「なにもみんな、わざわざいったんじゃありませんよ。」
「そりゃそうだろうとも。たいへんだ。はやくにげださねえと、みんないのちがないぞ。いったいぜんたい、なんだって、そんなはめ[#「はめ」に傍点]になっちまったのだ。」
「おちついてください。フッカー嬢は、川上の、あの町にきていたんです。」
「うん、ブースの船着場にだな――それから。」
「お嬢さんは、ブースの船着場にきていたんです。そして、ちょうど日ぐれに、黒人の下女をひとりつれて、お友だちの家に――なんといいましたか、名はわすれましたが――一晩どまりに、馬をわたす渡《わた》し船《ぶね》にのってでかけたんです。ところが、かじをとるかい[#「かい」に傍点]をながしてしまったので、船はぐるぐるまわって、船尾をさきにして、二マイルもおしながされて、あの難破船に、よこっぱらをぶっつけちゃったんです。そのため、渡し番も、下女も、馬もみんなゆくえ不明になってしまったんですが、でも、フッカー嬢は、あの難破船にとりついて、あがったんです。ところが、暗くなって一時間ばかりしてから、ぼくらも、商売用の平底船にのってくだってきたんですが、とてもまっ暗なものだから、難破船が目のまえにくるまで、気がつかなかったんです。だから、ぼくらの船もよこっぱらをぶっつけちまったんです。でも、ビル=フィップルのほか、ぼくらはみんなたすかりましたが――ああ、ビルは、とてもいいやつだったんです――かわりに、ぼくが死んだらよかったのにと思うくらいです、ほんとに。」
「そいつぁまあ、とんでもねえことになったもんだ。それで、みんなはどうした。」
「そうです、ぼくらは、大きな声で気ちがいのようにどなりたてたんです。ところが、あそこの川はばは広いでしょう、だから、だれにもきこえなかったんです。そいでおとっつぁんが、だれか岸におよいでって、どうにかしてすくいをもとめなければならないというんです。およげるのは、ぼくだけでしたから、ぼく、むちゅうになって岸へおよぎだしたんです。フッカー嬢は、すぐにたすけてくれる人が見つからなかったら、ここへきてわたしのおじさんをさがしなさい、そうすれば、手くばりをしてくれるから、といいました。ぼくは、ここから一マイルばかり川下におよぎつきました。それからずっと、たすけてくれる人をさがしながら、ここまでやってきたんです。だが、みんなは、『なんだって、こんなにおそく、こんなに水かさがふえているというのにか。だめの皮だよ。蒸気渡しへいってたのむがいいよ』っていうんです。だから、あなたがもし、いってくだされば――」
「よしきた、かならずおれがいってやる。くそっ! なんでもかんでも、いくぞ。だがな、だれがそのお礼をだすのだい。おまえのおとっつぁんが――」
「そんなことは、心配ありません。フッカー嬢が、はっきりいいました。ホーンバックおじさんが――」
「へえ! あの人が、その女のおじさんか。おい、ずっとむこうにあかりが見えるな、おまえは、あれをめあてにしていって、あそこから西にまがっていくんだ。四分の一マイルばかりいくと、居酒屋があるからな。そこで、ジム=ホーンバックさんの家をおしえてもらえ。ホーンバックさんが、かんじょうをはらってくれるからな。とちゅうで道くさをくっていっちゃだめだぞ、あの人にとっちゃ、だいじな知らせなんだからな。あなたが町につかないうちに、渡し船のおやじが、姪ごさんを、ちゃんとおたすけもうしておきますから、というんだぞ。さあ、げんきをだしていけ。おれは、このかどをまかって、機関士をおこしにいくからな。」
 わたしは、そのあかりにむかって歩きだしたが、番人がかどをまがるとすぐにひきかえして、小舟《こぶね》にもどり、あか[#「あか」に傍点]をくみだした。それから、岸べのゆるやかなながれを六百ヤードばかりこぎのぼっていって、材木船のあいだにはいりこんだ。渡し船がでていくのをたしかめないうちは、安心できなかったからだ。だが、ようするにわたしは、人ごろしどものために、こんなに骨をおったことを、むしろ気持ちよく感じていた。あんな人ごろしどものために心配する人など、ざらにはないと思ったからだ。わたしは、後家さんがこのことを知ったらなあと思った。後家さんは、ならずものどもをたすけたわたしを、誇りに思うにちがいないのだ。というわけは、後家さんや善人たちは、ならずものとか大山師《おおやまし》とか、そういうものに、もっとも興味を持っているからである。
 ところで、まもなく、うす黒いぼんやりとしたかたまりになって、難破船がながれてきた。わたしは、ひやりとなって、身ぶるいがでたが、すぐに難破船にむかってこぎだした。船はほとんどしずんでしまっているので、そんななかに人が生きていられるものではないということが、わたしにもひとめでわかった。わたしは、難破船のまわりをこぎまわって、おういおういとよんでみた。しかし、なんのへんじもなかった。しんとしずまりかえっている。あの人ごろしどものことを考えて、わたしは、すこしこころがおもくなった。だが、それほどおもくなったわけではない。あいつらだって、なかまのひとりを見ごろしにしようとしたのだから、わたしだってそれぐらいのことができないはずはない、と考えたからだ。
 そのとき、渡しの蒸気船が近づいてきた。そこで、わたしは長い斜流にのって、川の中流へおしだしていった。そして、目のとどかないところまでくだってから、こぐ手をやすめてひと息ついた。ふりかえってみると、渡し船は、ぐるぐる難破船のまわりをまわって、フッカー嬢の死がいをさがしていた。船長は、彼女の死がいをホーンバックさんがほしがることを知っているからだ。だが、まもなく、渡し船は、さがすのをやめて、岸にひきあげていったので、わたしも、ボートをこいでぐんぐん川をくだりはじめた。
 ジムがだしておいたあかりが見えるまでに、ずいぶん長いことかかったような気がした。そのうえ、あかりが見えたときでさえ、そのあかりが千マイル以上もむこうにあるように思われた。わたしがいかだについたときには、東のほうが、すこしばかり白みかけてきていた。そこでわたしたちは、ある島にこいでいって、いかだをかくし、ボートをしずめ、それから、よこになって、死んだようにねむった。
          14 フランス人はフランス語
 やがて、わたしたちは、目がさめたので、人ごろしどもが難破船からぬすんだ品物をひっかきまわしてみた。長ぐつ、毛布、服、そのほかにもいろいろな品物や、たくさんの本や、望遠鏡などがでてきた。タバコは三ぱこもでてきた。わたしたちはふたりとも、これまでに、こんなにもの持ちになったことはなかった。タバコは、すばらしくじょうとうなやつだった。午後、わたしたちは、のんびりとやすんで、話しあったり、またわたしは、本をよんだりして、なかなかたのしくすごした。わたしは、難破船のなかでおこったことや、渡し蒸気船であったことを、すっかりジムに話してから、こういうことを冒険というのだといった。だが、ジムは、もう冒険はごめんだといった。あんたは上甲板室《じょうかんぱんしつ》にはいっていったが、おれが、はいもどっていかだにのろうとすると、いかだがねえので、おれはもう死ぬんだと思っただよ。どっちみちもうだめだと思ったんだ。おれ、たすけてもらわねえことにゃ、おぼれて死んでしまうし、たとえまた、だれかにたすけられたところで、その人は賞金をもらうために、おれを家におくりかえすにきまっている。そうすればすぐに、ワトソン嬢がおれを南に売りとばすにちがいないのだ。ほんとだよ、と、そうジムはいった。事実、そのとおりなのだ。ジムのいうことは、いつでも、たいていまちかっていない。ジムは、教育をうけてはいないが、ひじょうにすぐれた頭を持っているのだ。
 わたしは、ジムに、王さまや、公爵や、伯爵や、そういう人たちのことを、いろいろとよんできかせた。そして、そういう人たちが、どんなにぴかぴかひかる服をき、どんなふうをしているかということや、おたがいに、ミスターとはよばないで、陛下だとか閣下だとか、そんなふうによんでいるということもきかせた。ジムは、目玉をぐるぐるうごかして、おもしろがった。ジムはいった。
「おらあ、そんな人が、そんなにいっぺえいると知らなかっただよ。ソロモン王さまのほかは、ほとんどきいたことがねえだ。だが、トランプの王さまもかぞえればべつだだ。王さまは、月給なんぼとってるだね?」
「なんぼとるって? そりゃ、とりたきゃ、月に千ドルだってとれるさ。ほしいだけ、いくらでもとれるんだ。なにもかにも、みんな王さまのものだからな。」
「そいつはおもしろいだろうな? そいで王さまどもは、どんなしごとしているだ、ハックさん。」
「なんだって、そんなばかなことをいうんだい。なにもしてやしないよ。あの人たちは、のらりくらりしているだけさ。」
「へえ、ほんとに、そうだだか。」
「ほんとに、そうさ。のらりくらりしているだけさ――でも、戦争のときは、べつかもしれないぜ。戦争にはいくんだからな。だが、ほかのときは、まったく、のらりくらりしてるか、たか狩りにいくぐらいのもんさ――用といっては、たか狩りにいったり、ぺっぺっとつばをはいたり――しっ! ――なんか、音がきこえはしないかい。」
 わたしたちは、とびだしていってみた。だが、それは、ずっと川下《かわしも》のみさき[#「みさき」に傍点]をまわってくる蒸気船の機関からふきだしているしぶきの音だった。わたしたちは、もとの場所にもどった。
「うん、そうだ」と、わたしはいった。「そのほかんときは、議会にいって、すったもんだはじめてさ、みんなが自分の思うとおりにならないと、そいつらの首をちょんぎってしまうのさ。だが、だいたいは、ハーレムでぶらぶらしてるよ。」
「どこでだって?」
「ハーレムでさ。」
「ハーレムって、なんのこっただね。」
「おくさんたちを入れておくところさ、おまえは、ハーレムを知らないのかい。ソロモンだって、持ってたんだぜ。そして、百万人ぐらいおくさんを持ってたんだ。」
「うん、そうだだ。おらあ――おらあ、すっかりわすれてただよ。ハーレムって、下宿屋のことだだね。子どもべやはうんとさわがしいこったろう。それにおくさんたちはえらくけんかをするにちげえねえだ。そこで、さわぎがいよいよひどくなるってわけか。だのに、世間じゃあ、ソロモンを、いままででいちばんかしこい人だといってるんだ。おらあ、そんなこと信じられねえだよ。だって、そんなかしこい人が朝から晩まで、そんなやかましいところで、くらすはずはねえじゃねえか。まったくの話がよ――かしこい人なら、機関工場をこしらえるだ。そうすれば、やすみたくなったとき、機関工場をしめることができるだよ。」
「そうかな、でもさ、とにかく、ソロモンは、いちばんかしこい人だったんだよ。後家さんが自分で、おれにそう話してくれたんだから。」
「後家さんのいうことなど、おらあ、なんだって、かまやしねえだよ。おまけに、ソロモンも、かしこい人でなかっただよ。おらあ見たこともねえような、おっそろしいことしただ。あんた、ソロモンが二つにさこうとした子どものこと、知ってなさるだか。」
「うん、知ってるとも、後家さんがおしえてくれたもん。」
「ああそうか。あんなにむごい考えって、世のなかにあるものでねえだ。あんたも、ちょっと考えてみなされ。そこにきり株があるだ、ほら――それをひとりの女とするだ。ここには、あんたがいる――あんたが、もうひとりの女だだ。そして、おらあが、ソロモンで、ここにある一ドルさつを子どもだとするだよ。ふたりの女どもは両方とも子どもを自分のものだといいはってるだ。おらあ、どうすると思うだね? 知恵のある人なら、だれでも、となり近所を走りまわって、さつがだれのものかききだして、ほんとうの持ち主に、そのままやぶかねえでわたしてやるでねえだかね? ところが、そうはしねえで、さつを二つにぶっさいて、半分はあんたに、もう半分は、もうひとりの女にくれてやるだ。ソロモンは、子どもをそうしようとしただよ。おらあ、あんたにききてえだ。半分のさつが、なんの役にたつだね? ――なにも買えやしねえ。それから、半分の子どもが、なんの役にたつだかね? そんな半分にきった子どもなんか、百万人くれるといったって、おらあ、一文だってだしゃあしねえだよ。」
「もう、たくさんだ、ジム。おまえのいうことは、まるっきりけんとうはずれだ――ちぇっ! 千マイルも的《まと》がはずれてらあ。」
「だれが? おらおかか? じょうだんでねえ。的がきいてあきれるだ。おらあにだって、知恵のあるなしぐれえ、すぐわかるだよ。あんなやりかたは、ばかけているだよ。もともとどうするかっていうのは、半分の子どものことについてではねえ。まるのまんまの子どものことについてだだ。まるごとの子どもをどうするかってときに、そいつを半分の子どもでかたづけることができると思ってるやつは、雨がふってきたのに、雨やどりをすることを知らねえやつだだ。ソロモンのことなんか、もういわねえでもらいてえもんだ。ハックさん、おらあ、よく知ってるだから。」
「だがなあ、おまえには、だいじなとこがわかっていねえんだよ。」
「だいじなとこもなにもねえだよ。自分がどれだけのことを知っているかってことぐらいわかってるだ。いいだかね、あんた、ほんとにだいじなことは、ずっとそこのほうにあるだだよ――ずっとふかいところにな。それは、ソロモンのそだちにあるだだ。あんた、子どもがひとりかふたりしかねえ人のことを考えてみなされ。そんな人が、子どもをむだにするだかね? しやしねえだ。まちがっても、そんなことできねえだよ。そんな人は、子どものねうち知ってるからだよ。だが、子どもが五百人もあって、家のなかをかけまわってる人のことも考えてみなされ、そうなると、話がちがってくるだよ。そんな人は、子どもを、ねこのようにぞうさなく二つにさくだ。まだまだ、子どもがうんとのこってるだからね。子どものひとりやふたり、よけいでもすくなくても、ソロモンは、どうでもよかっただよ、ふんとだだ。」
 わたしは、こんな黒人《こくじん》を見たことがない。ジムは、一度なにかを思いこんだがさいご、もう二度とその考えからぬけだすことができないのだ。これほどソロモンをぼろくそにいった黒人も、ジムがはじめてだ。だからわたしは、ほかの王さまの話をはじめて、ソロモンの話はやめにした。わたしは、ルイ十六世の話をしたのだ。その人は、ずっとむかし、フランスで首をちょんぎられた人だ。そしてその人の子どもドーフィンは、王さまになる人だったが、とらえられて、牢屋《ろうや》にぶちこまれ、そこで死んだ、ともいわれている――そんな話をジムにしてきかせた。
「かあいそうな子どもだだね。」
「でもさ、その子どもが、牢屋をぶちやぶってさ、アメリカににげてきたっていってる人もいるんだぜ。」
「そりゃ、よかっただ! だが、ずいぶんさびしいことだべね――この国には、王さまはいねえだもの、なあハックさん?」
「そりゃあ、いねえさ。」
「そいじゃ、その人、つとめ口ねえだね。どうしてくらすだ?」
「さあ、おれにもわからないよ。おまわりさんになる人もあるだろうしさ。フランス語をおしえている人もあるよ。」
「なんだって? ハックさん、フランス人は、おらあたちとおなじことばを話すんじゃねえのかい?」
「ちがうよ、ジム。おまえには、フランス人が話してることばなんて、ひとことだってわかりはしないぜ――たったひとことだってさ。」
「へえ、そいつぁまた、おどろいたこった! どういうわけだだね?」
「知らないよ、だが、そうなんだ。おれ、そいつらのわけのわからないことばを、本ですこしおぼえたのさ、だれかやってきて、おまえに、ポリ・ブー・フランジー――といったらよ、おまえ、なんのこったと思う?」
「なんとも思いやしねえだ。おらあ、そいつの頭をたたきわってやるだ――そいつが、白人でなかったらね。黒人が、おらあにそんなふうな口をきいてみろ、おらあ、だれだってかんべんしておかねえだだ。」
「とんでもない、おまえの悪口をいってるんじゃないんだよ。そいつは、おまえはフランス語を話せるかっていってるだけなんだぜ。」
「そうだかね、そいじゃ、どうして、はっきりそういわねえだよ?」
「ちゃーんと、そういってるんだよ。それが、フランス人のいいかたなのさ。」
「へえ、とてもおかしないいかただな。おらあ、そんないいかた、二度とききたくねえだ。なにがなんだか、さっぱりわからねえもんな。」
「な、ジム、ねこはおれたちとおなじ口をきくかい。」
「ふうん、きかねえだ。」
「じゃ、牛は?」
「牛もそうだだ。」
「ねこは、牛のように話すかい、牛は、ねこのような口をきくかい。」
「ううん、きかねえだよ。」
「ねこと牛が、おたがいにちがった口をきくのは、あたりまえのことで、まちがっちゃいないだろう?」
「そりゃあそうだよ。」
「それから、ねこだの牛が、おれたちとちがった話しかたをするのも、あたりまえのことで、まちがっちゃいねえだろう?」
「そりゃあ、そうだとも。」
「そいじゃ、フランス人が、おれたちとちがった話しかたをするのがどうして、おかしくって、まちかっているのさ? さあ、へんじをしてみろ。」
「ねこは人間だかね、ハックさん?」
「そうじゃないさ。」
「そうだろうが。だから、ねこは、けっして人間のような口をきかねえだよ。牛は人間だかね? ――そいから、牛はねこだかね?」
「どっちも、そうじゃないよ。」
「そうだろうが。だから、牛は、人間のような囗も、ねこのような口もきかねえでも、ちっともふしぎはねえだよ。フランス人は、人間だだかね?」
「そうだとも。」
「そんなら、いったいなんだって、フランス人は人間のように話をしねえのだね。さあ、へんじをきかしてもらいてえものだ。」
 わたしは、話をするだけむだだと思った――この男に議論のしかたをおしえることは、できないことなのだ。だからわたしはあきらめた。
       15 まことのこころ
 わたしたちは、あと三晩かそこらで、カイロにつけると思った。カイロは、イリノイ州の南のはずれにあって、そこで、オハイオ川がミズーリ川にながれこんでいる。わたしたちは、そこへいこうと思っていたのだ。そして、その町でいかだを売って、蒸気船にのり、オハイオ川をさかのぼって、自由州にいくつもりだった。そうすれば、なにもかも、めんどうなことがなくなるのだ。
 さて、二日めの晩、きりがおりてきたので、わたしたちは、いかだをつなぐために砂州にむかった。きりのなかをくだろうとしても、うまくいくはずはなかったからだ。わたしはいかだをむすびつける綱を持って、カヌーにのり、すこしさきにでていったが、砂州には、ちいさな若木のほかには、綱をむすびつけるのにてきとうな木がはえていなかった。わたしは、きり立ったがけのはしにはえている一本の若木に綱をまきつけた。だが、そこはながれがつよかった。いかだは、いきおいよくくだってくると、その若木を根こそぎにして、ながれさっていった。きりは、だんだんふかくなってくる。それを見ると、わたしは、おじけがついてきて、ちょっとのあいだ、身うごきもできずにいたらしかった――気がついてみると、いかだは見えなくなっていた。二十ヤードさきの見とおしもきかない。わたしは、カヌーにとびこみ、いっさんに船尾にいった。そして、かいをにぎってひとこぎして、カヌーをもどそうとした。ところが、カヌーはうごかなかった。あわてていたので、カヌーの綱をとくのをわすれていたのだ。わたしは、あがっていって、綱をとこうとしたが、気がたかぶっていたので、手がふるえて、どうにもならなかった。
 わたしは、そこの岸をはなれるとすぐ、いっしょうけんめいにカヌーをこいで、砂州にそって、いかだをおいはじめた。砂州のあるうちはよかったが、しかし、砂州は、六十ヤードと長くはなかった。そのはしをすぎたとたんに、わたしは、ふかいまっ白なきりのなかになげこまれた。わたしは、まるで死んだ人間同様で、どっちにいったらいいのか、けんとうもつかなくなった。
 わたしは、すぐ、カヌーをこいではだめだと思った。そんなことをしたら、岸か砂州かなにかにぶっかるだけなのだ。わたしは、じっとすわって、カヌーをながれるままにまかせたが、こんなときに、じっと手をつかねていなければならないということは、ひどく気のもめるものだ。わたしは、おーいとよんで、耳をすました。どこか、ずっと川下のほうから、かすかにおーいとよびかえす声がきこえてきた。わたしは、いきおいづいた。わたしは、きこえてきた声をおって突進した、いっしんに耳をすまして。つぎに声がきこえてきたとき、わたしは、自分が方向をまちがえて、はるかに右へそれていたことに気づいた。またそのつぎにきこえてきたときには、わたしはずっとその左のほうへそれていた――それに、いっこう、声のほうに近づいてもいなかった。わたしは、ぐるぐるまわって、あっちへいったり、こっちへきたり、またべつなほうへいったりしていたのに、声のほうは、たえずまっすぐ前方へすすんでいたからである。
 ジムのばかめ、なんだって、ブリキのなべをたたくことを考えつかないんだ、とわたしは思った。それをしじゅうたたいてくれていたらいいのだが、ジムは、一度もなべをたたかないのだ。声と声とのあいだのしずけさといったら、なんともやりきれないのだ。ところで、勇気をだしてがんばりつづけていくと、じきに、うしろからおーいとよぶ声がきこえてきた。わたしは、すっかりまごついてしまった。それがだれかほかの人がよんでいる声でないとしたら、わたしの頭がおかしくなったにちがいないと思った。
 わたしは、かいをほうりだした。また、よび声がきこえてきた。やはりうしろからであったが、こんどは、声のした場所がちかっていた。それからもつづけて、よぶ声がきこえてきたが、そのたびに、声のする場所がちかっていた。わたしは、どなりかえしつづけたが、そのうちに、こんどは声がまえのほうからきこえてきた。わたしは、ながれのためにカヌーのへさきが川下にむけられたのだ、と気がついた。そして、さけんでいるのがジムであって、ほかのいかだのりでさえなければ、もうたすかったと思った。きりのなかでは、だれの声だかわからなかった。というのは、きりのなかではもののかたちがかわって見えるし、声はちがったひびきかたをするからである。
 さけび声はなおつづいていたが、じきに、わたしは、大きな木が、おばけのようにぼんやりと見えている、きり立った岸にむかってながされだした。と思うまもなく、ぐいと左のほうにおしながされて、そのそばをくだり、水底の無数のかれた立ち木がゴウゴウとうなり、ながれがその木立のあいだをすごいいきおいで、ほとばしっているところにはいりこんだ。
 一、二秒もすると、あたりはまた、白いふかいきりにつつまれて、しずかになった。わたしは、じっとすわったまま、心臓の鼓動に耳をかたむけていた。そして、心臓が百も打つあいだ、息もしないでいたにちがいない。 それから、わたしはやっと息をついた。なりゆきが、なにもかも、のみこめたのだ。あのきり立った岸は島で、ジムは、わたしとは反対がわをくだっていったのだ。それも十分ぐらいで通りこせるような砂州ではない。大きな木のしげっている本式の島なのだ。長さ五、六マイル、はばは半マイル以上もあるにちがいないのだ。
 わたしは、十五分ぐらい、しずかにして、耳をそばだてていた。もちろん、カヌーは、一時間四マイルから五マイルぐらいのはやさでながれているのだが、すこしもながれているような気がしなかった。水の上に、じっとよこたわっているようにしか感じられないのだ。水のそこの立ち木がそばを通りすぎていくのが、ちらっと見えでもすると、自分がどんなにはやくながれているかなどとは思わないで、かえって、はっと息をとめて、おや、あの立ち木はなんとすごいいきおいでながれていくんだろう、と考えられるくらいなのだ。夜、ただひとり、きりのなかをそんなふうにしてながれていくのを、おそろしいともさびしいとも思わないものがあったら、一度でいいからやってみるといい――わかるはずだ。
 それから半時間ばかりのあいだ、わたしは、ときどき大きな声でさけんでみた。とうとうしまいに、ずっととおくのほうからへんじがきこえてきたので、わたしは、おいかけようとした。だが、おいかけることができなかった。両がわに、ぼんやりとではあるが、ちらつ、ちらっと砂州が見えるところをみると、わたしは、砂州の巣のなかにはいりこんでしまっているからだ――ときには、砂州砂州のあいだの水路が、とてもせまくなっていた。ほかにも、目には見えない砂州があった。その岸にひっかかっている、かれ木やごみくずなどにぶっかる水の音で、そこに砂州のあることがわかった。さて、砂州のあいだからきこえていたさけび声は、そのあとじきにきこえなくなった。だから、わたしは、けっきょく、ほんのちょっと、それをおっかけようとしただけだった。おっかけたところで、きつね火をおうより、なおしまつにおえないからだ。なにしろ、こんなにあっちへいったりこっちへきたりして、しかも、あんなにはやく、あんなにたびたび場所をかえる音など、めったにあるものではないと思った。
 わたしは、川のなかにつっ立っている島にぶっからないようにするために、四、五回も、カヌーをその岸から力いっぱいつきはなさなければならなかった。だから、いかだも、しじゅう岸にぶつかっているにちがいないと思った。そうでなければ、いかだは、ずっとさきにいってしまい、声などきこえなくなっているはずなのである――いかだの速度はカヌーよりすこしはやいのだ。
 さて、そのうちにまた、ひろびろとした川にてたらしかったが、どこからもなんの声もまるっきりきこえてこなかった。わたしは、ジムが水底の立ち木にのりあげて、それっきりおだぶつになったにちがいないと思った。わたしは、くたくたにつかれきっていたので、カヌーのなかによこになり、もうくよくよするのはよそう、と思った。もちろんわたしはねむりたくはなかったが、とてもねむくて、どうすることもできなかった。だから、ほんのちょっとだけ、うたたねをすることにした。
 だが、どうも、うたたねをしたどころではなかったらしい。目がさめると、星がきらきらとかがやいて、きりはあとかたもなくはれていた。そして、わたしは、船尾をさきにして、大きく川のうねっているところを、ものすごいいきおいでくだっていたのである。はじめわたしは、どこにいるのかわからなかった。ゆめを見ているのではないかと思った。いろいろなことを思いだしはじめたときでも、それは、先週のことをぼんやり思いだしているようなこころもちだった。
 そのへんの川は、とても広く、両岸には、大きな本が、ふかくしげっていた。星あかりで見るので、それは、まるでがっちりした城壁のように見えた。ずっと川下のほうを見わたすと、黒いものがぽつんと川つらにうかんでいた。わたしは、それをめあてにしてすすんでいったが、いってみると、それは、しっかりむすびつけられた二本の材木だった。それから、また黒いものがぽつんと見えたので、それをおった。それから、もうひとつ。だがこんどは、うまくぶちあたった。それは、わたしたちのいかだだったのだ。
 おいつくと、ジムは、右手をかじをとるかいにかけたまま、頭をひざにはさんでねむっていた。もう一本のかいは、おれてしまい、いかだの上には、木の葉や枝やどろがちらばっていた。してみると、ずいぶんひどいめにあってきたものらしい。
 わたしは、カヌーをしっかりとむすびつけてから、いかだにあかって、ジムのはなさきによこになった。そして、あくびをし、こぶしをジムにつきつけて、いった。
「おい、ジム、おれ、ねむってたかい、どうしておこしてくれなかったんだい。」
「おやおや、ハックさんだが? あんた、死ななかっただか――おぼれなかっただか――かえってきただね? ゆめじゃああんめえか。ぼっちゃん、おらあ、ほんとのような気がしねえだよ。さあ、顔を見せてくんなせえ、からだにさわらせてくんなせえ。なるほど死んではいねえだ。生きて、たっしゃで、もとのハックさんそのままで、けえってきただ――そっくりむかしのハックさんだ。ありがてえこった!」
「どうしたんだい、ジム? おまえ、よっぱらってるんじゃないのかい。」
「よっぱらう? おらあ、よっぱらってるというだか? おらあ、よっぱらうひまがあっただか?」
「なんだって、そいじや、そんなでたらめをいうんだい。」
「おらあ、なに、でたらめいっただ?」
「なにって? だっておまえは、おれがかえってきたとかなんだとか、そんな世まいごとをいってたじゃないか。まるで、おれが、ここにいなかったみたいにさ。」
「ハックさん――ハック=フィンさんや、おらあの目を見るだよ。じっと見るだよ。あんたは、どこにもいかなかっただか?」
「いかなかったかって? いったいぜんたい、おまえは、なにをいっているのさ。おれ、どこにもいきゃしなかったぜ。おれが、どこへいくんだい?」
「へえ、大将、こらあ、話がへんだだ、ふんとに、おらあ、おらあだかね、それとも、おらあ、だれだかね? おらあ、ここにいるだか、それとも、どこにいるだ? さあ、おらあ、それが知りてえだ。」
「そうかい。おまえは、まちがいなく、ここにいるよ。でも、おまえは、頭がこんぐらかってしまって、ばかになっちまったんだよ、ジム。」
「そうかなあ。そんじゃ、おらあのきくことに、へんじをしてもらいてえ。あんたは、カヌーにのって、綱を砂州にむすびつけにいったでねえだか?」
「ううん、そんなこと、しやしなかったよ。砂州って、なんなんだい? おれ、砂州なんか、一つも見やしなかったぜ。」
砂州が見えなかっただ? ね、綱がほどけて、いかだがどんどんながれたでねえか、あんたとカヌーを、うしろのきりのなかにのこしてだよ。」
「きりって、なんのこったい?」
「ほら、あのきりだ――一晩じゅうかかっていた、あのきりだだ。それに、あんた、よばわらなかっただか。おらあもよばわっただろうが。そのうち、島がいっぺえあるとこで、ごちゃくちゃになってしまい、ひとりが迷子になり、もうひとりも、迷子みたいになってしまったでねえだか。どこにいるのか、わからなかったからだだ。それから、おらあ、なんどもなんども、いきなり島にぶっつかって、ひでえめにあい、おぼれそうになりはしなかっただか。さあ、そうでねえだか、大将―ちがうだか? へんじするだよ。」
「うん、おれには、なんのこったか、さっぱりわからないよ、ジム。おれはきりも島も見なかったぜ。ひどいめにもなんにもあいもしなかったしさ、おれは、おまえが十分ばかりまえにねむるまで、ここにすわって、一晩じゅうおまえと話してたんだよ。それから、おれもねむったらしいけどさ。そのあいだに、おまえがよっぱらうなんてこと、できやしないんだから、おまえはきっと、ゆめを見てたんだよ。」
「なにいってるだ。士分のあいだに、おらあ、そんなにいっぺえゆめ見られるだかね?」
「なにがなんだって、おまえは、ゆめを見ていたんだよ。だって、そんなこと、なんにもおこりゃしなかったんだぜ。」
「だが、ハックさん、おらあ、なにもかもはっきりと――」
「どんなにはっきりしてたところで、やっぱりおんなじこったよ。まるっきり根も葉もないことなんだもん。おれ、ずっとここにいたんだから、ちゃんと、わかってるんだよ。」
 ジムは、五分間ばかり、ひとことも口をきかないで、そこにすわったまま、考えこんでいた。それから、いった。
「なるほどなあ、それじゃ、おらあ、それをゆめで見たことにしておこうや、ハックさん。だが、おらあ、とんでもねえすげえゆめ見たものだよ。おらあ、ゆめ見て、こんなにくたびれちまったこたあ、これまで一度もねえだよ。」
「そうかい。そういうこともあるだろうよ。ゆめででも、ときによると、ひどくくたびれることがあるからな。それにしても、そいつあ、すげえゆめだったね。どんなゆめか、ひとつ、みんな話してくれないか、ジム。」
 そこで、ジムは、あらためて、ゆめのことをはじめからおわりまで、すっかり話した。それは、できごとそのままにはちがいなかったが、だいぶ、尾ひれがつけてあった。それから、ジムは、おれ、このゆめのなぞをとかなきゃならねえだ。このゆめ、いましめのために見せられただから、といった。そして、最初の砂州は、おれたちになにかしんせつなことをしてくれようとしている男をあらわしているのだが、ながれは、そのしんせつな男から、おれたちをひきはなそうとする、もうひとりべつな男をあらわしていたのだ、といった。よび声は、いましめて、そのいましめは、これからもときどきやってくるから、そのときすぐに、なんとかして、そのいましめの意味をさとるようにしないと、おれたちは、不幸をさけられないどころか、反対に、不幸のなかにひきずりこまれてしまう。たくさんの砂州は、おれたちが、今後、けんかっぱやい人たちや、いろいろな下等な人だちとのあいだにひきおこすかもしれない、いざこざをあらわしているだだ。だが、おれたちは、しごとに身を入れて、そんなやつらに口ごたえをしたり、おこらせたりさえしなければ、そこからこぎぬけて、きりのなかからもでられ、自由州という、大きな川にはいりこめるのだ。そして、心配ごとなど、一つもなくなるのだ、とそうジムはかたった。
 さっき、わたしがいかだにあがったすぐあとで、かなりこい雲がでてきていたが、やがてまた、晴れようとしていた。
「なるほどね、そこんとこまでは、なかなかうまくとけたよ、ジム」と、わたしはいった。「だが、そこにある、その品物は、どういうなぞなんだい。」
 わたしは、いかだの上の木の葉や、ごみくずや、おれたかいを指さした。もう、このときには、そういうものが、はっきり見えていた。 ジムは、ごみくずとわたしの顔を見くらべた。ジムの頭にはゆめがすっかりこびりついているので、きゅうにそのゆめをふりすてて、現実の事実を事実として考えることが、すぐにはできないらしいのだ。だが、やっと、事実がはっきりのみこめると、ジムは、にこりともしないで、わたしを見つめて、いった。
「あれが、なにをあらわしているだかって? よし、いってきかせてやるだ。おらあ、はたらいたり、あんたをよんだりして、とてもつかれたで、ねむってしまっただが、そんとき、あんたがいなくなったこと考えて、おらあ、むねがはりさけそうだった。そして、自分がどうなろうと、いかだがどうなろうとかまやしねえと思っただよ。だが、おらあが目をさますと、あんたが、ぶじで、たっしゃでかえってなさるじゃねえだか。おらあ、なみだがでただ。もうすこしで、べたりとすわって、あんたの足に牛スするところだっただ。とてもうれしかっただ。ところが、あんたときたら、うそをついて、このジムをばかにしようと、それだけ考えていなさっただ。ほら、あそこにあるがらくたは、ごみくずだだ。そしてな、友だちの頭にどろをのっけて、はじをかかせようとするようなやつは、人間のくずだだ。」
 それから、ジムは、ゆっくり立ちあがって、小屋のほうに歩いていった。そして、それっきり、ひとこともいわずに、小屋のなかにはいってしまった。だが、それでじゅうぶんだった。わたしは、自分がとてもいやしく感じられたので、たとえジムの足にキスをしてもいいから、彼のことばを撤回してもらいたいと思った。
 わたしは、黒人にあやまる決心をするのに、十五分もかかった。だが、けっきょく、あやまった。しかし、わたしは、その後、あやまったことを後悔したことなど一度もなかった。そして、それからというもの、ジムをだますような下等ないたずらをけっしてしなかった。このときだって、こんなにジムをかなしませることを知っていたなら、わたしは、ジムをだますようなことをしなかったのだ。
           16 どっちが正義か
 わたしたちは、一日じゅうねむった。そして、夜、出発した。大きないかだのすこしうしろからついていくことにしたのだが、そのいかだの長いことといったらなかった。すっかり通りすぎるのに、長い行列ほども時間がかかった。そのいかだはまえとうしろに、長い大がいを、それぞれ、四ちょうずつそなえていた。わたしたちは、このいかだは、きっと、三十人ぐらいのいかだ師がのっているにちがいないと思った。大きな小屋が、たがいにとおくはなれて、五つたっていた。そして、まんなかには、むきだしのたき火がたいてあった。まえとうしろには、高い旗ざおが立っている。見るからにりっぱないかだだった。こんなすばらしいいかだのいかだ師になれたらたいしたものだと思った。
 わたしたちが、川が、大きくうねっているところまでくだったころ、夜はすっかりくもって、あつくなった。川はばは、とても広くて、両岸には、おいしげった森が、城壁のように立ちふさがっていた。森には、ほとんど、とぎれているところがなく、あかりももれてこなかった。わたしたちは、カイロのことを話しあったが、カイロについたとしても、そこがカイロかどうかわかるだろうかと思った。わたしは、たぶん、わからないだろうといった。カイロには十二けんばかりの家しかないということだから、ひょっとして、どの家にもあかりがついていなかったら、どうして、その町を通りすぎようとしていることがわたしたちにわかるだろう。ジムは、二つの大きな川がおちあっているはずだから、それでわかるといった。だが、わたしは、島じりを通りすぎて、またもとの川にでたのだと、思わないともかぎらないじゃないか、といった。これには、ジムもよわった。わたしも不安になった。だから、問題は、どうしたらいいかということになった。わたしは、こんどあかりが見えたらすぐこぎつけていって、おやじがあとからあきない舟でやってくるのだが、まだしんまいなものだから、カイロまでどのくらいあるかおしえてもらいたい、ときいてくるのがいい、といった。ジムが、それはうまい考えだと賛成したので、わたしたちは、そうすることにきめた。そしてタバコを一ぷくして、あかりが見えるのを待ちかまえた。
 しごとといえば、ぬけめなく町を見はっていて、町を見のがさないようにすることだけだった。ジムは、おれがきっとあかりを見つけるといった。なぜかというと、あかりを見つけたとたんに、彼は自由な人間になれるはずだったからである。だが、それを見おとしたらさいご、またどれいの国にはいってしまって、もう二度と自由になれる機会はこないのだ、と、ジムはいうのだった。彼は、ひっきりなしにとびあがって、いった。
「ほうら、あれ、カイロでねえか。」
 だが、それはカイロではなかった。それは、きつね火とか、ほたる火とかよばれているやつだった。そのたびに、ジムは、またすわって、もとのとおり見はりをつづけた。ジムは、もうすぐ自由になれると思うと、からだじゅうがふるえて、あつくなってくるといった。ところで、ジムのいうことをきくと、わたしもまた、ほんとうにからだじゅうがふるえて、あつくなってきた。ジムがもうすぐ自由になるのだということを、わたしも考えはじめたからである――ジムをにがしてしまったら、だれが、そのせめをおわなければならないのだろう? そうだ、わたしなのだ。わたしは、その考えを、わたしの良心からもぎとることが、なんとしてもできなかった。そのため、わたしは、ひどく心配になって、おちついていられなくなった。ひとところにじっとしていることができなくなった。わたしは、わたしのしていることがどんなことか、これまでに一度も、じっくりと考えてみなかったのである。だが、こんどは考えたのだ。わたしは、その考えにつきまとわれて、だんだんつらくなってきた。ジムをその正当な所有者ワトソン嬢からにがしたのは、わたしではない。だから、わたしには責任

わたしの、本気の反万博論 その56 今回の2025年大阪万博、文化全体への悪影響が予想以上かもしれない。簡単に言えば「士気」。「見せる」という文化(ということは文化のほぼ全領域)の担い手の「士気」が下がるとなると、はっきりいうと空洞化。考え過ぎとはとても思えない。「それを見せるのは、たとえば科博のほうがいい」とうるさいぐらいいうべき。そうでないと、そうとう悪い結果がでる。

「大屋根リング」が仮設か常設か、決めていなかったのは、費用の問題をいったんおいてみると、「見せる」文化として致命的な問題だ。要するに決意がないのだ。
なんでだれもそういわないのだろう。

維新と政府はじめ、運営が単なる巨大公共事業以上の問題をひきよせている可能性が高い。絶縁するなら、はっきり絶縁しないとまずい。